モーニングコーヒー…




「たのもーう!!」
 まだ日も昇りきらぬ明け方、帝都に住むナマエは下の階でドンドンと扉が叩かれる音に飛び起きた。
「あ……?」
 ナマエは寝ぼけまなこで外を見ると、帝都はまだ明るくもなっていなかった。まだ醒めぬ眠気のせいで、ぼんやりとベッドの上に座っていると、再び急かす様にドンドンと扉を叩く音がした。
 早朝の来客、職業柄たまにあるとはいえ、こんな朝早く叩き起こされる身にもなって欲しい。今日はどこのどいつだ莫迦野郎などと内心で悪態をつき、心地の良い眠りを妨げられて不機嫌そのものの顔でナマエはベッドを抜け出し、適当にローブを羽織る。乱れた髪を手櫛で整え、下へ行くと、扉の向こうの人物が痺れを切らしたように喚いた。
「緊急、緊急事態です! ナマエ殿、ナマエ殿は居られますか!?」
「なんですかこんな朝早くに……」
 朝早くに近所迷惑な、そう苛立ちながら扉を開けると、予想外の人物がそこにいて、ナマエは目を丸くした。
ナマエ殿ですね!? こんな早朝から申し訳ありません! 陛下が一大事なのです! 至急、宮殿の方にお越し願います!」
「――は!?」
 ナマエの目が、一気に醒めた。


 文字通り、着の身着のまま家を飛び出した。
 とりあえず医務道具を身につけ、着替える間も惜しんで兵士の馬に相乗りさせてもらい、果たして血相を抱えてジェラールの元へと案内されたナマエが見たものは――。
「……。…………。」
(……なんで!?)
 噂の重傷人とやらは、訓練場の窓際に座って、ぼんやりとしている。
 ――ピンピンしてるし。
(あれの、どこが、一大事だっ!)
「ああ、おはよう、ナマエ殿」
 怒り心頭で立ち尽くすナマエに気付いたジェラールは、やや瞠目して、そしてさっと実に爽やかに微笑んだ。実に目に眩しい。
「おはよう、ございます……!」
 対するナマエは、堪えきれない怒りを滲ませながら、挨拶を返した。
 そして足取り荒くジェラールの元へと赴き、彼が片手で抑えていた腕の怪我の様子を見て、とうとうブルブルと震え出した。
ナマエ殿?」
「……なんですか、何なんですか! こんな朝早くから呼ばれて来て見れば……!」
 なんてことはない、綺麗に切れた傷は深くもなく、もう血も止まっていたのだ。こんな傷一つで朝早く叩き起こされ、さすがの温厚なナマエとて限度を越える。ナマエは怒りも顕わにジェラールをきっと見据えると、
「こんなかすり傷一つで呼び出さないで下さいよぉぉ」
 ガクリと脱力した。人間、怒りもある程度越えると、諦めの境地に達するらしい。
 そんなナマエの反応を面白げに見ていた騒動の大原因は、くすりと笑ってあやす様に彼女の頭を撫でた。
「すまない。しかし、これは別に私が仕向けた事ではないから、どうか勘違いをしないで欲しい。私だって、ナマエ殿がいきなりここに現れて驚いたのだから」
 彼の言葉にナマエは信じられないといった表情で顔を挙げた。曰く、彼が日課の朝練の最中に誤って怪我をし、それを見ていた例の兵士が、皇帝陛下が大怪我をしたと勘違いをして、大層青ざめて慌てて飛び出し、街で評判のナマエを呼びに行ったという。……なんともそそっかしいというか、呆れるというか。
「信じてくれた?」
「……信じましょう」
 にこやかに問うジェラールに、ナマエは痛む頭を抑えながらも頷いた。すると、彼は一層艶やかな笑みを浮かべて。
「それで、薬師殿。この傷の治療はしてくれないのか?」
 う、とナマエは言葉に詰まる。
「そ、その程度なら、下手に治療をするより、放っておいた方が直ぐに治るでしょう」
「しかし、傷口から病が入り込み、悪化しては堪らない。さあ薬師殿、私に治療を」
 凶悪な笑顔とはこういうのを言うんだろうか。何も言えなくなってしまったナマエは、ぐっと息に詰まった。
「皇帝に何かあっては、この国にとっては一大事だろう?」
 ――はい、もう貴方に逆らいません、と思わず片手を挙げて誓いそうになった。
 ナマエはしおしおと治療に取り掛かる。手際のよい彼女の治療は、あっという間に終った。
 包帯に包まれた腕を押さえ、ありがとう、とジェラールは礼を言う。ナマエは荷物をまとめてぺこりと頭を下げ、自分の仕事は終ったとばかりにさっさと帰ろうとした。

 が、何を思ったかジェラールは、去ろうとする背中に待ったをかけた。
「そうだ、ついでに、もう一つ治療して欲しいところがあるんだ」
 魅惑的な声は、ナマエへと張った罠であった。
 薬師として当然のように足を止めたナマエは、警戒も疑問も抱かずにジェラールへと近寄った。
「どこですか?」
 ナマエが問うと、ジェラールは嫣然と笑んだ。獲物は罠に掛かったのだ。
 ジェラールはさりげなくナマエの手を掬い、まるで自然な仕草で自分の方へと引寄せると。
「ここと、ここだ」
 と、彼女の手を自らの胸の上と、そして唇へと導いた。唇に触れた指先は冷たく震え、彼女が随分と緊張しているのが伝わった。
「動悸がするんだ。ひどく、ね」
「……え、あの、へ、陛下」
 戸惑い、掴まれた手を引き戻そうとするナマエを、ジェラールは許さない。こんなチャンスはまたとないのだ、逃がして堪るものか。
「これはナマエにしか治せない。治し方は、分るだろう?」
 まるで獲物を狙うハンターのように、隙の無い視線で彼女を見つめる。ナマエは、彼の余りに突然の豹変に、硬直したまま動かない。ぐいと細腰を抱き寄せると、抵抗はなかった。
「で、でも、わ、わたしには……」
 ナマエが微かに抵抗を見せる。泣きそうな声は、しかし逆に嗜虐心を煽った。
「何を言う。医学を志す者ならば、病人を癒すのが義務だろう」
 ナマエの目の前に、魅惑的な笑みを浮かべる彼の美しい瞳がゆっくりと迫った。まるであの凶悪な術テンプテーションに掛かったように、形の良い唇に釘付けになる。さらに近付く、その差、僅か紙一重。
 ――もうだめだ。
 観念し、ナマエは目を閉じる。唇に、ジェラールの吐息が掛かった。
 ……だが、幾ら待てども甘い官能は訪れない。あれ、と不思議に思っていると、
「――そんな風に目を瞑られると、本当にキスしてしまうよ?」
 何故か躊躇うような声が聞こえて、ナマエは慌てて目を開けた。すると、ドアップで彼の人と目が合い。
「……わっ!」
 思わず仰け反り、後ろに転げそうになった。ジェラールが支えて事なきを得たが、ナマエが鼓動を鎮めていると、彼は今度は可笑しそうに笑い出したではないか。
「ごめん」
 ナマエが睨むと、慌てたように彼は手を振る。
(こ、の、女たらし!)
 ナマエは拳を振り上げたい気分になった。しかし、直ぐにそれも萎えた。彼は何を思って先ほどのような行為に及んだんだろう。本気かそれとも冗談か、とそこまで考えて、まさか本気であるはずないと思って悲しくなった。さっきのは、きっとからかわれたんだ。ああそうだ。そうに違いない。けれどこんな麗人にからかわれるのは、彼にときめく乙女心には切なくて。
「あんまりだ……」
 途端にいじいじとしだしたナマエに気付き、ジェラールは慌てて笑いを引っ込めた。
「笑って気を悪くした? それはすまない」
 あくまで真面目に謝る皇帝を、ナマエはもどかしそうに見上げる。
「そうじゃなくて、あーもう」
「なんだい?」
 促がされ、ナマエは、しばし「それは、その……」と言葉を濁し、そして意を決したように息を深く吸った。
「……キスするのに、いちいち相手の了承とか貰うんですか?」
 問いに、ジェラールはぱちりと目を瞬き、そして、
「ああ。それは、つれない薬師殿限定でね」
 今度は訊ねないことにするよ、とにっこりと笑うと、おもむろに首を傾げた。ナマエの顔に陰が掛かり、反射的に目を瞑ると、ふっと唇に柔らかな感覚が降りた。
「は……」
(……え)
 ぱちぱち瞬き、目の前の人を見上げると、蕩けるような笑みを向けられた。
(……えぇええっ!?)
 一呼吸遅れて、ナマエは盛大に顔を赤くした。

「朝食はまだだろう? 庭に用意させるから、一緒に食べよう」
 一人赤い顔で立ち尽くすナマエを他所に、ジェラールは上着を持って優雅にテラスへと向かう。が、ふと振り向いて何かに気付いたようにナマエに歩み寄ると。
「その前に、着替えた方が良いだろうな。その姿は、流石に目に毒だ」
 にこやかに言って、持っていた上着でナマエを包む。
 その言葉にはっとしたナマエは、慌てて今の自分の恰好を顧みた。薄い生成りの寝着の上にローブだけ、オマケに顔も洗っていない。
 ナマエの顔から、さぁっと血の気が引いていく。
「お、お見苦しい恰好、失礼しました~っ!!」
 ガバリと頭を下げ、それはもう脱兎の如く走り去っていった。
「……」
 一人残されたこの国随一の貴人は、ちっ、と舌打ちをした。


 その日の午後、こっそりと借りた上着を返しに来るナマエの姿があったとか。
 そしてご多分に漏れず彼の人に見つかり、モーニングコーヒーならぬ午後のお茶に散々つき合わされたとかとか。