君に最後の口づけを
「――行って、くるよ」
触れられないと分っていても、ロクサスは目の前の華奢な体を抱きしめた。
「本当の、自分を探しに、さ」
消えるわけではないのだから、いつかは必ず出会えるはずだ。だって、ロクサスだってこうして少女と出会ったのだから。
「そしたら、また、会えるよな」
不確かな言葉を口にし、しかしそれが大切な希望のように噛締め、ロクサスは、少女に微笑む。目が合ったと思ったのは、気のせいだろうか。
「ナマエ」
名を呼んで、少年は、少女に最初で最後の口づけをした。
あるはずの無い感覚があって、柔らかく、あたたかなそれに、思わず泣きそうだった。
「――アンジェラ、待って! そっちは駄目っ!」
その切羽詰った女の子の声に、ロクサスは思わず振り返った。
「うわっ!!」
いきなり眼前に、茶色と白の大きな物体が飛び込んできて、後ろに転倒した。勢い余って叩頭部をしたたかに打つ。
「いってぇ……」
ロクサスはうめいた。
頬に、はふっはふっ、と生暖かい息が掛かった、と思ったら、べろり、と舐められ、大いに鳥肌が立つ。どうやら、先程の物体は、生き物だったらしい、と廻る思考で理解する。
「こらっ、アンジェラ! 早くその人からどきなさいっ」
と、先程の声が、すぐ近くに響く。「バフッ」と犬特有の鳴き声がして、己の上に乗っかっていた体重が消えた。
「だ、大丈夫ですか!?」
その声に応えるように、ロクサスは、ゆっくりと目を開けた。
くらくらと廻る視界の中、己の瞳が最初に映したのは――、
(綺麗な、瞳だなぁ)
心配そうな瞳で覗き込む少女。
「うわっ」
ぼんやりと少女を見ていると、耳元にまた生暖かい息が掛かり、不覚にもべろりとやられた。ロクサスはその正体――茶色と白のシェパード犬に、やめろよ、とその頭を軽く抑える。犬はしかしぱたぱたと尻尾を振り、「バフッ」と嬉しそうに鳴く。
「あなたのことが気に入ったみたいです、この子」
げんなりしていると、少女はくすくすと笑った。
ロクサスは、少しだけ非難の意味もこめて少女を見る。すると、それに気付いたのか、申し訳なさそうに未だ座り込むロクサスへ手を差し伸べた。
「ごめんなさい、本当に。躾がなっていなくて」
「いいよ、別に、気にしてない。――俺、ロクサス。君は?」
ロクサスは、差し伸べられた手を取り、立ち上がった。柔らかな手だった。
少女は笑って、ナマエ、と応えた。
サンセットヒル、そこでロクサスはナマエと出会った。
以来、ロクサスは、アンジェラ――ナマエの愛犬、の散歩をする彼女の姿を見かけては、声をかけ、時には散歩に付き合ったりもした。
ナマエの行動範囲は、もっぱら住宅街で、あまり商店街の方には顔を出さないらしい。いつも一緒にいるような特定の友達もいないので、よく街を駆け回っているロクサスがナマエを知らないのも当然だった。――ナマエはロクサスの方を知っていたみたいだが。狭いようでいて実は広いのか、と改めて己の街に対する見識を見直さなくてはならなかった。
今日も、ロクサスは散歩途中のナマエを見かけ、一緒についていった。アンジェラが飛び回ってロクサスを歓迎すると、ナマエは本当に嬉しそうに笑うのが、気恥ずかしいが嬉しかった。
「本当に、気に入られちゃったね、ロクサス」
ナマエは、隣に立つロクサスの足元にじゃれ付くアンジェラを見て、笑った。
「え、うん、そうだな」
その笑顔に、ロクサスは困ったように視線を逸らす。ナマエの笑顔は苦手だった。いや、苦手というのは語弊がある、真正面から見れる自信がないのだ。
ナマエとロクサスは、住宅街を通って、サンセットヒルへと向かう。いつもの散歩コースだった。
道中、あまり会話らしい会話はない。ナマエは普段からあまり喋らない方のようで、ロクサスもどちらかといえばそちらの部類に入る。だけど、会話はなくともナマエは刻々と変わるサンセットタウンの風景をとても楽しんでいるようだったし、ロクサスもそのナマエの横顔を眺めたり、じゃれ付くアンジェラの相手をしたりで、実際退屈を感じることは無かった。
ナマエは、その歳に比べて少し大人びているのだろう。ハイネ達といるのは楽しかったし居心地はよかったが、それとはまた違う居心地のよさを感じる。それでいて、落ち着かない。何だろうこれは。
「ロクサス」
――と、いきなり左手に熱い物が触れてきて、ロクサスは、飛び上がらんばかりに驚いた。
否、ナマエの手だった。
「あ、な、なに?」
慌てて平静を装うも、ナマエはロクサスの余りの反応にぽかんとして、次いでぷっと吹き出した。
「そんなに驚かなくても」
笑われ、ロクサスが居心地が悪そうにすると、ナマエは慌てて笑いを引っ込めた。
「ごめん、嫌だった?」
そっと、触れていた手が離れていく。ロクサスはほっとし、そして急に残念な気持ちになった。離れていく手を握り返そうかと思ったが、不安そうなナマエと、己を左手を交互に見つめ、「嫌じゃないけど……」と小声で言うのが精一杯だった。
ナマエはその返答に微笑む。今度は、手を触れず、ロクサスの左指を飾る、白と黒の対のリングを眺めた。
「その指輪をね」
「……これ?」
「見せて欲しかったの。変わった指輪だよね」
ロクサスは、ナマエと一緒に己の左手を覗き込む。珍しいのかな、と思いつつ、おもむろに指から引き抜こうとした。ナマエに見せるためだ。だが。
「あ、いいよ取らなくて」
――の、一声に、ロクサスはぴたりと動作を止めた。
そんな彼の所作を気にも留めず、ロクサスの手って、とナマエは続ける。
「男の子の手だよね……」
ナマエは、ロクサスの手を眺めながら、と呟いた。
ロクサスは、ナマエの視線に、顔が赤くなるのを感じた。
困った。こんな時は、どう返せばいいのか分らない。分らないけれども、何かを返したい。ロクサスは、その一心で、固まってしまった腕を伸ばした。その手がナマエの手を握った時、ロクサスは緊張で喉がカラカラに乾いたのを感じた。当然、ナマエが顔を赤くしたのに、気付かない。
「ナマエは――」
ひくつく喉を何とか潤し、掠れた声で云う。
ナマエの手は、柔らかくって、華奢で、あたたかくて、何もかもが自分と正反対。
「女の子の、手だな」
辛うじてそれだけ云うと、ナマエは、そうかな、と云って、照れたように笑う。
ふいに、ナマエが瞳を伏せた。何か考え込んでいるようだった。
「ナマエ?」
「わたし」
声が重なる。ロクサスは口を閉じた。
「私、ロクサスの……」
「……俺の?」
ナマエは顔をあげる。ロクサスと目があった。驚くほど真摯な表情は、
「……ロクサスの、手、好きだな」
――しかし誤魔化すような笑顔に、慌てて掻き消された。
ロクサスは、ありがとう、と小さく礼を云った。
――長かった筈の夏休みも終盤に差し掛かった。こうして見れば、あっという間な休みだった。
しかし、この頃は変なことばかり起こる。しかもロクサスの身の回りばかりで、だ。変な少年の夢は見るわ、言葉は盗まれるわ、白い奴は現れるわ、海も行き損ねてしまうわ。オマケに、今日は、大の親友であるハイネの約束をすっぽかし、喧嘩してしまった。……明日、大会があるというのに。
あと数日で、休みは終る。あと一ヶ月くらいは、遊んで暮らしたいなぁ、などと、いつもの場所でオレットお気に入りのグリーンのソファに寝転がりながら、ぼんやり思う。ふああ、とあくびが出た。皆、帰ったあとだったから、ここには今ロクサス独りしかいない。
「……おっきいあくび」
「え? ……ってナマエ!?」
突然、頭上から降ってくるはずの無い声が聞こえ、ロクサスは跳ね起きた。
そこには、幻でもないナマエの姿がある。アンジェラは、……今日は居なかった。
「どうしてここに?」
「お使いで商店街に来たの。それで、ここの近くを通ったから、居るかなって」
突然のナマエの登場にドキドキしながら、ロクサスは曖昧に頷いた。
「他の人は、帰っちゃったんだね」
お使い帰り、その言葉の通り、ナマエの腕には大きな茶色の紙袋があった。美味しそうなパンが、紙袋から覗いている。
「隣、座っていい?」
「あ、うん」
ロクサスは、慌てて隣にスペースを作る。抱えていた荷物を置き、その空間にナマエは腰をゆっくりと降ろした。
途端、しまった、と思った。オレットお気に入りのこのソファは、いわゆるラブソファのようで、二人座ると、その間隔はどこまでも狭かった。互いの腕と腕は触れ合ってはいないが、だが動けばくっつきそうなくらいに近い。自然、顔が赤くなるのを、必死で堪える。
「……だね」
え、なに? と、腕がくっつかないように全意識を集中させるロクサスは話半分も聞いておらず、思わず聞き返して後悔した。話を聞いていないなど、呆れられるのではないかと思ったが、ナマエはあまり気にしていないようで、「ストラグルの大会だよ。いよいよ明日だねって」と繰り返した。
ストラグル、ロクサスにとっては、今日の出来事もあってか、あまり考えたくは無い事だった。
「ロクサスも出るんだよね? 頑張ってね、応援するから」
「え? ナマエも、来るの?」
ナマエは、もちろん、と、当然のように笑う。
「あんまり、来てほしくないなぁ」
「どうしてよ」
ロクサスの言葉に、不貞腐れたように頬を膨らますナマエに、だって、と照れくさそうに笑った。
「負けたら恥ずかしいだろ」
ナマエの前でさ。
ナマエは、何故か驚いたように瞠目した。そして、視線を外し、小声で「だから応援しに行くんじゃない」と呟いた。頬が、仄かに赤い様な気がする。
「……。うん」
「……? なに?」
「いや、頑張らないとな、って思って」
ナマエが応援してくれるんだったら。声には出さず、心の中で、呟く。
「そうだよ、きっと、ロクサスなら優勝できるよ」
ロクサスは、微笑んだ。
私、そろそろ帰るね、と言い、ナマエは立ち上がった。スプリングが弾み、ロクサスの体が揺れた。
今まで感じていた温もりが消えて、傍らが寂しくなった。寂しいと感じた途端、その言葉は口をついて飛び出る。
「……送っていくよ」
え? とナマエはロクサスを見た。
「大丈夫だよ、一人で帰れる」
慌てて断わるも、頑なに、送っていく、とロクサスは言い張る。持ち上げようとした荷物も、先にとられてしまった。
「あっ! 自分で持つから、……ロクサス、いいってば!」
一人で行ってしまうロクサスを、ナマエは慌てて追いかけた。
「ロクサス!」
駅までの坂を登りながら、ようやっとロクサスに追いつく。ナマエは声をかけようとして、しかし思いとどまったように口を閉じた。
先程の雰囲気とは一変し、ロクサスの横顔は、何故か思い詰めているようだった。怒っているのかな、とも思ったが、ちょっと違う。ナマエは掛ける言葉に迷い、そしてようやく声をかけられたのが、列車の中でだった。
「大、丈夫?」
ややあって、こくり、とロクサスが頷いた。だが、こちらを見ようとしない。
かたん、かたん、と線路を走る音がしている。車内には、ロクサスとナマエの二人しかいなかった。
――静かだった。
「なあ、ナマエ」
気まずさにナマエが下を向いた時、ロクサスはようやく口を開いた。
「……なに?」
「もし、大切なヤツとのさ、大事な約束を破ってしまったら、ナマエはどうする」
少し、間が合った。
「謝る」
……。もう少し、間があった。
「……それだけ?」
「だって、それ以外どうしようもないもん」
ナマエは、己の稚拙な回答にロクサスが呆れていると思い、子供のように口を尖らせた。
「謝って謝って、それでも許してくれなかったら、仕方ないかって諦めるけど」
ナマエはロクサスの目を見ながら、続ける。
「謝ってみたら、相手は大して気にしてない、って時もあるよ」
「……」
ロクサスは、暫し後、相好を崩した。微笑みが零れ、それまでの重い雰囲気が消える。
「そうだな。ありがとう」
お礼なんて、とナマエ。ロクサスは、むしろお礼を受けて当然だと思った。だって、大いに勇気をもらえたのだから。
「あんな答えでよかったの?」
「うん。というか、ただ、聞いてもらいたかっただけかな」
そっか、と短い返答。ロクサスは、そのナマエの横顔を見詰める。
ややあって、その唇が、何かを決意したように、引き締められた。
気がつけば、列車は目的地に到着していた。ガタン、と一層大きく揺れ、列車が止まる。暫らくして、扉が開いた。
「ナマエ、あのさ」
ロクサスは、外へと向かうナマエのあとを歩きながら、告げる。
「うん?」
「明日、もし、ストラグルで優勝したら」
ナマエが振り返った。夕陽に照らされて、長い睫が淡く光る。
……綺麗だった。
「デートしようよ」
一拍遅れて、ナマエの顔が赤く染まった。
今度は、可愛かった。とても。
そして、大会の次の日。
サンセットステーションで一日ぶりに会ったその人――ナマエは、開口一番「優勝おめでとう」と云って微笑んだ。
出会ったのは偶々で、それゆえ、ロクサスはこの偶然を喜んだ。この一日で目まぐるしく様々な事が起こり、意気もすっかり消沈していたが、それでもナマエの顔をみるだけで元気が戻ってくるような気さえした。
大会でのビビのおかしな様子、時計台からの落下、七不思議、自分だけにしか見えない幽霊列車、変な赤毛の男、――どこから何処までが夢なのか、はっきりとした境界すらあやふやだったが、それでもはっきり言えることが一つ。
ナマエは、夢じゃない。そこに、居る。
ナマエがいるからこそ、ロクサスはロクサスでいられる。
「ね、ロクサス、これから、暇?」
感傷に浸る間もなく、ナマエはロクサスの腕を取る。ロクサスは、少し驚いたが、直ぐに頷いた。だが、直ぐにナマエの言葉に、息を呑むことになる。
「じゃあ、デートしようよ」
ロクサスが目を真ん丸くしているのを可笑しいとばかりに、ナマエはくすりと笑った。
「約束、したでしょ?」
まさしく、理想的なデートだな、とロクサスは頭の隅で考える。ナマエに手を取られた後、ロクサスは何故かトワイライトタウンのトラム広場に来ていた。それは他でもないナマエに連れられてきたからであり、デートと称して色々な店をひやかしていった。途中、大道芸をしている少女が居て、ロクサスが飛び入り参加、観客を大いに沸き立たせた、という事もあった。
そして、最後を締め括るのは、やはりサンセットヒルだった。
「ここからの景色は、いつも綺麗ね」
坂を登りきり、現れた幽玄の景色に、ナマエは感嘆の声をあげて柵へと走り寄った。後ろで見ていたロクサスは、そのまま、ナマエの体が柵を飛び越え海にまで落ちていきはしないかと、ハラハラする。
「ナマエ、座らないか? さすがに少し、疲れただろ?」
心配の余り、思わず掛けてしまった声。ナマエはロクサスを振り返り、しかし嬉しそうに頷いた。
隣に座り、美しい夕陽を眺める。
しかし、その表情もそわそわと落ち着きない。やがて、その瞳はある一点でぴたりと止まる事となる。
「……どうしたの?」
「あ、ううん、なんでもない」
ナマエは誤魔化したが、ロクサスは気付いていた。ナマエは、あの日のようにロクサスの左指を飾るリングを見詰めていたのだ。正確には、ナマエはロクサスの”手”を見詰めていたのだが、手を握りたいなだとか言うナマエの恋する乙女的思考回路にはちっとも気がつきはしない。
一体このリングの何処がそんなにナマエのお気に召したのか、我が物ながら羨ましくなると思わず出そうになった溜息をロクサスは堪え、気に入ったのなら貸してあげようか、と笑みを浮かべながら云おうとした。
だが、咄嗟に口をついて出てきた言葉は。
「――そんなに気に入ったんなら、あげるよ、ナマエに」
(え?)
そう口をついて出てしまった台詞に、ロクサスは柄にもなく焦った。云われた相手は、え? とロクサスの方を見て、きょとんとしている。呆気に取られたのはこちらも同じだ、一体なにを言うんだこの口は、と一瞬頭を抱えたかったが、しかし云ってしまっては後の祭り、案外そちらの方が本音だったのではと思い返し、そして男に二言はない、が密かに信条であったロクサスは、
「ま、待って、私、そんなつもりで見てたんじゃ――。ロクサスっ」
要らないと云われる前に、素早く左手の中指から、白いリングを抜いた。彼女の指にリングを嵌めてやる、なんて度胸は無かったから、ロクサスはそれをナマエの掌に落とした。黒い方を選ばなかったのは、なんとなく、白い方がナマエに似合っている、と思ったからだ。
ナマエは、暫らく呆気に取られていたが、困った顔はしなかった。むしろ嬉しそうに渡されたリングを眺め、どの指に嵌めようか逡巡し、左手の薬指に嵌めかけ、しかし結局ロクサスの方をちらと見て、同じ中指に嵌めてみた。
リングは、――ぶかぶかだった。
ナマエとロクサスは顔を見合わせて、笑った。
「お揃いだね、ロクサス」
ナマエは、照れたように笑う。うん、とロクサスは頷いた。
……つもりだったが、どうやら本当につもりだったらしい。ナマエが首をかしげて此方を伺っていた。どうやら自分は心ここに在らず、といった様子に映っていたようだ。
実際そうだったのかもしれない。だって、ナマエの笑顔が夕陽に映えてとっても綺麗だったから。
今、ロクサスとナマエは、サンセットヒルからの絶景を、贅沢にも二人占めにしていた。木の造りのベンチに二人並んで座る、――まさしくそれは理想のデート。
「ロクサス、あのね……」
なに? とロクサスは薄く笑む。
「ありがとう、とっても嬉しい」
本当に嬉しそうに笑うナマエに、どういたしまして、と応えようとした。
「っ!」
だが、ふいに襲う眩暈と頭痛。この頃やたらと覚えのある感覚に、ロクサスは頭を抑えた。
『忘れないでね、……って――』
『……かならず――』
脳裏に流れる映像、夢が現実を凌駕しようとした、その時。
「――ロクサス!?」
キン、と明瞭な声が、映像にヒビを入れる。
「ロクサス!」
はっと息を吸った。頭を振る。
目の前に、心配そうな、ナマエの瞳があった。
「ナマエ」
一番最初に、綺麗だ、と思った瞳。
「ロクサス? どうしたの、大丈夫?」
「……大丈夫。平気、……慣れてきたから」
「え? 慣れてきた、って……」
ロクサスの少し青い顔と呟かれた言葉に、ナマエは戸惑った。
「この頃、妙なことが続いていてさ」
ロクサスは、太股の上に放り出された自分の両手に、視線を落とした。
「なんか、俺……」
――俺って誰なんだろう?
それは、この数日で抱き始めた疑問、しかし決して口に出せない恐ろしい疑問。今まで信じていたものを、根底から覆してしまうような、気がしたからだ。
「……ナマエは、もし、自分が自分でなかったとしたら、どうする?」
「え?」
突飛な質問に、ナマエは困ったように眉を顰めた。
「分らないよ」
「そっか」
そうだよな、と寂しげに呟くロクサスに、ナマエは何故か胸が痛くなって、でも、と続け、慎重に慎重に、言葉を選んだ。
「でも、そうだなぁ。そうだとしたら、本当の自分を探す、かな」
「本当の、自分……」
ロクサスは、少し考え込んでいるようだった。
どうしてそんな事を聞くのだろう、とナマエはじれったく思う。ロクサスは、ロクサスなのに。
「……もう、帰ろうか」
ロクサスは、唐突に立ち上がった。
「今日は、付き合ってくれてありがとう」
にっこり笑ってみせると、ナマエは戸惑いながらも頷いた。
住宅街への、短い下り坂を、二人無言で歩く。二人分の長い影が、道に伸びていた。
「ロクサス」
別れ際、ナマエはロクサスを呼び止めた。
「また、明日ね」
まるで念を押すように云うナマエに、ロクサスは笑みを零した。
「うん」
また、明日。明日、会おう。
口の中で呟いて、ロクサスは急に不安に襲われた。
――本当に、
――本当に、明日なんて来るのか?
「ナマエ!」
ロクサスは咄嗟に、小さくなっていくナマエの背中へと駆け出した。
「え?」
突然大きな声で呼ばれたかと思うと、振り返ったら必死な表情で此方に駆け寄ってくるロクサスに、ナマエは仰天した。
「なに、どうし――」
目の前に迫る、青い瞳。両腕を掴れた。かああ、と意識せずとも上がる体温。きっと、顔なんて、真っ赤になっているにちがいない。
なんだろう、これ。この展開は、ああもしかしてもしかして。
目の前の、ロクサスの真剣な表情に、ナマエは極度の緊張を覚えながら、彼の言葉を待った。
「ロクサス?」
だが、幾ら待てどもロクサスは何も云おうとしない。
名を呼ばれて初めて気付いたようにはっとして、何かを云おうと唇を動かし、だが戸惑ったように閉じ、また開き、を繰り返し。
「……何でもない」
終いには、何故か暗い表情で視線をそらされてしまった。
「へ……? あ、そ、そう」
ナマエは、なんだか肩透かしを食らった気分だった。
引き止めて、ごめん、と一言謝って、ロクサスは背を向けて駆けていってしまった。
「謝らなくても、いいのに……」
ナマエは、ぽつりと呟く。
おもむろに、左手を翳す。ロクサスから貰った白のリングが、夕陽に染まっていた。
そっと、キスを落とした。
夢が、現実を凌駕する時、一体自分はどうなってしまうんだろ。
抱いていた疑問が、現実のものとなりつつある。
この頃続く、ソラという少年の夢。今日は、一層明瞭だった。どこか、懐かしささえ感じてくる。
「もー、眠れなくて参ったよ」
ロクサスは、皆が居るいつもの場所に行った。3人はもう既に揃っていて、楽しそうに談笑している。
「なあ……」
混ざろうと、近寄り、ハイネの肩に手を置いた。
……つもりだった。
(通り抜けた!?)
触れられない。いや、それどころか、皆には、ロクサスが見えてない。
「嘘だろ……?」
一人取り残されたロクサスは、茫然と立ち尽くした。
嘘だ、うそだうそだ。夢だ、いや、どっちが夢?
それは、恐怖だった。己の信じていたものが、覆る瞬間。
思わず3人を追いかける。
「ロクサス」
現れた黒いコート。アクセル――かつて、親友、だったらしい男。
敵なのか、味方なのか。もう、何を信じればいいのか分らなくなった。
『時は満ちた――』
突然、重々しい言葉と共に、全ての時が止まる。戸惑った、が、時間がない。ロクサスは、襲い掛かる白い敵を一心不乱になぎ倒し、声が導く方向へと走った。
目の前に現れる廃墟と化した屋敷。ロクサスは、睨みあげた。
その手には、光輝く、鍵――キーブレード。
鍵、それは真実への――。
――全ての始まりを告げるために、さあ、終焉を。
かつて夢に見た、白い部屋があった。いや、今ではアレが夢なのかどうかさえ分らない。ナミネという子が居る部屋だ。
ナミネは、ロクサスが「存在してはならない」と云った。信じなかった、いや、信じたくなかった。だって自分は、こうして生きているのだから。
だが――。
「ノーバディって、なんだよ……!?」
目の前のやり取りに、ロクサスは混乱していた。
「消えるんじゃない、元に戻るんだよ!」
ナミネは、必死に叫ぶ。
「消える?」
消えるって何だ? 俺、消えるのか?
茫然としたロクサスは、ナミネが連れ去られようとしても、何も出来なかった。
「なんで……」
静寂が戻った部屋に散らばる、ナミネが描いただろうと思われる絵を、茫然と眺めていく。
ソラが居た。ドナルド、グーフィ。リク、カイリ。……アクセルと、黒いコートを着た自分。
「なんで俺なんだよ……」
これが本当の自分だと言うのか。
だったら、この自分は?
ハイネ、ピンツ、オレットといつも一緒につるんでいた自分は?
ナマエが、好きな自分は?
「ナマエ……!」
まるで助けを請うように名を呼んだ時、
「……――ジェラ、アンジェラ!? 待って、待ちなさいっ!」
信じられない声が、聞こえた様な気がする。
「――っ!」
ロクサスは、部屋から飛び出した。
飛び出し、階下に信じられないものを見た。瞠目する間もなく、階段を文字通り飛び降りた。
扉が開けっ放しになったエントランスに、ナマエがいた。
「ナマエっ!」
駆け寄る。
だが。
「アンジェラ、駄目じゃない、勝手に入っちゃ」
ナマエの瞳がロクサスを映す事はなかった。ホールの中央にあったテーブルの周りをぐるぐる廻るアンジェラの元へと歩み寄る。
「ナマエ、……っ」
ナマエの体が、ロクサスの体をふわりと突き抜ける。
「あ……」
ロクサスは、絶望した。
持っていたキーブレードが手を離れ、カチャリと地に落ちた。
もう、だめだ。自分は、このまま忘れ去られて消えるしかないんだろうか。
キーブレードを、拾う気力さえない。
「アンジェラ、どうしたの?」
だが、ナマエの声だけは鮮明だった。その声に、無意識に顔をあげると、こちらを不思議そうに見上げてくるアンジェラと目が合った。
おかしいな、誰にも、見えてないはずなのに。
ロクサスのその心の声が聞こえたかのように、アンジェラは「くぅん」と鳴いて、いつぞやのように足にじゃれついてこようとした。ロクサスは息を呑む。
「……そこに、誰か居るの?」
じゃれようとしても出来ないことに不思議がるアンジェラの頭を撫でると、愛犬の所作を見ていたナマエは、おずおずと、怯えたように虚空に声をかけた。
「……ナマエ」
顔をあげると、ナマエと目が合った。
違う――、合っていない。
自分は、見えていないのだ。存在してはいけない者なのだ。
このまま、消える運命に――。
「いやだ……」
ふいに、ナマエを見ていると、熱いものがこみ上げてきた。
嫌だ。いやだいやだ!!
消えたくない、失いたくない!!ハイネ、ピンツ、オレット。
俺のトワイライトタウン、俺の夏休み。俺の大切な思い出。記憶。
俺の、俺の――。
「やっぱり、いない、わよね」
暫らく、探るように虚空を見詰めていたナマエは、諦めたようにアンジェラの手綱を取った。
「誰か、いるような気がしたんだけど」
帰ろうアンジェラ、と云い、ナマエはロクサスに背を向けた。
――その瞬間、何かがロクサスの中で弾けた。
「ナマエ! 待ってくれよ!」
ロクサスは、エントランスへと向かうナマエの前に慌てて回りこんだ。
(いつもなら、すぐに振り向いて、笑顔を見せてくれるのに)
「ナマエ! 俺、俺、まだナマエに伝えてない事があるんだ」
肩を掴んで押し止めようとする。だが、掴めない。
(俺が触れると、いつも君は照れたように笑うくせに)
「すごく大切なことなんだ、聞いてくれ」
必死なロクサスに対して、ナマエの表情は変わらない。
「今まで云えなかったけど」
ロクサスは、悔しくなって唇を噛んだ。
「ナマエ。俺、お前のことが」
そうだ、まだ、こんなに大切な事を伝えてない。
「お前のことが、好きなんだ!」
半ば叫ぶように、云った。
ナマエには、――けれど届かない。
「……なあナマエ」
声が震えた。
(君の笑顔が好きなんだ。その綺麗な瞳も大好きだ。だからどうか、どうか)
「こっちむけよ、なぁ。気付いてくれよ、なあ!」
(どうか、俺を、見て。俺を呼んで)
――ナマエ。
いくら呼べども一向に振り向いてくれないナマエに、ロクサスはとうとう悲嘆に暮れて立ち止まった。
俯いた。
だから、ナマエがそこに立ち止まっていた事にも、気がつかなかった。
「あれ? 何で……」
その声に誘われるように、ロクサスはのろのろと顔をあげた。
息を呑む。
「何で、涙なんか……」
ナマエは、その瞳からとめどなく零れ落ちる涙を、不思議そうに拭っていた。
――左手の指には、いつかのリングがあった。
嵌っている指は、くすりゆび。
「変なの」
ナマエは、心配そうに主を見上げてくるアンジェラに、大丈夫だよ、と微笑んだ。でも、とその表情は、少し悲しそうに歪んだ。
「でも、なんか、切ない」
俯いて、瞳を伏せる。ナマエは、白のリングが嵌る手を、大切そうに握り締めた。
「ナマエ……」
その光景を言葉もなく見詰めていたロクサスは、名をそっと口にした。脳裏に、ナマエとの思い出が走馬灯のように駆け巡る。
「ナマエ、俺」
……なぜ、そう思ったのか分らない。でも、なんだか、――ここに、帰ってこられる様な気がした。
みんなの、ナマエのいるこの街へ。
「――行って、くるよ」
触れられないと分っていても、ロクサスは目の前の華奢な体を抱きしめた。腕の中に確かな感覚は、ない。
ナマエは、見えない筈のロクサスに抱きしめられているのがわかるように、目を伏せてじっとしている。その涙を拭えないのが、すこし悔しい。
「本当の、自分を探しに、さ」
『――元に戻るんだよ』
消えるわけではない、元に戻るのだとナミネは云った。
果てしなく続く絶望の中で、その言葉はまるで一粒の希望のようにロクサスに光を与えた。
ロクサスはソラの半分。
記憶は忘れるかもしれないけれど、心はちゃんと覚えている筈だ。
心は繋がっているはずだ。
「そしたら、また、会えるよな」
微笑んで、ロクサスは、愛しい少女に最初で最後のキスをした。
「ナマエ」
悲しい別れをする度に、出会わなければ良かったと、いつも思っていた。
だけど、今は、こう思う。
――君に、出会えて、よかった。
飛び切りの笑顔を送って、少年は、いばらの道を進んだ。
――全ての始まりを告げるために。
それは仄かにあたたかく、いつまでも尾を引いた