狼さんはこわくない・後編
恋心を自覚したと同時に、私の初恋は散った。
だってそうだろう。彼の言う大切なヤツとは絶対に私の事じゃない。そうでなくてもカミュはモテるのだ。街中ではよく女の子に声を掛けられていたし、メダル女学園では生徒さんから手紙貰ってたっけ。
最初の心象が散々だったせいでそうと意識してこなかったが、今なら彼の魅力が良く分かる。優しいしかっこいいし、面倒見がいい、スタイリッシュでクール。とはいえ、カミュの優しさは誰にでも振りまかれるそれだ。ワイルドな見た目に反して『お嬢さん』なんて甘い声で呼びかけられれば、箱入りのお嬢様方にはそれだけでイチコロだろう。
……ああ、なんか勘違いしてたかも。
決して特別扱いを望んでいたわけではない。けれど特訓に付き合ってくれたり、こっそり私の好きな物を作ってくれたり、私はカミュにとって特別なのではないかと無意識に思っていた節はあった。
実際蓋を開けてみれば、なんてことはない。
彼の私に対する対応と、仲間たちへの対応の温度差にはなんら変わりはないのだ。
「こうやってお前と二人で行動するの、久しぶりだな」
「……そうだっけ?」
とある街に到着し、珍しくカミュと二人きりで買い出しに出た時のこと。
買い物リストを眺めつつ並んで路地を歩いていると、ふいに彼の口から出た言葉にどきっとした。確かにこの頃、彼の傍に居ることが減った。避けているという程ではないけど、もしかして気付かれていたのだろうか。
「ああ。仲間も増えたし、中々ゆっくりする暇もなかったしな。それになんかお前、前と比べてこの頃オレのことあんまり呼ばなくなったし……」
「私も成長して、カミュを卒業したの」
そう、いつまでも甘えてはいられないと決意し、この頃彼を頼る癖をなんとかしようと奮闘していた。
「は? はは、……なんだそれ」
カミュにとっては意味不明な言葉だろう。怪訝そうに眉を顰め、乾いた笑いを零してる。
そんな彼の横顔をうかがい、ずっと前から気になっていた疑問を口にした。
「……ねえ。カミュって、恋人とかいたことある?」
「な、なんだよいきなり」
唐突な質問にカミュが動揺する。さりげなさを装ったつもりだったが、残念ながら天気の話題ほど無難な切り出しとはいかなかった。
「あ、ごめん。別に深い意味はないんだ。ただ、なんとなく気になって」
「あーまあ、好きなヤツなら……いないこともない」
以前、彼は色恋にはあまり興味がないと言っていた記憶がある。だからこの手の話題は嫌がるかと思ったが、意外なことにカミュは少し照れつつもそう答えた。
「そ、そうなんだ。それってどういう人か聞いてもいい?」
「オ、オレのことは別にどうだっていいだろ。そういうお前は? 好きなヤツいるのか? 人に聞いておいて、答えないのは勿論ナシな」
まさかの反撃を食らった。食い気味に尋ねられて若干タジタジになりながらも「いる」と答えると、カミュの目の色が急に変わった。
「どんなやつだ。そいつはお前を幸せにできるやつか? お前を独りにしないやつか?」
そう問いかける彼の目は真剣で、まるで尋問されてるみたいだ。
「し、知らないよ」
「なんでだよ」
「だって片思いだもん」
肩に置かれたカミュの手がぴくりと震える。
「片思い?」
「う、うん」
頷くと、カミュは少し考え込むように目線を下げた。なんとなくぼんやりしているな、なんて思っていると、再び海色の目がこちらを向いてニッと笑った。いつもの彼の笑みだ。
「……そっか、ならオレと一緒だな。頑張れよ。応援してやるからさ」
好きな人から応援されてしまった。複雑な気持ちで礼を言って、ふと浮かんだ疑問を口にする。
「カミュは?」
「オレは別に、好きだからと言ってどうこうするつもりはねえから。そいつが幸せなら、それでいいんだ」
そう言って、カミュはふっと笑った。
はなから幸せを諦めているかのような、どことなく感傷じみた微笑みだった。
ふと気付く。
――もしかして、カミュの『大切なヤツ』って、もう。
「……」
そうだとしたら、ますますこの気持ちを告げることなんてできるわけがない。
「失恋しました」
とある酒場のカウンターにて。カクテルグラスを片手に、私はシルビアさんにヤケ酒に付き合ってもらっていた。
「あらっ、そうなの? ご愁傷さま、って言った方がいい?」
「お気遣い痛み入ります……」
「なあに、それでヤケ酒にアタシを誘ったの? やあねえ。そういう自暴自棄な感じ、ナマエちゃんには似合わないわよ」
すみません、と愛ある説教に頭だれる。普段ほとんどお酒を飲まない私が酒場になんて誘ったから、シルビアさんもきっと驚いただろう。踏ん張ってはみたけど、失恋の痛みを黙って胸に抱えていられるほど私はまだ大人になりきれない。要するに誰かに泣きつきたかったのだ。大人で分別もあるシルビアさんはこういう相談にはぴったりで、文句も言わずに付き合ってくれる彼はとても優しい。
「はあ、もう男なんてこりごり」
「ぷはっ、随分な台詞ね」
多少大げさな私のセリフに、シルビアさんが可笑しそうに吹き出す。
「まあまあそういう事ならお飲みなさいな。今夜はアタシが奢るから」
「わ、いいんですか。さすがシルビアさん素敵!」
色気よりも食い気だ。現金なもので、『奢り』の一言でなんとなく元気が出てきた。さっそくグラスを空にして、バーテンダーさんに次をオーダーする。
「でも意外ね、カミュちゃんがナマエちゃんをフるなんて」
ごほっ、と咽た。アルコール度数の高い液体が喉を焼いて、涙目で隣を振り返る。
「な、なんで? 私、あいつの名前出してました?」
「うふふ、アタシを誰だと思ってるのよ」
ぱちんとウィンクを寄越され、反論する間もなく白旗を揚げる。
「う、シルビアさまでした」
「よろしい。それで? なんて断られたの」
「ええと、……厳密には振られてはいないんです。でも、彼、好きな人がいるみたいで、その人には絶対に敵わないなあって実感したっていうか」
「やだ、じゃあまだ気持ちすら伝えてないんじゃない。告白なさいよ。何ごとも、やってみなくちゃ分からない、ってやつよ」
ねっ、と可愛らしくウィンクされる。流石はシルビアさんだ。激励に、なんとなくだんだんそういう気分になってくる。「でも」とか「無理」とか渋る私に対して、あの手この手でその気にさせようとしてくるのが若干怖い。
いやいや、勘違いしてはいけない。気が大きくなっているのは確実にお酒のせいだ。私はもう何杯目かになるカクテルをぐいっと飲み干して、頭をふった。あ、目が回る……。
「告白する気になった?」
「ううん、やっぱりダメ、カミュってそういうの嫌がりそう。それに、いまの関係をこわしたくないよ」
「臆病ねえ。――二人とも」
二人? いったい誰の事だろうか。一人は私で、もう一人は……カミュ? あれ? カミュの好きな人のこと、私、言ったっけ?
「しるびあさん、ふたりって……?」
「あらナマエちゃん、そろそろおねむかしら?」
指摘に、急に眠気を自覚する。確かにちょっと飲み過ぎたかもしれない。これ、宿まで帰れるかなぁ。まあシルビアさんが一緒だから、大丈夫か。迷惑かけちゃうけど……。
「うーん」
そうこうしているうち、瞼を保てなくなってきた。隣でシルビアさんが何かを言っている。いいや、だれか違うひとと話しているみたいだ。
「……アタシ、間男を演じる気はないわよ」
間男? 一体何のこと? 私に言っているんだろうか。
沈みゆく意識の中で、はっきりと聞こえた台詞に首を傾げる。
最後の気力を振り絞って瞼をうっすらとこじ開けると、視界に一瞬鮮やかな青が映った。
翌朝、見事に二日酔いになった。幸いにも朝は宿屋のベッドで迎えられたから、きっと寝落ちした私をシルビアさんがここまで運んできてくれたんだろう。あとで会ったら謝らなきゃと思いつつ、支度を終えて一階の食堂へ向かう。
もう皆は朝食を食べ終えただろうか。廊下を歩いていると、運よくシルビアさんに出会った。
「あ、シルビアさんおはようございます。昨日はすみませんでした。宿まで運んでくれてありがとうございます」
シルビアさんは流石、まったく二日酔いを感じさせない明るい笑顔で手を振ってきた。
「おはようナマエちゃん。調子はどう? アタシこそ、昨日は飲ませすぎちゃったみたいでごめんね」
「い、いえそんな」
「朝食、まだ残ってるわよ。食欲あるなら行ってきなさいな。――あ、それとアナタをベッドまで運んだの、アタシじゃないから」
「えっ?」
去り際、爆弾を落としていったシルビアさんを振り返る。問い詰めようとして、足が止まった。
シルビアさんでなければ、一体誰が。
よぎったのは、昨晩の夢に出てきた青髪の彼。
まさかと思いつつ、結局シルビアさんを追いかけることができなかった。
苦労の甲斐あって、やっとオーブが揃った。目指すは聖地ラムダの奥に広がる始祖の森。
「その前にちょっと素材集めしていい? 作りたい防具があるんだ」
いよいよ命の大樹とご対面――、と気合を入れる一行の出鼻を挫いた犯人の名は言わずもがな。この旅でイレブンはすっかり鍛冶にはまったらしく、暇さえあれば素材集めに奔走している。
イレブン? 旅の目的変わってない?
向かった先はバクラバ砂丘。なんでも夜にしか現れない魔物が貴重な素材を落とすとか。
正直、この地方は苦手だった。観光で王都に滞在するならともかく、昼は灼熱、夜は極寒の場所でキャンプなんて体力がいくらも持たない。
とはいえ生き生きと素材集めをするイレブンにあまり水を差す気にもなれず、今日も今日とて元気にキャンプ生活です。
そんな過酷なキャンプ生活でも、癒しの時間がある。それはオアシスでの水浴びタイムだ。いつもなら姉妹とマルティナさんと一緒に水辺で汗を流すところを、今日は私だけ用事があったので、月夜の下で独り寂しく行水だ。オアシスの水を汚すわけにもいかないため、大きめの桶に水を汲んで、それで体を綺麗に拭いていく。
ガサリ、と目隠し代わりの背後の草葉が急に揺れた。ギクリとして近くに用意していたタオルと短剣を持つ。小動物がオアシスに飛び込んでくることはたまにあったが、もしかしたら魔物かもしれない。
――と、ガサガサと大きな葉を掻き分け、現れたのは。
「うわっ!?」
「キャアッ!」
「わっ、わりぃ覗くつもりはなかった! それよりも、こっちにワイバーンドッグ来なかったか!? キャンプの近くで大暴れしてたやつがこっちに向かったのを見たんだが……」
血相を抱えたカミュだった。思わぬ人物の襲撃にすっかりパニックになり、短剣すらも取り落とす。彼の説明も耳に入らずひたすら素っ裸をタオルで隠そうと身を丸め、悲鳴じみた声で非難を飛ばした。
「来てないしそんな物音も聞こえなかった! カミュの嘘なんじゃないの!? ほんとは覗きにきたんでしょ!? それがバレたからって、言い訳なんて最低!」
「ちがっ、本当なんだって! 確かに魔物がこっちの方に向かっていったんだよ! だからお前が危ないと思ってオレは――」
言いがかりだとカミュが必死に言い募る。青の瞳は当然まっすぐに私の方を向いており、こんな格好を彼の目に晒しているのだという事実に完全に頭に血が上った。
「ちょっと、こっち見るなっ! 変態! カミュのすけべ!」
「なっ! だ、誰がお前の体に興味あるかよ!」
後で冷静になって考えてみると、きっと売り言葉に買い言葉だったんだろう。だけど『興味ない』という彼の一言を聞いた途端、ぷつりと何かが頭の中で切れた。
興味ない。私なんかに、カミュは興味ない。知っている。けど、馬鹿正直に本人に言わなくたっていいじゃない。
「~~っ、バカ!」
すっと立ち上がって、言い放つ。私に興味がない奴を前に何も隠す気も起きなくて、タオルを握りしめたまま踵を返した。
「ちょ、立つな見える! お、おいどこ行くんだ!? オレが悪かったせめて服着ていけ!」
「知らない!」
捨て台詞を放って、夜の砂漠をずんずんと歩き出す。
自分でもバカなことをしたと思ってる。でも頭に血が上って冷静な判断ができなかった。
実際、自分の行動をすぐに後悔した。
オアシスの水辺に沿って、十歩も歩かないうちだ。
ふに、と足の裏に何か柔らかいものを踏んだ感覚が走った。なんだろう、あたたかい……。恐る恐る足元を見ると、草木の陰から飛び出たふわふわの尻尾を、私の足が踏んづけていた。見覚えがある。これは、例の獣の尻尾だ。
「ひっ、」
ぐるるる。草木の奥から狂暴な唸り声が聞こえてきて、恐怖に引きつった。近い。すぐそこだ。いくら手練れでも、こんな至近距離で、しかも徒手空拳では敵う相手ではない。獣臭くて生暖かい息が頬を掠めた。顔を上げると、月夜に光る獰猛な獣と目が合って。
やばい、食べられる。
咄嗟に助けを求めたのは――。
「か、カミューッ!」
「伏せろナマエ!」
瞬間、目の前を青の疾風が過った。
「だから言っただろ」
呆れたようなほっとしたようなカミュの言葉に、今もまだ生きていることを実感した。足元には一撃で仕留められた獣が横たわっている。カミュのナイフがあと一歩届かなければ、私はこいつに頭を喰われていたはずだ。
「……疑ってごめん」
すべて私の浅はかさから招いた危機だ。自業自得。地面にへたり込み、落ち込んだまま命の恩人に謝った。もう、いっそこのまま砂漠に埋もれてしまいたい。
「いい。それよりも早く服着ろ」
「あ、私の服……」
目の前に差し出されたそれを受け取る。隣に立つ人を見上げると、こちらを見ないようにとの配慮なのか、カミュは明後日の方を向いていた。
もたもたと立ち上がり、カミュの視界に入らない木陰で渡された服を順に着ていく。あ、下着洗おうと思ってたのに……。まあ後でいいか。
「さっきは悪かったな。柄にもなく焦って、心にもないこと言っちまった」
恐怖からかまだ手が震えてる。そのせいでいつも以上に時間をかけて着替えてると、背後からそんな言葉がかけられた。
「興味ないってやつ?」
「……おう」
ようやく着替えも終え、振り返る。カミュは律儀にもこちらに背を向け、腕を組んで立っていた。
「私も酷い事たくさん言ってごめんね」
終わったよと声をかけると、恐る恐るカミュがこちらを向く。私がちゃんと服を着ているのを確認して、ようやくほっと表情を緩ませた。
「まあ、当たらずとも遠からずってやつだから、気にするな」
ん?
「それってつまり?」
「に、睨むなよ。半分は不可抗力ってやつだろ」
疑いの眼差しで見つめると、途端に慌てて弁解をしはじめるカミュがなんだかおかしい。堪えきれず吹き出してクスクス笑っていると、彼は肩を竦めてため息をついた。
「あー、好きなだけ笑ってくれや」
許可が出たので遠慮なく笑わせてもらう。
ふと、カミュの慈しむような視線が向けられていることに気付き、そうと意識した途端急に気恥ずかしくなって俯いた。忘れていたけど、裸を見られたのだ。……いや、見せつけた?
あれ、もしかして私セクハラしちゃった? なんて煩悶していると、さくりと砂を踏みしめる音がした。顔を上げると、すぐ目の前にカミュがいた。
「ほんと、お前が無事でよかったよ」
心の底から私の無事を喜ぶように、カミュは笑った。どきりと心臓が跳ねる。
「お前の悲鳴を聞いた時、生きた心地がしなかった」
「う、ごめん」
「――でも、オレの名前を呼んでくれたな」
海色の目が私を真摯に捉え、息を呑む。伸びてきた手がためらうように頬を掠め、宙をさ迷って、そして緊張で強張る私の二の腕を包んだ。なんだろう、この空気。カミュの様子がいつもと違うことにドキドキして彼をじっと見上げていると、ふいに照れたように目線が伏せられた。
「オレ、気付いたんだ。お前に頼られるのが好きなんだって」
「え?」
「お前、この頃めっきりオレを頼ってくれなくなっただろ。あれ、実は結構寂しかった」
「……私、お荷物じゃない?」
まさか、そんな言葉が聞けるなんて。今まで怖くて聞けなかったことを恐る恐る尋ねると、弾かれたように海色の目が再びこちらを見る。
「そんな訳ないだろ! ……むしろ頼ってほしいよ。もっと頼ってくれよ、オレを。お前に頼られると、オレ、なんでも出来るような気になれるんだ」
「頼っていいの?」
当たり前だろ。少し乱暴な口調で、カミュは私の言葉を肯定した。
「好きなヤツに頼られて、嬉しくない男なんかいねえよ」
えっ、と声が漏れる。
「好きなやつ――って、もしかして私?」
はっ、とカミュは急に我に返ったようだった。二の腕から伝わる彼の熱が離れていく。
「わりい、言うつもりはなかったんだ。お前を困らせるつもりはないから、今言ったことは忘れてくれ」
「ま、待って! あの、聞いてもいい? カミュが前に言っていた大切なヤツって、誰なの?」
カミュが離れていってしまう。いやだ、離れないで。その一心で、私は必死に彼のチュニックを掴む。
「大切なヤツ?」
戸惑ったカミュに白の入り江での事を告げると、すぐに思い至ったようだった。
「ああ……。実はな、オレ、妹がいるんだ」
「妹さん?」
「ああ。だけど、オレが不甲斐ないせいであいつをひとりぼっちにしちまった。きっと今ごろ、オレの事を恨んでいる」
「……それで」
やっと、あの言葉の真意を知る。つまり、ぜんぶ私の勘違いだったわけだ。明らかになった真実に茫然としていると、カミュが何を思ったかとつとつと語り始めた。
「オレはダメな男なんだ。だから本当はお前の手を取る資格なんてないのかもしれねえ。けど、やっぱりほかのヤツにも取られたくねえ。イレブンはいい奴だけど、あいつはお前のいとこが好きなんだろ? オレにこんなこと言われたかないだろうが、脈のない奴をずっと想い続けるより――」
「待って、なんでイレブンの名前が出てくるの?」
「なんでって、あいつなんだろ? お前の好きなヤツって」
「ち、ちがうよ!?」
びっくりして、慌てて否定する。まさか、これはカミュも勘違いしてるパターンか!?
カミュが一瞬ぽかんとして、訝しむように眉をひそめた。
「じゃあ、まさかシルビアのおっさん……」
「それも違う!」
「え、じゃあ……ロウじいさん?」
「もう、ふざけないでカミュ!」
「わ、わりい」
私の怒りに恐れをなしてか、やっとカミュが口を噤む。
「え、なに? つまり、お前の好きなヤツって――」
今度はカミュが呆然とする番だった。この期に及んで、半信半疑になっているらしい。
私はむっと口を尖らせ、無言で目の前の男を指さす。
海色の目が限界まで見開かれる。は、と半開きになった彼の口から、間抜けな空気が漏れた。
「マジかよ、……だせえ。オレ、じゃあずっと自分に嫉妬してたのか」
カミュはまるで恥ずかしい呪いにでもかかったように、顔を覆って身悶えている。珍しい。そんな彼をじいっと観察していると、指の間からジト目が睨みつけてきた。
「そんなまじまじ見んなよ」
「なんで?」
「情けないだろ、オレが」
ダメ、もう耐えられない。見られたくない理由がかわいすぎる。
「ぷっ、ふふ、なにそれ可笑しい。カミュってさ、かっこいいのにちょっと奥手だよね」
「……ああ?」
声が一オクターブ下がった。
「私、もうちょっとぐいぐい来てくれる人がいいなぁ」
――なんて、悪気もなく口にした瞬間だった。
急に伸びてきた熱い手の平がむにっと頬を押しつぶすように包んだ。目の前に影が過って、それから。
「んむっ」
ふにり、と唇に柔らかな感覚。
目を閉じる暇すらなかった。私が驚きに固まっていると、伏せられた瞼がゆっくりと上がり、目の前に海が広がった。キレイ……なんてうっとりする暇もなく、私は許可なく唇を奪った犯人の肩を押しのけた。
「ちょっと、いきなりなんなの!」
「お、お前が言ったんだろうが」
カミュには私が怒っている理由が分からないようで、困ったようにうろたえてる。
「い、いや、言ったけど、そういうグイグイじゃなくて」
説明するのすらめんどくさくなって、溜息をつく。あーあ、もう、初キスだったのに。
……まあ、でもいっか。どうせ一回したら、二回も三回も一緒だ。
「でも、一瞬でよく分かんなかったから、もう一回してみてもいいかも?」
あざとさ効果を狙って、上目づかいでおねだりする。急な態度の変化にうっとたじろいだカミュだったが、どうやら私の要求を無事にくみ取ってくれたらしい。
「はあ……。仰せのままに、お姫様」
「うわ、キザったらしい」
減らず口は一体どちらか。
黙れと言わんばかりに唇を押し付けられる。柔らかさを確かめるように食まれ、混ざる吐息は熱く、逸る鼓動の音が体中を満たしていく。
「――すきだ」
私も。吐息混じりに囁くと、交わる海色の目に浮ついたような熱が灯った。
オアシスの水辺で二人揃って、月夜を見上げる。ぴったりと寄り添うようにして上半身を彼に預けると、互いの体の凸凹がパズルのピースみたいに嵌った。腰に回った彼の腕がしっかりと私を抱き寄せて、なんだかすごく安心する。
「カミュってお日様みたいな匂いがするね」
「臭くねえか?」
「ううん、いい匂い。好き」
びくっとカミュの体が硬直したのにも気づかずに、肩口に預けた頭をすりすりと寄せる。日向みたいな優しい匂いがして頬が緩んだ。
ふいに、最初にカミュを見て、飢えた狼みたいだなと思ったことを思いだした。狼なのは違いない。でもどうやら、この狼は随分と恥ずかしがり屋で奥手らしい。
そんな狼さんが、今は愛しくてしょうがない。
「ねえ、このまま皆の所に戻らないでさ、朝までずっとこうしてたいなぁ……なんて」
ぎゅっと強く抱き着くと、「うっ」とカミュが変な声を上げた。
「カミュ?」
流石に様子がおかしいことに気付いて顔を上げると、カミュはなぜか顔を赤くしてソワソワと落ち着かない。
「あ、あー、朝までずっとか? わりいが、それにはちいとばかし差し障りがある」
「なんで? あっ、ごめんもしかして私まだ汗臭い?」
「いや……そうじゃなくて」
「なに? なんなの? はっきり言ってよ」
曖昧な口調に少し苛立って強めに促すと、カミュは観念したように大きく息を吸った。
「た、」
「た?」
「たっちまった……んだよ」
なんのことだろうか。
弱々しく告げられた言葉をすぐに飲み込めなくて首を傾げる。もう一度口の中で反芻し、そして。
「たっ……? へっ!?」
視線を下げた先に、カミュが片手で必死になって股間を私の目から隠そうとしているのが見えた。
つまり、そういう事か。タイミング悪く、『送り狼』なんて単語が脳裏に浮かんだ。
「いやっカミュのエッチ! むっつりすけべ!」
「へっ? おい、ちょ」
べたべたくっついているのが急に恥ずかしくなって、目をぎゅっと瞑って混乱するがまま腕を振り回す。焦ったカミュの声が聞こえてきて。
――ドボン、と月夜に派手な水音が響いた。
ひとつ訂正。
この狼さんは優しくて臆病で奥手で、そしてちょっぴりエッチだ。