それが何という感情であるのかさえ分らずに
――怒らせてしまった。
その理由すらもわからなかったが、ともかく彼を怒らせてしまったという事実だけが、ナマエにとって全てだった。
一体どうしてこうなってしまったんだろう。
ナマエは、俯いた先に映る己のつま先をぼんやり見詰めながら、溜息をつきたい心地で一杯だった。実際溜息をつけば彼の機嫌をさらに損ねてしまうだろうから、そこはぐっと我慢する。
「ナマエ」
どこか押し殺されたような冷やかな声が、己の名前を呼ぶ。美声だったが、否、美声だからこそ、その迫力はいや増し、ナマエを益々圧迫した。
「私の云いたいことが分るか?」
わからない。全然、これっぽっちも。
ナマエは、内心のみでそう答えながら、ちらと声の主を伺う。心無き者が集う機関の象徴ともいえるような黒のコートに、さらりと薄紅の薔薇のような色彩の髪が数束、流れ落ちる。
そう、彼――マールーシャもまた、機関の人間であった。
「わからないようだな」
はぁ、とこれ見よがし、大きな溜息を付く。それが何より、彼の落胆具合を表しているようで、ナマエは居た堪れなくなった。
ナマエは、マールーシャ達機関の者とは違って、心ある人間である。侵食していく闇によって崩壊してしまった世界の、数少ない生き延びた人間であった。
ナマエは、自分がマールーシャの単なる”気まぐれ”によって助けられた、というのは理解していたが、しかし絶望の中で差し伸べられた唯一の救い手である彼を、特別視するなというのは無理がある。マールーシャは、ナマエにとって特別な人であった。ゆえに、人一倍、特にマールーシャの言動に、反応してしまう。
要するに、他の人はどうでもよくても、彼にだけは嫌われたくないのだ。
――カツン、と高い音が響いた。それは、彼のブーツが立てた音だとわかっていたが、ナマエは顔をあげられなかった。
そう、どうしてこうなってしまったのか。全く検討がつかなかった。だって、ナマエにとっては、今日も変わらず平和な日々だったのだから。そう、今日は。
――朝起きて、彼の大事な花々の水遣りをして、朝食を食べて。
カツ、カツ、と不規則な音が近付く。それはまるで、ナマエを追い立てているようだった。
――それから、それから。本を読んで、マールーシャが、「アクセルが何処にもいない」とぼやいていたから、探しにいったのだ。
カツ、と一層高い音を立て、歩みは止まった。ナマエはゆるゆると顔をあげる。目の前に、マールーシャが居た。一見無表情なその瞳には、やはり不機嫌さが宿っていた。醒めた美貌は美しいが、触れがたい。ナマエは、萎縮した。
――アクセルを見つけて、一緒に帰ってきたら、マールーシャが居て。
(ええと、……そうだ)
そのまま、問答無用で連れ去られたんだっけ。アクセルが、呆気に取られてた様な気がする。
それはつまり、もしかして、いやもしかしなくとも。
「黙って出かけたこと、怒っているの?」
漸う、彼の視線に耐えられなくなったナマエは、そう切り出した。このままの状態が続くより、先に謝ってしまった方がいいだろうと思ったからだ。
「だったら、ごめんなさい」
「――違う」
しおらしく謝ると、すぐに打ち消すように声が飛んできて、ナマエは瞬いた。
「怒っているのではない。もとより、私には怒れる心なぞ無い」
ナマエは彼を見る。そう云ったマールーシャは、やはりどこか怒っているようであった。彼に言わせれば、それすらも作られたものだというのだろうか。
「でも、私には、怒っているように見えたよ」
そう素直に告げると、今度は困ったような表情になる。いつも怜悧な彼が、珍しいと思った。
「――アクセルと何処へ行っていた?」
急に出てきた第三者の名前に、ナマエは暫し戸惑った。
アクセル? 何故、ここであの人の名前が、出てくるのだろう。
「一緒に帰ってきたではないか。ナマエと、あの男と、一緒に」
「だってそれは、マールーシャが」
マールーシャのために。
云いかけ、ナマエは言葉を失った。
「私が、どうした」
訝しげに問うマールーシャをまじまじと見ながら、先程の彼の言葉を反芻する。
彼は、まさか、いやでも。
ナマエは、唐突に、今現在彼を支配する感情――といったらまた否定されるだろうが、を理解できた様な気がした。それは、その感情は。
(でも、だけどマールーシャが、ありえない。というか、似合わない)
ナマエも、その感情を、身に沁みて良く知っていた。だって、いつだって、マールーシャが花々にかかりきりになると、嫌でもよくそれに苦しめられるから。
その、それこそ幼児の時からの長い付き合いがある感情の名は。
「もしかして、……やきもち?」
……なんて云ったら、今度こそ本当に彼を怒らせてしまうんではなかろうか?
ふいに浮かんだ予感は、しかし浮かぶのが遅すぎた。
室内の温度が、急激に下がった気がした。
「――くだらない事をいっている暇があれば、さっさと仕事なりなんなりしろ」
まさしく、絶対零度の美声が降りそそいだ。条件反射か、ナマエの体は、びくりと震えた。
「し、仕事って一体何の」
何のこと、と皆まで言わせず、マールーシャは無言でナマエの掌に、鍵を落とす。その正体は、彼の大切な庭園の鍵だった。
「お前はともかく、私が、嫉妬などというくだらない感情に振り回されると思ったか。愚か者が」
目を丸くするナマエの耳元に唇を寄せ、囁く。
「黙って出かけた、罰だ」
「……!」
直の美声に、哀れナマエは耳まで真っ赤になった。
惚れた弱みか、はたまたは彼の迫力か、ナマエは反論の余地も無く、安々と午後の余暇を奪われ、代わりに彼の大切な花々の手入れに費やさねばならなくなってしまった。
どこか悔しそうな瞳で、真っ赤な顔のままナマエは鍵を握り締めた。踵を返し、扉へと駆ける。チャリチャリ、と鍵のたてる清涼な音がした。
「やきもち、か……」
バタンと賑やかな音を立て、次いでぱたぱたと廊下を走り去っていくナマエの足音を聞きながらマールーシャは一人呟く。
「わからんな」
先程のナマエの真っ赤な顔を思い出す。
苦笑。
「だが、そうなのかもしれないな」
――心があれば。
目を伏せたマールーシャの表情は、どこまでも優しかった。
彼は彼女に向かって微笑んだ。
それを愛といわずして、何と云うの。