一緒にトリスタカレーを作る話


※長編夢主設定。


 傭兵団に夜通しの警備任務が入り、エルザと二人でマルシェに買い出しへ出た日のことだった。

「おっ、あれタシャじゃないか? おーい!」
 食料を求めて雑踏を抜けていくと、大量の食材を抱えたタシャとばったり鉢合わせた。後ろには従者の騎士が一人。両腕に野菜の箱を抱え、息を切らしながらついてきている。
 エルザがぶんぶんと手を振ると、タシャはこちらに気づいて歩み寄ってきた。
「エルザ、それにナマエ。奇遇だな。ここで何をしている?」
「買い出しだよ。夜通しの警備任務が入ったから、夜食用の食料をね」
 まあ、とはいっても大半はマナミアの分だ。あの神秘の胃袋の持ち主はお腹が空くと任務に集中できなくなるため、傭兵団は常に彼女用の非常食を切らさぬよう大量に備蓄しておかねばならない。しかしブラックホール並みの容量を持つマナミアの胃袋を満足させられる量となれば、万年赤字気味の傭兵団の懐事情から、必然的に『安く・美味しく・腹持ちが良く・簡単に食べられるもの』に限られてしまう。
「……そうか。だが、なぜバナナばかりなのだ?」
 タシャの鋭い一言に、ナマエは思わず吹き出しそうになった。図星を突かれたエルザが苦笑で誤魔化す。
「あ、はは……それより、タシャこそすごい量の買い出しだな。それ、どうするんだ?」
「これか。トリスタ様がルリの騎士たちにカレーを振る舞われると仰ってな、その買い出しだ」
「へー! 将軍のカレーか。俺も食べたいなぁ」
「エルザ……カレーって何?」
 カレーといえば今や誰もが知る家庭料理だったが、記憶喪失のナマエは例外だった。どうやら料理名のようだが、聞き覚えのないその名称を小声で問うと、エルザがぎょっと目を見開いた。
「えっ、ナマエ、カレー食べたことないのか?」
「うん」
 頷くと、なぜかエルザにしみじみと哀れまれた目で見られ、思わずむっとする。
「……なんでそんな目で見るの」
「いや、あんな美味いものを知らないなんて、かわいそうだなって……」
 そんなに言うほど? 大げさな態度にうんざりして、じとりと睨み返す。
「ふーん。そこまで言うならご馳走してくれるんだよね?」
「え? あー……あイテッ」
 どうやらそこまでは考えてなかったらしい。誤魔化し笑いを浮かべるエルザの脛に軽く蹴りを入れたところで、二人の荒っぽいじゃれ合いを見ていたタシャの声が割り込んできた。

「……ではナマエ、今から食べに来るか」
「え……? でも――」
「いいのかタシャ!? ありがとう、ぜひお邪魔するよ!」
 返事をする間もなく、エルザのはしゃぐ声に押されてナマエは口を噤んだ。まるで待っていたかのような食いつきぶりだ。
 ナマエがじとりと横目でエルザを睨むと、タシャはエルザを冷たく一瞥し、鼻を鳴らした。
「貴殿には聞いておらん」
「ええっ! そんな、ひどい……」
 大げさに肩を落とすエルザを見て、タシャが呆れたようにため息を吐く。
「……まあいい。エルザ、貴殿も招待してやろう」
「うわー……“ついで感”が滲み出ている。でも、ついででも嬉しいよ!」
 楽しみだな、と能天気に宣うエルザの厚顔ぶりに、ナマエは呆れ半分で肩をすくめた。改めてタシャに尋ねる。
「でも、ほんとにいいの? 急に人数が増えたら困らない?」
「構わん。ひとりふたり増えたところで大差はない。気にするな」
 鷹揚に頷いたタシャが気さくに笑う。その笑顔が妙に親しげで、不意に胸がどきりと鳴る。慌てて視線を逸らし、ぶっきらぼうに答えた。
「……なら、行こうかな」
 

 
 買い出しを終え、タシャに連れられて辿り着いたのはルリ城内の兵舎棟――その地下にある広々とした厨房だった。
 大鍋や調理台が並び、厨房係たちが慌ただしく立ち働く中、ひときわ目を引く人物がいる。
 エプロン姿のトリスタ将軍。堂々たる体格に場違いなはずのフリル付きの布をつけているのに、不思議と板についていた。巨大な牛肉の塊と対峙する姿は、まるで戦場で剣を構えるかのようだ。

「トリスタ様、ただいま戻りました」
 タシャが声をかけ、荷物を置く。彼は当然のように厨房の中へ入っていくが、ナマエは仕切りの前で足を止めた。勝手に踏み入っていいものかと迷っていると、将軍が振り返り、豪快な笑みを浮かべた。
「おお、おかえりタシャ。――おや、君たちは」
 その笑顔に促され、エルザとともに頭を下げる。
「将軍、こんにちは!」
「お邪魔します」

 食材の入った木箱を調理台に置いたタシャがこちらを一瞥し、改めて将軍へ向き直った。
「マルシェで二人に偶然会いまして、彼女がカレーを食べたことがないと言うので招待しました」
「ほう、カレーを知らぬとな。それはもったいない。ぜひ食べていってくれ!」
 にかりと笑うトリスタに、思わず愛想笑いを返す。どうやら相当美味なるものらしい、そのカレーとやらは。
「トリスタ将軍がカレーを作ると聞いてお邪魔しちゃいました。すごいですね、将軍自ら手料理を振る舞われるなんて!」
「なに、たいしたことではあるまい。騎士たるもの、料理のひとつくらいは出来ねばな」
 そう言って将軍は歯を見せて笑った。
 フリルのエプロンでさえ武勲の証のように見せてしまうその姿に、ナマエは思わず感心する。

「どれ、では早速はじめるとしよう。昼食まであまり時間もない。君たちも、せっかくだから手伝ってくれるか」
「え……」
 余っていたエプロンを手渡され、思わず固まる。どうやら『食べるだけ』という訳にはいかないらしい。ちらりと横目をやると、タシャはすでに袖をまくり、淡々と手を洗っていた。
 ……もしかして、最初からこうなると分かってて誘ったのか?
 観念してため息を飲み込み、エプロンを受け取る。働かざるもの食うべからず、だ。

 

 タンタンタン、とリズミカルな包丁の音が隣から聞こえる。横を見るとタシャが黙々と洗ったニンジンを切っているところだった。貴族然とした上品な見た目の男がエプロンをつけて厨房に立っている姿は、なんだかちぐはぐな印象を受ける。

「あんたが包丁持っていると妙な感じだな」
「似合わないか?」
「うん。なんか……給仕される側の人間って感じ」
 言葉を選んで感想を伝えると、タシャが苦笑した。
「だいぶ調理には慣れてきたのだがな。そう見えるのなら私もまだまだか。お前は……意外と手際が良いな。料理はよくするのか?」
「さあね。こちとら記憶がないもんで」
 じゃがいもの皮をリズムよく剥きながら、つい素っ気なく返してしまった。言ってすぐ、少し刺があったかと後悔がよぎる。気を遣わせたくなくて、急いで言葉を重ねた。
「でも、この食材だったら、私なら煮込み料理を作るかなぁ。ハーブとトマトとにんにくを追加して……それにハードチーズの切れ端があれば、美味しくなりそうだ」
「……うむ、間違いないな」
 タシャが深く頷く。その真剣な表情を見た瞬間、胸が妙にくすぐったくなる。思わず視線を逸らし、手元に集中した。

「で、結局カレーってどういう料理なの?」
「煮込み料理の一種だ。香辛料をふんだんに使ったスパイシーなスープ料理、といったところか」
 ぴたりと手元が止まる。香辛料とは贅沢な。決して安いものではないだろう。ましてやルリ島のような島国では、余計に入手しづらいはずだ。
「それって高級料理なんじゃ……。食べた後で、お代を請求されても困るんだけど」
「はは、そんなことはないから安心しろ」
 疑心暗鬼なナマエに、タシャが破顔する。
「それに、カレーはどちらかと言えば庶民的な料理だ」
「そうなんだ……」
 

 
 ふと視線を感じて振り向くと、調理台の向こうでエルザがにこにこしながらこちらを眺めていた。
「なに?」
「二人は仲良しだなぁと思って」
 何気ない一言に、顔がかっと熱くなる。慌てて声を尖らせた。
「……分担された作業は終わったの? エルザ」
「もちろん! 米を研ぎ終わって、今水につけているところ」
「ならば、そこでさぼってないで他に手伝えることを探せ。……ほら、あそこに玉ねぎの山があるぞ。剥くのを手伝ってはどうだ?」
「あっ、えーと……俺、先に食堂でテーブルの準備してくる!」
 タシャの冷たい眼差しに、流石のエルザも堪えたようだ。冷徹な白騎士のひと睨みに尻を叩かれたように飛び上がり、回れ右をして食堂の方へと逃げていってしまった。
 
「まったく……」
 隣で呆れたようにため息を吐くタシャに、ナマエは苦笑する。
 まあ、誰だって玉ねぎを喜んで剥く奴なんかいないか。



 じゃがいもの山はようやく底が見えてきた。あと少しで全て剥き終わりそうだ。
 一息ついて次のじゃがいもに手を伸ばした時、後ろから呻き声が聞こえてきた。
「むう、こいつは強敵よのう」 
 思わず振り返ると、そこには玉ねぎを手に涙を滲ませるトリスタ将軍の姿があった。どうやら、いつの間にか玉ねぎの皮むきに参戦していたらしい。屈強な将軍が野菜ひとつに涙を流している様子は、どうにも不思議で……思わず噴き出しそうになる。

 しかし笑う暇もなく、すでにタシャが駆け寄っていた。流石は忠実な愛弟子。反応の速さも一級品だ。
「トリスタ様! 大丈夫ですか?」
「む、タシャ。すまんがバトンタッチだ」
「はっ、お任せください」
 まるで戦場の任務交代のような大仰さで包丁を受け取ったタシャが、玉ねぎの山に立ちはだかる。その真剣な面持ちは、玉ねぎを敵将とでも見なしているかのようだ。
 だが、程なくして弟子も師と同じ道を辿ることになったようだ。
「くっ、なかなかやる……!」
 みるみるうちに涙に暮れながら玉ねぎと格闘している。鼻をすする音まで聞こえてきそうで、見ているこちらが可笑しくなってしまう。
 
 そんなタシャを横目に見ながら、ナマエは最後のじゃがいもをようやく剥き終え、包丁を置く。凝り固まった肩をほぐそうと背伸びをした。
「将軍、じゃがいもの皮剥き終わったけど」
「おお、すまんな。そこに置いといてくれ」
「ほかに手伝う事は?」
「あとは炒めて煮込むだけだ。もう少し待っておれよ」 
 朗らかに笑いながら寸胴鍋の前に立つトリスタは、すっかり上機嫌だ。香辛料を匙で量る姿は、鼻歌でも歌い出しそうなほど楽しげだった。

 そんな様子を手持ち無沙汰に眺めていると、玉ねぎとの死闘を終えたタシャが戻ってきた。目を真っ赤にしながらも、淡々とした顔を崩さないところは流石というべきか。
「楽しみにしていろ。トリスタ様のカレーは絶品だからな」
「よっぽど好きなんだな」
「ああ」
 頷いた横顔は、いつもの冷徹さを潜めて柔らかい。少年のようにどこか誇らしげで――それを口に出せば茶化してしまいそうで、ただ胸の奥にそっとしまい込んだ。



 正午の鐘が鳴る頃、兵舎棟の広い食堂には、ずらりとルリの騎士たちが揃って腰を下ろしていた。
 テーブルには、つやつやに光る白米の上に、湯気の立つ褐色のスープがたっぷりとかかった深皿が各々に一つずつ。脇には簡素なサラダと水の入ったグラスが並んでいる。見慣れぬ料理から立ち上る香りは食欲を刺激し、空腹を自覚していなかったはずの腹が、今さらのようにきゅう、と鳴った。
 
 すべてのテーブルに配膳が行き渡ったのを確認したトリスタ将軍が立ち上がり、朗々と号令をかける。
「皆揃ったな。では、いただこうか。今日の糧に感謝を!」
「今日の糧に感謝を!」 
 一斉に唱和する声が石造りの広間に響き渡る。その堅苦しさにナマエは思わず縮こまった。だが、直後に将軍がにかっと豪快に笑い、場の空気がぱっと和らぐ。
「うむ! さあ皆のもの、遠慮なく召し上がれ!」

 その声を合図に、早速エルザがスプーンを突っ込み、一口食べて――勢いよく叫んだ。
「うっまぁ!」
 幸せそうにかき込む様子は、見ているこちらまで釣られて腹が鳴りそうだ。トリスタ将軍が満足げにそれを眺める中、ナマエは目の前の皿を改めて見つめた。香りは力強く、鼻腔の奥まで熱を帯びるようだ。 
 少し緊張しながらスプーンで掬い、恐る恐る口に含む。――瞬間、思わず目を瞠った。
 濃厚な味わいと複雑に絡み合う香辛料の刺激、後からふわりと舌を包むような柔らかな甘み。口の中で次々と表情を変える味の波に、言葉が出てこない。これまで食べたどの料理とも違う、まるで異国の音楽を初めて耳にしたときのような衝撃だった。

「どうだ、初めてのカレーの感想は」
 隣からタシャが問いかけてくる。その声に我に返り、ナマエは慌てて彼に顔を向けた。
「美味しい……! 初めて食べる味だ。濃厚で、スパイスの複雑な味わいと、甘み……? のような? 説明が難しいけど、とにかく深い味がする」
 自分でも稚拙だと思う表現しか出てこない。だが、胸の内に広がる感動は偽りようがなかった。 
「フッ……気に入ったか?」
「もちろん。あんたが『絶品』って言うだけあるな。将軍、このカレー、すごく気に入ったよ。ご馳走してくれてありがとう」
 素直に礼を述べると、さらに隣に座るトリスタが満足げに頷き、茶目っ気たっぷりにウィンクを飛ばしてきた。
「うむ、礼には及ばぬ。麗しいレディに喜んでいただけてなによりだ。な、タシャ?」
「と、トリスタ様!」
 慌てるタシャの様子に、思わずナマエもスプーンを止めてしまう。師弟の軽口の応酬――その中心に自分が据えられているのが妙に気恥ずかしく、落ち着かない。けれど同時に、からかわれているようでありながら、どこか温かく見守られているようでもあった。
 頬を火照らせるこの熱は、香辛料の刺激だけのせいではないはずだ。
 タシャは僅かに赤く染まった顔を隠すように視線を逸らし、取り繕うように無理やり咳払いをした。その仕草がかえって不器用に見えて、ナマエの胸の奥がくすぐったくなる。
 ――普段の仏頂面より、ずっと人間らしくて、親しみやすい。
 
 トリスタはそんな弟子を軽く笑い飛ばし、今度は食堂全体に声を張り上げる。
「皆のもの、お代わりは十分用意してある! 遠慮せずたんと食って、英気を養ってくれ!」
「ありがとうございます!」
 若い騎士たちの歓声が一斉に上がり、食堂は賑やかな笑い声と皿をかき込む音で満ちていった。


 

 にぎやかなランチも片付き、皿洗いや片付けを終えると、ナマエとエルザは改めてトリスタ将軍へ礼を告げた。
「将軍! 今日はご馳走様でした。次の機会も、ぜひお邪魔させてください!」 
 ちゃっかりとした言葉を堂々と口にするエルザを、ナマエは思わず横目で睨む。抜け目のないところは、ある意味彼らしい。自分も遅れて一礼を添えたその時、兵舎棟に伯爵の使いが駆け込んできた。
「エルザ殿! こちらにおいででしたか!」
 どうやら伯爵に呼ばれているらしい。慌ただしく使いに腕を引かれるまま、エルザは名残惜しげに手を振りながら去っていった。

 食堂に残されたのはナマエと、そして……マルシェで買った大量のバナナ。大袋に四つ。数はともかく、何より場所を取る。抱えようと思えば一人でも何とかなるだろうが、かなりの重労働になるのは目に見えていた。
 アリエルの酒場までは決して遠くはないから、面倒だけど往復するか……? うーん、と腕を組んで思案していると、不意にトリスタ将軍の落ち着いた声が耳に届いた。
「タシャ、送っていけ」
「は? ――はっ」
 即座に背筋を正したタシャは、主命を忠実に受け止め、ためらいなく袋を三つまとめて持ち上げた。その動作はあまりに自然で、ナマエが呆気にとられる間もなく、彼は行動を完了してしまっていた。
 慌てて礼を言おうと口を開いた瞬間、トリスタがにやりと唇の端を吊り上げた。
「帰りはゆっくりしてきていいぞ」
「トリスタ様、そのような言い方は……! からかうのはおやめください!」 
 頬を赤らめて抗議するタシャの声に、ナマエの胸も一緒に熱を帯びる。自分のことを言われているのだと分かるからこそ、逃げ場がない。
「からかってなどおらんぞ。弟子の成長を見守っておるだけだ」
「余計にたちが悪いです……!」
 頭を抱える弟子に、楽しそうに笑う師。師弟のやり取りは本来なら微笑ましい光景のはずなのに、そこに“自分”が巻き込まれていると意識した途端、居たたまれなさが募っていく。もやもやとした熱が鳩尾のあたりに溜まり、落ち着かない。その正体不明の不安感を誤魔化すように深く息を吐いた。
 ――これ以上ここにいたら、次に何か言われるのは多分私だ。 
「……失礼します」
 小さく吐き捨てるように告げ、残りの一袋を抱えて足早に出口へ向かう。
 
「待て、ナマエ! 私も行く!」
 追いすがる声に振り返ると、慌ててこちらへ駆けてくるタシャが見えた。その頬がほんのり赤く染まっているのに気づいたが、あえて視線を逸らし、何事もなかったように前を向いた。心臓がいやに騒がしい。



 
「トリスタ様が……その、すまなかった。悪気はないと思うのだが」 
 城門を抜け、広場を横切って歩き始めてすぐ。追いかけてきたタシャが、気まずそうに謝罪の言葉を口にした。
 別に彼が悪いわけではない。そう頭では分かっているのに、素直に「気にしてない」とは言えず、曖昧に「うん」とだけ返す。
 
 微妙な空気を払うように、わざと明るい声を出した。
「それよりも、今日は誘ってくれてありがとう。荷物も運んでくれて助かった」
「いや……どうということはない」
 振り返って笑みを見せると、タシャの張り詰めていた表情がようやく緩んだ。彼も彼で、先ほどのトリスタ将軍とのやりとりでナマエが気を悪くしていないか、気にしていたのだろう。


 その時、南の広場にある時計塔がからん、からん、と澄んだ鐘の音を響かせた。午後三時を告げる音。
 ちょっとした買い出しのつもりが、随分と長い外出になってしまった。とはいえ――悪くない一日だった。美味しい料理に出会えて、大勢で調理をして、どこか特別な時間を過ごしたのだから。

「カレー、美味しかったな。他の皆にも食べてもらいたいくらい……」
 香辛料の複雑な香りが鼻腔に甦る。思わず独り言のようにこぼし、ナマエは小さく笑った。傭兵団のみんなも食べたことがあるだろうか。庶民的な料理だと言っていたし、きっとそうだろう。とはいえ、あれほどの絶品はそうそうないはずだ。
 ――もっと作り方をちゃんと見ておけばよかった。そうすれば、マナミアやユーリスにも食べさせてあげられたのに。
「そうだ。今度、将軍からレシピを教えてもらえないかな」 
 軽い気持ちで口にしたその提案に、隣を歩くタシャが不意に黙り込む。眉根を寄せ、やがて低い声を絞り出した。
「……それならば、私でも教えられる」
「え?」
「カレーの作り方を知りたいのだろう。一緒に作ってみるか? 私は明後日が非番だが……ナマエは?」
 思いもよらぬ誘いに、ナマエは思わず立ち止まりかけた。胸の奥が跳ねるのを必死で押さえ込み、慌てて言葉を繋ぐ。
「え、ええと……明後日は任務があるし、レシピを紙で貰えれば十分かな。せっかくだけど」
 自分でも言い訳がましいと思う声。案の定、タシャは肩を落とし、ほんの少しうなだれた。
「……そうか」
 胸に小さな罪悪感が芽生える。気まずさを隠すように、ナマエは話題を変えた。

「それにしても……今日食べたばかりなのに、もうカレーが恋しいの? どうせなら違う料理がいいな。タシャの好きな食べ物とか」
「私の、か?」
 思いがけない問いかけに、タシャが目を丸くする。頷いたナマエが「カレー以外でね」と念を押すと、彼は短く息を詰め、ほんのり赤くなった頬を隠すように視線を逸らした。
「……それは、私の好物を作ってくれるということか?」
「えっ!? ち、違……っ、いや、その……」
 しどろもどろになる声に、自分でも心臓が跳ねるのを感じる。確かに、そう聞こえてもおかしくない。
 ――いや、もしかしたら無意識にそう思っていたのかもしれない。彼の好きなものを作ってあげたい、と。

 ナマエの先ほどの発言が、意図した台詞ではなかったとタシャはすぐに気づいたらしい。苦笑を浮かべ、そっと目を伏せる。
「すまない、早とちりだった」
 その言葉がかえって胸に刺さる。失望させてしまった気がして、ナマエはぼそりと呟く。
「……き、機会があれば、作る、けど」 
 言ってすぐに顔が熱くなる。墓穴を掘ってしまったことに気づいて、どうか今の一言が聞こえていませんようにと――そう願ったが、祈りはあっさり打ち砕かれた。
 
「――機会ならば作る。来週はどうだ?」
 タシャが勢いよく振り返り、ぐっと顔を寄せてくる。
「わっ……!」
「いつが空いている? ナマエの予定に合わせて、私が非番の日を調整してもいい」
 真っ直ぐな眼差しに気圧され、思わず後ずさる。声が裏返りそうになるのを必死で堪えた。
「よ、予定はクォークに聞かないと分からないから、明日になれば……」
「明日? 酒場に戻った時に確認はできないのか?」
「リーダーは今日、伯爵の用事で一日不在なんだ。だから……やっぱり早くて明日だ」
「……ならば仕方ない」
 妙に食い下がるタシャにたじたじになりながら答えると、ようやく諦めがついたらしい。タシャはようやく一歩引き、いつもの仏頂面に戻った。けれど、その耳の先がほんのり赤いのをナマエは見逃さなかった。
 

 
 不意に、からん、とドアベルの音が耳に届いた。
 顔を上げると、見慣れた建物の外観――アリエルの酒場が視界に入った。落ち着かない会話を続けているうちに、もう目的地に着いていたらしい。
 入口の前で立ち止まり、ナマエは隣を振り返った。
「ありがとう、助かったよ、タシャ。荷物、そこに置いてくれる?」
「中まで運ばなくていいか」
「うん、ここでいい」
 そう答えると、タシャは小さく頷き、担いでいた袋を踊り場に静かに下ろした。

 それきり互いに言葉を失い、視線だけが交わる。目が合った瞬間、タシャがわずかに微笑んだ。
 別れがたいと思っているのは、自分だけだろうか。
 ――いや、違う。あの笑みがそう告げている気がした。
 
「……じゃあ、また今度」
 ナマエが切り出すと、タシャは低い声で「ああ」と応じた。
「予定を確認するのを忘れるな」
「分かってるって」
 即座に返すと、タシャは鼻で小さく笑った。
「どうだかな」
 いまいち信用がないらしい。
 からかうように呟き、「ではな」と一言残して踵を返す。その背を、ナマエはひらひらと手を振って見送った。
 
 

 ――そうして束の間の逢瀬は終わった……はずだったのに。
 
ナマエ
 
 酒場に入ろうとした時、呼び止められて振り返る。通りの向こうで、タシャがこちらを見ていた。今度はどこか確信めいた笑みを浮かべている。
 
「言い忘れていた。私の好物だが……お前が作ってくれるものなら、なんでも嬉しい」

 時が止まったように思えた。
「――っ」
 言葉が喉に詰まる。抗議も、冗談と笑い飛ばすこともできず、呆然と立ち尽くすしかなかった。

 タシャはそんな彼女の様子を楽しむように口元を緩め、そのまま振り返って去っていく。
 言い逃げなんて卑怯じゃないか、と心の中で抗議するが、もう遅い。背中は遠ざかるばかりだ。

 鏡を見るまでもなく、顔が熱で赤く染まっていることは分かった。
 ――こんな顔、仲間に見せられるわけがない。
 慌てて手で顔を扇ぐが、火照りは収まるどころかますます募っていく。
 胸の奥に広がる甘いざわめきをどうすることもできず、ナマエは小さくため息を吐いた。

 ……とりあえず。次にタシャに会う時までに、何を作るか、考えておかないとな。


2025.08.30