哲学の昼下がり




「ええっ!?」
 ナマエは、雇い主の言葉に思わずのけぞった。
 つい先ほど雇い主ブルーの口から出た言葉、それは「今日は午後まで休みにする」、だった。ナマエがブルーの護衛を引き受けてからこれまで、いくら彼女が駄々をこねようがこねまいが休みらしい休みは取らずに(とはいってもブルーが体力切れでダウンしたこともしばしばあったが)ひたすら資質の情報を求めて走り回っていたブルーのことだ、彼女が思わず聞き間違いかと思ったのは仕方のないことだろう。
「どうしたんですか、具合でも悪いんですかブルー、それとも頭でも打ちましたか?」
 あまりのありえなさにナマエが恐る恐る聞けば、失礼な言動にブルーのこめかみがピクリと動く。いつもどおりの反応だった。
「お前、一言目がそれか。なんなら休みを撤回してやっても……」
「わ、わーい休日だやったーうれしいなあ!」
 ナマエはあわてて大声でブルーの言葉をさえぎった。危ない危ない、陰湿なブルーのことだから撤回といえば本当にそうしかねない。
「最初からそうやって素直に喜んでおけばいいんだ」
 ブルーは、ふん、と鼻をならした。
「でも本当に良いんですか? 後でダメって云っても返品不可ですよ」
「休みを寄越せとあれほど煩かった奴が何を言っている。いまさらしおらしくされても気持ち悪い」
「きっ、気持ち悪……っ」ナマエはブルーの一言にショックを受けて沈殿した。「ひどいですようブルー」
 が、ブルーは取り合わず、
「休みとはいっても午後には出発するぞ、それまで各々好きにすごせ。俺は用事があるから出かけてくるが。他のやつらにも言っておけ」
 と、あっさり言ったものだから、「……あ、やっぱりそんなオチ?」とナマエはさらにがっくりと肩を落とした。完全にぬか喜びである。


 ブルー一行は、オウミに来ていた。
 オウミは淡水湖に隣した美しい街だ。緩やかな坂道は石畳で舗装され、レンガ造りの瀟洒な建物が並ぶ。湖の近くには、おいしいシーフードで有名なレストランがあった。
 ホテルで一泊した一行は、翌朝いつもどおりに朝食の場に顔を付き合わせた。とはいっても面子はブルーとT260Gとナマエのみである。他の者たちは大概朝が弱く、朝食の時間に降りてくることはほとんどない。
 ということで、T260Gと一緒にブルーから本日半休と申し渡されたナマエは、他の面子が下りてくるのを待ってから街に出かけることとなった。
「ホント良い街だなあ」
 ナマエはブラブラとショーウィンドウを眺めながら、のんびり街を散策した。きれいな町並みの中を歩くのは楽しいものだ。こんなにゆっくりとした時間も久しぶりなので、なんとなくうきうきとした気分になった。
 心地よい日差しが降り注いできている。店の庇の下に寝転んでいたネコが丁度大きなあくびをし、それを見ていたナマエもつられてしまった。
「うーん、なんだか眠くなってきた。どこか座れるところはないかなあ」
 半休ということであまり遠くにいけないのが残念だが、湖付近まではいけるだろう。あそこに架かっている橋に、丁度ベンチがあったはずだから。
 ということで、いそいそとコーヒーショップでコーヒーを調達して橋へと向かったナマエである。

 ベンチには、残念ながら先客がいた。しかしそれが見知った顔だったので、ナマエは声をあげた。
「あれえ、ヒューズ」
 その声に反応し、金髪の頭がこちらを振り返る。
「よお、ナマエ
 目つきの悪い三白眼の、しかしどことなく愛嬌のある顔の持ち主がナマエを認めてにやりと笑う。IRPOのクレイジーヒューズ、ヘビースモーカーな彼は、今も煙草の煙を燻らせている。手元には灰皿代わりの空き缶があって、吸い屑がびっしりと詰まっていた。
 ナマエはうなずいて、何気に彼の隣を見やって驚いた。何が驚いたかというと、その隣に可愛い女の子が座っていたことだ。珍しい、非常にめずらしい。ヒューズは自称IRPOいちのモテ男で女好きだったが、これまでナマエは一度たりとも彼が女性と和やかに談笑していることなど見たことはなかった(ナンパに失敗して、蹴られたり殴られたりしている姿は幾度となくみかけたが)
 ナマエが目を丸くしていると、不意にその女の子とばっちり目が合った。向こうもきょとんとしている。かと思ったら、なにかを納得したようにポンと手を打ち、
「なあんだ、あなた彼女いたんじゃないの。そういうことなら私、帰るわね」
 そうにこやかに言って、さっと立ち上がって去っていってしまった。止める隙もない。
 慌てたのはヒューズだ。
「あ、おい! ちょ――」
「ばいば~い、自称イイ男のパトロールさん」
「え゛」
 去り際の一言に男が硬直する。ぽとり、と手に持った煙草の灰が零れた。
 ヒューズはなかば呆然として女の子の去っていく後姿を眺めた。ややあって大きく息を吸ったと思うと、
「あ~あ、また失敗か」
 がくり、と盛大に肩を落とした。
(あららら)
「……もしかしてナンパ中でした?」
「んーまあなぁ」
 ナマエが恐る恐る尋ねれば、ヒューズはガシガシと頭を掻きながら肯首する。あちゃ、とナマエは顔を覆った。つまりナマエの登場が誤解を招き、敗北の原因を作ってしまったわけだ。(ていうか、あの女の子、ヒューズ相手じゃあ少し幼すぎたよな)(――はっ、まさかヒューズってロリコン!?)
 うわあいやだロリコンパトロールって最悪、という内心のつぶやきはともあれ、ナマエはしおらしく頭を下げたのだった。
「すいません」
「まあ……、いいってことよ」
 ヒューズはすっかり短くなった煙草を一度深く吸い、長々と吐き出しながら空を仰いだ。なんだかその横顔に哀愁が漂っている。
 対してナマエは、お許しをいただけ、ぱあっと明るい笑顔になった。
「そうですよね! ヒューズのナンパが失敗するのなんて、今に始まったことじゃないで……いてっ」
 ごつ、と伸びてきた拳骨がナマエの額を小突いた。ナマエが咄嗟に額を押さえると、拳骨の持ち主がもたれかかっていたベンチからのろりと身を起こし、パトロールで鍛えた眼力で彼女を脅しにかかった。
「お前最後まで言ったらブタ箱行き決定な」
 わかったか? とさらに念を押す。ナマエは彼の本気を感じ、慌てて詫びを入れた。
「す、すいません自重します自重します、はい」
 まったく、とヒューズは肩を竦める。口の達者な彼女のことだ、本気で謝っているのだかどうだかも怪しいものである。毎度毎度絡まれているブルーのヤツの気持ちが少しわかったぜ、と呟いたが、ナマエには聞こえていない。彼女はそそくさとヒューズの隣のベンチに腰を下ろし、のんきにコーヒーなんぞを啜っている。つい数秒前までの姿はどこへいったのか。
 とはいえ、いちいち気にするのも馬鹿らしい。なんといってもノリがいいのは彼女の長所なのだ。……短所にもなりうるが。
「ま、いいか」
 ヒューズは手に持っていた煙草を空き缶に押し込み、そうつぶやいた。
「なにがいいんですか?」
 ナマエが彼の言葉を理解できず首をかしげるも、ヒューズはにやっと意味深に笑うのみだ。新しい煙草を胸のポケットから取り出し火をつけ、深く味わいながら煙を吐き出す。
「気にするな。ところでナマエ、今から暇か?」
「なんですか?」
 ヒューズは急にたくらみ顔になり、ナマエをちょいちょいと手招きした。素直に耳を貸したナマエに、彼は何事かを耳打ちした。
「実はな――」
 こそこそ、こそこそ。
 しばし後、えっ、とナマエは声を上げた。
「お化け屋敷?」
「そう、この坂の上に無人化した館があるんだとよ。行ってみないか?」
 答えは聞かずとも、すぐに分かった。ナマエはすでに期待に満ちた瞳でヒューズを見ていたのだから。
「あ、もしかしてヒューズ、さっきの女の子を連れ込んで、いいことしようとかなんとか企んでたりしました?」
「そゆことは聞かないの」
 ヒューズは、にやついた笑みを浮かべるナマエの額をぺしと叩く。
 真実は気になるところだが、それはさておきナマエはじっとしてられない、といった様子で、ベンチから立ち上がった。
「まあともあれ、そういうことでしたら、ゲンさんとT260Gも誘わなきゃ! えーっと、T260Gはゲンさんと一緒にいるはずだから……ヒューズ、ゲンさんどこにいるか知ってます?」
「ああ……」
 ヒューズはおもむろに後ろに振返り、くい、と親指である方向を指差す。
「んん?」
 ナマエがその指の指す方向を追っていくと、視界の先にパブの看板がカラカラと風に揺れていた。


 というわけで、昼間っから酒盛りをしていたゲンとその付き添いT260Gをひっぱりだしていそいそと噂のお化け屋敷に向かった一行である。ちなみにいわずもがなだが、ゲンはすでに出来上がっている。
 さてさて。噂の屋敷は坂を上りきったところにあった。お化け屋敷というには、ずいぶんと瀟洒なつくりの屋敷であり、広大な敷地には手入れを放棄されてまもない庭園が広がっていた。青空の下であれば、なかなかの観光スポットである。
 とはいえ、ただのピクニックに来たわけではない。ナマエ一行は早速大きな玄関口を見つけ、侵入を試みた。
「お、お邪魔しまー……ってあら鍵かかってない」
 そっと扉を開けようとすると、意外にもそれは難なく開いてナマエは面を食らった。ぎい、と扉が不気味な音を立てて開く。その向こうに、薄暗い玄関ホールが広がって見えた。さすがお化け屋敷といわれるだけあって、なんとなく薄気味悪い。
 ナマエはまごついて、後ろを振り返った。
「これ、入っちゃっていいと思います?」
「いまさら何おびえてんだよ。いいから行くぞ」
 と、ヒューズは大胆にも屋敷の中へ一歩足を踏み入れた。その後姿がなんとなく頼もしく感じられ、さすがパトロール、とナマエは妙なところで関心した。
 一行は恐る恐る屋敷の中を探索しはじめた。広い豪奢な屋敷であったので、探索はなかなか骨がおれた。しかし見れば見るほど、お化け屋敷とは遠い場所ではあった。日の光がたくさん取り入れられる設計になっているおかげか、室内は明るく暖かな雰囲気だ。無論肝心のお化けもどこにもいない。根が小心者ナマエは最初ビクビクしていたものの、暫くすると堂々と屋敷内を闊歩するようになっていた。
 そして一行が食堂へと足を踏み入れたとき――。
「誰だ!」
 鋭い声が飛んできて、ナマエは咄嗟に悲鳴をあげ頭をおおった。
「ぎゃああ出たっ! 出たー!」
 すみませんすみません出来心なんですだからどうか許してください、ナマエは正体不明の声の主に思いつく限りの謝罪の言葉をぶつけた。だが。
「おいナマエ、なぁにやってんだ。よく顔を見ろよ」
 ぽん、と不意にゲンに肩をたたかれ、ナマエはびくりと体を震わせた。それでも促しに、恐る恐る顔をあげると。
「あー!」
 目の前に見慣れた二つの顔があって、ナマエは思わず指をさして声をあげた。一人はいつものように不機嫌な表情で、そしてもう一人もいつものように妖しい笑みを浮かべている。
「ブルーと先生! どうしてここに」
 不機嫌な表情の男――ブルーが、「それはこちらの台詞だ」と苛々とした顔で言った。
 対してナマエは、
「なーんだブルーだったのか。いやだなあ驚かさないでくださいよ」
 ほっと胸をなでおろし、明るく笑っている。正体不明の主がブルーだとわかってすっかり元の調子を取り戻したようである。先ほどの怯えはどこへやら、悠々とした様子でブルー達のもとへと向かった。
 しかし解せないのは、ブルーとヌサカーンがここにいる理由である。その理由を考えたナマエは、何か思いついてあっと声を上げた。
「もしかして、用事ってここのことだったんですか? やだなあ、水臭い。ブルーも肝試しがしたかったんなら言ってくれればいいのに」
 にこにこと満面の笑みでそうのたまった彼女に、ブルーは口元をひくつかせながらナマエを睨んだ。
「誰が肝試しだ誰が。俺はこの屋敷の中に不明な魔力を感じたから、その正体を探りにきたんだ」
「でも、先生が一緒なのは?」
 その問いに、ブルーは後ろに立つ男をちらりと見た。
「こいつは勝手についてきたんだ」
 ヌサカーンはブルーの言葉に妖しい笑みをうかべた。
「ふふ、姫君を一人にはできんだろう?」
「誰が姫だっ!」
 ブルーが思わずいきり立つ。と、その隣から、繊細な術士さまの神経を大いに逆なでするような、のほほんとした声が。
「まあ確かに、体力だけは姫並みですよねー」
ナマエ貴様……」
 ブルーの肩がふるふると怒りに震える。どうやらうっかり逆鱗に触れてしまったらしい。やばっ、とナマエが呟いて、咄嗟に報復を警戒して態勢を整えたとき。
「どーでもいいから早くいこうぜ。そろそろ酒が切れてきた」
 ゲンの少し不機嫌そうな声が、間に割って入った。どうやら酒が醒めてきたので、面白くないらしい。
 ゲンは臨戦態勢の二人を一瞥し、身を翻してのっそりした動きで食堂を出て行った。その後をT260Gが追う。
 すっかり興が削がれたブルーとナマエは、思わず顔を見合わせる。
「……いきますか」
「そうだな」
 その一言を合図に、ぞろそろと食堂を後にした一行である。
 食堂の椅子でタバコをふかしていたヒューズが遅れて続き、最後尾のブルーの隣に並ぶ。
「で、結局この面子がそろうわけね?」
「たしかに、これではいつもと全然かわらないな」
 ヒューズの呆れたような言葉に、ブルーが揃った面子を見回してつぶやいた。
「ブルー、ヒューズ! 早く来てくださいよー、この部屋すごいですよ!」
 と、すでに二階に上っていたナマエが踊り場からひょいと顔をだし、今だ一階ホールにいた二人にのんきに手を振る。
 ブルーが頭を抱えた。すっかり彼女のペースに巻き込まれてしまっている。
「まったく……」

 肝試しもとい探索を再開した一行は、半刻後に地下へと続く隠し通路を発見し大いににぎわっていた。ちなみに発見したのはブルーの功績である。何気なく壁に寄りかかったと思った彼だったが、仕掛け扉が作動しそのまま後ろに姿が消えていったのだ。
「こんなお邸にきな臭い地下室があるなんて、眉唾もんだな」
 ヒューズが暗闇へと続く階段を眺めて、にやりと笑った。
「あの娘の話だと、地下にお宝もたっぷりとあるらしいぞ」
「お宝!?」
 ナマエの目がにわかに輝く。
「誰、だと?」
 と、ブルーが怪訝な顔で首をかしげたので、親切なナマエはにっこり笑って説明してあげたのだった。
「ヒューズがさっきナンパしそこねた子のことですよ」
「余計なことは言わんでいいっ!」
 すかさず、パアン、とナマエの後頭部にヒューズのツッコミが華麗に入った。

 階段を下りると、そこに旧時代の神殿のような建物が広がっていた。装飾の施された支柱や丹精に彫られたレリーフは、マンハッタンの美術館に展示されているそれに勝るとも劣らぬくらいだ。
 しかし地下は暗く、じめじめと湿っていて、かび臭かった。さらにモンスターがそこら中を我が物顔でうろついているものだから最悪だ。げっそりとする一行に対して、しかし一人生き生きとしているのはヌサカーンだ。彼は常らしくなく率先して前に進み、モンスターを倒してはその体を調べていた。細胞を採取しているところを見ると、未知の病気がありはしないかと調べるつもりなのだろか。
 などと、順調に(?)進む一行だったが、突如としてその前に何者かが立ちふさがった。
 目の前に現れた影にナマエがはっと息を呑み、指をさして声をあげた。
「あ、あれは!」
 階段の中央にででんと居座った、十本足の巨大な。
「イカ……」
「デビテン……」
 誰かの声が重なった。
 デビテン――正式名称デビルテンタクラー。水棲系のモンスターで、姿形はイカそのもの。しかしその攻撃は多彩、そのうえ見上げんばかりの巨体と数本の足を巧みに駆使してくるものだから、間違いなく強敵の部類に入るだろう。通常は沼地などの水辺に生息しているはずなのだが、今目の前にいるのはその例に当てはまらないらしい。巨大なモンスターはまるで壁のように立ちはだかり、不敵な表情でブルー達一行を見下ろしてきている。その態はさしずめ、門番といったところか。
 これを倒すには、少しばかり骨が折れる作業だ。一行の足は自然その場でとまった。
「あいつを倒さないと、ここを通れないってかあ?」
「面倒だな……」
 ゲンがいかにも面倒くさそうに言い、ブルーがチッと舌打ちする。
「まあ、とはいえあいつを倒さなければ先には進めん。気はすすまんがな」
 そう言いつつも、拳銃に弾丸をつめて臨戦態勢を整えているのはヒューズ。T260Gは既に標的の体力の測定にかかっている。
「ふふ、実に手術しがいがありそうだ……」
 と妖しく微笑むのは、誰かは言うまでもない。
 そして全員が態勢を整えたそのとき。
「ハイ! 私にいい考えがありまーす」
 能天気な声が響いて、その場の空気をぶち壊した。
 正体は満面の笑みを浮かべたナマエ、ご注目! とばかりに勢いよく手をあげている。
「なんだあ」
「――ナマエお前な」
 ブルーは気の抜けた笑顔に気勢をそがれたようだ。
 ナマエの提案を面白がったのはゲンだ。
「へへ、おし、いっちょ聞いてやろうじゃねえか。ナマエ、発言を許す」
「ははっ、ありがたき幸せ」
 無事にお許しがいただけた彼女は芝居がかった仕草で礼をし、皆へと向き直る。そして一度もったいぶった様に咳ばらいをすると、その”いい考え”とやらを自信満々で披露した。
「あのですね、ハイドビハインドであいつの気をそらせて、その間に猛ダッシュ、っていうのはどうですか?」
 シン、と一瞬の沈黙が降りる。
 その沈黙を破り、ぶはっと吹き出したのは、ヒューズであった。
「いいねえ楽しそうだ。試してみるか」
 と、ナマエの突拍子のない提案にヒューズとゲンは既に乗り気だ。ヌサカーンも異論はないようである。
 そんな中、一人絶句していたブルーは顔を引きつらせて仲間たちの愚行を止めるべく声を張り上げた。
「ばっ、莫迦莫迦しい! そんな愚かな策に奴が引っかかるとでも――」
 だがしかし、むなしいかな。
「陰術、ハイドビハインド! 来い、影!」
 張り切り声のナマエの前に、ブルーの声はあっさりとかき消された。
 呪いが形となって効力を持ち、陰の力が発動する。デビルテンタクラーの背後に突如として黒い霧が現れる。それが人形をとって標的へと突撃していった。思惑通り、モンスターは突然の奇襲に驚いてまごついている。
「チャーンス!」
 すかさず、隙をついてナマエがダッシュする。すぐにその後を他の面子が追った。
 無事にモンスターの横をすり抜け、うまく行った! と思った瞬間。
「あ、こらちょっ……待て! 俺を置いて行く気か!」
 哀れな子羊の悲痛な悲鳴……もといひ弱術士ブルーの怒声が響いた。彼は一人乗り遅れて、まだモンスターの前にいた。さらに運の悪いことに陰術の効力が切れ、標的が消えて我に返ったデビルテンタクラーの注意をひきつけてしまっている。
 モンスターの目が、足元のブルーの姿を捉えた。幾本もの足が音もなく持ち上がり、次の瞬間空を切ってブルーへと襲い掛かった。
「ブルー!」
 モンスターの攻撃をまともに受け、ブルーの体が壁へとたたきつけられる。ヒューズが彼の名を叫び、ナマエがすぐさま反転し剣を抜きさって飛び出した。
「あーもー、鈍くさいったら!」
 そう叫び、思い切りよくモンスターの背後から斬りかかる。すると、気を失ったかと思われていたブルーがくわっと目を開け、ナマエの台詞を耳ざとく聞きつけて額に青筋を浮かべた。
「なんだと!?」
 うわ、とナマエが思わずひるむ。しかし、興奮したデビルテンタクラーが奇声をあげて打ちかかってきたので、彼女はその猛攻をしのぐのに集中せねばならなかった。
「何でもないですっ、地・獄・耳!」
 ナマエの剣がモンスターの足を一本切り落としたところで、続いた面子が戦闘へと加わってきた。剣戟や銃声が地下に響き、術の光が明滅する。
「やっぱり強いねえこいつは!」
 ヒューズは楽しげに銃をぶっぱなしている。その弾が何度も仲間に当たりそうになっているが、彼の知ったことではない。クレイジーヒューズの異名は伊達でない。
 と、ふいにモンスターがいったん後方に引き、奇妙なポーズをとった。
「なんでえ、何してんだあいつ」
 ゲンが首をかしげた。その横で、T260Gが頭部の光をくるくるとせわしく点滅させて、何かを読み取っている。
「中央に気があつまっています。魔力急上昇中……」
「なに?」
 モンスターの意図に気づいたのは、ヌサカーン一人だった。はっと息を呑み、鋭い声で一行に振り返った。
「……いかんッ、皆下がりたまえ!」
「え?」
 しかし遅かった。
 潮騒が聞こえた、と思ったら突如として巨大な波が目の前に現れ、一行を飲み込んだのだった。


「うへー磯くさあ。べたべたするし」
 びしょぬれになった髪をかきあげ、ナマエは顔をしかめた。
 モンスターの術の前になすすべもなく、一行はそのまま壁際まで仲良く積み重なって押し流されたのだった。ものの見事にずぶぬれである。
「ちっ、しかも海水かよ。まったく、銃が使い物にならなくなるじゃねーか」
 ヒューズはいらだたしげに革のジャケットを脱ぎ捨て、ホルスターからスペアの拳銃を抜いて水分を丹念にふき取っている。その言葉に同調したのが、ゲンだった。
「まったくだ、刀が錆びちまうわな」
 そんな中、ブルーは一人無言で立ち上がり、おもむろに術を唱えた。
 ふわり、とブルーの体を暖かな光が包む。次の瞬間、彼の髪や衣服はすっかり乾燥していた。陽術のひとつである太陽光線の熱量をうまく利用したのだ。そこらへんは一流術士だけあって、力のさじ加減を心得ている。
 ナマエはそれを見て、声をあげた。
「あっ、ずるいブルー、それ私にも」
 ぎろり、とブルーは自称腕の立つ護衛を睨み付けた。彼女が先ほどこの男に向けて放った台詞を、まだ根に持っているのだ。
「ふん、良かろう。こんがりウェルダンに仕上げてやる。それともミディアムレアーがいいか?」
「げっ、……やっぱいいです」
 やっぱり陰険術士だ、と彼女がつぶやく。その言葉を華麗に無視し、ブルーは転倒したまま起き上がれず悪戦苦闘しているT260Gの傍らにひざをつき、その重いボディを起こすのを助けてやった。
「ありがとうございます、ブルー様」
「T260G、大丈夫か? どこか故障しているところは」
「大丈夫です。私の本体には防水機能がついております」
「そうか、ならばいい」
 ブルーはT260Gの返答に満足げに笑い、立ち上がった。
 その態度の差に不満の声を上げたのは、無論ナマエである。
「ちょっとブルー、心配なのはT260Gだけですか?」
「ふん、お前よりもT260Gの方がよっぽど役に立つからな」
「ひどっ!」
 ナマエはわざとらしく、ショックを受けたような振りをした。
「くそう、こうなったら……」
 そして何を思いついたか、びしょぬれ状態のまま全力でブルーに突っ込んでいく。
「な、まて、離れろ濡れる!」
 慌てたのはブルーだ。びしょぬれのままくっつかれ、せっかく乾かした衣服にまた水がしみこんできてはかなわない。しかし慌てて彼女を引っぺがそうとするも頑として動かず。ええい、とブルーは腹をくくって再度術を唱えた。ナマエの嫌がらせは功を奏したのだ。
 光が包み、瞬時にして水が蒸発していく。おおっと声をあげたナマエは、したり顔でブルーを見上げてにんまりと笑った。
「どーもーお手間をおかけしまして」
 どうでもいいが顔が近い。
 ブルーは少し赤くなった表情をごまかすように、視線をそらした。
「ちっ、満足したんなら早く離れろ」
 はいはーい、と今度は素直に離れていくナマエ。しかしすぐに、先ほどの戦闘で負った傷までなくなっていることに気づいて彼女は一人にやーっと崩れた笑みを浮かべた。なんだかんだ言いつつ、しっかり傷の治療までしてくれているブルーである。
「へへへ」
 ナマエは上機嫌で己の雇い主をニコニコと見上げている。ブルーはその視線に気がついたようだったが、すぐにそっぽを向いた。
 傍で眺めていたヒューズが、火のつかない湿気た煙草をくわえながらこう評した。
「まあ、いわゆるツンデレってやつだな」
「違う!」
 耳ざといブルーはすかさずそれに鋭くツッコんだのだった。

 さて、一行が服を乾かし終えると(結局、全員に術をかける羽目になったブルーである)、また探索を再開した。しかしその足取りは、すぐにとどまることになる。
 さらに地下深くに続く階段のすぐ手前に、”それ”はあった。
 キラキラと黄金色に輝くもの。みなが焦がれてやまないお宝の山だ。
「おお、おおお! お宝発見ー!」
 第一発見者は、目ざとさにかけては誰にも負けないナマエであった。彼女は突然ぴたっと立ち止まったかと思うと、次の瞬間目の色を変えて黄金色の山へと走り出した。その足並みたるや、韋駄天のごとし。
 が、咄嗟にブルーが金貨の周辺に奇妙な力が張られていることに気づき、はっと息をのんだ。
「ま、まてナマエ! それは罠だ!」
「へっ?」
 しかし時すでに遅し。
「――う、わ」
 金貨の山に指の先が触れた瞬間、ナマエの視界がぐにゃりと曲がった。ついで、体が何かに押しつぶされ、流されていく感覚が訪れる。
 ナマエはこれと良く似た感覚を知っていた。ブルーが使う、リージョン移動のそれだ。
 視界が暗転する。
「わああああ!」
 彼女の叫びをその場に残し、一行の姿はまるで手品のように消え去った。

「……どこだぁここ」
「安心しろ。少なくとも同じ建物内のようだぜ」
 高い天井を見上げつつ首をかしげるゲンの隣で、ヒューズが近くにあった柱を見分しながら言った。
 強制的に飛ばされた先は、先ほどと同じような構造の建物が広がっていた。
 どうやら、先ほどの金貨には空間転移の範囲魔術がかかっていたらしい。金貨に触れ術を発動させてしまったのはナマエだったが、飛ばされたのは彼女だけでなく、ご丁寧にも近くにいた仲間までも移動させてくれたようだった。まったく誰の仕掛けたいたずらやら、迷惑極まりない。
 まんまと罠に引っかかった張本人は、壁に激突して目を回している。そういえば直前まで猛ダッシュで宝の山に突っ込んでいったんだったか。
 ようやく彼女が正気に戻ると、側にブルーが静かに歩み寄って来た。そしておもむろにすっと手を伸ばす。
 しりもちをついている彼女を起こしてやろうかという親切では、もちろんなく――。
「ぎゃっ!」
 ぐい、とブルーの指がナマエの耳を容赦なく引っ張り上げた。
「――この馬鹿女が! あんな分りやすい罠に引っ掛かるなんぞ、お前の頭脳は幼児並か!?」
「うわいたた、耳引っ張らないでくださいよイタイってばいたいたいたい」
 完全に切れたブルーが、彼女の耳元でがなり散らす。ナマエは耳元に大ダメージをくらい、涙目になってブルーの手から逃れようとじたばたもがいた。
「ふん、馬鹿につける薬はないとはこのことか」
「ひどっ」
 気が済んだブルーはナマエを解放する。彼女は耳をさすりながら、恨めしそうにジト目で雇い主を見た。
「というかこれって横暴だと思いません? 少し失敗したからといってこんな責め立てられるなんて、『気にするなよこのくらいの失敗誰でもあるさ、ははは!』くらいの情けを掛けてくれても」
 だが、ブルーはそんな恨み言には耳も貸さない。
「飼い犬に情けなんぞかけるか。というかその台詞を俺に言えというのか、どう考えても寒すぎるだろう」
「――かっ」
 今なんと言ったこの男は。
 ナマエはくわっと目をひん剥き、ブルーの肩をがしりと掴んでガシガシと揺らして問い詰めにかかった。
「か、飼い犬ー!? もはや私は人以下ですか! 犬と同列ですかっ、ねえちょっとブルー!」
「うおっ! あ、頭を揺らすなっ、酔うっ、酔う!」
 ブルーが耐え切れず目を回す。ナマエナマエで、ブルーが白状するまで絶対に離さないぞ、とばかりの血気迫るいきおいだ。
 だがしかし。
「――そこのお二人さん、いつまでもじゃれてないで出口捜そうぜ」
 ヒューズの冷静なツッコミが、白熱する二人を我に帰した。
「……」
「……」
 かたや苦虫を噛み潰したような顔をし、かたやふてくされたように頬を膨らまし。そして仕方なくといった様子で方々仲間の後につづいたのだった。

 宝に仕掛けられていた罠により見知らぬ場所に飛ばされた一行は、とりあえず出口を目指して進むことにした。
 ここは入り口よりもさらに人の足が遠のいているせいか、先ほどよりもモンスターがそこら中にはびこっている。しかしその分、ほとんどのお宝はまだ手付かずの状態で残っていた。それをウハウハで回収していくヒューズとナマエだったが、続く回廊やモンスターとの戦闘に、次第に足取りが重くなっていった。
「ねえブルー」
 心なしか疲れた表情のナマエが先を行くリーダーに声をかけた。
「なんだ」
「ブルーの言っていた、その、未知の魔力ってやつの正体、まだわからないんですよね?」
「ああ……どうした?」
 思いのほかだるそうな声にブルーが振り返る。すると、回収したお宝の数々をつめた重い袋を引きずっていたナマエはひょこりと顔をあげ、頬をかきながら愛想を笑いを浮かべた。
「いーかげんそろそろ疲れてきたかなあ、と……いや何でもないですよあはは」
 ……もちろん、相手はおべっかが通じるような相手ではない。ブルーの眉間に太い皺が数本現れたのを確認したところで、彼女は慌ててごまかしたのだった。
 と、不意にピピッと電子音がなった。T260Gの生命感知システムの音だ。
「三時の方角に熱源を感知しました。モンスターではないようです、未知の生命体……」
 ブルーはその言葉に振り返り、赤く光るT260Gのアイセンサーを認めてうなずいた。
「――いくぞ」

 うわあ、とナマエがもらした声が、壁にあたって反響した。
 たどり着いた先は、清浄な空気が満ちた小さなドームのような場所であった。奥へといくと少し広がった水路の入り口があって、そこにきれいな水を湛えている。おそらくここから外の湖へとつながっているのだろう。外からの日の光が水の中を反射し、水を透き通った美しいエメラルドグリーン色に輝かせている。
「ここで間違いないな? T260G」
「はい、間違いありません」
 一行は警戒しながら奥へと進んだ。水の中をおそるおそる覗いても、モンスターは現れない。
 不意に、水の奥底で何か黒いものが揺らめいた。
「ん? 今何か見えなかったか?」
 と、思ったら、唐突にしぶきをあげながら水面から姿を現したものが。
 うわっ、と誰かが声をあげた。幾人かが驚いて武器を手にする。
 その正体は――。
「うわ、人魚!? すごいすごい!」
 ナマエは思わずはしゃいで手を叩いた。
 そう、目の前に突如として現れたのは、灰色の肌と白銀の髪の、尾びれをもつ美しい人魚……もとい、
「莫迦か、あれは水妖だ」
 だった。ブルーの冷静なツッコミにナマエは少しむっとしたが、彼は目の前の水妖に気を取られているようだ。
「なるほど、魔力の正体はこれか……」
 水の中に静かに佇む水妖へと、ブルーが一歩近づく。
「メサルティムと申します、高貴なお方……」
 すると、しずしずと水妖が頭垂れ、足元にかしずいた。それに驚いたブルーだったが、とはいえかしずかれるのは気分的に悪くない。
「ほう、下級妖魔にしては見る目がある」
 尊大げに腕を組んで、メサルティムと名乗った水妖を見下ろす。
 そんな高慢ちきブルーの鼻をへし折ったのは、ナマエのツッコミだった。
「……ブルーのことではないと思いますよ」
「な、なんだと」
 ぼそりと背後から聞こえた声にブルーは慌てて振り返る。ナマエは少し冷めた目で、彼の横隣を指し示した。
「だってほら」
 そこに。
「ほう、すると君はここの領主に保護されていたのかね」
「はい、そのとおりです。高貴なお方」
 白衣の妖魔をうっとりと見上げているメサルティムの姿が。
 ブルーの頬が羞恥でさっと赤らんだ。が、己の体裁を取り繕うのは忘れない彼である。
「ふ、ふん、そんなこと最初から分っている」
 しかしナマエの目はだませない。ブルーの顔を覗きこんで、キシシ、と意地の悪い笑みを浮かべた。
「……自分のこと高貴だって思ったんだこのナルシ」
「だまれ」
 どん、ばっしゃーん。
 ……ブルーの反撃は予想以上であった。
 水路に押し出されたナマエは見事にダイブした。ブクブクと水泡を浮かべながら浮上してきた彼女は、恨めしい目で犯人を見上げた。
「ひどいですよブルー……」
「さきほど被った海水の塩分が落ちて丁度いいだろう」
「そーゆー問題じゃないんですけどっ!」
 ナマエはキーッとなりながらも水から上がり、滴り落ちる水を絞った。ついでメサルティムに驚かせてしまったことを謝ると、彼女はすぐに許してくれた。心の広い妖魔でよかった。
「ブルー」
 と、メサルティムと会話していたヌサカーンが立ち上がった。
「彼女は私達に協力してくれるそうだよ。どうするかね?」
「なに……?」
 ブルーはメサルティムを一瞥し、つかの間思案した。
 不明な魔力の正体は判明し、ブルーの目的は果たされた。しかし残念なのは、その正体が彼の期待していたものとは少しばかり違っていたことだ。
 ブルーは踵を返した。
「ブルー?」
「……あいにくだがこれ以上煩い奴らが増えるのは勘弁だ。水妖よ、騒がせて悪かったな。己の住処へ帰れ」
 え、ちょっと、とナマエが一人去っていこうとするブルーの背中に声をぶつけた。
「仲間にしないんですか~?」
「早くしろ、帰るぞ」
 その言葉に他の仲間がぞろぞろとドームを出て行く。
「もう、せっかく仲間になってくれるって言っているのに……」
「仕方ないね、リーダー命令だ。私達も行こう」
 頬を膨らますナマエにヌサカーンが微苦笑を浮かべ、彼女を促した。
 ……と。
「お待ちください、これを」
「へ?」
 不意に呼び止められて振り返ると、メサルティムがナマエにむかって何かを差し出している。反射的に手を伸ばして何かを受け取ったナマエは、手のひらの上に美しい光沢の真珠が転がっているのを見つけて、思わず歓喜の声を上げた。
「どうぞそれをお役に立ててください」
「わあ、綺麗! ありがとうございます~」
 ナマエはホクホク顔で礼をいった。と、背後で焦れたブルーの声がする。
 彼女は慌てて懐にもらった真珠をしまい、じゃあまた! とメサルティムに手を振り雇い主のもとへと急いだ。


「遅いぞ、何をしていた」
「ちょっと」
 ようやく仲間のところに追いついたナマエは、ブルーの問いかけに、へへっと崩れた顔で笑った。彼はその笑みの意味が気になったものの、なんとなく自分から尋ねるのが癪で何も言わなかった。
 一行は、また出口を探しはじめた。
「ふん、しかしとんだ無駄足だったな」
 不機嫌そうなブルーに、ヌサカーンはそうかね? と片眉をあげた。
「彼女を仲間にすれば、結構な収穫だったと思うがね」
 ブルーはぐっと黙りこむ。白衣の妖魔は続けた。
「さっきはどうしたんだいブルー、使えるものなら何でも利用する君らしくもない」
「~~っ、俺はこれ以上変なヤツが増えるのが嫌なだけだ!」
 たまりかねてブルーが喚き、そのままずんずんと一人で前にいってしまった。ヌサカーンはそれを見送り、肩を竦めた。
「おやおや、失礼なことだ……」
 そのとき、先頭を歩いていたゲンが何かを見つけたようだった。
「おい、あっちに上に昇る階段がありそうだぜ」
 それにヒューズが、おっ、と反応する。どれどれとゲンの隣に並び、そこで怪訝そうに思いっきり眉をしかめたのだった。
「ん? んん?」
「どうしましたヒューズ」
 首を捻るヒューズにナマエが声をかける。
「いや、……つか、ここなんかさっきのところと似てねえ? いやこれ絶対さっきのところだろう」
「さっき?」
「ほら、イカ野郎のところだよ。あそこにあんのは、ナマエが引っかかった罠だろ」
 と、ヒューズが奥の薄暗いあたりを指し示すと、そこに蝋燭のかすかな炎に何かがキラキラと反射していた。
 言われてみれば本当だった、暗くてよくわからなかったが、ここは先ほど流されてきた場所ではないか。
 ナマエは、思わずごくりとつばを飲み込んだ。
「……ということはつまり、この先には」
 そう、つまり階段の上で待ち構えているのは。
「デビルテンタクラー!」
 その声に応えるように、暗闇の中から現れた巨大なイカはニタリと笑った。
「またイカかよ! イカくせえのはもう勘弁だぜ!」
 ぐわああっ、とヒューズは奇声をあげて頭をかきむしった。
「ヒューズ、それってなんか微妙にいや……」
 ナマエは臨戦態勢を整えながら、多少げんなりしてぼそりと呟く。と、そこに冷静なゲンのツッコミが。
「それを云うナマエもきわどいぜ」
 ええっ!? とナマエが声を上げた。さすがのゲンも、素面ではツッコミがさえるようだ。
 と、ふざけている間にもデビルテンタクラーが先に動いた。
 モンスターが先ほどの奇妙な詠唱のポーズをとった。つまり、次にくる攻撃は。
 おっと、とヒューズが銃をホルスターからすばやく抜き、構えた。
「同じ手を二度も食らうかよっ!」
 叫んで、敵の術が完成する前にヒューズはモンスターに向かって銃を乱射した。と、その背後から別のイカ足が迫る。
「ヒューズ!」
 ゲンがすかさず動き、すんでのところでイカ足を見事に両断した。間髪いれずT260Gが全弾発射をぶち込み、その間にブルーが術を発動させる。
 気合の入った攻撃に、徐々に敵が押されていく。皆、またあの厄介な津波をもう一度食らってたまるかという一心なのか、いつになく見事な連携プレーだった。反撃の隙を与えぬ攻撃の嵐に、モンスターは詠唱を中断せざるを得ない。
 そんな中少々へばり気味のナマエは、突然空腹を訴えてきたおなかを押さえ、情けなさそうに眉をハの字に下げた。
「というか、もうそろそろ昼時ですよね、私すごくおなか空いたんですけど、このイカ食べられないかなあ」
「おもしれえ。いっそのこと、このイカ野郎を細切りにしてイカソーメンなんてどうだぁ? おい、T260G、多段斬り食らわしてやれ多段斬り」
「ゲソを炙って酒のツマミにするのもいいんじゃないか」
 ナマエの発言にゲンとヒューズが乗っかり、ぎゃははと下品な笑いを飛ばした。
「おい……」
 と、ブルーがジョークを飛ばしあう連中にピクリとこめかみをひくつかせた時。
「――いかんよ君達、デビルテンタクラーの身は臭みが凄いし大味で食用には適していない」
 ヌサカーンの衝撃の発言に、一同はぎょっとした。
「えっ、食べた事あんのか先生」
 その問いかけにヌサカーンは、表情の読めない顔に妖しい笑みを浮かべた。
「いや、前に手術をね。服に体液がついて数日匂いが取れなかったよ」
「……」
 微妙な沈黙が流れる。
 とそのとき、とうとう切れたブルーが怒鳴り声をあげた。
「――お前等、戦闘に集中しろ!」
「あ、ブルー」
「なんだ! ……!?」
 ナマエに呼ばれ、振り返ったブルーの目に映ったものは果たして。
「……っぶ!」
 ぶあしゃあ、と景気良く海水をかぶった彼はその場に呆然と立ち尽す。ざまあみろ、というようにナマエはにんまりとわらった。その背後で、巨大イカが嬉しそうに体を揺らす。
「よそ見してたらあぶないですよって言おうと思ったんですが、遅かったみたいですねー」
 けけけけ。一人と一匹が見事にシンクロする。
 不意に、何かがプチリと切れる音がした。
 ぽたり、ぽたり、としずくが滴り落ちる前髪を払いのけ、ブルーはおもむろに顔を上げた。
 その顔には、思わず身も凍るような凄絶な笑みが。
「ほう……、以後気をつけるとしよう。――ところでナマエ、なんでお前だけ無事なんだ? 確か今、俺と一緒に海水かぶったはずだよな?」
 いつにない甘い猫なで声で、ブルーがやさしく問いかけた。途端にナマエは悪寒を覚え、ぎくりと硬直する。
「へ? いや、その……」
 ゆらり、と幽鬼のような青白い頬の男が一歩近づく。ナマエは内心で、ひい、と悲鳴を上げた。
「お前、何か俺に隠していることないか?」
「そそそそんなことはありませんよぉ! いやだなあブルーったら何言っているんですか」
ナマエ
 名を呼ばれる。途端、彼女は蛇ににらまれた蛙のように固まった。
「正直に言ってみろ、怒らないから」
 微笑みこそ浮かべてはいるが、ブルーの目は完全に据わっている。やばい、とナマエは背中に大量の冷や汗が流れていくのを感じた。
 こういう場合は……、1・しらを切る、2・逃げる、3・正直に白状する。さあどれだ。
(2を選んだら確実に死ねる気がする……)
 ということで、ナマエが選んだのは。
「えーと、あのォ……。――ハイすいませんさっきこれもらってました」
 ナマエは先ほどメサルティムからもらった真珠のアクセサリーを急いで懐から出し、ブルーに渡して侘びを入れる。
 受け取った真珠をつまみあげたブルーは、おもむろに目を細めた。パールハート、持つものに水の加護を与える貴重なアクセサリーだ。
「……ほおおう、これを、ね」
 クククク、地の底を這うような不気味な笑い声が漏れる。
 急に、周りの温度が絶対零度まで下がったような気がした。完全に空気が穏やかでない。
 やばい、これはやばいぞ。不穏な空気を読み取ったナマエは慌てて笑顔で取り繕いにかかる。
「や、決してがめようとか思っていたわけではないんですけど、うっかり渡すのを忘れていたというかね……、って、ちょっとまってブルー、その手の中の危険なもの、どこにむけて放つつもりですかっ」
 おもむろに構えたブルーの手の中で光の渦玉が急激に育っていくのを見たナマエは、ぎょっとして後ずさった。だが術が完成する前にと慌てて逃げ出そうとした時には、すでに遅し。
 巨大化した光の渦玉は、容赦なくナマエにむかって解き放たれた。
「――超風!」
「ちょ、ぎゃあ待って待って、ギブギブーーっ!!」
 どーん! と激しい爆風。
 悲痛な叫びを残しながら、ナマエは巨大イカとともに景気良く打ち上げられていった。


 こうして、ブルーと愉快な仲間達の休日はにぎやかに過ぎていくのであった……。