ドキドキする?





 ――忘却の城にて。
 見渡す限りの白に囲まれたある一室に、ソファにのんべんだらりと横になる黒コートがいた。
 片手には砂糖たっぷりのカフェ・オレの入ったマグカップ。そのお茶請けには煎餅という何ともふざけた取り合わせ。
 それを美味しそうに頬張り飲み下す人物は、機関メンバーの一人、ナマエ。なにやら薄っぺらい本を、それこそ鼻をつっこむようにして夢中で読みふけっている最中であった。その本の正体は、近頃トワイライトタウンで流行っているらしいハー●ク●ン小説だった。
「ふむふむ」
 ぽりぽり、と行儀悪く煎餅を貪りながら、ナマエは小説を読み進める。物語は終盤に突入し、いよいよ最大の濡れ……、見せ場に差し掛かろうとした、その時。
「なるほどなるほど」
 パタリ、と何故か満足したように、ナマエはその本を閉じてしまう。もう用済み、とばかりに本を放った。



 ――心があるってやっぱりうらやましいなぁ。
 つい先程まで読んでいた物語を思い出し、ナマエは嘆息した。運命に翻弄されながらも、愛し合う男と女。互いに愛し合っている筈なのに、行き違う二人。ついには泥沼化する関係。
 愛するとか、愛されるとか、よく分からないけれど、きっと心があったらこんな感じなのね、とナマエは今日も元気に(完全に間違った方向に)心の勉強をしていた。
「うーん、やっぱり私も早く心を取り戻したい」
 そしたら、私もこんな恋愛ができるのに! と、いつか来る日を想像して、ナマエはうっとりとした。……彼女の妄想は、もはや誰にも治せないところまでいってしまったらしい。

 しかし、今日は良い収穫があった。
 あの小説によると、人は抱き合うことによって安心感を得るらしい。安心感がどんなものだか分らないナマエは、それを知りたくてたまらない。
 ――うん、早速、誰かで実験してみよう。
 うずうずしながら誰かを探すべくソファから立ち上がろうとすると、丁度良く談話室の扉が開いて誰かが入ってきた。ナマエの瞳がきらりんと光る。
 実験体、発見。
「デミックス」
 ナマエは、これから憐れな被害者となるであろう名を呼んだ。
「あ、ナマエ。久しぶり~、逢いたかったよーん」
 ナンバー9、デミックス。薄茶の髪の持ち主は、シタールを武器として戦い、その性質はまるで子供のようであった。無邪気に走り寄ってくる姿は、子犬を連想させる。
「久しぶり~って、昨日も会ったじゃない」
 冷たいこと言わないでよ~、と、口を尖らせたデミックスは、テーブルにカフェオレと煎餅のセットを見つけ、うへぇっといった顔になる。
「ていうかナマエ、またカフェオレと煎餅一緒に食ってるし~。変だよ絶対それ」
「煩いなぁ、人の趣向にけちつけないでよ」
「俺はカフェオレも煎餅も好きだけど、流石に同時には愛せないね」
 その言葉に、ふふん、とナマエは腕を組んだ。
「心の狭い男だね。私なら、カフェオレも煎餅も同時に愛してみせられるさ」
 多少、芝居がかった口調でそう云うと、デミックスは「変なナマエ」と肩を竦めた。
「なにぃっ誰が変だと……? というかそうじゃなくて、デミックス」
 思わず拳を振り上げようとしたが、ナマエははたと我に返って当初の目的を思い出した。
「なに?」
「いきなりなんだけど協力してほしいことがあるの」
 協力、の言葉に、デミックスは目を輝かせた。尻尾があれば、きっと引きちぎれんばかりに振られているに違いない。
「なになに? 俺で力になれることがあれば、何でも云ってよ」
 おし、とナマエは内心で拳を握った。
 ――実験体、無事ゲット。
 内心のニヤケは綺麗サッパリ隠して、ナマエは実に爽やかに笑った。
「じゃあ早速、ちょっとそこに立ってくれる?」
「え、なに?」
「いいからいいから」
「いいけど、何するの?」
 好奇心が隠し切れないデミックスに、ナマエはふふんと得意げな笑みを見せる。
「うむ、ちょっとした実験だよデミックス君」
「じゃ、俺、ナマエに実験されちゃうの? ドキドキだな~」
(こいつ馬鹿だ)
 思ったことは口に出さず、ナマエは指示を出す。
「あ、場所はそこでいいよ。それで、両手を広げて」
「こう?」
 ナマエが内心高笑いしているのにも気付かず、デミックスはちょっと間抜けな恰好で立ち尽くしていた。
「そうそう、――さあ、実験開始!」
 高らかに告げた次の瞬間、ふわ、とナマエの髪が揺れた。


「――え? って、おい、おま、お前っ!」
 ナマエは、デミックスに真正面から突撃……、もとい、抱きついた。
 デミックスは、当然ながら予期せぬ出来事に慌てふためく。
「煩いなちょっとその口縫い付けておいて」
(縫い付けるって……)
 内心その台詞につっこみながら、それでもデミックスの動揺は収まらない。ぎゅうっと抱きついてくるナマエに、嫌な汗が浮かんだ。
「な、な、何やってんだよぉぉっ」
「実験だってば」
「だ、な、何の実験だよっ!」
「人間ってね、こういう風に心臓と心臓をくっ付けるように抱き合うと、すごく安心するんだって」
 なんだけど、うーんよく分からないなぁと首をかしげるナマエ。やはり、心がないと駄目みたいだった。なにも、感じない。
 しかし、デミックスにとっては、安心くそくらえだ。今も別のところのスイッチが入らないよう、一生懸命だった。離れろよぉ、と必死になるも、相手はしつこかった。
「で、でも何で俺なんだよ~。女の子同士、ラクシーヌとやりゃいいじゃん」
「だって、ラクシーだと、抱きつく前に、踏んづけられそうだもん」
 悪意もなにもない瞳で見上げてくるナマエに、デミックスは、ええいチクショウこんにゃろう、と罵倒した、――内心で。(なんだか、だんだん心がある様な気がしてきた)
「なんだよ~、俺だって一応、おとこのこ! なの!」
「えー、そう?」
「えー、じゃないっ! そうなのっ!」
「でも、デミックスってば、ラクシーよりも人畜無害っぽい」
「じっ……!」
 じんちくむがい。
 がくり。デミックスは、今の一言で完全に燃え尽きた。ナマエに、完全に男として見られてない。デミックスは今、限りなく消え去りたい息分だった。
 ううう、抵抗する気力もなくしたデミックスが、ナマエの腕の中でさめざめと泣くふりをする。ナマエは、なんだか自分が悪者になったような気がして、口を尖らせた。
「そんなに嫌なら、逃げればいいじゃん。デミックスなら楽勝でしょう」
「う……っ! そ、それは、この状況もちょっと美味しいかなとか思っちゃたりもしたりとか」
 痛いところを突かれ、デミックスはしどろもどろになる。

「――っていうか、ここ談話室だし、誰か来たらどう……」
 がちゃり。
「あ」
「あ?」
 まさしくバッドタイミング。現れた訪問者と目が合って、三者三様硬直する。
 はてさて、流れた時間は数分か、それとも数秒か。
「……わるいっ」
 バッタン、ゴト、ガタガタン!
 なんだか余計な音が混ざっている気がしないでもないが、ともかくその憐れな訪問者は、ぽっと赤くなったと思ったら、今度はばっと青くなって、凄まじい勢いで扉を閉めたのだった。
「……なんか、凄い誤解をされた様な気がする」
 その一部始終を固まったまま見ていたナマエは、茫然と呟いた。あたり前だ、とデミックスは、内心つっこむ。
「だろうねー。ロクサスかわいそー」
 なにが? と、ナマエが視線だけで問うと、なんでもなーい、とへらっと笑った。
ナマエ?」
 束縛が緩んだ。デミックスが訝しげにナマエを覗く。
「私ちょっとロクサスんとこ行ってくる!」
 ナマエはそう言って、駆け出そうとした、が。
「だーめ!」
「わ、ちょっとデミックス!?」
 がしり、と急に後ろから抱きしめ……いやこれは羽交い絞めか、にされ、ナマエは大いに動揺した。
「なにしてるのよ!」
「お返し」
 へへーと笑う声が、頭の上から降ってきた。
「こ、これは抱きしめているんじゃなくて、羽交い絞めって言うのよ!」
「あ、ごめん」
 その一言と共に、一瞬束縛が緩んだ。やった逃げられる! と思ったナマエは、しかしその考えが甘かった事を思い知った。
「う、わ」
 ぎゅう、と今度は向き合うように、広い胸に抱きしめられてしまった。
(あ、わ、わ)
「あー、なんかナマエの云ってた事、分る様な気がする」
 やわらけー体、ちっちぇえなーお前、と堪能するように、デミックスはナマエの首に顔を埋める。
「う、で、デミ……、デミ、ックス」
 ナマエは、極度の混乱に陥っていた。あんな親父的大胆行動を取ったナマエも、所詮は一人の乙女である。するのと、されるのとでは大違いだ。
「安心って、こんな感じなのかなー。なあナマエ
「……」
「おーい、ナマエー?」
 腕の中でぴくりともしないナマエを訝しみ、覗き込んだデミックスは、思わず目を真ん丸くした。
「……う、な、なに?」
 そこには、熟れたリンゴがあった。……いや違う、ナマエの顔だ。
ナマエ、顔真っ赤」
「っ!」
 デミックスは、ナマエの胸元に耳を押し当てる。その拍動といったら、今心不全をおこしたら即ぽっくり逝ってしまうんではないかというくらい、早鐘を打っていた。
「うわっ、すげードキドキいってる。お前、大丈夫か~?」
「う、うう煩いっ」
 照れ隠しのようにナマエはそっぽを向く。その反応に、デミックスはとうとう吹き出して、たまらないといった感じでナマエの体をぎゅうと抱きしめた。
「もー、お前可愛すぎ~っ」
 己の迂闊な行動が仇となって帰ってきてしまったナマエは、もう、穴があったら入りたい心地だった。(あ、これって恥ずかしいっていうんだろうか)
「やーもー、デミックス、離れてよ、離して!」
「やだよ~ん」
「デミックスっ!」
 まだ真っ赤な顔のままナマエが叫ぶと、ふいにデミックスは常とは正反対の空恐ろしい笑みを見せた。
「――だから云ったろ。俺は、男だって」
 いきなり、くん、と体ごと引っ張られて、ナマエは前のめりに倒れこんだ。ソファに倒れ込んだデミックスを、ナマエは見上げる。
「俺を信じてくれるのは嬉しいけど、男はみんな狼! 分ったか?」
 そう念を押すデミックスの瞳は、真剣。男の顔だった。少しの間の後、ナマエは素直に頷いて、くすりと笑った。
「……デミックスは狼というより羊って気がするけど」
「ひ、羊……! ひでえナマエ、俺本気で傷ついたぞ~」
 よよよ、と涙を流すふりをするデミックスに、ナマエはとうとう声をあげて笑った。
 ――ああ、彼の隣はやっぱりいい。
「……あ、そっか」
 ふいに浮かんだ思考に、ナマエは謎が解けたような心地だった。
「どうしたの?」
「なんで、デミックスが安心感、感じられて、私には感じられなかったのが、分った」
「うん。で?」
「私ってば、初めから、安心できる人を選んでたんだよ、きっと」
 なんだそれ、聞き様によってはすごい自惚れて良いような台詞だ。デミックスが、何か言いたそうな顔をしていると、ナマエはにっこりと微笑んだ。
「だから、デミックスといるのが、一番安心するってこと」
(う……、わー)
 その言葉と笑顔は、はんそく、だ――。
 瞬間、デミックスのどこかのスイッチが、オンに切り替わった。
「……ナマエ
「何?」
「……抱いていい?」
「……!」
(あーもーだめだ窒息死するかも)



ドキドキする?




「ってか、なんかあんた性格変わってない!?」
「俺はこっちが素なの」
 まさに羊の皮を被った狼とは、彼のこと。