どうか、目を瞑ったままで
――薔薇が、咲き乱れている。
むせ返るような香りで包まれた、主を失い静まり返った庭園で、ナマエはひっそりと佇んでいた。
この庭園の主は、先ほど、小さな勇者によって花の如く散ったのだろう。あの男のことだから、散り際も、美しくあったに違いない。
薔薇の花弁に宿った夜露、ナマエは、まるで花々が主を喪った事を哀しんでいるかのように見えた。
巨大な白亜の城、仲間が集うナマエの大切な居住であった筈だが、今となっては無味乾燥なところにしか感じない。だって、”皆”が、いないから。
ナマエを囲んでいた人々は、流れ行く風に攫われていってしまった。それも、手の届かない、とてもとても遠いところに。
どうしてこうなってしまったのか。どうして皆は行ってしまったのか。
脳裏に浮かぶ、光景。浮かんでは、消えていく、今は居ない人々の顔。いつの間にか消えた人々。
なぜ、と。
花弁に、声にならない声が落ちる。
分らない、何もかも。
ザ、と生暖かい風が吹いた。花弁が、舞い上がる。
「ナマエ」
己の名、振り返ると、鮮やかな朱色が飛び込んできた。
『――アクセルっ』
不意に重なる、映像。明るく弾んだ声は、確かに過去の己のものであったはずだった。そして、嬉しそうに駆け寄る、それは日常の一コマ。
「アクセル……」
今のナマエは、しかし同じように彼の人へと駆け寄れはしなかった。何もかも知ってしまったゆえ。彼も、それを承知してか、ナマエをじっと見つめている。
『まったく、お前は飽きないな。よほど、ここが気に入ったか』
『うん。ねぇ、今度、皆でここでピクニックしようよ』
『ぶは、そりゃいい。マールーシャの奴が、どんな顔をするのか楽しみだな』
からから笑う、彼の声。今でも鮮明に覚えている。
だが、それはもう、過去のもので。
「いつまで、そうやっているつもりだ」
そう云ったアクセルの声は、暗く。
あの頃と、一体なにが違うというんだろう。違いすぎて、分らない。
ただ、一つだけ分るとすれば、あの頃、ナマエは何も知らない、無知な子供であったという事だけだ。
――それはまだ、ナマエが何も知らなかった頃の話。
忘却の城のメンバーは、決して仲は悪くは無かった筈だ。マールーシャは花莫迦だが基本的に優しかったし、ラクシーヌには弄られたが、それでも嫌ではなかった。そしてアクセルは、その調子の良さが好きだった。お子様扱いされたりと、しょっちゅうからかわれていたものだから、ナマエは最も多く彼の傍にいた様な気がする。
そして、よくこんな話をしていた。
「ねぇアクセル。アクセルは、心を手に入れられたら、まず何をしたい?」
「んあ、そうだなぁ」
わかんねぇ、といかにも面倒くさそうに答えたアクセルに、ナマエは頬を膨らました。真面目に答えろと言いたくなったが、暖簾に腕押し、この男には真面目を期待するだけ無駄だというのは分っていた。
「もうすぐなんだよね、もうすぐ、勇者が」
心を持ってきてくれる、とナマエはうっとりとした表情で宙を見つめている。この時、マールーシャ達の機関乗っ取り計画は順調に進み、もうすぐソラを手中に収められるところまで来ていた。だが、機関の中では力の弱いナマエの事を思ってか、計画のことは表面上にしか伝えていなかった。それこそ、キーブレードの勇者が協力してくれるのだと嘘をついてまで。
一人除け者にされているナマエのことを知っていたアクセルは、しかしマールーシャの判断に異議を唱えることは無かった。機関の乗っ取り――つまり裏切りを知らぬままであった方が、ナマエにとっては良いと思ったのだ。
「あんまり、あいつらを期待しない方がいいんじゃねーの」
アクセルの苦い表情に、事情も知らぬナマエは、無邪気に口を尖らした。
「でも、マールーシャは、もうすぐだから待ってろって」
「ホント、あいつはお前にだけは妙に優しいよな」
あきれたような物言いに、ナマエはにっこりと笑みを作ってやった。
「マールーシャは、フェミニストなんだよ。アクセルと違ってね」
生意気にも嫌味か、といえども随分と可愛らしいものだ、と大して堪えてない風に、アクセルはにやりと笑う。
「なんだよ、お子様を、女性扱いしたってしゃあねーだろ」
「あ、ひどいアクセル」
「っていうのは冗談だけどな」
じろりと睨んだナマエの腕を、アクセルはくつくつと笑って引っ張った。
「わあ」
と、声をあげたナマエは、すっぽりと男の腕に抱えられている。
「心が手に入ったら、まず、ナマエを思いっきり抱きしめてやる」
「なに、それ? 可笑しいの」
ナマエが嬉しそうに微笑んでいたので、つられてアクセルは微笑んだ。
「莫迦にすんな。俺様なりの愛情表現だって」
けたけたと、楽しそうな笑い声が響いた。
心が無いなりに、楽しいと思えた。だって皆がいたから。アクセルがいたから。
だけど、いつからか、皆の様子が変わってきて。
――いつからか、笑顔が消えたのだ。
「なあ、もし、俺が――」
「え?」
「機関を裏切るっつたら、どうする? ナマエ」
そう、唐突に切り出してきたアクセルの様子も、暗いものだった。思えば、この時、何故異変に気付かなかったのだろうと、ナマエは己の鈍さに歯がゆく思う。いや、たとえ気付いていたとしても、きっと何も出来なかっただろうし、そして疑いもしなかっただろう、いつもいる人たちが、いなくなるなど。
守られていることすら気付かず、のうのうと暮らす。ただ、楽しければよかったんだ。
「アクセルは、頭がいいもんね。きっと、深い考えがあってのことだろうから、アクセルが決めた事に私は口だす気はないけれど」
でも、裏切って欲しくないな、とアクセルの問いに、ナマエは笑って答える。何故、とアクセルが問うた。
「だって、裏切ったら、一緒に居られなくなるじゃない。アクセルには、ずっと一緒に居て欲しいよ。アクセルがいた方が、断然楽しいもの」
アクセルは目を細めた。
「……ラクシーヌより?」
「ラクシーヌより」
「マールーシャより?」
「マールーシャより」
アクセルが目を伏せた。と、ゆるりと風が動いて、ナマエは腕に抱かれていた。
「……アクセル?」
「すまねぇ」
――何が?
それが一体何に対しての謝罪なのか問おうとしたナマエは、しかし相手の暗い瞳に戸惑い、口を閉ざしてしまった。
アクセルは、思う。
この嘘は、ナマエにとっては、決して良いものではないのかもしれない。
だが、俺は、ナマエ、お前を――……。
彼が飲み込んだ言葉は、誰にも届く事はなった。
――ラクシーヌが消えた。勇者の手によって。
アクセルが直接手を下さなくとも、その背を少し押してやる事で、マールーシャたちは自ら破滅の道を招いたのだ。
「ナマエ」
「どうして、どうして――? アクセル、ラクシーヌが。勇者が、どうして」
ナマエにとっては、しかしこの事態は甚だ訳がわからない。消されたラクシーヌ、味方だと聞かされていたはずの勇者は、何故か今マールーシャと戦っていた。
「アクセル、助けてよ! マールーシャが、消されちゃう!」
一人冷やかな表情で静観していたアクセルに、ナマエは取りすがった。――が。
「無駄だ。あいつはどうせ消える」
一刀両断。冷酷なアクセルに、ナマエはうろたえた。
「ナマエ、機関の裏切り者は、消されるんだ」
「裏切り、なんて、でもマールーシャはそんなこと」
「裏切り行為なんだよ、あいつらのした事は。そして俺は、裏切り者を始末すべく、ここにいる」
「そんな……」
ナマエはしばし言葉を失った。そして、アクセルが、ナマエを消そうとして、ここに居るのだということに思い至る。
――消される、アクセルに。
だが、それは杞憂であった。
「ナマエ、来い。お前はあいつらの計画を何も知らされていない、リーダーも見逃してくれるだろう」
差し伸べられた手は、まさしく救いの手であった。アクセルは、マールーシャたちの仲間であるにもかかわらず、ナマエを見逃してくれようというのだ。
――だが。
「……」
「ナマエ」
その手を、取る事は出来なかった。
ためらいとか、そういうものではない。
心無いこの体を満たすのが、空虚であることを、思い出したのだ。
ああ、自分には、何もないのだと。
皆といることが楽しくて、心すら、あるかのように。
そう、勘違いしていたのだ。
その時、城の最上階――ソラとマールーシャが戦っている、その窓が、かっと一瞬光った。
見上げる。その目に、飛び込んできたものは。
ああ、とナマエは悲しげに声を漏らした。
「皆、消えたのね」
ひらひらと、美しく降り注ぐは、――薔薇の花弁。
とうとう、あの人も、散ってしまったか。
「私を置いて、ひどいよ」
ナマエは、花弁をぎゅっと握り潰した。
主を失った庭園というのは、何故こんなにも物悲しそうなのだろう。
風が、容赦なく花弁を攫っていく。ナマエは、その様をじっと見続ける。
「そうやっていても、帰ってこないぞ、あいつらは」
空に浮かぶ花弁。ナマエはそっと手を差し出した。
「消滅したんだ」
花弁は、掌に落ちる前に、風が奪っていった。
何もつかめなかった掌、ぎゅっと握り締めて。
「ねぇアクセル、裏切り者は、彼らの方だったんだよね。だから、消えた――」
そして、大切そうに胸へあてがう。
「でもね、あの時は、幸せだって感じたんだ」
一瞬、黙祷し。
「心がなくても、それでも良かったんだ」
振り返り、アクセルを静かに見つめ。
「ラクシーヌと、マールーシャと、――アクセルが居れば、それでよかったんだ」
「……」
「そういうのって、失って、初めて気づくんだね」
そして、微笑んだ。――悲しそうに。
「……責めないんだな、俺を」
アクセルの言葉に、心がないから、とナマエは自嘲する。
「だって、実際、感じないんだもん。悲しいとか、悔しいとか……」
アクセルが、マールーシャたちを裏切って。
「憎いとか」
ぴくり、とアクセルはその言葉に反応した。
浅はかな夢を見ていたのは、ナマエの方だ。それを、彼が目を覚めさせてくれたのだ。
だけどね、とナマエは続ける。
「ここに見えない穴があって、それが大きくなった様な気がするんだ」
ここ、と胸を抑える。
「このまま、胸の虚ろに飲み込まれて消えてしまいそう」
失った心の代わりに、ぽっかりとあいた穴。蝕むのは、闇でも光でもなく、虚ろだった。
「……消させねぇよ」
「アクセル?」
「来いよ、ナマエ、俺と一緒に」
不意に告げられた言葉。ナマエは彼を見上げた。
「俺と一緒に居ると、楽しいんだろ? だから……」
いつかの会話を思い出し、ナマエは力なく笑った。
そう、確かに、彼と一緒に居るのは楽しかった。
だけど、今となっては、もう。
「行けない、よ」
ざあぁ、と風が舞う。花弁が舞う。
「……そっか」
じゃあ、な。
何も云わず、アクセルは最後に微笑んだ。
ナマエに背を向けて、一人歩き出す。
ナマエは、その背をぼんやりと見つめ、ぽつりと漏らした。
「……アクセル、あなたも結局、何も教えてくれなかったね」
私は一人、無知なまま。
どこまでも、いつまでも。
知らなければいけない事を知らずにいることは、罪なのだということを、あなたは知っているのだろうか?
「いつまでも目を瞑ったままでは、いられないのよ」
――しかたねえだろ。
だってお前、知れば機関を裏切っただろう。一緒にいたいとかいうくだらない理由で。
どうしようもねぇ甘い奴だからな、お前は。
だから、俺は、お前を……――。
この嘘は、君を守ってくれるだろうか。
この嘘に、君は騙されてくれるだろうか。
願わくは、どうか、目を瞑ったままでいて。