雨音




 アリエルの酒場を出て空を見上げると、どんよりとした曇り空。風が強く、少し肌寒いくらいの日だった。


 ナマエは背中に重たそうな革袋を背負って、ルリ城下の職人通りに来ていた。雑多な通りを歩くこと少し、とある建物の軒下に目的の看板を見つけた。剣とハンマーの看板の店、鍛冶屋だ。
 鍛冶屋の戸口をくぐると、埃っぽい店内には剣や槍、ハンマーなど雑多な種類の武器がそこら中に飾られており、雑然とした雰囲気を醸し出していた。鼻先を掠めるのは鉄錆の匂い。
 店の奥のカウンターには店主ともう一人、男が店主からちょうど受け取った剣の上がり具合を確かめているところだった。どうやら先客のようだが、後ろ姿が見たことのある姿をしている。すらりとした立ち姿、薄暗い店内で眩しいほどの白い鎧、ゆるくウェーブのかかった白い髪に長い編み込み。
「タシャ?」
 思わず声に出して名を呟くと、驚いたように男が振り返った。端正な顔はその左半分が前髪に隠れている。
ナマエ
 タシャはこちらを認めて瞬いた後、柔らかくはにかんだ。
「偶然だな。お前もこの店に用が?」
「うん、武器の修繕を頼もうと思って。タシャも武器を直しに?」
「ああ。昨日預けていた剣を取りに来たのだ」
 狭い店内をそっと縫うようにしながら、タシャの元まで歩み寄る。彼は受け取った剣を腰のベルトに装着し、カウンターから一歩後しざってナマエのために道を譲った。
「どうぞ、私の用事はもう終わった」
 それに礼を云って、彼女は背負っていた重たい革袋をカウンターの上にずしりと置いた。カウンターの向こうには無愛想そうな職人気質の親父が出迎える。
「らっしゃい」
「どうも。これ、直しに出したいんだけど」
「あいよ、お預かりします」
 革袋を開くとそこには大小さまざまな剣が収められていた。すべて袋から取り出しカウンターの上に並べると、店主が商品の状態を検分すべく一本を手に取った。と、剣を品定めしていた店主の視線が、ナマエを捉えた。
「急ぎかい?」
「いや」
 首を振ると再び店主が検分に入る。
 その様子をカウンター脇で眺めていたタシャが、口を開いた。
「随分大量だな」
 振り返ったナマエは、苦笑を浮かべた。
「仲間のスペアの武器も預かってきたんだ。鍛冶屋に行くって言ったら、ついでにって渡された」
 おかげで此処まで運ぶのに苦労した。そう付け加えると、タシャは労りの笑みを浮かべてみせた。
「それはご苦労だったな」
 お客さん、と店主がナマエを呼ぶ。
「全部で五本だな。状態もそれほど悪くないし、明日までに仕上がるだろう。受け取りは明日の午後になるぜ」
「わかった、よろしく頼むよ」
 そう云って、ナマエは剣を店主に預けた。用事が済んでほっとする。使いこなした剣だっただけに、そろそろ綻びが出てきていた頃だった。剣の手入れは日常的にするが、細かいところまではやはりその道の職人に頼んだ方がいい。
 手続きを済ませて店主に挨拶をかわし、戸口の方を振り返ると、タシャがこちらを見て佇んでいた。自分の用事はとっくに済んだはずなのに、まるでナマエを待っていたかのようだ。
「待っていたの?」
「ああ、どうせならばな」
 律儀な答えにクスリと笑うと、タシャが照れ隠しのようにそっぽを向いた。

 店を出ると、相変わらず空は曇天が続いていた。ナマエは空を見上げてから、おもむろに隣の男に尋ねた。
「今日は非番?」
「ああ」
 ナマエは改めてタシャの居住まいを眺めた。休みだというのにかっちり鎧を着こんだその姿はどこか堅苦しい。
「非番でもきっちり鎧着込んでいるんだな」
「ああ、いついかなる時でも騎士の本分を忘れんようにな」
「騎士様は大変なこった」
 生真面目な答えに肩をすくめる。
 真面目が過ぎて、いつか病気にでもなるんじゃないだろうか。そんなことを思いながら、ナマエは偶然の邂逅に別れを告げるべく片手をあげて元来た道を戻ろうとした。
「じゃあ、ここで。たまにはゆっくり休めよ」
ナマエ!」
 鋭い声に呼び止められ、一歩踏み出そうとした足はたたらを踏んだ。振り返ると、こちらをじっと見つめる碧の瞳が。
「なに?」
「この後用事はあるのか?」
「酒場に戻るだけだけど」
 戸惑いながら告げると、ふと鋭い瞳が緩んだ。
「では、よければ少し付き合ってもらえないだろうか」
「……いいけど、どこに?」



「アールグレイをストレートで」
 城門前広場のオープンテラスで、タシャは注文を取りに来た店員にそう告げた。
「かしこまりました。お連れ様はいかがなさいますか?」
「じゃあ、同じものを」
 ナマエが云うと、店員はふんわり笑みを浮かべてもう一品勧めてきた。
「ご一緒にフィナンシェなどいかがですか?」
「貰おう」
 フィナンシェとは一体なんだろうか。ナマエが答えに迷っていると、タシャがさっとそう答えたので店員は笑顔で下がっていった。

 タシャに連れられ、やってきたのは城門前広場のカフェテラスだった。天気の良い日は、よくここで暇を持て余したマダム達が噂話に花を咲かせているのを見かける。ナマエ自身はこのカフェを利用するのは初めてだったが、今日は天候が良くないせいか他に客の姿は見えなかった。
 テーブル中央から延びるパラソルが強い風に揺れている。その様を見上げて、ナマエは何気なく呟いた。
「今日はあまり天気が良くないな」
「そうだな、風もいつもより強い」
 ナマエの言葉に同意しながら、タシャは彼女を振り返った。
「少し肌寒いくらいか……、平気か? 室内のカフェにした方が良かっただろうか」
「大丈夫だよ、今暖かい飲み物も来るし」
 そう云っている間にも、店員が紅茶一式と焼き菓子を持ってきた。テーブルに一式が並べられると、店員はカップを満たして下がっていった。フィナンシェとはどうやら焼き菓子のことだったらしい。
 温まったカップを両手で包む込むようにして持ち上げ、一口飲む。タシャには大丈夫だと云ったが、暖かな飲み物が正直ありがたかった。
「それで、私をこんなところに誘って何のつもり?」
 もう一口飲んでカップをソーサーに戻し、ナマエはおもむろに尋ねていたずらっぽく笑ってみせる。
 紅茶を優雅なしぐさで傾けていたタシャは、少し面を食らったように瞬いた。彼は少し考えるように顔を傾げ、ついでふと口の端を釣り上げた。
「別にどうというつもりもない」
 想定内の答えだった。ナマエとて、このお誘いに特別意味があるものだとは思っていなかった。
 だが、とタシャが続けた。
「せっかくの非番だ。友人とゆっくり過ごしても罰は当たらんだろうと思ってな」
「友人……」
 今度はナマエが面を食らう番だった。この堅物の騎士様に友人として認められていることにこそばゆいような気持ちが沸き起こって、口元をきゅっと結ぶ。操りの領域で瘴気に当たり倒れた際、この男から見舞いの花とカードをもらったのは、つい先日のことだったか。
 ナマエの表情を不満と勘違いしてか、タシャが怪訝そうに眉根を寄せた。
「不服か?」
「ううん。これ、いただきます」
 照れていることに気付かれたくなくて、ナマエは慌てて皿の上の焼き菓子に手を伸ばした。タシャがふっと笑った。
「ああ、食べると良い」
 ふんわり焼けた焼き菓子を二つに割り、口に放り込む。バターの風味が濃厚な甘い余韻が口の中に残った。続いて紅茶を飲むと、焼き菓子との相乗効果でより一層紅茶の風味がまろやかになり、思わず顔が綻んだ。
「おいしい」
「それは何よりだ」
 笑いながらタシャがカップを傾ける。その指先の動作は洗練されており、一種の形式美を感じさせる動きだった。ナマエはその様を眺め、ふいに口を開いた。
「流石に様になってるな」
「何がだ?」
 きょとんとしたタシャには妙に愛嬌がある。ナマエは笑みをこらえながら、言葉を付け足した。
「紅茶飲む姿がいちいち様になっているな、って」
 タシャはナマエの言いたかった言葉を理解したらしく、ああ、と頷いてその先の言葉を濁した。あまり面白い話題ではないのだろう。
「品行方正な騎士様は礼儀作法とかにも厳しいんだろ?」
 まだその話題を続けるのか、と云わんばかりにじろりとねめつけられる。と、ふいに諦めの溜息をついたタシャが、カップをソーサーに戻してナマエに向き直った。
「ああ、士官学校では礼儀作法の授業で、みっちりしごかれたからな」
「ダンスとかやったり?」
「あまり得意な方ではなかった」
 ナマエがくすりと笑った。
「嘘つけ。あんたなら何でも器用にこなしそうだ」
「さてな。だが態度はあまり褒められた生徒ではなかった」
「そうなの? 想像つかないな」
 士官候補生時代のタシャの姿が想像できなく、ナマエは風にふわふわ揺れる男の白い髪を眺めた。


 タシャとのお喋りは楽しかった。他愛無いことをしゃべりながら、焼き菓子に手を伸ばす。
 が、四半刻もたたないうちに、気が付けば分厚い雨雲が出てきて遠くから雷鳴が轟いてきた。
 現在ルリ島はグルグ大陸を目指して南下中だ。比較的穏やかな天候が続いていたが、この頃時たまスコールのような激しい雨が降ることがある。この時も一瞬の出来事だった。
 ぽつり、とテーブルにひとつの雨しずくが落ちてきた。
「あ、雨だ」
 空を見上げる。と、大粒の雨粒が降ってきて、瞬く間に広場の地面が黒く塗りつぶされた。地面に落ちた雨粒が跳ね返り、あたりが白くけぶっている。
「わ」
 急な大雨に驚いていると、タシャが急に立ち上がって雨の中へと駆け出して行った。
「タシャ!?」
 広場にいた人々は急な大雨に軒下を探して惑っている。かく云うナマエも、パラソルひとつでは雨をしのげない。吹きさらしの雨が徐々に体を濡らしていく。
 右往左往しているうち、タシャが戻ってきた。頭から足先まで、すっかり濡れてしまっている。
「おかえり、どこ行っていたんだ」
「支払を済ませてきた。行くぞ」
 云うなりタシャはナマエの手首を取って、パラソルの外へと飛び出した。有無を言わせぬ力強い手に引きずられながら、ナマエは困惑して声を上げた。
「え、ちょっとどこ行くつもり?」
 パラソルの安全圏から抜け出すと、強い雨がナマエの顔を叩いた。見る間に濡れ鼠になっていく。だが、目の前の男は足を止めない。向かう先は、城門。
「タシャ、そっちは城だけど!」
「いいからついてこい」
 仕方なしに導かれるまま、ナマエはタシャに腕を引かれながら駆け出した。



 城内に入るころには、大方雨に打たれ、髪からは滴がしたたるほどだった。 
 城内は急に降ってきた大雨の対応に追われているのか、メイドたちが慌ただしく駆け足で行き交っている。
 タシャは二階へと上がり、賓客棟へと向かっているようだった。手はまだつながれたままだ。無言で歩くことしばし、ひとつの扉の前で彼は立ち止った。
 ようやく手が離され、タシャはナマエを振り返った。
「入れ」
 扉を開けられ、入室するよう顎で促される。
「ここ、タシャの部屋?」
「そうだ」
 戸惑いながら尋ねると、肯定の返答が返ってくる。
「どうして」
「いいから入れ」
 男の意図が分からずまごついていると、背中を押されて強引に中に押し込まれた。
 室内はひんやりと冷えていた。雨に打たれたせいかブルリと寒気が襲ってきて、ナマエは自らを両腕で掻き抱いた。
 がらんとした部屋の中央へと進む。暖炉があったが、当然火は入っていない。
 タシャはメイドの呼びベルを押し、慌ただしくバスルームへと姿を消した。
 まもなくメイドがやってきた。
「お呼びですか」
 綺麗に一礼をしたメイドが用件を尋ねてくる。
「ええと」
 そう尋ねられても、呼びつけた本人がいない。ナマエが困惑していると、メイドを呼びつけた本人がタオル片手にバスルームから戻ってきた。
「すまないが暖かい紅茶を頼む」
「かしこまりました」
 再び一礼をし、メイドが下がっていく。
「ほら、これで頭を拭くといい」
 タオルを差し出しながら、タシャが告げる。
「ありがとう」
 礼を云って受け取り、タオルで顔を拭く。清潔な石鹸の香りがした。
 と、再び襲ってきた寒気にぶるりとし、思わずくしゃみが飛び出た。タシャが籠手を外す手を止めて、思案気にこちらを見た。
「寒いのか」
「ちょっとね」
 そう答えると、タシャは外した籠手をカタリとテーブルの上に置いて、眉根を寄せてナマエへと向き直った。
 そしておもむろに。
「手が冷たい」
 両手を包み込むように握られ、ぽつりとタシャが零した。急なことに驚いて硬直していると、さらに目を剥くような事態になった。
 タシャの筋張った両手に包み込まれたナマエの手に、顔を傾けたタシャの唇が近づく。はあ、と指先に吹きかけられた吐息は暖かいものだったが、あまりの展開にナマエは混乱して言葉を発するのを忘れてその場でなされるがまま突っ立っていた。
 冷えたはずの体に、顔だけに熱が集中した。
「タ、タシャ……」
 何度目かの熱い吐息が吹きかけられ、ナマエの冷えた指先を温めるように握りしめられる。ハッとしたナマエは慌てて手を引こうとした。
「も、もういいから」
 それでも聞く耳持たず、タシャは無心でナマエの手に暖かな吐息を吹きかけている。
 ナマエは途方に暮れながら、タシャを見上げた。髪を濡らす滴が彼のウェーブの髪を重く引っ張り、まっすぐまでとはいかないが若干ゆるくストレートにへたっている。なんだか別人のようであり、すこし新鮮な気分だ。
「タシャ、髪の毛乾かさないと風邪引くよ」
 ようやくタシャが顔を上げた。お互い髪がずぶ濡れのままだったことに今気づいたといったように、タシャは眉をあげてナマエの肩にかけられていたタオルを引き上げ、そのままバサリと頭に被せた。
「それはお前もだろう」
 タオルで視界が遮られ、慌てる。少し強いくらいの手が、がしがしとナマエの頭を拭いた。
「わ、ちょっと、自分でやるから……!」
「おとなしくしろ」
「痛いってば!」
「あ、すまない。強すぎたか?」
 ふと頭を掴む手が緩んで、その隙にナマエはタシャの手を抜け出した。
「もう、髪がぐちゃぐちゃ……。こんなもの、わざわざ拭くまでもないのに」
 こんなことせずとも、濡れたら魔法で乾かせばいいだけの話だ。ナマエはそう云って調整した炎魔法を唱えた。あっという間に髪が乾く。服も乾かし終えると、ついでとばかりに呆気にとられていたタシャの手からタオルを奪い、同じように乾かしてやった。
「魔法か。便利なものだな」
 苦笑半分感心半分と云った笑みを浮かべ、タシャは肩を竦めた。
「……それでも少し寒いな。暖炉に火を入れるか」
「手伝うよ」
 そう告げ、ナマエは暖炉に歩み寄った。
 暖炉にくべられていた薪には昨日の炎の名残があり、黒くけぶっていた。新たな薪を放り込むと、魔法を唱えて着火させる。
 しばらくすると、薪木に火が付いた。
 見る間に火は大きくなり、赤々と互いの横顔を照らし出す。ナマエは火に手をかざし、ほっと一息ついた。
「あったかい」
「もっと火の側に寄れ」
「うん」
 素直に頷いて、ナマエは暖炉へとにじり寄り、暖炉の前の敷物に腰を下ろす。タシャも倣ってその隣に腰を下ろすと、腕が触れそうなほど互いの距離が近くなった。
 ぱちぱちと薪の爆ぜる音が静かな空間を震わせる。
 一つの火を囲み、赤々と燃える火を眺めながら、二人で無言の時を共有する。


 しばらく火に当たっていると、そのうちメイドがやってきて紅茶一式を置いて下がっていった。
 おもむろに立ち上がったタシャは、戸棚に歩み寄って琥珀色の液体の入った瓶を取り出した。瓶のコルクをキュッと抜くと紅茶の入ったティーカップに瓶の中身を数滴垂らし、ソーサーごと差し出してきた。
「飲んだらどうだ。暖まるぞ」
「ありがとう」
 礼を告げて受け取る。カップを持ち上げ口許に近づけると、立ち昇るアルコールの匂いが鼻腔を刺激した。
「……ブランデー入り?」
「酔うほど入れてはおらん」
 慌てたように付け足される。くすりと笑って一口飲むと、香り高い紅茶の風味が口内を満たした。
「おいしいよ」
「そうか」
 ほっとしたように笑って、タシャは自らもブランデー入りの紅茶を飲む。
 カップの中の紅茶を飲み終えると、なんとなく体がぽかぽかしてきたようだった。
 窓の外では、相変わらず大雨が降っている。カップをテーブルに戻したナマエは、外の様子が気になって窓の方に顔を向ける。ゆっくりとした足取りで窓辺に歩み寄って、窓の外を覗き込んだ。
「外が気になるか?」
 ナマエの様子に気付いて、タシャが背後から声をかけてきた。
「せっかくだから、ゆっくりしていけばいい。しばらくは止まんと思うぞ」
 それには答えず、ナマエは窓の外を眺めたまま尋ねた。
「……タシャ、なんでここに私を連れてきたんだ」
 少し、間があった。
「酒場に帰るより、こちらに避難した方が近いだろう」
 僅かに動揺が声ににじみ出ている。なんとなく可笑しくなって、小さく鼻を鳴らした。
「ふうん、そんな理由」
 確かにアリエルの酒場に比べてしまえば、城のほうが城門前広場に近い。あのまま軒下に避難したとしても、結局は帰れずに二の足を踏んでいただろう。だが強引に異性の部屋に招き入れるなど、正直下心があるのではないかと探ってしまうものだった。
「疑っているのか」
「いや、……ただ」
 あんたらしくないと思って。
 云いかけて、口をつぐむ。外は雨であたり一面白くけぶっている。
 ――このまま、雨が止まなかったら。
 突然、外界と切り離された空間にタシャと二人きりでいるような気分になって、ナマエは内心動揺した。
「雨、止まないな……」
 動揺をひた隠すように俯いて、ぽつりと呟く。


 ふいに背後に人の熱を感じた。気配を感じさせずに忍び寄ってきたタシャの両腕が、背後から回ってきて遠慮げにそっとナマエの肩口を包み込んだ。
 突然のことに身動きが取れない。両腕で包むように引き寄せられる。
 耳の裏にタシャの吐息を感じると、己の顔に熱が集中して落ち着かなくなった。そんなはずはないのに、鎧越しに届く鼓動が己のそれと重なった気がした。
「……タシャ」
「いつまで居てくれてもいい。雨が止むまでの間、しばらく二人だけの時間をくれ」
 静かで力強い声が、鼓膜をひたひたと浸食するように震わせる。
 そっと寄り添ってくる恋情の思いが、ナマエの心をとらえて離さない。自らの想いに心かき乱され、息が苦しくなった。
「……このまま、雨が止まねばいい」
 独り言のようにぽつりとこぼれた言葉に、ナマエは返す言葉を持たなかった。ただそっと、後ろの男に身を預ける。抱きしめる腕が強まった。

 子守歌のような雨音が、静寂な室内に満ちていた。