繋ぎ止める





 晴れ渡った快晴の午後。
 今日は傭兵としての任務もなく、することもなく暇を持て余したナマエは通りをそぞろ歩き、気がつけば賑やかな職人通りへと出ていた。

 今日は休日の前日ともあって、いつもより人通りが多いようだ。行き交う人々からは、どこかせわしなさを感じる。
 しばらく店先を覗いていたナマエは、時刻が夕刻に傾いていくに連れて増える人ごみにだんだんと辟易しはじめ、そろそろアリエルの酒場に帰ろうかと思い始めた。
 背後から聞き慣れた声が彼女を呼んだのは、その時だった。
ナマエ?」
 すずやかな艶のある声色に、無意識にどきりと心臓が跳ねた。が、努めて顔色には出さず平静を装って背後を振り返ると、そこには端正な顔立ちの白騎士の姿。
 雪解けを思わせる清廉とした笑みを浮かべた彼は、人の波の中に立っていてもその存在感がゆえ特別異彩を放っている。
 ナマエは知らず覚えた緊張感を誤魔化すように、ぎこちなく微笑んだ。
「――タシャ」
 名を呼び、なんとか固唾を飲み込んで、彼の元へと歩み寄る。
 彼を目の前にすると妙な胸のざわめきと緊張感を覚え始めるようになったのは、いつの頃からだったろうか。決して嫌悪の感情ではない、むしろもっと身近に感じていたいとさえ思える感情に、名を付けることを躊躇ってナマエはそれを持て余していた。
 そんなことを思いながら、目線を一瞬交わしてふと伏せる。相も変わらずまっすぐな視線に気後れしてしまう。
「また会ったな。今日は買い物?」
「ああ、お前もか?」
 凛とした声色に柔らかな音が混じる。声色に気遣いを感じ、ナマエは鳩尾がむずむずするのを感じた。
 こめかみのあたりにじりじりと視線が突き刺さる。視線をはぐらかしているのもどうやら限界のようだ。ナマエは意を決して顔を上げた。
 まっすぐな碧の瞳とかち合う。息が詰まるのを感じながら、ナマエは無理矢理笑った。
「私はただの冷やかし。ちょうど暇でさ」
「そうか」
 する事もなくあてどなくさまよっている現状を伝えると、タシャは目を細めてふと笑った。
「では、よければ買い物に付き合ってもらえないか」
 突然の誘い。
 そういえば数日前にも、こうして職人通りで偶然会って誘われたのだった。あの時は突然雨に降られて……。
 ナマエは束の間返答に詰まっていたが、ややしてぎこちなく頷いた。
「いいよ。もちろん」


 タシャの目的の店は、すぐ近くにあった。
 軍人の命綱とも言えるもの、剣を扱う武器屋だ。店に入るとタシャはしばらく目線をさまよわせ、ややして角のコーナーに足を運んだ。籠に積まれている一つを手に取る。剣を研ぐ材料だった。
「買い物って、それ?」
 背後からその様子を見ていたナマエが声をかけると、タシャは首だけちょっと振り返って、頷いた。
「ああ、ちょうど切らしてしまってな」
 カウンターで会計を済ませると、ほかに用事もなくすぐに店を出る。
 扉に設置されたベルが軽快な音を立てる。
 ちょうど店を出ると、沈みかけた太陽が街に絶妙なオレンジ色の陰影を落とし、美しい対比を作っていた。

 カラン、カランと空に教会の鐘が何重にも鳴り響いている。
 夜の入りを告げる時刻だ。
 職人通りは家路につく人々が行き交い、先ほどまでと比べてひどくごった返している。
 タシャは一歩足を踏み出しながらも、ナマエを振り返って心配そうに念押しした。
「はぐれないよう気をつけろ」
「大丈夫。あんたの背格好は目立つから、はぐれることはないよ」
 それに軽く笑いながらも、ナマエはタシャの後について足を進めた。もとより人波をかいくぐるのは得意なほうである。
 タシャはナフル運河にかかるアルガナン橋を目指しているようだった。もしかしたらアリエルの酒場にナマエを送り届けようとでもしているのかもしれない。
 タシャの背を見逃さないように、人の波をかき分ける。
 前から突然巨体の男がすっと目の前に割り込んできたのは、その時だった。
「わ、っぷ!」
 ぶつかりそうになって慌てて体を反転させる。なんとかぶつからずにすり抜けて体勢を整えたときには、もうタシャの背は視界から消えていた。
 思わず立ち止まり、慌ててあたりをきょろきょろ見回す。
 嘘だろう? 見失った……?
ナマエ!」
 焦って背後を振り向いた時、後ろからがしりと手首を捕まれた感覚に心底驚いた。
 振り返ると、眉間に皺を寄せたタシャが、そこにいた。
「タシャ」
 名を呼ぶと、彼はほっとしたように表情を崩した。
「だから言っただろう、はぐれないように気をつけろと」
「ごめん」
 ばつが悪くなって素直に謝る。
 タシャは、「良い」とかぶりを振り、そのまま目的の方向に歩きだした。手首を掴んでいた手はするりと滑り降り、今度はナマエの手を握った。
「……っ」
 突然の何気ない仕草に、ナマエは自分の心臓が跳ねる音を聞いた。
 タシャはなに食わぬ顔で前を向いている。
 しばらくそのまま進んだが、意を決してナマエは口を開いた。
「あの、手……」
 そこでナマエの戸惑いにようやく気がついたように、タシャはちょっと振り返ってふと口角をあげた。
「ああ。ちょっと目を離すと迷子になる人がいるからな、こうでもしておかんと安心できん」
 その言い分に、心外なのはナマエだ。彼女は盛大に眉根を寄せると、口を尖らせ小さく抗議した。
「子供扱いするなよ……」
 ただし、手はふりほどかずそのまま。
 タシャは振り返らず、ふっと鼻で笑った。
「心外だな、子供扱いなどしておらん」
 どうだか。ナマエは内心でしかめ面を浮かべながらも、繋いだ手はそのままに男のゆっくりとした歩調に合わせて足を進めた。


 ようやく職人通りを抜け、人通りが収まった頃。
「物取りだ! 誰か来てくれ!」
 その突如として響いたせっぱ詰まった声に、いち早く反応したのはタシャだった。
「――!」
 彼は声のした方を振り向くと、握っていたナマエの手を離し駆け出そうとした。
 が。
「あ、」
 離れていくタシャの手を引き留めたのは、ナマエの手だった。
 タシャが怪訝そうに振り返る。ナマエはとっさの行動に自分で驚いたように、慌てて手を引っ込めた。
「どうした?」
 問いかけに、曖昧に笑うことしかできない。
「ご、ごめん、何でもない。早く行ってあげて」
「すぐ戻る」
 タシャは深く追求することもなく、頷いて去っていった。


 タシャの背を見送りながら、ナマエは己の手に視線を落とした。
 なぜ、この手は彼を繋ぎ止めてしまったのだろう。子供扱いされているようで恥ずかしかったはずなのに。
 離れていく温もりが惜しかったのだろうか。寂しかったから? もっとあの厚い手の温もりを感じていたかった?
 考えて、自分の感情に困惑して目を伏せる。
 それ以上、自分の本音と向き合う勇気はなかった。


 宣言通り、タシャはすぐに戻ってきた。
「待たせたな」
 ぼんやりしていたナマエは、その声にはっとする。大股でこちらに歩いてくるタシャの姿を目にし、彼女はとっさに笑みを浮かべた。
「あ、お帰り。早かったな」
「ああ、有り難いことに物取りの犯人が果物の籠をひっくり返して自滅していたからな。それですぐに取り押さえて、衛兵の詰め所に突き出してきて終わりだ」
 なんともお間抜けな犯人だったようだ。
「お手柄だったな。さすが市民を護る騎士様だ」
「この街の平和に貢献できているのならば、それで十分だ」
 澄ました表情でさらりと言う。己の功を殊更持ち上げる事なく当たり前のように告げる彼の横顔には、彼の目指すところの騎士道精神がかいま見えた。
 ナマエは一瞬眩しげにその横顔を見上げ、ついで誤魔化すように真面目な男をからかった。
「相変わらず生真面目だなー」
 一歩先を行っていたタシャはその言葉に振り返り、ナマエのからかいに腹を立てることもなく目元を細めた。
 そして。
「ほら、」
 おもむろに手を差し出される。
「なに?」
「手を繋いでいたかったのだろう? 先ほど引き留めたのは」
「……っ!」
 思わず、言葉を飲み込む。
 気づかれていた。あの時、引き留めてしまった理由を。
 ああまったく! どちらかと言えばそういうことに疎そうなのに、こういう時だけ敏感なのには勘弁してほしい。
 ナマエは恥ずかしさでしゃがみ込みたくなるのを堪えて、顔を覆った。
「そ、そういうんじゃなくて……」
「違うのか?」
 ああ、なんて言えばこの男は誤魔化されてくれるんだろう。まごついて、上手い言葉が出てこない。
 怪訝そうに首を傾げたタシャが、ややして何かを納得したように頷いた。
「まあいい」
 そして、立ち尽くすナマエに一歩近づき。
「え」
 空いている彼女の手を掬い取り、そしてなに食わぬ顔で前を歩き始めた。
「ちょ、ちょっと」
 呆然としてたナマエは引きずられるがままだったが、ややして抗議の声をあげた。
 するとタシャはぴたりと立ち止まり、振り返って。
「私がこうしたかっただけだ、気にするな」
 鮮やかな笑みを浮かべたタシャに、不意を突かれたナマエはなにも言い返せずに結局手を繋いだまま酒場まで連れて行かれるのだった。