序 章
ユグノアの悲劇
――炎がそこまで迫っている。
逃げられる場所はもうどこにもない。自分を守ろうとしてくれた人はすべて魔物の凶刃に倒れた。
魔物の爪に切り裂かれた脚からはドクドクと止めどなく血が流れ出している。もう動ける気力はない。
目の前には血に飢えた恐ろしい魔物。追いつめた獲物をいたぶるのを楽しむかのように、血に濡れた剣をこちらにちらつかせてくる。
ずりずりと後じさり、追いつめられた背が壁にぶちあたってとうとう悟った。
私はここで死ぬのだ。
目を閉じると、長くもない一生が走馬灯のように瞼の裏を流れる。
恵まれた人生だったはずなのに、後悔ばかりが浮かんでくる。生まれたばかりの愛する甥をもっと慈しみたかった。あこがれの姉夫婦のように、いつかは自分も素敵な恋をし幸せな結婚をするのだと信じて疑わなかった。
ずっと続くのだと信じて疑わなかった幸せは、一瞬にして瓦解した。
「ああ、お父様……」
懺悔をするように、天に向かってささやく。涙が頬を伝った。
年をとってから授かった自分のことを、ことさらかわいがってくれた父の笑ったときにできる目のしわ。それを見るのが大好きだった。もう二度とあいまみえることはないだろう。
胸の前で震える両手を握りしめ、祈りの形を作る。
「……主よ、主よ、どうか皆が、このユグノアの民が、道に迷わず、無事に主のもとへたどり着けるよう、お導きください……どうか、どうか」
願わくは、迷わずに母なる大樹の御元へたどり着けますように。震える声で祈りを捧げる。
聖なる祈りに反応したのか、それまで余裕を見せていた魔物に動きが見えた。警戒するように唸り、とどめをささんと剣を振りかぶった。
ぎゅ、と堅く目をつむる。
そして衝撃音。
「……?」
だが、痛みはいつまで経ってもやってこない。
不思議に思っておそるおそる目を開けると、こちらを真摯にのぞき込む新緑色の一対の瞳があった。
「君、無事か!? 間に合ってよかった、助けにきたぞ!」
軍神のような見事な体格の男――確かこの揃いの一式装備はデルカダール国軍のものだ――が剣を片手に、すみれ色の髪を乱しながらこちらに手を差し出している。
「助かったのは君だけか? ほかに避難している者がいれば教えてほしいのだが。……むっ、足を斬られたのだな。すぐに救護班のもとへ行こう」
足下には絶命した魔物が伏していた。目の前の騎士が倒したのだろう。斬られた所から流れ出したのか、どす黒い魔物の血が床を伝って靴先にじわじわと浸食している。
呆然と顔をあげ、騎士の顔を凝視した。男は厳つい顔をゆがめ、心配そうな表情でこちらを見ている。
助かったのだ。まだ私は生きている。
どっと全身を安堵感がおそった。
「――あぁ、主よ」
感謝します。
震える声で、天に祈りを捧げる。
ナマエにとって、目の前の男はまさしく神の救いであった。
その日、何代にもわたって栄華をきわめたユグノア王国は、魔物の来襲により一晩にして壊滅した。
奇しくもその日はユグノア主催による四大国会議の日であり、世界に光をもたらすと謳われた伝説の勇者の証を持つもの――すなわちイレブン誕生のお披露目の日であった。
デルカダール王国の時の国王、モーゼフ・デルカダール三世の護衛として随行していた騎士グレイグはその日、炎上するユグノア城内にて一人の少女を保護した。
ナマエ・ユグノア。
ユグノア前王ロウの第二王女。
王位継承権をもつ、ユグノア王家最後の生き残りである。