Queen of the May.
※『ヨハネの贖罪、或いはサロメの愛』本編第七話あたりの小話です。
――こんなことになるなんて……。
絢爛に咲き誇る美しい花々で飾りつけられた馬車に揺られながら、ナマエは後悔の只中にあった。
馬車の上から見渡す城下町は春一色に染まり、祭りを祝う市民たちの浮かれた空気で満たされていた。
今日はメイ・デイと呼ばれる春の到来を祝う祭りの日だった。
街は春の花々で飾られ、人々は祭りの音楽に合わせてダンスを踊り、陽気に歌う。年若い少女たちは可愛らしい春の女神に扮し、街に花弁を降らせて祝福を施して回るのだ。
春を祝う祭りはユグノアでも行われていた行事のひとつだ。寒い冬が終わり、暖かな春の訪れを国総出で祝う祭りに人々は明るく浮き立つ。
今朝早く、晴れ渡った空に鳴り響いた空砲の音に今日がその祭りの日だと気付いた。祭りを見に行きたい気持ちはあったが、しかし大勢の人がごった返す中、自分のような厄介者が城下町に降りては要らぬ混乱を招いてしまうかもしれない。そう自分を納得させ、早々に未練を断ち切り遠くに聞こえる祭りの音を慰めに静かに読書をしていると、急に侍女のアリサが押し掛けてきて祭りに誘ったのだ。
「ナマエ様、今日は春を祝うお祭りの日ですよ! お部屋に篭ってないで、街に出てみんなと一緒に春を祝いましょうよ~!」
聞けばアリサも王都にやってきて初めてのお祭りだという。自分が城下町に降りると多方面に迷惑が掛かるかもしれないと遠慮するナマエに向かって、アリサは切実な表情で訴えてきた。
「あたし、今日のお祭りすっごく楽しみにしてたんです! でも一緒に行ってくれる人がいなくて……。お願いナマエ様! 一緒にお祭り、行ってくれませんか!?」
そんな風に懇願されればナマエには断る術がない。二つ返事で了承すると、アリサがちゃっかりと用意していたメイド服を手渡された。初めて袖を通したライトグリーンのメイド服は中々様になっていたと思う。そうして人目を避けつつ、二人でこっそりと通用口から城を抜け出すところまではうまくいった。本来ならばナマエは護衛をつけなければ城下町には降りられない。だがこんな晴れの日に護衛に纏わり付かれては窮屈で祭りを楽しめたものではないし、第一外出の許可が下りなかった可能性の方が高い。だからアリサの変装は良い案だったのだが、……問題は城下町に出た後だった。
ナマエよりも幾分早く王都に来たアリサは城下町に詳しいかと思えばそうでもなく、王都に来てからすぐ城勤めを始めたためほとんど城下町に降りたことがないらしい。実際二人とも、城下町には不慣れだったのだ。広い城下町を物珍しそうにきょろきょろと見回すさまはお上りさんもいいところだ。揃いの支給服を着た若い婦女が二人おどおどとした様子で街中をうろつく様子は、さぞかし悪目立ちしていたことだろう。
そんな二人に声を掛けてきたのが、祭りの目玉であるパレードの出番を待つ春の女神に扮した少女たちだった。パレード――すなわち花も盛りの乙女たちが美しく着飾り、春の訪れを祝いながら街中を練り歩くという昔からの祭りの風習が、今や立派な催し物の一つとなっている。国中から参加を募った未婚の乙女たちが真っ白な揃いのドレスを纏い、頭には花冠、手に花びらの入った籠を持ち、オープンタイプの馬車に乗りながら、あるいは徒歩で街中を行進し花びらと笑顔をまき散らし春を祝うのだ。
そして毎年乙女たちの中から一人、春の女王が選ばれる。選ばれた少女はパレードの大トリを飾り、ひときわ美しい花冠を被り女王さながら登場し祭りを盛り上げるのだ。
ナマエとアリサも飛び入りでパレードに参加しないかと少女たちに誘われ、アリサが勢いよく頷いたことであれよあれよという間に春の女神に化け、パレードの列に並ばされた。アリサとはその時点で離ればなれになってしまい不安に駆られながら彼女の行方を案じていると、今度は祭りの実行委員なる人々がやってきてナマエを指して一番派手な馬車に乗るよう指示し、そして今に至る。
一番派手な馬車――つまり春の女王のための輿に乗せられたのだと気づいたのはパレードが動き出してからだ。まさか飛び入りで参加し女王に選ばれるとは思うまい。選考は実行委員の独断によるものらしく、他の少女たちからも特に異議は上がってこなかった。
パレードが始まってしばらく後、ようやくナマエの乗る馬車が動き出した。祭りの実行委員に己の事情を話して女王の座を辞退すべきかと悶々と悩んでいた彼女は、馬車が動き出したことでいよいよ逃げる手段を失ってしまった。パレードが待機していた街外れの倉庫から馬車が出ると、途端にわっと人々の歓声が耳に届いた。
ここまで来てしまったら容易に辞退など言い出せない。己の決断の遅さを悔いつつも、ええいままよと覚悟を決め、人々の声に応えるべく毅然として顔を上げる。とはいえ最後尾を走る馬車は動きが遅く、無邪気な笑みを浮かべつつ手を振ってくる人々に向かってナマエはぎこちなく微笑み手を振り返した。
パレードを見に集まった人々の中に、誰か一人くらいはナマエの顔を知っているものがいるかもしれない。その者がもしナマエの存在を快く思っていなかったら、そしてもし彼或いは彼女がデルカダール王家に不運をもたらしたものとしてナマエを糾弾し始めたら……、そうなったらせっかくのパレードが台無しになってしまうことだってあるのだ。そんな心配を抱えながらのパレードは正直心臓に悪く、貼り付けたような笑みの裏でナマエは馬車を飛び降りたい衝動に駆られていた。
その時だった。
「――ッおい危ないぞ! 急に馬車の前に飛び出すなんて何考えてやがる!」
御者が焦ったような大声を上げ、馬車が急にがくんと止まる。咄嗟に手摺に掴まっていた手に力が籠り、慌てて進行方向へと顔を向けると、馬車の進路をふさぐように一騎の騎馬が道の真ん中に佇んでいた。
雪のように真っ白な騎馬に乗るその人は群青色のサーコートを纏い、緋色の外套には王国騎士団の証である双頭の鷲の金糸刺繍が施されている。突如としてパレードの列を乱したその闖入者は白皙の面に掛かった輝く金色の髪をさらりと流し、ナマエを認めて涼やかな目元を細めて微笑んだ。
「失礼、緊急事態だったもので。ああ……これはこれは、美の女神も嫉妬してしまいそうな程の麗しき春の女王よ」
「ホメロス様……」
茫然としてその名を呼ぶと、彼はにこりと笑い騎乗したままつかつかと近づいてきた。
「お探しいたしましたよお嬢様。とは言ってもあなたは一番目立つ場所におられたから、探すも何もなかったが」
皮肉げな口ぶりでそう告げ、闖入者――ホメロスはナマエに向かって手を伸ばしてくる。
「さあこちらへ。騒ぎになる前にここを抜け出しましょう」
「は、はい」
助けが来たのだ、とそこでようやく悟る。ほっとして気の抜けた情けない顔を浮かべるナマエに対し、ホメロスは安心させるような笑みを見せた。だが彼の手を取ろうとする前に制止の声が傍らから上がる。
「お待ちください騎士様、その娘は今年の春の女王に選ばれた子。パレードの主役を勝手に連れていかれては困りますな」
振り返ると、祭りの委員の一人である老翁が困惑した様子で近寄ってくるのが見えた。しかし老翁の切実な訴えに、ホメロスはわざとらしくふんと尊大に仰け反ってみせる。
「残念ながら私は騎士ではない。見てのとおり、今は春の女王の誘拐を企む悪党だ」
「な、なんですと……! 誘拐!?」
「というのは無論冗談だが、この方はちと複雑なご事情のある高貴な生まれのお方でな。このように大々的に民衆の前にご尊顔を晒すのは少しばかり危険を伴うのだ。大事に至る前にこの方の御身はこのホメロスが保護させていただく。貴公には、せっかくの晴れの日にこのような無粋な真似を働くことをお許し願いたい」
「なんと……左様でしたか。それほどまでに複雑なご事情があるお方ならば致し方ありません。なれば騎士様には一刻も早い保護をお願いいたします」
ホメロスの仰々しい説明に深刻な顔で納得した老翁は、周囲で様子を窺っていた年若い衆を振り返り、観客を誘導し騎馬が通り抜けるための道を作るよう指示を飛ばした。
「貴公の協力に感謝する。さあお手をどうぞ、フローリリア様」
ホメロスは軽く頭を下げ、再びナマエへと向かって手を差し伸べてみせた。その優雅な仕草に見惚れつつもおずおずと手を取って、馬車から馬上へと慎重に移る。不安定な横乗りになってしまったが腰にはしっかりとホメロスの手が回ってきており、正しくぴったりと寄り添うような相乗り状態だ。顔がとても近い。互いの心臓の音が聞こえてきてしまいそうなほどの近距離に、ナマエは先ほどまでとはまた別の緊張に襲われていた。
パレードの列を抜け、騎乗したままかぽかぽと街中をゆっくり進み、人通りが少なくなってようやくホメロスが手綱を引いて馬を止めた。
「そろそろいいか」
「た、大変助かりました……」
ホメロスの一言をきっかけにほっとして大きな溜息をつき、ナマエは顔を上げた。恐らく情けない顔にでもなっていたのだろう、彼女の顔を一瞥したホメロスがふっと噴き出すように苦笑する。
「まったく、肝が冷えましたよ。非番でのんびりしていたところにあの喧しい田舎娘がすっ飛んできて、あなたと城下町で離ればなれになってしまったと喚き出すものだから一体何事かと思ったが……。慌てて駆けつけてみればまさか春の女王に選ばれているとは」
「そ、それはご迷惑をおかけしました……。わざわざ助けに来てくださってありがとうございます、ホメロス様。せっかくの非番の日を台無しにしてしまって申し訳ありません」
しおらしく謝罪すると、気にすることありませんと有難い言葉を頂きナマエはさらに恐縮した。ところでホメロスの言うところの田舎娘とは恐らくアリサのことだろうが、彼女は今一体どこにいるのだろうか? ナマエの疑問にホメロスは肩を竦め、つまらなさそうな口調でこう答えた。
「おそらく今頃、仕事をサボって城下町に降りていたことがばれて執事長のお叱りを受けているところだろうな」
「まあ大変! では早くお城に戻りましょう」
しかしホメロスの反応は随分とのんびりしたものだった。
「なにもそう急いで戻らなくとも良いでしょう」
「ええ? でもアリサが……」
彼の意図が分からず困惑していると、まあ落ち着いてください、とホメロスがもったいぶった口調で告げた。
「ナマエ様が城を抜け出したことはオレ達以外まだ誰にも知られていない。そしてあの侍女も、それをわざわざ告げ口するような娘でもない。つまり今、あなたは自由だ。自由な今のうちに多少羽目を外しても誰にも咎められることはない、という訳だ」
「自由……!」
なんとも魅力的な響きにナマエは目を輝かせた。すぐにハッと我に返る。
「で、でもアリサが大変な目にあっているというのに、私だけこんなところでのんびりしていてもいいのでしょうか」
「あれは自業自得だ。同情するに値しない」
「そんな冷たい仰りよう……」
「元はと言えばあの侍女がナマエ様を唆したのが原因でしょう。自分が無理やり誘ったのだと言っていましたよ。それもメイドに変装してまで。――それにお忘れですか? あなたは今、オレに誘拐されている身なんですよ。ならば人質は大人しく誘拐犯の言うことを聞くべきでしょう」
「あの……その設定、まだ引きずります……?」
わざとらしい威圧的な態度にナマエは苦笑いを浮かべるしかない。が、やがてふと思いなおす。
「でも、ホメロス様の言う通りですね。せっかくここまで来たのだし、少しだけ楽しむことをアリサも許してくれるでしょうか」
ホメロスの説得に次第にその気になってきたナマエがおずおずと尋ねると、彼はそれを待っていたように、それでいい、と鷹揚に頷いた。
一旦街はずれの馬小屋に馬を預けに行き、それからホメロスとともにお祭りムード一色の街中をゆっくりと楽しんだ。街中には非番の兵も参加している姿がちらほらとみられ、同じように春の女神に扮した少女たちがあちらこちらで祭りを楽しんでいる。パレードを離れれば誰もナマエが誘拐された春の女王と気付く者はいない。
ナマエに祭りを楽しめと唆した張本人は人知れず周囲を警戒するように彼女の一歩後ろをついてきている。デートみたいに、などと贅沢なことは言わないがせめて横に並んで歩いてほしかった。そのよそよそしい態度を少し寂しく思ったが、立場上仕方のないことだとは理解していた。とはいえ時折巡回中の兵士とすれ違う時だけは別だ。ナマエの存在に気付かれないようと影に隠すようさっと体を密着させてくるものだから、その時ばかりはひどく心をかき乱された。
昼の鐘が鳴ると、腹が減ったと呟いたホメロスに馴染みの店に連れられ昼食を共にした。会計は当然のようにホメロスが払い、この時になってようやくこの国の貨幣の持ち合わせがないことに気付いたナマエは店を出た後恐縮しながら礼を告げた。と同時にエスコートし慣れている様子のホメロスの態度にちくりと心が小さく痛みはじめる。今まで気にしたことはなかったが、過去、そしてもしかしたら今も尚彼には素敵な恋人がいるかもしれないのだ。無論これだけ魅力的な男性なのだから恋人が居てもおかしくはない。メイド達から伝え聞いた話によるとホメロスは見た目に反して慎重で潔癖のきらいがあるため、あまり派手な異性交遊はしない主義らしい。……その一方で俄かには信じがたい噂だが、酒癖の方は良くないと聞いたこともある。
「……やはりあの侍女の事が気になりますか?」
気分が晴れないまま再び通りを歩いていると、そんなナマエの様子を勘違いしたのかホメロスが気遣うように声をかけてきた。
「え? ええ……」
実際は違うことを気に病んでいたのだが、正直に告げることもできず曖昧に微笑む。ホメロスは一度立ち止り、ナマエへと向き合った。
「そこまで気に病むこともありません。何といってもあの図太い……失礼、おおらかな性格だ。持ち前の不器用さで本人も叱られ慣れているだろうし、仕置きを受けたとしても使用人への罰などたかが知れている。せいぜいが皿洗い、壺磨き……そんなところだろう」
言って肩を竦める。
「どうしても気になるのなら、帰りにちょっとした土産を買っていってやればいい。本人も恐らくあなたの気晴らしになればと誘ったのだろうから、ナマエ様がこの祭りを楽しまなかったらあいつの犠牲が浮かばれない」
「素敵な提案ですが、残念ながら私、この国のお金は持っていないので……」
「勿論お貸ししますよ。利息をつけてお返しいただけるのならね」
見惚れるほどの笑顔を向けられ、ナマエはうっとたじろいだ。
「ま、まあ……。お借りしない方が賢明な気がするのはなぜでしょうか?」
「くく、というのは冗談ですが」
とそこへ通りの向こうから人目を気にするように一組の男女が駆けてきて、狭い路地に身を隠すようにして滑り込んだ。丁度ナマエ達がいる場所は死角となっているようで、二人はこちらの存在に気付いている様子はない。一方は兵士で、もう一方は春の女神に扮した町娘。二人はこそこそと内緒話をするように身を寄せ合い、親密な様子で笑いあって、……そして互いに惹かれあうようにして口づけを交わし始めた。
「あっ……」
二人の様子をなんとなしに眺めていたナマエはそこで我に返り、慌てて視線を逸らした。そして逃した視線の先には当然のようにホメロスがいて、彼女の慌てっぷりを興味深そうに眺めている。ナマエは赤く火照った顔を抑え、羞恥心を紛らわせるように微笑んだ。
「あっあの方達は恋人同士でしょうか。あまりまじまじと眺めては失礼ですよね……」
「人に見られていることにも気づけぬあの間抜けはグレイグのところの部下だったか。まったく見せつけてくれる」
気難しい目線を今一度恋人達に向けたホメロスだったが、そこで急に何かを思いついたように声を上げた。
「――そうだ。せっかくの機会だしオレにも祝福を授けていただけないだろうか、フローリリア様。春の女王に選ばれたあなたから祝福を授かったら幸先が良さそうだ」
「えっ!? しゅ、祝福、ですか? 祝福と言っても……どうやって?」
突然の要求にナマエは目を白黒させる。目の前の男は験担ぎや神頼みなどいった不確かなものを信じるような人には見えない。にも関わらず抜け抜けと言うホメロスは、人を食ったような笑みで言外にナマエを追い詰めていく。
「どうとでも、あなたのやり方で構いません。……もしくは、あの二人に倣って頂いても大いに結構ですよ」
「ええっ? あのお二方みたいに、ですか? で、でもそれは流石に……あれは、あれはちょっと……」
まさか口づけを要求されているのだろうか。――それともからかわれている? その可能性は大いにあった。ナマエに対して気安い態度を取ることもあったホメロスだが、それでも常ならば彼なりに彼女に対し敬意を払い一線を守っているように見えた。だけどそれが今、一足跳びでその一線を超えてきているように感じられる。嫌な気分ではない。だけどひどく混乱している。こういう思わせぶりな態度を取られた時はどう応えればいいのか――。
しばし言葉に詰まって立ち尽くしていると、おもむろにホメロスが顎先に手をやりこちらを見透かすような視線を向けてきた。
「おや、随分と勿体ぶりますね。祝福代わりに口づけを施すことはそれほど珍しいことではないでしょう。聖人は信者の額に口づけで奇蹟を授けるし、臣下は君主の手に口づけて忠誠を誓う。ごく一般的なことだ。……それとも何か? あなたの祝福は一介の騎士である私如きには授けられない崇高なものだとでも?」
そして一転ニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべたホメロスにナマエはようやく悟った。これは間違いない。自分は今、大いにからかわれているようだ。
「そ、そんなことは思っておりません! もう、意地悪な言い方はやめてください」
ナマエの憤慨にホメロスが肩を竦めてみせた。まったく冗談もほどほどにして欲しい。早鐘を打つ心臓を落ち着かせるべく何度か深呼吸を繰り返し、ようやく己のペースを取り戻したナマエはふと真顔になり目の前の食えない相手を見上げた。
「――あの、私のやり方でいいんですよね?」
「もちろん」
当然のようにホメロスが頷く。
「……では、少しかがんでいただけますか? それと、目も閉じてくださると嬉しいです」
先程からかわれたことへの軽い意趣返しがしたい。そんないやらしい思惑あっての指示だった。しかしホメロスはナマエの言葉に一瞬目を輝かせ、彼にしては随分と素直に従ってみせた。
「喜んで従いましょう」
目の前で、デルカダールいちとも称される頭脳を持つ人がなんの疑いもなく瞼を閉じてナマエの次の行動をじっと待っている。切れ長の目が閉じられると途端に彼の無防備さが強調され、なんだかドキドキとしてきた。ナマエはこれから行う悪戯じみた行為でどうか彼の機嫌を損ねないようにと密かに祈りながら、彼女の頭を飾っていた花冠を両手で持ち上げる。そしてそれを静かにホメロスの方へとスライドし、太陽の光を浴びて輝く金色の頭にそっとそれを載せた。
……思った通り、花冠が良く似合う。
太陽神が被るような月桂樹の冠ではないが、頭に華々しい王冠を戴く彼はまさしく美の頂点に立つ男と言っても過言ではない。知性を灯す白皙の面に丁寧に手入れされた長く美しい黄金の髪、すらりとした引き締まった体躯には誰もが見惚れてしまうだろう。
「ふふっ、良くお似合いです」
「……ナマエ様?」
目を開けたホメロスがようやく事の次第を理解し、剣呑な声色で彼女の名を呼ぶ。とはいえ本気で怒っている訳ではないようだ。しかめ面を浮かべるホメロスにナマエは笑みをかみ殺しつつ、両手を合わせて懇願するように上目を向けた。
「そんなに険しいお顔をなさらないで、フローリリア様」
む、と柳眉が険しく歪んだ。
「オレが春の女神だと? ご冗談を」
「気を悪くなさったのなら申し訳ありません。でもホメロス様の金色の髪が陽の光に輝いて、とても綺麗だったから、だからきっとこの花冠も似合うだろうと思って。……思った通りだったわ」
自分の見立てに間違いがなかったことを誇らしく思いながら、ナマエは顔をあげてまっすぐにホメロスを見つめる。
「先程、私を助けに来てくださったあなたはとても凛々しくて、手を差し伸べられた時は場違いながらドキドキしてしまいました。……私を攫いに来てくださったのがあなたで良かった」
その真摯な声色にふとホメロスの眉間の険が和らぐ。ナマエの言葉に耳を傾ける彼は少しばかり小首が横に傾いでおり、それがどうにも可愛らしく映った。ふふ、と自然と笑みがこぼれる。
「その花冠は
そこで一度言葉を区切り、ナマエはぐっと身を乗り出した。
「っ……!?」
唇で触れた先からホメロスがビクリと震えたのが分かった。ホメロスを驚かすべく彼の腕の中へと飛び込んで、つま先立ちになってその白い頬へと送ったのは触れる程度の軽い口づけ。先の恋人たちに倣うならば唇にすべきだったのかもしれないが、流石にそこまで大胆にはなれないしそんな勇気もなかった。
「……私、ナマエからの祝福です」
ナマエは驚きで固まっているホメロスからゆっくりと身を離し、これ以上なく見開かれた切れ長の瞳を見つめてうふっとはにかんだ。悪戯は成功した。だがむずむずするようなこの恥ずかしさはどうにもできない。
「私などで良ければ、いくらでも祝福をして差し上げます。この先に続く未来が輝かしいものであるよう、あなたに幸多からんことをいつも願っていますわ」
祈りを込めてそう告げると、ようやく我に返ったホメロスが深い溜息とともに顔の半分を覆った。
「……これは、してやられましたね」
「もしかして、お嫌でした?」
「まさか! ……ですが次はもう少し顔の真ん中の方にしていただきたいものです」
どうやらホメロスはもう彼のペースを取り戻したらしい。予想していたものより反応が薄く不安になっておずおずと尋ねたナマエに対し、返ってきたのは悪戯っぽい笑み。
「もっもう! だからそれはまだ早いと――」
「まだ? まだ早いと仰ったか。ならばあなたともう少しお近づきになってから、時機を見て再び挑むとしよう」
「ホメロスさまったら……、意外と冗談がお好きなのですね」
おどけた仕草で肩を竦めるホメロスにナマエはとうとう耐えきれずころころと笑い転げる。
「冗談……ね」
一方のホメロスはどこか含みのある声でそう物憂げに呟き、そして己の頭上に鎮座する春の女神の祝福をひと睨みするのだった。
――春の陽気に誘われて、草木も虫も、動物、そして人間達も、みな一様に浮かれている。
そんなとある春の日の出来事。