ホットマシュマロココア・後
二人で囲んでいた焚き火の勢いが落ちてきた。ホメロスさんが新しい薪を足し、上手に火力を調整してくれる。イレブン達の旅に加わって結構経つけど、私はこの薪をくべる作業が未だに下手くそだ。ぱちぱちと再び火の勢いを取り戻した焚き火を眺めていると、沈黙していたホメロスさんが静かに口を開いた。
「君は……」
「はい?」
「君は、私のことを信じられるのか?」
なんて直球な問いかけか。元追う者と追われる者として、これが答え辛い質問なのはきっと彼も折り込み済みで尋ねてきているんだろう。或いは、私のことを試しているのか。……でも私の中では答えはもう出ていた。
「今もまだ、心のどこかで私の事を裏切り者だと警戒しているのではないのか……? 私が君の立場ならそうするが」
「もちろん信じてます」
躊躇なく断言する。予想通りホメロスさんの眉間にシワが寄ったけど、気にせずそのまま言葉を重ねた。
「――っていくら言葉で言っても、きっとホメロスさんは信じないんだろうけど」
そこで一旦言葉を区切って、こちらを窺う疑り深い琥珀色の瞳を私はまっすぐ見返す。
「でも、みんなはきっと、とっくにホメロスさんに命を預けていますよ。だってそうじゃなきゃ道具やお財布の管理なんて任せないし、こうやって火の番も任せたりしない」
それに料理番だってもう何度もやってもらっている。彼の作る料理はみんなに好評だ。もしホメロスさんのことを信用してなかったら、こんなにたくさん頼ったりしない。
「ホメロスさんが私たちを警戒する気持ちもなんとなくわかります。でももう少しだけ、私たちが歩み寄ることを許してほしいんです」
ジロリ、と私を睨む琥珀色の瞳に警戒の光が浮かんだ。
「説教ならば結構だ」
「説教のつもりはないです。ただなんというか、お願い、みたいな?」
「お願い?」
怪訝そうな声に頷く。
「ホメロスさんが真面目で責任感があって、優しい人だってことはもう分かっています。だから自分の事が許せなくて、あえて孤独になろうとする姿を見るのが辛いというか、悲しいというか……。あなたが一人でいるところを見たくないんです。……いや、ホメロスさんが元々一人が好きであえてそうしてるって言うんだったら、全然見当違いなことを言ってて申し訳ないんですけど」
どう言えば納得してもらえるんだろう。必死になって考えながら言葉を重ねているうち、私の言葉に耳を傾けていたホメロスさんの怪訝そうな表情が次第に呆れの色に変わっていった。
「――もしや私は今、君に口説かれているのか?」
「くど……っ!? そっ、そんなつもりは全然ないんですけど……。ただお話したかっただけなのに、なんか変な事口走っちゃってごめんなさい」
慌てて彼の言葉を否定する。私としては真剣だったんだけど、あまり上手く伝わらなかったようだ。すっかりしょげ返っていると、「別に構わない」と小さく聞こえた。
ホメロスさんはそう言ってくれたけど、私にとっては「構わない」じゃ終われない。彼と普通に話をしたかっただけなのに、変に力説なんかしちゃってこれじゃ確実におかしな人間に思われた。うまくいかないなぁ。私は口が上手くない。イレブンみたいに瞳で語れたら良かったんだろうけど、あれは勇者様のみが持てる特別な能力だ。あーあ、と途方に暮れながら、少し自棄な気分で夜空を見上げた。
「ここにお酒でもあったらもっとホメロスさんと打ち解けられたのかなぁ」
「私を呑ませると後悔するぞ」
「ええと、コルクを用意しておけばいいですか?」
おどけ混じりに尋ねると、琥珀色の瞳が私を見下しながら挑発するようにすっと眇められた。
「ほう……? 君はよほど恐れ知らずと見える。その好奇心が命取りにならなければいいがな」
「ホメロスさんと飲む時はグレイグさんを横に置いておくので大丈夫です」
ホメロスさんに対抗するならグレイグさんだとばかりにドヤ顔で言い返す。けれど浅はかな私の計略に、ふん、とホメロスさんが勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「残念だったな。あいつはお子様だから酒が入ったらすぐに寝るぞ」
「えーっ、そうなんですか? 頼りにならない勇者の盾だなぁ」
「アレは図体ばかりデカイだけで中身はただの朴念仁だぞ。頼りになる英雄様を想像していたのなら残念だったな。それは虚像だ」
やっぱりグレイグさんの事になると饒舌になるらしい。友人のことを語るホメロスさんの表情もさっきまでと比べてなんとなく生き生きしている。ほんと仲良しだなぁ。
真面目な話から一転くだらない話題を振ってしまった自覚はあるけど、ホメロスさんも結構律儀に付き合ってくれている。やっぱり彼は優しい人だ。
なんとなくほっこりとした気分で頬を緩めていると、ホメロスさんが物言いたげな顔で私の方を振り返った。なんだろう。人の顔見てニヤニヤするな、とでも言われるんだろうか。
「酒ではないが――」
「はい?」
「もう少しましな飲み物ならある。……飲むか?」
「ましな飲み物? って、なんでしょう……? ホメロスさんが淹れてくれるんですか?」
突然の提案に目を白黒させながら聞き返すと、彼は澄ましたふうに目を細めた。
「お望みなら」
「……じゃあ遠慮なく!」
ホメロスさんからのアフタヌーンならぬミッドナイトティー(お茶じゃないかもしれないけど)のお誘いを断る理由はない。元気よく頷くと、ふっとホメロスさんの表情が少しだけ和らいだように見えた。
「少し待っていろ」
一言断って焚き火から離れたホメロスさんは、私物のバッグから何かを取り出して炊事台代わりの木箱の上でなにやら作業をしているようだった。それから焚き火の方へと戻ってきて火にかけていたケトルを取り上げる。手に持っていた二つのカップに沸いた湯を注ぎ入れくるくるとスプーンで中身をかき混ぜると、ふわり、と香ばしい香りとともにカップから白い湯気が立ち昇った。
この香りはもしかして……。
「そら、熱いから気をつけろ」
「わっ、ココアだ。嬉しい、ありがとうございます」
差し出されたカップを受け取って、それが予想通りのものであったことに私は声を弾ませた。ここがクレイモラン王国のような北国ではないとはいえ、やっぱり夜は冷え込む。温かい飲み物は大いに歓迎だ。
礼を言ってさっそく一口頂く……前に、とあるものの存在を思い出した。
「あっそうだ、私おやつ用にマシュマロ持ってたんだ。よかったらココアと一緒にどうですか?」
言って私も自分の荷物を引っ張ってきて、ごそごそとバッグの中身を漁って一つの紙袋を取り出す。この前ダーハルーネに寄った時に買っておいたものだ。
どうぞ、と紙袋の口をホメロスさんの方へと差し向けてからハッとする。マシュマロと言えばどちらかというとチープなお菓子というイメージだけど、果たしてそんなものを舌の肥えた人に勧めてしまって良かったのだろうか。
「マシュマロか、懐かしいな。子供の頃によく食べた。……少し頂こうか」
幸いにも私の心配は杞憂に終わった。袋の中を覗き込みつつそう呟いたホメロスさんは、長い指でつまみあげたふわふわのマシュマロをそのままカップの中に落とした。もうひとつふたつと落とされたマシュマロはココアの熱で次第にゆっくりと溶けて混ざりあう。ちょっと贅沢なホットマシュマロココアだ。
私も彼を真似てココアの上にマシュマロをそっと落とす。二人してココアにマシュマロを沢山投下したおかげで紙袋の中身は空っぽになったけど、また買えば済む話だ。
マシュマロの白とココアの黒がほどよく混ざり合ったところでカップの縁に口をつけて一口啜る。まろやかで濃厚な至福の味に、ほう、と溜息が出た。
「美味しい……! 体があったまる~」
「それは重畳」
そう応えるホメロスさんも心なしか得意げだ。
「ホメロスさん、こんなおいしいもの隠し持っていたんですか? パッケージからして美味しそう……。うわ、これダーハルーネのあの有名店のやつじゃないですか。いつも行列できてるところの」
お願いしてココアのパッケージを見せてもらう。見覚えのある店のロゴマークに目を瞠った。
「誰にも言うなよ。こんなものを持っていることがバレたら甘いものに目がない猛獣どもに奪われてしまう」
しぃっ、と秘密を打ち明けるかのようにこっそりと告げられた言葉に私は目を丸くした。猛獣――には心当たりはないけど、甘いものに目がない仲間といえば。
「……猛獣って、まさかマルティナさんとセーニャのこと? ホメロスさんがそう言ってたってこと告げ口しちゃおうかな」
「やめてくれ、本気で頼む」
いくら口が悪いとはいえ麗しい乙女二人を捕まえてあんまりな例えにチクリと反論すると、ホメロスさんが降参だとでも言いたげに片手をあげてうなだれた。彼にしては大袈裟な仕草だったけど、仮にも君主の娘を猛獣呼ばわりは流石に自分の立場が危ういと思ったのだろう。ほうほうなるほど、どうやら私は今、ホメロスさんの弱みを握っているようだ。けれど優越感に浸る間もなく悪い顔をしたホメロスさんが「姫にバレたら君も一蓮托生だぞ」なんて脅すものだから、思わずひっくり返りそうになった。
「ええっ!? とばっちりじゃないですかそれ」
「君も否定しなかったではないか」
「だからと言って肯定した訳ではないですからね??」
「そうつれない事を言うな。我々は既に秘密を共有する仲ではないか」
「うっ……なんかその言い方ずるいし、真顔でまたそうやって冗談言うのやめてくださいっ」
珍しくも口元に薄っすらと刻まれた笑みとともに強烈な流し目を差し向けられ、うっかり心がぐらつきそうになったけど騙されてはいけない、これは彼の計略だ。ロトゼタシア一、二を争うイケメン(異論は認める)からの魅惑の術を耐え抜いた私は、ぐぐっと拳を握って涼しい顔をしているホメロスさんに抗議した。
「二度も同じ手は通用せんか。残念だ」
「もう……、ホメロスさんからは鈍くさく見えるのかもしれないですけど、私そんなに馬鹿じゃないですからね? ……いや、頭は決して良い方ではないですけど」
「ふっそうか、覚えておこう」
ホメロスさんの顔に反省の色はない。どころか私が言い募る様子をどこか面白がるように眺め、やがて思わずといったようにその鉄壁の表情が綻ぶ。目元の緩んだ、柔らかな優しい笑み。私は思いがけない宝物を発見した気分で声を上げた。
「あっ、今笑った」
「なんだ、見世物ではないぞ」
指摘をするとすぐにでも微笑を引っ込めてしまう。気難しい人だ。だけど先程からの彼の反応でピンと来てしまった。
「ホメロスさんってやっぱり意外と照れ屋?」
「そんなわけなかろう」
返ってくる声色は冷たいが、それほど拒絶感はない。ホメロスさんの意外な面を発見して「うふふ」と頬を緩めていると、顔をしかめたホメロスさんが私を一瞥してバッサリと一言。
「ニヤニヤと気持ち悪いな」
「あ、ひどい」
「……すまん、つい言葉が過ぎた。女性に言うべき言葉ではなかったな」
気持ち悪いは流石にちょっとだけ傷付いた。だけどホメロスさんも自分の遠慮のない物言いにハッとしたように口をつぐみ、すぐさま謝罪の言葉をくれたので良しとしよう。……ところで今この人私のこと女性と言ったか。普段シルビアさんくらいからしかレディ扱いされない私はホメロスさんのその言葉にすっかり舞い上がってしまった。しかもこんな大人で頭良くて顔がいい人に。
「わ……、い、いま私女性扱いされてるんですか? すごい、なんか感動しちゃった」
「なぜ感動する。君は間違いなく女性だろう」
頬を抑えて感激に打ち震えていると、ホメロスさんが怪訝そうに眉をひそめた。つまりあくまで女性扱いは彼にとってごく自然な行為だという訳か。なんというか……このパーティ天然タラシ多すぎない?
閑話休題。
……って元々本題なんかないけど。
「ホメロスさん、みんなと一緒の旅は楽しいですか?」
「邪神を倒す旅に楽しいもなにもなかろう?」
突然の問いかけに(私としてはずっと聞きたかった質問でもあるけど)ホメロスさんが戸惑いながら返してくれる。彼の返答からは生真面目さが窺えて、ホメロスさんならそう返してくるだろうことは分かっていた。
「そうですか……。でもホメロスさんには悪いけど、私は毎日楽しいですよ。もちろん一番の目的は邪神を倒すことですけど、こうやってみんなと一緒に世界中を巡る日々はかけがえのないものだなあって私いつも思うんです。だって旅が終わればみんなそれぞれの生活に戻っていくでしょう? みんなと居られるのは今しかない。そう思ったら、今がすごく貴重に思えるんです。みんなと一緒に体験する出来事が、きっといつの日か一生忘れられない宝物になる。忘れたくないんです、どんな些細なことでも。みんなと一緒にいられる日々のことを」
「皆と一緒に、か」
ホメロスさんが感慨深そうに小さく呟いたので、私はすかさず頷く。
「もちろんホメロスさんもその中に入ってますからね」
薄々ホメロスさんも気付いているだろうけど、最初の質問は目的じゃなくて手段だ。本音を言えば、私は自罰的なホメロスさんを見たくないし、出来ればこの旅を一緒に楽しんでほしい。それが私の究極のエゴであることも分かっている。でも、願いや欲は言葉にしなければ伝わらない。脳裏を過るのは、ウルノーガの呪縛から逃れて正気に返ったホメロスさんがグレイグさんを前に『オレはまだ、お前の友であり続けてもいいのだろうか……?』と苦しそうに心中を吐露する姿だ。今まで散々すれ違ってきた二人から私は言葉にすることの大切さを学んだのだ。
我ながらお節介ではあると思う。もしかしたらうるさい奴だ、なんて思われたかもしれない。……ヤバい、ちょっと調子に乗りすぎたかも。
――なんて急に不安が込み上げてきて内心青くなっていると、考え込むように俯いていたホメロスさんがふいに顔を上げた。
「……恨んでないのか?」
「誰を?」
「オレ――私を、だ」
思わずどきっとする。彼は素に戻ると一人称が『私』から『オレ』になるのだ。もしかして私の言葉を真剣に考えてくれているんだろうか。少しどきどきとしながら私はわざとらしく小首を傾げる。
「どうだろう。みんなお人好しだしなあ」
「君は?」
真剣な琥珀色の瞳が私を捉える。背筋に緊張が走った。
「私、は……目の保養が増えてラッキーって思ってます」
緊張を悟られないようあえて冗談っぽく返すと、ふはっ、とホメロスさんが破顔した。
「君は能天気だな。その上お人好しでしたたかで、誰に対しても優しく、罪人にも甘い」
くつくつとしばらく肩を震わせていたホメロスさんの笑みに、やがて苦いものが混じる。酸いも甘いも噛み分けた大人な彼にとってはきっと私の言葉では足りないんだろう。でもいいんだ、少なくとも私の言葉はホメロスさんを笑顔にさせることができたから。ちなみに褒められているんだか貶されているんだかよく分からない評価には肩を竦めるだけにしといた。
「ホメロスさんって、そういうひと苦手そうですね」
「……昔はな」
「今は?」
「まあ、悪くはない」
問いかけに、どこか遠い目をしていたホメロスさんが私の方を見てふっと微笑む。……ほんと儚げな微笑みが似合う人だ。でもそんな風に優しい笑みを向けられたら流石に照れてしまう。私は火照った頬を誤魔化すように残り少なくなったカップの底に目線を落とした。
僅かに残ったココアを名残惜しむように飲み干す。思いがけず話が弾んだためか、ココアは既にぬるくなっていた。
「あぁ……飲み終わっちゃった」
名残惜しい思いで空になったカップの底とホメロスさんの顔をちらちらと交互に覗いていると、彼が呆れたように肩を竦めた。
「そんなもの欲しそうな顔をしてもおかわりはないぞ? 深夜に多量の糖分を取るのはあまり良くない。それにもうそろそろ見張りも交代の時間だ」
「え、もうそんな時間? やだ、ほんとだ。いつの間にこんなに時間経っていたんだろう。……なんだかお話していたらあっという間でしたね」
ああ、とホメロスさんが淡く微笑む。その笑みは、少し前までは考えられないほど自然な笑みだ。打ち解ける……まではいかなくても、少なくとも一歩くらいは彼に近づけたのだろうか。
「ホメロスさん、ココアご馳走さまでした。……あの、ご迷惑じゃなかったらまたこうやって一緒に火の番をしてくれると嬉しいです」
「ふっ、安い願いだ。今日は手順を省いてしまったが、次はミルク入りの濃厚なホットココアを馳走してやる」
ダメ元で口にした願いはごく自然に受け止められ、少しの間、私は何を言われたか理解できなかった。
「――えっ?」
「……なぜそこで驚く」
私が目を丸くして驚いていたせいか、ホメロスさんもつられて切れ長の瞳を見開く。
「いえ、あの」
「冗談だったのか?」
「ち、違います!」
ではなんだ、と尋ねられ、私はおずおずと口を開いた。
「……あの、気を遣わなくていいですから、正直に言ってくださいね。私とのおしゃべりは、つまらなくなかったですか?」
「君こそ私のような歳の離れた男と話すのはつまらないんじゃないか?」
「そんなことないです、すごく楽しいです! できればホメロスさんともっと仲良くなりたいと思ってます」
「だから君は……なぜそう直截に過ぎるのだ」
しまった、ストレート過ぎただろうか。ホメロスさんが私の発言に面を食らってそのまま頭を抱えて俯いてしまった。さらさらの綺麗な金の前髪が彼の表情をすっかり隠してしまう。
「い、嫌でした?」
「嫌かと問われれば返答に困るのだが」
もごもごと俯いたまま喋るホメロスさんの声が聞き取りづらい。
「えっでも難しい質問じゃないですよ。私とのおしゃべりは嫌ですか? それとも嫌じゃないですか?」
しん、と束の間の沈黙。
「……嫌ではない」
「え……」
「むしろ……、――好ましいひと時だと思っている」
「え、……えっ??」
「ちっ、喋りすぎたな」
今のは幻聴だろうか。自分の耳を疑って焦っていると、照れ隠しのように舌打ちしたホメロスさんがそっぽを向いてしまった。
「も、もう一回言ってくださいっ。よく聞こえませんでした!」
「二度は言わん」
じろり、と私をひと睨みし、彼はおもむろに空のカップを持って立ち上がる。おそらく洗い物用に水を張っておいてある桶のところへ向かうのだろう。私も慌てて立ち上がり、すらりとした背中を追いかけた。
「あっあのホメロスさん!」
「なんだ」
呼べば律儀に立ち止まってこちらに振り向いてくれる。私は急いで彼の前へと回り込むと、食い気味にホメロスさんを見上げた。
「ココア淹れてくれる約束、忘れないでくださいねっ。絶対絶対、また淹れてくださいね! 楽しみにしてますから!」
必死になって念押しする。ホメロスさんは私の形相にふっと呆れたように頬を緩め、それから少しだけ慈しみの混じった微苦笑を浮かべた。仕方のない奴だ、なんて今にも心の声が聴こえてきそうな顔だ。
「そう何度も言われなくとも分かっている。……君も新しいマシュマロを用意しておけよ?」
「はいっ。あ、コップ洗ってきます! お預かりしますね」
飛び跳ねたくなるのを堪え、私は興奮気味にホメロスさんの手からカップを無理やり奪う。まだほんのりあたたかいカップを大事に抱え、足取り軽く桶のほうへと向かった。
「色気より食い気か……。調子が狂うな、まったく」
途中、背後から聞こえたホメロスさんのぼやき。意味深な発言にドキッとしたけど、それはどういう意味ですか、なんて大胆に質問できる勇気はまだ私にはない。
――大人しい人、という印象は、実際話してみて『大人な男の人』という認識に変わりつつあった。ずっと彼のことが気になっていたし、実は意外と気さくで予想通り優しい人だと知れたのは大きな収穫だ。けれども彼の素顔を覗き見て、別の感情まで芽生えてきてしまいそうな予感に気づいて私は戸惑いを覚えていた。
遠くないいつの日か、今はまだ名もないこの感情に振り回される日が来るのだろうか――。