美酒のような




 ――光の妖精が、飛び回っているようだった。
「すごい……」
 目に飛び込んできた光景に、ナマエは、思わず感嘆の溜息をついた。

 バレンヌ帝国、その壮大な宮殿のホールに一歩足を踏み入れると、そこは現を忘れるほどに美しい光に満ち溢れていた。きらきらとした幾千ものクリスタルの光が、地上に降り注いでいる。その光の元、着飾った人々が、ワルツに乗って軽やかに踊っていた。
 今宵、宮殿で絢爛な舞踏会が開かれたのだった。

 一歩、恐る恐るといった態で、ホールに入ってきたのは、現皇帝ジェラール一世の血縁にある、公爵家の令嬢ナマエ。術の方面に非凡な才能に恵まれた彼女は、ジェラールがレオンより皇位を授かってより、宮廷魔術師として仕えはじめた。すぐに才能を発揮した彼女は術研究においても遠征においても非常に重宝されたが、如何せん欠点が一つだけあった。
 ――それは、引っ込み思案で人前が大の苦手、ということ。
 そのため、このような場に出るのは、彼女としてはなんとしても避けたいところであったのだが。
 艶やかな髪と、輝く瞳の持ち主は、今は清楚だが美しいシルクのドレスを纏っている。今宵の舞踏会のためにと、ジェラールから贈られた物だ。細やかな刺繍が隅々にまで入っているそれは、一級のものだった。
 美しい貴婦人の態だったが、登場の仕方はしかし至って地味だった。彼女が選んだのは、メインエントランスからの堂々とした登場ではなく、ホールの所々にある通路からのこっそりとしたそれであった。
「もう、お嬢様ったら、どうしてこんな所から入るのですか。そんなにお綺麗なのですから、もっと自信を持ったらいかがですか」
 そう、軽く憤慨したのは、ナマエをここまで引っ張ってきた女官のジーナだ。髪を緩く巻き、綺麗に飾り立てられ、それでも出渋っていたナマエを、ここまで連れ出した彼女の苦労はひとしおだ。
「ごめんなさい、ジーナ。私、こういう所は凄く苦手で……」
 1時間もかけて巻いた髪を緩く引っ張りながら、ナマエが困ったように美しい瞳を伏せる。今宵の舞踏会への出席は、ジェラールたっての願いだった。兄とも慕うジェラールのためだ、ナマエはしぶしぶ承知したが、しかしやはり人一倍引っ込み思案な彼女は人前に出るのが苦手であった。今も、一歩先からホールへと踏み出す事が出来ず、ビロードのカーテンに身を隠すように突っ立っている。
 ジーナは溜息をついた。
「ほら、ここから私はついていけませんから、頑張ってくださいね」
「あっ……」
 トン、と肩を押され、ナマエは思わず踏鞴を踏んだ。待ってジーナ、と急いで後ろを振り返るも、既に姿はなかった。
 ナマエは不安げに眉根を寄せたが、直ぐにホールの中央に視線を戻して、ジェラールの姿を探し始めた。

(ジェラール様に挨拶をしたら、すぐに退出しよう……)
 早く退出したい一心で、ナマエは彼の人の姿を探す。
 ――だが。
「レディ、私と一曲」
「どなたかをお探しですか?」
 キョロキョロとあたりを探していると、次々と掛かる誘いの声。
「あの、申し訳ないのですが、どうか他の方をお誘いください」
 ナマエは声をかけられるたび、当惑し、そして申し訳なさそうに謝る事しか出来なかった。ダンスは好きだったが、人前で、しかも見知らぬ人と踊れるほど、ナマエの神経は太くない。素気無く断わられた紳士は、大抵はにこやかに去っていったが、中には気分を害したように去っていく者もいた。
(ジェラール様、どこにいらっしゃるのかしら?)
 これ以上は居た堪れなくなり、ナマエは心細そうに眉を寄せる。
 その瞳が、中央奥、穏やかに家臣と談笑している探し人の姿を捉える、――と。

「――よぉ、お姫様」
 この場には似つかわしくない、粗野な言葉がナマエの耳に響いた。
 驚いて振り返った先には、あの特徴的な色鮮やかで相変わらず派手な髪型の主が、シャンパングラスを片手に不遜気な笑みを浮かべていた。
「ヘクター殿」
 傭兵隊隊長ヘクター、ナマエが宮廷魔術師として仕え始めてより知り合った彼は、至って傲岸不遜、豪放磊落で、まさに傭兵を束ねる人物に相応しい人だった。奇抜な恰好は彼の型破りな性格によく似合い、大剣を振るう姿はまるでしなやかな野生の獣のよう。そして、その奇天烈な恰好に反するように整った容貌、眼差し鋭い瞳は猫科のそれを彷彿とさせ、飄々とした態度に気ままな言動と、時折見せる紳士的な態度とで、荒削りな男の魅力に溢れた彼は、宮廷内においても女官からの人気は高かった。
 知り合った当初、実のところナマエは彼のことが、かなり苦手だった。傭兵なんて乱暴な人であるに違いないと思い込んでいた節があったからだ。しかし実物の彼は、ナマエに対しては不器用な優しさを見せ、時折彼の事を兄か何かのように思えるものだから、苦手感が払拭されるまでにはそう時間もかからなかった。その優しさは箱入り娘なナマエにとっては少々乱暴なものだから、今でも彼のことが少し苦手であったが。

 けれど、この場において彼の存在は、ナマエにとっては心休まるものであった。知り合いに出会えてホッとする。
「あなたもいらっしゃったんですか。此処で会えるとは思いませんでした」
 思わず顔を綻ばせて言うと、ヘクターは何故かシニカルな笑みを見せた。非常に彼らしい笑みに、少しドキリとする。
「なんだよ、それ。傭兵ごときが、舞踏会なんぞ場違いだ、ってか」
 えっ? と咄嗟にナマエは声をあげた。
「ち、違います! そんなこと思っていません!」
 拳を握り、全力で否定する。そんなナマエの必至な形相に、ヘクターは笑い出した。
「じょーだんだって。そんな焦るなよ。ったく、アンタは本当にからかい甲斐がある」
「えっ!?」
 その言葉に、今度はぽかんと彼を見る。ヘクターはナマエの反応が可笑しくてたまらないといったように、くつくつと笑っていた。
 彼にからかわれたのだ。そのことに気付くと、ナマエは「ヘクター殿!」と憤慨した。
「そんなに怒るなよ。綺麗な恰好が台無しだぜ?」
 だが、苦笑と共にさらりと気障な科白を言われ、免疫のないナマエは直ぐに顔を赤くした。ヘクターは、これだからお前は仕方ない、といったように、彼女の頭をぽんぽんと軽く叩いた。

「しかし、舞踏会って案外つまんねーよなぁ。飯はうまいけどよ」
 気を取り直し、ヘクターが給仕からナマエの飲み物を貰う。アルコールの強いシャンパンだった。薄い琥珀色の液体を口に含むと爽やかな香りが口内を満たし、炭酸が喉を刺激した。美酒であったが、ナマエには些か強すぎて、少しずつしか呑めなかった。
「まあ、綺麗なねぇちゃん方を見られるのはいいけどな」
「ヘクター殿らしいですね」
 ナマエは苦笑を禁じえない。まーね、と言ったヘクターは、おもむろにシャンパンを一気に煽って、空のグラスを給仕に渡した。その飲みっぷりにナマエが目を丸くしていると、ヘクターは彼女の方を向いて、一言。
「じゃあな。俺、もう行くから」
「どこに行かれるのですか?」
 問うと、彼はシニカルな笑みを浮かべた。
「バルコニーだよ。ここの空気には、厭きたからな」
 そう言って、さっさと去ろうとする。また一人になると思ったナマエは、咄嗟にその背を呼び止めた。
「あの、ヘクター殿!」
「あん?」
「私もご一緒しても良いでしょうか?」
 ナマエの言葉に、ヘクターは目を丸くした。
「……別に、良いけどよ。変なヤツだな」
 苦笑と共に、ホラ、と手を差し出す。ほっとしたナマエがそれを取ると、彼はどこか照れたように笑って彼女をエスコートした。

 バルコニーから望める空は、満天の星が輝いていた。
 人の熱気で染まった頬を、外の冷えた空気が心地よく冷ましてくれた。
 ようやく人気のない場所に来ると、ナマエは緊張が溶けたように、「はぁ……」と大きく溜息を付いた。
「どうした?」
 ナマエは、いえ、と隣にいた男に苦笑する。
「人前は、緊張してしまって」
「ったく、お嬢様だねぇ」
 ヘクターは、からかうような言葉とは裏腹に、柔らかい笑みを浮かべた。ナマエは、やはりドキリとした。

「――ところで、もう踊ったのか?」
「いえ、まだ……」
 急に切り出された科白に、ナマエはおずおずと頭を振る。
「なんだよ、舞踏会だってのに、まだ一曲も踊ってねーの?」
 ヘクターは少し飽きれた様に、腰に手をやった。
 彼の反応に、ナマエは「だって」、とか、「でも」、とか小声で反論を試みるも、面と向かっては言えなかった。
 ヘクターは、そんな彼女の様子に苦笑すると、何か思いついたように口元をにやりと歪めた。
「じゃあ、俺と踊るか?」
「――え?」
「ホラ」
 当惑していると、彼はナマエの返事も聞かずに彼女の手を取った。
「踊れるの、ですか?」
「おいおい、この俺様を甘く見るなよ。ダンスぐらい、出来らぁ」
 そう言うないなや、ぐい、と手を少々強引に引かれた。反動で、ナマエは少しよろけた。
 彼がナマエの目の前に立つと、あの独特な笑みが目の前に迫り、彼女は目を奪われた。
 ――ホールからは、緩やかなワルツが、流れてきている。
 ヘクターは、無言でナマエの腰を引寄せた。
 身体が密着し、彼の体温を感じた。スモーキーな匂いは、煙草だろうか。ナマエはどきどきしながら、片方の手を彼の肩に掛けた。
 その、彼の意外なほど端整な顔をちらと見上げると、鋭い対の瞳がこちらをじっと見つめている事に気がつき、ナマエはその恥ずかしさから逃げるように慌てて目を伏せた。
 手を取られる。
 そして、流れるワルツに身を委ねた。

 ――驚くほど紳士的なリードだった。
 まさに紳士顔負けのそのリードに、ナマエは目を丸くした。その彼女の驚きに気付いたヘクターが、悪戯げに片目を瞑る。呆気に取られていたナマエは、くすりと笑って、彼のステップに合わせて軽やかに踊りだした。
 ナマエは常々彼の強引なところが苦手だったが、今はどうだ、目を疑うほどの紳士ぶりだ。とても常の彼とは思えないほど、その動きは洗練されていた。傭兵隊長の意外すぎるほどの一面を目にし、ナマエの鼓動は高鳴った。この人は一体、どれだけの顔を持つのだろう。
 ワルツはそろそろ終盤にさしかかろうとしていた。
 手を取られてくるりとターンをすると、また彼の腕の中に戻った。
 くるり、またターンをする。ナマエは、楽しげにくすくすと笑って、彼を見上げた。
 目が合った、と思った瞬間。
 ふっと柔らかに微笑まれて。

 キス、された。

「……っ!」
 驚いて、思わず身を離す。
 瞠目して男を見ると、驚くほど真剣な顔をしていて、逃げ出そうとしたナマエを逃がすまいとばかりに、手を取ってぐいと引寄せる。
ナマエ
 低く掠れた声で、耳元で熱く囁かれる。熱い吐息が掛かり、ナマエは反射的に体をふるわせた。
 何か言おうとした彼女の口を、ヘクターは再び己の唇で封じた。先程よりも深く長く口付けられ、ナマエは目を白黒させた。
 いきなり、何をしているんだ、この人は。というか、これって口づけ?
 我に返ったナマエは、猛然と反抗しはじめた。けれども、蕩けるような口づけと男の力にはやはり敵わなくて。
「な、何を……!」
 ようやく唇を解放されたナマエは、彼の行為にしばし呆然とし、突然赤くなったかと思えば、すぐに蒼白となった。婚約してもいない人と、口づけを交わしてしまった。「どうしよう」とナマエはおたおたとし始める。
「なんだ、アンタ」
 そんな彼女の反応に、ヘクターは、にやり、と笑った。
「案外、男、知らねぇんだな」
「――っ!!」
 ナマエは息を呑み、きっと男を睨みつける。
 美しい夜空の下、パァン、と、小気味良い張り手の音がした。

「あ~あ、逃げられたか」
 くつくつと笑いながら、ヘクターは叩かれた頬に触れる。ナマエの慌てふためいた表情を思い出すと、柔らかい笑みが零れた。
 ――次は、そう簡単には逃さねえぜ?
 心の中で呟き、獲物を狙うように、目を細めた。


 ぐらぐらと足元が揺れていた。
 まるで、一気に酒を煽ってしまったかのようだった。
 ヘクターは、強い美酒のような男だ。
 知らずに飲めば、悪酔いしてしまうような。
 けれども、一度味わえば、癖になってしまう。
 そしてそれを、自分は味わってしまった。
 ナマエは、そっと唇に触れる。
「……ヘクター殿」
 名を呟くと、心がざわざわとざわめいた。
 とうに自分は、彼という美酒に酔っているのかもしれない。