光を追い求めながらも、それでも闇の道を歩むしかない
それは、綺麗な綺麗な夕焼けだった。
ナマエは、思わず、その人物に声をかけるのを躊躇った。
夕闇に身を染めているのは、紛れもなく己が見知った人物だったからだ。情熱、を、一言で表したような鮮やかな紅の髪の持ち主で。
その人は、普段はうるさいとさえ思えてしまうほど賑やかな人であるから――。
その人は、心がない存在だと言うのにまるで心があるかのように表情が豊かな人であるというのに――。
夕闇に佇む様子は、この上なく心もとなさそうだった。
夕闇、――それは光と闇の饗宴。
光、と、闇。
対を成すそれは、違和感無く混ざり合い、溶け合い、そして美しい。
彼の横顔は光に染まり、彼の背は闇に染まり――。
一体、彼はどちらに染まりたいのだろう。闇か、光か。
男の人にしてはあまり広くない、だが確実に女のナマエよりも逞しいであろう背を眺めながら、ナマエは、ぼんやりと思う。
普段は、明るいエメラルドのような奇麗な瞳の色が。今は、なにを考え、どんな
急に、知りたくなって。いや、だが彼の裡を知ってしまうのは、怖い様な気がして。
「――なぁに、人のことじぃっと見詰めてやがる」
と、ぼんやりと考えていたものだから、急に声を――しかも当人に――かけられてナマエはビクンと竦んでしまった。
「ナマエ」
その人が振り向いた、一瞬、抱いた、恐れ。
「……ナマエ?」
振り返ったその人の相貌は、
「アクセル」
いつもと同じだった。少し、皮肉げに歪められた笑み。ほ、とナマエは、無意識に安堵の息をつく。
「なにしてんだ、こんなところで」
アクセルは、ナマエの方を向いて腕を組んだ。途端、逆光になって、彼の表情を闇が覆う。
「アクセルこそ」
そっと、恐る恐るといったように、足を彼の方へと一歩踏み出す。言外の拒絶は、なかった。
いつもの、彼だ――。
ナマエは、笑みを浮かべる。作ったようなそれは、ナマエにとって余り慣れた動作ではなかった。
上手く、笑えているだろうか。頭の隅でそんな事を気にしつつ、ナマエはさりげなく彼の隣に並ぼうとする。
「任務終っても、ずっと戻ってこないし」
だから、マールーシャが、機嫌悪いのよ、と言うと、彼はげっと顔を歪めた。
「あいつの説教は、堪ったモンじゃねえ」
ねちっこくて、つらつらと長くて、と心底嫌そうに云う彼に、ナマエもまた同意する。――本人の前では、決して云えたものじゃないが。
アクセルと肩を並べるように立つと、先程まで彼が目にしていた光景が、視界一杯に広がった。
綺麗な綺麗な、夕焼けだった。
……そう、心があるならば、この光景を、恐らく綺麗だと云うのだろう。
「それで」
ぼんやりしていた所、急に声が降ってきて、え?と、ナマエは声の主を振り返る。
「お優しいナマエが、迎えにでも、来てくれたのか?」
ニヤリ、と意地の悪そうな形に曲がった笑み。ナマエは何故だか恥ずかしくなって、慌てて偶然見かけただけ、と反論しかけ。
脳裏に過ぎる、先程の映像。
夕焼けを眺める彼は、――独り。
独りで。
ナマエは、云い掛けた言葉を飲み込んで、そして、ぎこちなく笑んだ。
「そう、迎えに来たの。……だから、早く、帰りましょう」
虚をつかれた様に、彼が瞠目する。
そして、苦笑。そう、まるで心があるかのような。
――どこに、帰るってんだ。
――……私たちの家、に。
あの、白くて寒々とした城が家と呼べるのならば、この夕闇の光の、なんと優しいことか。
あそこは、いつだって、冷たい光しか、ないのだから。
それでも、――それでも。
「しゃあねぇ、ナマエが迎えに来てくれたってんなら、――帰るか」
アクセルは、明るく笑う。
あそこが、帰る場所なのだ。少なくとも、ナマエにとっては。
存在を許されない者たちの集う、唯一の、帰る場所。
「おい、早く行くぞ」
「あ、待ってよ」
一人さっさと歩き出した薄情な彼を、ナマエは慌てて追い掛ける。しかし、やはり足の長さが違うらしい、一向に歩調を緩めてくれない彼に、ナマエは小走りでついていった。
(少しくらい、合わせてくれたって、いいじゃない)
ちょっとだけむかっとして、ナマエは彼の手を見、しかし手を繋ぐなどという大胆な行動に出ることは出来なくて、アクセルの横顔と手をちらちら見ること暫し、決心したようにえいっとナマエが掴んだものは、彼の黒いコートの袖だった。
「なんだよ、子供か、お前は」
アクセルは、ナマエの行動に少し驚いたような顔をして、そしてくつくつと笑った。
「べ、別に、いいじゃない」
ナマエは、慌ててそっぽを向きながら、それでも掴んだものを離そうとはしない。
「ったく、しょーがねぇなぁ」
苦笑の後、アクセルはナマエの手を、その掌の中に収めた。
すっぽりと収まってしまった己の手を、ナマエは言葉をなくして見詰めた。
その大きな手は、予想に反して、あたたかく。
とてもあたたくて……。
「……アクセル」
「なんだよ?」
ナマエは彼を見た。ありがとうと、云おうと思った、けれど。
「ううん、なんでもない」
そうかよ、とアクセルは云って、何事も無かったかのように、手を握り続ける。
歩調は、先程よりも、少しだけ遅くなっていた。
「マールーシャのヤツ、機嫌悪いって?」
「うん。お説教は、確実だね」
「帰ったら、一緒に、怒られてくれるんだろう? ナマエちゃんは、優しいモンな」
「ええ!? まっさかぁ。一人で、怒られてください」
「あ、ひでー」
ははっと笑い、アクセルはふいに立ち止まり、後ろを振り返った。
「……帰りたくねーなぁ」
その言葉につられるように、ナマエも振り返る。
そこには、街を包み込む、綺麗な夕焼け。
(――ああ)
綺麗な夕闇を眺めながら、突然、ナマエは、その事に、思い至ってしまった。
途端、ぎゅう、と胸が苦しくなる。
ありもしない筈の、心が、しくしくと泣き出した様な、きがした。
ああ、何故、彼がここに来てしまったのか、分ってしまった。
――かなしいの?
――……なに、云ってんだ。そんなわけ、ねぇだろ。そもそも、こころが、
ない、と云い掛け、アクセルはナマエを振り返った。言葉を、失う。
――じゃあ、さみしい、んだ。
――ナマエ。
――さみしいんでしょ。アクセルは。
――ああ、さみしい……んだな、きっと。
「……さみしいよ。あいつがいないと」
綺麗な綺麗な夕焼け。
ああ……、そこは、彼の、――
「アクセル」
吐息を吐くように、名を呼ぶ。
あなたは、あなただけは。
離れないで、傍にいて、裏切らないで。否――、ナマエは、ささやかな願いを、願う。
――消えないでいて。
ナマエは、繋がれたその骨ばったアクセルの手を、ぎゅっと握りしめた。
掌の中に、暖かな――だが確かな存在。
しっかりと握り返してくれるその存在を、手放したくはないと、今は願い続けよう。
矛盾したそれは、”かなしい”と、いうのだろう、きっと――。
心が欲しいと願うのは、浅ましい事でしょうか?
誰か、言ってください。私たちが、存在してもいいのだと。