移り気な心をひきとめる




 バレンヌ帝国現皇帝、ジェラール一世陛下率いる一行は、南バレンヌ領に続きルドン領を傘下に治めた後、更なる領土拡大のためナゼール地方を目指していた。
 ナゼール地方に渡るためには、強敵モンスターが跋扈するルドン高原を通らなければいけない。そのため一行は、装備の強化とひと時の休息のため、街道の途中にある街に立ち寄ることになった。
 街道沿いにある街は大抵栄えているものが多いのだが、今回立ち寄った街もまたその例外ではない。交通の要所であるその街は、旅人や商人の訪れを歓迎している。市街の中心には彼らを受け入れる宿屋や酒場が少なからずあり、街を賑わせていた。

 ジェラール一行は街に入り、まず今晩の宿を決めた。訪れる者が少なくないこの街では、良い宿はすぐに埋まってしまうためだ。既に日は傾き始めており、他の旅行者達も足早にそれぞれの目的地へと向かっている。
 幸いな事に、一軒目の宿屋で部屋はすぐに取れた。だが、部屋が取れたからといってすぐさま休息にありつけるというわけではない。この後彼らは、明日の高原越えの準備を始めなければならないのだった。



 バレンヌ帝国の誇る有能な宮廷魔術師にして皇帝の血縁である公爵令嬢ナマエは宛がわれた部屋を訪れると、一先ず荷を解いた後、ソファに座って一息ついた。高級宿と謳い文句をかかげたその宿の部屋は、さして広くはないが中々の豪奢な内装である。
 ソファに座した彼女の視界には、柔らくて清潔そうなベッドがその存在をアピールしており、遠征で疲れきったナマエをこの上なく誘惑している。叶うならばこのままベッドの上に身を横たえ、安らかな眠りの世界へと旅立ちたいところだがそうもいかず。皇帝の忠実なる部下である彼女は、各々部屋で荷を解いた後ジェラールの部屋を訪れるように、との指示を忘れてはいなかった。
 そろそろ行かなければ。きっとベアやテレーズはもう向かっている頃であろう。ナマエは重い腰をあげると、敬愛する皇帝陛下のもとへ向かった。

 ジェラールの部屋を訪れると、丁度若き皇帝と帝国猟兵長テレーズが地図を広げて話し込んでいるところだった。重装歩兵長であるベアは居なかったが、彼は一足早く買出しに向かったようだ。
「ジェラール様」
「やあ、ナマエ
 ジェラールがナマエに微笑んで、手招きする。ナマエは招きに応じ、彼らの座るテーブルへと着席した。
 ジェラールとテレーズの会話は途切れない。明日の高原越えについて議論しているようだ。ナマエは口を挟まず耳を傾けていたが、ふとテーブルの上に用意されていた紅茶のセットを見つけ、三人分の紅茶を用意しはじめた。
 あ、とテレーズがそれに声をあげる。ナマエ自らに紅茶を用意させてしまった事に、随分と恐縮している様子だった。
「申し訳ありません、ナマエ様。後は私がやりますから」
「いいの、気にしないでください」
 ナマエはテレーズの申し出を断り、それぞれの前に紅茶のカップを差し出した。
「ああ、ありがとうナマエ
 ジェラールは一端議論を中断し、紅茶を味わうことにした。
 良い茶葉を使用しているらしい。芳しい匂いが漂った。
 ふと、暫らくして思い出したようにジェラールがナマエに尋ねる。
「そうだ、へクターを見なかったか?」
 思わず、ナマエはその名にドキリとした。
「まだ、来てないのですか?」
 ナマエは首を傾げた。自分が一番遅い登場なのかと思えば、どうやらそうでもないらしい。
 傭兵隊隊長ヘクター、皇帝一行の中では、一番の変り種である。雇われ兵という気質上、自由奔放な面をもつ男だ。荒々しい野生の魅力を持つ彼は、この頃よく保護者の目を盗んではちょっかいを出してくるものだから、度々ナマエの理性を揺るがせる。世間知らずな彼女の事を莫迦にしているのかと思えばそうでもなく、時折こちらが恥ずかしくなるほど妙に優しくなるものだから、乙女心は忙しなく一喜一憂させられる。
「忘れてるのかな」
「彼のことですから、恐らく指示の事を忘れて、街に遊びに繰り出したんでしょうね。多分今頃、酒場で一杯やってる頃だわ」
 ジェラールはナマエの反応に苦笑し、皇帝の忠実な部下であるテレーズは全くなんたること、と憤慨を隠せない。彼女は黄金色の艶やかな髪を苛立たしげに翻した。
「陛下、あの役立たずが居なくても明日の準備は我々で委細抜かりなく整えますので、ご心配なく」
「うん、ありがとう。……でも困ったな、彼に相談したいことがあったんだけど」
 苦笑しつつテレーズに礼を云ったジェラールは、夏草色の瞳を僅かに曇らせぽつりと漏らす。
 丁度紅茶を飲み終えたナマエはその言葉を聞き、カタンとカップをテーブルにおいて、おもむろに立ち上がった。
ナマエ?」
「……あの、でしたら、私、呼びに行って参ります」






 夜の街は――特に酒場は危ないから止めた方がいいと主張するジェラールの反対を押し切る形で宿を出たナマエは、丁度半刻後にとある酒場の扉の前に立っていた。ヘクターはきっと酒場にいるというテレーズの言葉を信じ、街中にある酒場を当たり続けて、これで丁度五軒目である。ジェラールの主張通り、これまで訪れた酒場は、大概ナマエのような人物の訪れを歓迎してはくれなかった。喧噪がひどく、粗野な言葉が飛び交う店内は予想以上にすさまじい。ある者は酔いに任せてナマエに絡み、嫌がる彼女を見ては笑っていた。それを繰り返す事四回、そろそろ流石に嫌気がさしてきたころだ。
 目の前にある建物は、今までの酒場よりもこじんまりとしていて、周りの喧噪が遠い。どことなく、帝都アバロンでよくヘクターが贔屓にしている酒場に似ているような気がする。
 なんとなく、彼がこの中にいるかもしれないという予感を覚え、ナマエはそっと酒場の扉をあけた。
 酒場のざわついた空気とともに、軽快な音楽がナマエを出迎えた。一歩足を踏み入れたナマエに、酒場のマスターがいらっしゃい、と声をかけてくる。
 声のほうに顔を向けると、鮮やかな色彩が視界に飛び込んできて、ナマエははっとした。
(あれは――)
 奥にあるカウンターに、一人の男がこちらに背を向けて座っている。ただの男ではない、殆んど無法者のような恰好に背には大剣を背負い、極めつけはピンクのマント――と、その恰好は奇抜としか形容できず、髪型に至っては所々青や紫の色に染められ、重力を無視して天を向いている。
 一見近付くのを躊躇いたくなるような風貌であったが、だがそれこそがナマエにとっての目印だった。


 奥のカウンターへと向かうと、目的の人物は丁度美女相手に楽しんでいるところであった。恰好からするに彼女もまた旅行者のようだが、隣に座る逆毛の男――ヘクターに随分と親しげな笑みを浮かべている。
 もしかして、知り合いだろうか。その考えに、途端に心中にもやもやとしたものが生まれた。二人の男女の雰囲気にナマエは何となく近寄り難く感じたが、内心は面白くない。何故そう感じたのかは分らないが。
 正確にはその感情は悋気によるものであったが、まさか悋気のそれであるとはナマエは気付かない。
「ヘクター殿」
 残念な事に丁度向こうの客席がどっと沸き立ち、その喧噪から彼女の声は掻き消される。
 だがナマエがもう一度声をかける前に、「あら」と美女の方がヘクターの背後に立つナマエの存在に気付いたようだった。その視線に気付き、ヘクターもまたこちらを振り返る。
 山猫のような鋭い印象を受ける切れ目の瞳がナマエを認め、大きく見開かれる。彼の片目を覆う硝子製の眼帯に己の姿が映るのを認めて、やっとこっちを向いてくれた、とナマエは得体の知れない安堵感を覚えて逆にどきっとした。
ナマエじゃねえか」
 ヘクターはナマエの思わぬ登場に些かの面をくらった後、すぐに人懐っこい笑みを浮かべて彼女を歓迎した。
「そんなところに突っ立ってないで、こっち来いよ」
 ナマエは彼の手招きに応じ、彼の傍へと寄った。ちらと隣の美女を伺うと、ナマエをヘクターの連れであると判じたのか彼女は既に他の客からの誘いに応じているようだ。どうやら邪魔をして悪い、などという罪悪感を持つ必要はないらしい。ナマエは改めてヘクターへと向き直った。
「あの」
 と、云いかけたナマエの目に、彼の手に握られたエールの入ったゴブレットが飛びこんできて、思わず眉を顰めてしまった。
「飲んでいらっしゃったのですね……」
 あたり前だろう、とヘクターはしれっと返す。ここを何処だと思っている、とでも云いたげな呆れた表情に、ナマエは少しかちんときた。呆れたいのは、むしろこちらのほうなのに。
「それで、どうした? あんたがこんなところに来るなんて、珍しいな」
 云いながら、懲りずに彼がゴブレットを煽ろうとしたので、「ヘクター殿!」とすかさずナマエはそれを阻止した。拍子に、ゴブレットから零れたエールが指先を濡らす。
「おい――」
「どうした、じゃありません。ジェラール様がお呼びですわ」
「ああん? なんだって?」
 ナマエが渾身の笑みで指摘するも、肝心の相手は聞いているのか聞いていないのか。ヘクターは彼女に阻止されているゴブレットが気になるらしく、生返事のみで取り合わない。
「つか、この手、放してくんねえ?」
 どころか、彼女の指を器用に除けていき、ついには彼はゴブレット奪取に成功したようだった。
「あっ」
「おっしゃ、愛しきエールよ、今再び我が手に!」
 再び手を伸ばしても時既に遅し、ふざけた口上とともにヘクターは奪い返したゴブレットを嬉々として煽ったものだから、ナマエはいよいよ憤慨を隠せなくなった。
「ヘクター殿! 陛下が後でお部屋に集合するようにと仰られた事、お忘れなのですか?」
 だがヘクターは頓着せず、喉を鳴らしてエールを飲み続ける。もしや完全無視を決め込むつもりか。彼女はその態度に、怒りを覚えて声を荒げる。
「もう、少しは私の話を聞いていてください!」
 しかしその勢い虚しく、ヘクターはエールを飲み干したようだった。
「ぷはっ、生き返るねぇ。――で、なんだって?」
 と、問い返され、思わず脱力する。
「……。で、ですから、陛下が――」
 ナマエが繰り返せば、ああ! とそこで思い出したようにヘクターが膝をうった。
「あー、そういえばそうだったな。すっかり忘れていたぜ」
「……」
 さらりと爆弾発言を落とした男に、彼女は思わず言葉を失った。
「……やっぱり」
 心なしか頭痛を覚えて、頭を抱えたくなってきた。やはりジェラールの読みは正しかったのだ。
 しかし、随分とあっさり云ってくれるものである。謝罪の言葉一つすらないところは、非常にヘクターらしい。実際、彼は悪いなどとは一欠けらも思っていないのだろう。彼ら傭兵を動かす不文律は、法ではなく『酒、金、女』であることは、ナマエもこの頃になってようやく分り始めた事である。

「――で、それだけのために俺を捜していたのか? というか、あんたのお兄様はよくお前を使いに出したねぇ」
「え?」
 だから、謝罪どころか彼が突然にやりと危なげに口の端を吊り上げ、ナマエのジェラールへの敬愛ぶりを皮肉り始めたことも当然想定内でなければならず、動揺も赤面も避けねばならなかった。何が楽しいのかは知らないが、彼はよくこうやってナマエをからかい、わざと彼女の勘気を誘うのだ。
 けれど根が素直な性質のナマエは、やはりというか、彼の言葉に過剰に反応し思わず顔を赤くしてしまう。
「たいがい夜の酒場なんて危険な場所にあんたみたいのが赴くなんざ、保護者としては許可できねえだろ。あ、もしかして、無理して出てきた? そうかそうか、そんなに俺に逢いたかったのかお前」
「な、莫迦な事を言わないで下さいっ」
 そして赤くしてから、はっと我に返って慌てて頬を抑えた。いけない、なにか反論しなければ、彼の云うところの『つまらない用事のために、わざわざヘクターを探し回った』という事を認めたことになってしまう。ヘクターはニヤニヤとこちらを見ている。
「だって、私が一番することがなかったんですもの。陛下とテレーズは明日の高原越えの件でお話がお忙しそうだったし、ベアは買出しに行っていたし」
 だから、つまり、あの。言い訳は途端に詰まり、ナマエは恥ずかしそうにヘクターから視線を外す。
 彼はその様子に読み取れるものがあったのか、ははあと深く頷いて、意地悪そうに口元を歪める。
「へええ、暇だったから捜してやったって? 世間知らずなお姫さんのあんたがたった一人で、それも、俺を捜すために夜の酒場を訪ね回った? そりゃ大変なこった」
「……揶揄ならば結構です」
 あまりのヘクターの云い様に、ナマエは流石にむっとした。
 おっと、とヘクターはすかさずナマエの肩を引寄せ、
「怒るなよ。ありがとさん、俺は迎えに来てくれたのがお前で嬉しいぜ?」
 と、低い声で耳打ちする。男の思惑通り、ナマエはぐっと言葉につまって頬を染めた。
 その様子に、ヘクターはしたり顔で猫のように目を細める。男慣れしていないナマエをからかうのは、彼にとって今現在もっとも面白い遊戯の一つのようだ。
「う、うそばかり……」
「嘘じゃねえって」
 ナマエの小さな反撃はあっさりと返り討ちにあって、う、と真っ赤な顔のまま小さくうめいた。
 何気ない彼の行動一つ一つに、なぜこうも振り回されるのだろうか。ヘクターの密やかに挑発するような視線が、きっと耳まで真っ赤になったこの顔を見ている。彼の目に自分は初心で無知な少女のように映っているのだと思うと、このまま恥ずかしさに逃げ出してしまいたくなった。
 だが、このまま翻弄されているばかりではいけない。ナマエには、正当な目的があって彼を探し回っていたのだ。
「な、なら! 早く帰りましょう。ジェラール様がお待ちですから」
 ナマエは煩い鼓動を静めてなんとか平静を装い、再び強気でヘクターへと対峙を試みた。
 ……が、しかし。
「――ヤダね」
「え?」
 ナマエは思わず耳を疑った。
「やだ……って、どういうことですか」
 しれっと彼女の申し出を断わった男は、懲りずに給仕を呼びつけ追加注文を頼むと、「あのさあ」と再びナマエに向き直る。
「俺は今見てのとおり、勤務労働時間外で、個人的なお楽しみの時間なの。――って、オイオイ睨むなよ。その分ちゃんと今日の報酬分は働いたし、誰にも文句を言われる筋合いはないね。それともなんだ、あんたの敬愛する兄上は部下にひと時のお愉しみの時間すら許してくれないってのか?」
「そんなことは……」
 逆に問われ、ナマエはぐうの言葉も出ない。ヘクターの言い分は確かに間違ってはいない。彼は所詮雇われ兵で、帝国軍の規律に縛られる立場にはない。傭兵は戦場で武を揮うために雇われているのだ。
 だからこんな平和な街中にいて、命令に従えと強くは云えない。ナマエは困り果てた。これでは当初の目的を果たせそうにないではないか。
「ヘクター殿、それでは子供の我がままのようですわ」
「いーんじゃねえの。あんたに迷惑はかけてないし」
 ヘクターはにやにやと締まりない笑みを向けている。こちらを完全にからかっているのだと思わせる態度に、ナマエは頭を抱えたくなった。
「迷惑です、すごく困ります」
 半ば本気で訴えるも、この場合相手が悪い。そりゃいいねえ、と益々図に乗ってくる始末だ。

 ――と、突然ヘクターが何かを思いついたように膝を打った。
「なあ、そんな事よりあんたも一杯付き合えよ。せっかくのお楽しみを邪魔されたんだ。その詫び代わりに、少しくらい良いだろう?」
「え、ちょっと……、ヘクター殿?」
 と、殆んど唐突に、彼が強引にナマエに席を勧め始めたので、彼女は目を白黒させた。
「ほら、ここ座れよ。エールは飲めるか? それとも、お前なら甘い方が良いかな。おいマスター! カウンター借りるぜ」
「ヘクター!」
 まさしくナマエの意思などお構いなし。勝手に話を進めていくヘクターに、彼女は思わず声を荒げた。だがしかし、ヘクターはナマエの癇癪など頓着しない様子で飄々とカウンターの向こうへと体を滑らせ、そこにあったリキュール類を勝手に拝借し始める。
 カチャカチャと硝子瓶のぶつかる音。ブランデーの香りと、オレンジの爽やかな香りが混ざり合う。軽やかにシェイクされる音がして、細い足のグラスに液体がとくとくと注ぎ込まれる。
「ほらよ」
 時間にして僅か数十秒、鮮やかな手付きで男が作り出したカクテル酒が、ナマエの目の前に出された。とろりとした濃いオレンジ色の液体がグラスの中で揺れると、かんきつ類の甘酸っぱい爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。その脇に華を添えるは、真っ赤なチェリー。……適当に作ったにしては、まずまずの見栄えである。
「あ、ありがとうございます……」
 ナマエは条件反射で礼を云ってしまってから、果たしてこれに口をつけて良いものかどうかと頭を悩ませる。どちらかといえば酒にあまり強くないナマエは、しばし目の前に出されたグラスを睨みつけるように見詰める。このカクテル、見た目と匂いから想像するに口当たりも柔らかく甘そうだし、きっとヘクターがナマエの好みに合わせてくれたのだろうことが伺える。けれど製作工程を見た限りでは、結構度数が高いリキュールをがんがん使っていたようだったから、実際のところは分らない。もしかしたら、ものすごく苦かったり辛かったりすることもあるかもしれない。
(もし酔って帰ったりなどしたら、陛下がなんと仰られるか……)
 と、内心迷いに迷っていると、どうやらナマエが機嫌を損ねているのだと思ったらしく、席に戻ってきたヘクターが苦笑を漏らす。
「一口くらいは良いだろ? せっかく、お前のために作ったんだ」
「はあ……」
 ナマエは顔をあげて、気の抜けた返事をした。
「はあ、ってお前ね。失礼だなあ」
 へクターはナマエの反応に、やれやれとばかりに肩を竦める。
 自分のためにと言われれば、飲まないわけにはいかない。が、まだナマエの決心はつかないようだった。実際彼女は、酒といわれる部類のものが、苦手だったからだ。
「おし、分かった!」
 その様子を見てヘクターはしかし諦めるどころか、ナマエになんとかして手元のカクテルを飲んでもらおうといっそう心に決めたようだった。無論、手段は問わない。
 身を乗り出したヘクターは、ナマエをずいと下から覗き込み、ある一つの条件を提示した。
「じゃあ、そうだなあ……、お前がこれを飲んだら、一緒に宿に戻ってやる。飲まなかったら戻らない」
 え、とナマエはその言葉に瞬いた。それこそ、今のナマエならば絶対飛びつくであろう条件だ。
「どうだ? 約束するぜ?」
 そして、果たして予想通り。
「……その言葉、本当ですね?」
「ああ、約束してやるよ」
 俄然生き生きとしはじめたナマエに対し、にやりとヘクターが嗤う。少し、含みが感じられる笑みだったが、ナマエはそれには気付かず、約束ですからね、と今一度ヘクターに向かって念押ししてから、恐る恐るグラスに口をつけた。
 ――ファーストインプレッションは、爽やかなオレンジの香り、次にアルコールの刺激がとろりと鼻腔に立ち昇り、しかしその存在を主張しすぎずオレンジの甘さとともに喉の奥へと流れていく。舌触りは最高級のシルクのように滑らかだ。あとに残るは、オレンジとブランデーの調和した芳香。
「どうだ?」
「……美味しい」
 思わずナマエが素直な感想を漏らすと、ヘクターがふふんと得意げに胸をそらした。
「ま、当然」
「すごく飲みやすいわ。何が入っているの?」
「ブランデーとオレンジ・キュラソー、あと隠し味に卵の黄身」
 最後にあげられた意外な材料の名に、ナマエは目を丸くした。
「黄身なんて入れるのですか」
 だからあんなに口ざわりが良かったのか、と感嘆を漏らす。これはどうやら即席のものではない。きちんとしたレシピのもとで作られたカクテルらしい。
「あの、これは何と云う……」
 と、このカクテルの名を訊ねようとした、その時。

「――へえ、ブザム・カレッサーね。そのお嬢さんが飲むにしては、随分と意味深なもの作るじゃない?」
 急に横合いから口を挟まれ、え? とナマエが拍子抜けしたように瞬いた。声の主を捜すと、先ほどヘクターと親密な様子であったあの例の女性が、彼の隣の席に戻ってきているところであった。どうやらこの店内で彼女の興を引く男性には、めぐり合えなかったらしい。
 ヘクターが、よお、と気さくに応える。それに魅惑的な笑みを浮かべた彼女が、ちらと戸惑うナマエのほうに視線を流して、ふふっといかにも楽しそうに微笑んだ。
「しかも、本人はカクテルの名前の意味も分ってないわよ、きっと」
 ナマエには、彼女が云わんとしていることが分らなかった。だがヘクターには通じるものがあったようで、苦笑混じりにおどけている。
「いーんだよ、知らねえくらいが丁度いい」
 なにが、とはこの雰囲気の中、いくらなんでも訊く事はできない。ナマエはもやもやとしたものを胸に覚えた。別段莫迦にされたわけではないのだが、ナマエの理解が及ばぬところの事を、赤の他人の女性から含みのある言い方――しかもヘクターはそれを少なくとも解している――をされ、なんとなく疎外感を覚えたからだろうか。
 カクテルの名は、ブザム・カレッサー。それ以上に何があるというのか。ナマエはまだ半分以上も中身が残っているグラスを握り締めた。
「やっぱりここが一番落ち着くわ。ねえマスター、エールちょうだい、二人分。このお兄さんにもね」
「お、悪いな」
「いいのよ。その代わり、隣をまたお邪魔させてもらうから」
「こんな美女とお近づきになれるだけでも俺は光栄だぜ。ほら、店中の野郎どもがこっちを物欲しそうに見てやがる」
「上手いわね」
 ヘクターはナマエの気も知らないで、隣の美女と楽しそうに会話を交えている。
(本当に、よく回る口だわ!)
 その彼の横顔を見詰める視線が、険しくなっていることにナマエは自分で気付かない。二人の様子が視界に入るのすら癪で、彼女は努めて横を見ないようにした。
「あら、お連れさんが退屈してそうよ。いいの? 私となんか話していて」
「ん? ああ、あいつは大丈夫だ」
 むかむかむかっ。ぎしり、と手の中のグラスが悲鳴をあげる。
(ヘクターの莫迦)
 これがテレーズあたりなら、奇麗な女性を前にやに下がってみっともない! などと厳しいお言葉が飛んだところであろう。しかしそんな芸当出来るはずもないナマエは、半ばやけっぱちのようにカクテルを流し込んだ。やはり度数が高いのか、二口目は流石にくらくらとした。
(でも、美味しい)
 この甘さがどうしようもなく癖になる。
 と、ちらと美女がナマエの様子を見て、意味ありげに一瞬微笑みを浮かべた。え? と思う間もなく、その視線はすぐにヘクターへと向けられる。
「ねえ、私にも一杯作ってよ。甘いのが飲みたくなったわ」
 ナマエは一瞬ぴくりとし、そのまま固まった。その台詞が誰に向けてのものかなど考えるだに馬鹿馬鹿しい。なんて厚かましい! と一瞬ナマエはその人に向かってがなりそうになったがグッと耐えた。ナマエですら、誰であれ指図を受ける事を嫌うヘクターから何かをして貰うことは稀なのだ。もしここでヘクターがお願いを快く承諾するならば、きっと自分は彼にとって少しは特別なのだ、という儚い幻想は消えてしまう。
(断わって……、断わって断わって!)
 表面上は無関心でも、内心は必死だった。が。
「良いぜ、美人の頼みは断われねぇからな」
「……」
 密やかな願いも虚しく、ある意味期待通りの反応があっさりと返ってきて、ナマエは内心涙をのんだ。やはりヘクターはヘクターだった。自由奔放で気まぐれで、女性であれば誰でも見境なく色気を振りまくような、とんでもない男である。
 ――その上、結構意地が悪い。
(もう知らないわ、ヘクターなんて)

 ナマエは、涙ぐんだ瞳を誤魔化すように、バンとカウンターに勢いよく手をついた。
 流石のヘクターもびくりとして振り返ったが、気にせず立ち上がる。そして、グラスに半分以上残っていたカクテルを一気に煽った。
ナマエ!?」
 ヘクターがぎょっとする。
 カクテルを全て飲み干すと、一気に体内がかっと熱くなった。最早味などわからない、口内が燃えるようだ。それでもナマエはグラスを置いて、ご馳走様でしたと告げた。
 そして隣で唖然としているヘクターにずいと迫りかかった、
「さあヘクター殿! 約束どおり一杯付き合ったのですから、早く、――っ?」
 のだが。
 あれ、なにかおかしいぞ、と急に違和感を覚えナマエが内心首を傾げた時、ぐらりと視界が歪んで一瞬意識が遠のいた。
ナマエッ!」
 ヘクターの鋭い声が耳に届く。身体の平衡感覚が無くなり、まるで宙に浮いているようなふわふわとした感覚がしばし訪れる。
 だが、それは厳密にはほんのわずかの間であった。
「――っと!」
 どさり、と何かにぶつかる感覚が訪れ、我に返ると目の前にヘクターの顔があって内心ぎょっとした。
「え……?」
「あっ……ぶねーお前、もう少しで頭強打するところだったぞ」
(ええと……?)
 どうやら席から転げ落ちそうになったところを救ってくれたらしい、ナマエはヘクターに肩を抱かれる形で床に座り込んでいた。
「やだっ、わたし……」
 慌てて立ち上がろうとするも、腰が抜けて立ち上がれない。再度崩れ落ちた彼女は、あっけなくヘクターの腕に逆戻りしてしまった。
ナマエ? おい、酔っちまったのか」
 ヘクターの心配そうな声は、しかし耳を素通りした。急に立ち上がろうとしたせいか、頭がぐらぐらと揺れ気分が少し悪い。ナマエはヘクターの腕にぎゅっと掴まりながら、呻いた。
「め、目が、回る……」
 目の前がくらくらとする、というよりむしろ、地面が歪んで波打っているようだった。どうやら殆んど意識がアルコールに支配されているらしい、と思考の片隅に辛うじて残っていた理性が告げる。酒に飲まれて倒れかかるなど、これではただの性質の悪い酔っ払いではないか。仮にも公爵家に名を連ねるものが、なんていう失態を人前に晒してしまったのか。ただちに何とかして体面を取り繕わねばと思うも、体は思うように理性のコントロールを受け付けてはくれない。
「悪い、お前にはあの酒は強すぎたんだな。大丈夫か? ……ったく、というよりお前も少しは考えろよ、一気に飲む奴があるか。肝冷やしちまったぜ」
 乱暴な口調とは裏腹に、ヘクターが気遣わしげにナマエの頭を撫でる。彼女は鈍い動作で顔をあげた。
「ヘク、ター……」
 彼の名を口にすると、舌がもどかしげにもつれた。ん? とヘクターの柔らかな応え。
ナマエ?」
 すぐそこに、ヘクターの顔があった。普段は威圧げな鋭い瞳が不安げに揺れ、今はナマエだけを映している。まるで彼女のことを心から案じているのだ、と訴えてくるようだ。酔いが見せる幻想だろうか。まるで、
(……夢)
 では勿論ない。
 ハッとそこで急に我に返った。そうだ、ヘクターだ。己は彼を皇帝のところまで連れて行かねばならないのに。こんなところで介抱されている場合ではない、ナマエは必死でヘクターの腕をぎゅっと引っぱり寄せた。
「ヘクター、約束です……、はやく、陛下のところに戻って」
 おいおい、とヘクターが拍子抜けする。
「酔ってもソレかよ。……ったく、お前は」
 彼はナマエの生真面目さに恐れ入ったように、天を仰いで溜息をついた。しかし少しばかり気分を損ねたらしく、不貞腐れたように顰め面を浮かべている。

 ナマエはうろたえた。己の言い方が悪かったのだろうか。けれど男心というやつがちっとも分らないナマエには、どうすればいいのか分らない。どう振舞えば彼の心を引きとめられるのか、分からないのだ。
 と、くすくすと軽やかな笑い声が、二人の間を割って入る。振り返ると、例の美女がこちらを見て楽しげに笑っていた。
「そんなにお酒に弱いお連れさんじゃあ、大変ね。ねえ、その子、少し二階の個室で休ませてあげたら? その間は私が相手をしていてあげるから」
 その申し出に、ナマエは、え? と耳を疑った。
 美女は呆けるナマエを見て大人の余裕の笑みを浮かべている。それは、不甲斐無い彼女への挑発のようでもあった。
 ――所詮ナマエのような小娘にヘクターの相手は務まらないのだ、とでも云いたいのだろうか。
 いや、それは流石に穿ちすぎだろうか。
「ふうん、そりゃ魅力的なお誘いだ」
 一方のヘクターは、にやりと口元に底意地の悪い笑みを刻んでいた。彼女の申し出に快く諾と応えるつもりだろうか。
 まさか、まさか。瞬間、ナマエは我を忘れてひどく慌てた。
「だ、ダメ、ぜったいだめ!! あなたには、このひとは渡せませんっ!」
 ぐい、と酔いの勢いでナマエはヘクターの腕をぎゅうと抱きしめて、美女を威嚇しかかる。大胆な行動だったが、目の前の美女にヘクターを取られまいと彼女はひたすら必死だったから、それには気付かない。
「お、おいナマエ
 ヘクターは予想外の行為にうろたえている。ナマエは彼の腕にしがみ付いて、必死に訴えた。
「へクターも、いってはだめ、いってはなりません。陛下をこれ以上、おまたせしないで」
 上目で彼を見上げて必死に言い募る。可愛げがない言い方だとは分っていた。本当ならば、素直に『行かないで』と云いたかったが、妙なところでプライドが邪魔をして言い出せなかったのだ。
「へクター……」
 ――お願いだから、行かないで。言葉に出来ない代わりに必死で瞳で訴えかける。
 う、と妙なうめきが微かに聞こえたような気がした。え、とナマエが瞬いてヘクターを見ると、どうやら彼は少し照れているらしかった。が、彼女の視線に気付くとごまかすように咳払いをし、そしてがしがしと頭をかくと、わざとらしく肩を竦めた。
「お前ねえ、そこで”私を置いていかないで”くらい云えると、少しは可愛げがあるってもんだがなあ」
 さてどうしようかな、とばかりに彼は腕を組んで思案する素振りを見せる。その反応に、ナマエは思わず涙を呑んだ。
「そんな……」
 ヘクターは本当に、彼女の誘いに乗るつもりだろうか。
(……それでも、仕方ないことかもしれない)
 そう思い、ナマエはうつむいた。ナマエから見ても彼女は魅力的だし、ヘクターが誘いに応じるのは不自然なことでもない。それにくらべて自分はどうだ。魅力は足りない、ろくに彼の相手も務まらない。惨敗どころの話ではない。
 もし、彼が本心でそれを望んでいるなら、ナマエには恐らく止め立てすることは出来ないだろう。基本的に、彼女はヘクターに逆らえない。

 ――と。
「おい」
 ぐい、と突然、頤を掬われた。
「え?」
 驚くナマエの目の前に、唐突にヘクターの顔が映りこむ。
 顔が近い。ナマエはうろたえた。彼の瞳の中に、自分の憂い顔がはっきりと映りこんでいるのが確認できるくらい、近かった。
「あ、な……、なんですか?」
 ナマエが圧倒されていると、ヘクターは不意にふっと表情を綻ばせた。けぶるような彼の笑みに、ナマエの視線は釘付けになる。
「……そんな顔すんな。一人で勝手に落ち込みやがって、心配しなくとも、俺はどこにも行きゃしねえよ」
 ぽんぽん、と宥めるように頭を撫でられる。少し遅れて、え、とナマエは目を見開いた。彼は今、なんと言った?
「ヘクター」
 茫然としながら彼を呼ぶと、ふいにそれまでの微笑は一転し、
「――それに」
 にやりと底意地の悪い笑みが現れて、ナマエはぎくりとした。
「そろそろ陛下のお呼びに応えないと、あとでベアのおっさんにどやされそうだしな、と――よっと!」
「きゃっ、なに……!?」
 と、突然ヘクターがナマエを横抱きに抱え上げたものだから、予想外の出来事に彼女は悲鳴をあげた。
 視界ががくりとゆれる。思わず地面を見下ろしてしまい、いつもよりも視線が高くくらりとした。条件反射で彼の首にしがみ付いてしまってから、ナマエは慌てて離れた。
「ヘクター、おろして……!」
 必死の形相で訴えるも、くつくつと彼は可笑しげに喉を鳴らして取り合わない。
「下ろしてもいいが、お前、腰が抜けているから歩けないだろうよ」
「……っ!」
 そういえばそうだった。ずばりと指摘され、ナマエは言葉につまる。そらみろ、とばかりにヘクターは得意げに笑い、彼女を抱えなおした。
「マスター、ご馳走さん! 金はここに置いとくぜ」
 ヘクターの怒鳴り声に、奥で接客中の店主は応えるように片手を挙げる。それを見届けてから、彼はようやく例の美女へと向き直り、まるで悪びれない調子で詫びてみせた。
「といわけだ、わりぃな。俺は目下、この手の掛かる猫で手一杯でね。また誘ってくれや」
 ヘクターの台詞に、思わずナマエがびくりと強張る。その様子を見て、なりゆきを眺めていたその人は、こらえきらないように吹き出した。
「敵わないわね、その子には。いいわ、また今度ね」
「ああ」
 くすくすと、美女の笑いは収まらない。しかし何故笑われているのか分らないナマエは、内心穏かではない。嘲笑の類ではないとは思うが、けれど笑われているというだけで不快な気分にさせられるのは仕方がない。
(どうして私が笑われなければならないの)
 一体なんなのだろう。と、彼女がいじけているのが分かったらしいのか、ヘクターまで可笑しげに肩を震わせる始末。
「……ヘクター?」
「あ、悪い悪い」
 呼ばれ、彼はしたり顔で口の端を吊り上げる。不快だ。とりわけ腹が立つのはヘクターだ。彼はなにもかも分かったような面をして、けれどナマエには決して手の内を見せない。卑怯だ。
 ナマエはいじけてふいと顔をそらす、と。
 ――ふいにばっちりと美女と目が合った。
「え」
 にっこり。
 不意打ちで微笑みを向けられたナマエは吃驚して、そして急に恥ずかしくなって俯いた。
「ごめんなさいね。短い時間だったけれど楽しかったわ、ありがとう」
「い、いいえ」
 まさか礼を云われるとは思わなかったナマエは顔を赤くし、ヘクターの腕の中で萎縮してしまった。美女はクスクスと笑い、次にヘクターへと視線を向ける。
「可愛いからって、あまりいじめちゃ駄目よ、色男さん」
「そりゃ多分無理だな」
 ヘクターはおどけたように肩を竦める。
 美女はあきれたように嘆息し、ひらひらと手を振った。
「――程ほどにね」






 店を出ると、既に外は夜の闇に染まっていた。
 表通りはまだそれでも人々の活気があり、夜店の客引きの声が賑々しい。街灯の柔らかな明かりが街を幻想的に浮かび上がらせている。
 ヘクターはナマエを抱えながら、夜の街を歩き出す。ゆっくりとした当てなく彷徨うようなその歩調に、ナマエは少し不安を覚えた。
「――どこへ向かっているのです?」
「……そりゃ、宿だろ? それとも、どこか行きたいところでもあるんなら、行ってやってもいいぜ」
 ナマエの問いかけに彼はにやりと危なげな笑みを見せる。図らず、それに彼女はどきりとして、慌てて首を振った。
「い、いいえ。このまま、宿に」
「はいはい、仰せのままに」
 皆のところに、と生真面目に答えるナマエに、ヘクターは肩を竦めた。だが、彼の横顔をはどことなく楽しそうだ。
 ナマエはヘクターにおとなしく抱えられながら、流れゆく街の風景を眺めた。時折、過ぎ行く人々が二人にひやかしが混ざった好奇の目を向けてくる。なんとなくそれがこそばゆく、そんな時には彼の胸元に顔を伏せてやり過ごした。
 ゆらゆらと、揺り篭のように揺られる。密着した部分から伝わる穏やかな心音と、人肌の温かさが心地よい。身に着けている鎧のなめした革の匂い、さらに筋張った首筋に顔を埋めれば、そこから男の匂いがした。髪からは、微かに煙草の香り。
 ――ヘクターの匂い。
 ナマエはなんとなく感傷的になり、彼の首に顔を埋めて黙り込んだ。きゅ、とヘクターの首に回している手に、力を入れる。甘えるように体を寄せたのは、殆んど無意識だった。
「どうした? 具合悪いか?」
 黙り込むナマエを心配したのか、彼は気遣うようにそっと声をかけてくる。その声に反応し、彼女は顔をあげた。
 目が合った。
「へクター……」
「なんだ?」
 何気なく彼の名を呟けば、ヘクターは律儀に応えてくれる。ナマエの漏らすどんな些細な言葉すらも聞き逃すまいとばかりのまなざし。先ほどまでのふざけた態度との違いは、明らかだ。
 今だけは、彼はナマエ一人のもの。今この時だけは彼の視線を独占しているのだと思うだけで、なぜだか目が回りそうなほどくらくらとする。酔いがまだ醒めてないのだろうか。
(なんだか、心地がいい)
 ずっとこのままでいられないかしら、と無意識に願う。ヘクターの腕の中が想像以上に心地よく、宿に戻りたくないとさえ思えてきてしまった。ふわふわと幸せな気分になってきて、ナマエは目を伏せうっそりと微笑んだ。どうした? と声がかかる。ふと瞬くと、彼が少し心配そうに見つめていた。
 ナマエは、ヘクターをじっと見つめた。
 唐突に、思いついた。鋭く切れ目で、好奇心に満ちた瞳は、まるで猫だ。
 ――そうだ、猫みたいなのは彼のほうだ。奔放で、旺盛で、つれない態度で人をさんざん振り回す。
 と、ナマエはふいに真顔になった。
「ヘクター殿、私、気まぐれな猫はあまり好きではありませんの」
「はっ?」
 突飛な発言に、流石のヘクターも不可解そうに首をかしげる。
「猫みたいなのは貴方でしょう」
 私ではなくて、と内心で付け足す。
「はあ?」
 と、彼は益々困ったように眉を顰める。
(そしてそんな貴方に振り回されるのは、いつだって私なのだわ)
 だって、だって私は――。
 思わず、黙り込む。彼女はヘクターの首にぎゅっと抱きついた。
 トクトクと、鼓動が聞こえた。すこし、早い。……もしかして、自分の音かもしれない。いや、あるいは。
「おい、どういう意味だそりゃ」
「……知りません」
ナマエ
 おい、とヘクターの少し焦ったような声。ナマエは応えず、彼の首筋に顔をうずめて目を伏せた。火照った頬に、しっとりと外気に冷えた彼の髪が当たる。体温はそれに反して、少しばかり熱い。男の熱がナマエを包み、くらくらとした。
 ――あまり私を、翻弄しないでください。
 彼の首に顔をうずめながら、そっと囁く。
 聞こえるか聞こえないか程度のごく小さなその声はしかし、え? とすぐに返ってきた反応によって、少なくとも声は届いたのだと分かった。……その内容まではどうかは知れぬが。
ナマエ、まだ酔っているのか?」
 まずいな、こりゃ戻ったら陛下に怒られるかな、とヘクターは心配そうにぶつぶつ呟いている。その様子にナマエは瞼を伏せながら、くすりと微笑む。
 密かな想い人の腕の中にいられる喜びを噛締めながら、彼女はそっと願った。
 どうか今だけは、このひと時だけは。
 ――この気まぐれな人が私だけのものでありますように、と。
 ざわめく夜の街路の中、夜光が織りなす幻想に包まれ、密やかに希う。
 ……終着点(やどや)まで、あと少し。


 ――移り気なあの人の心を一瞬でも引き止めるのは、とても大変なことなのです。