かぐわしきは




 ――蝶々に止まられた花って、つまりこういう気分なんだろうか。
 
 と、ナマエは、現実逃避のようなことを考えていた。
 いや、今の状況を見れば、誰でも現実逃避したくなるだろう。
 だって、朝一番、美貌の妖魔と顔を合わせるないやな無表情で近寄られ、抱きつかれては。

「あの~、サイレンスさん?」
 ナマエは、先ほどから自分の周りに纏わりついて離れない男の名を、恐る恐る呼んだ。
 サイレンスと呼ばれた男は、無表情で顔をあげた。薄く光り輝くような黄金の髪、白く透き通るような白磁の肌、女性と見間違える程整った容貌、その瞳はルビーのように赤く、その美貌は流石妖魔の名に相応しいものであった。
 影のリージョン・オーンブルで知り合ったサイレンスは妖魔であった、――翅を持った可憐な蝶の。
 彼はIRPO、正式名称Inter Region Patrol Organizationの……、まあ平たく言えば国際捜査局のようなもので、そこの捜査官であった。彼がオーンブルにて重要参考人を追って捜査中だったところに遭遇し、仲間になったというわけだったが。このサイレンス、その名の通り極端に無口であり、とにかく意思疎通の手段はパタパタ揺れる翅と余り動かない表情、この二つのみに限られていた。
 故に、分りづらい。とにかくこの一言であった。
 今もナマエは、無言でじっと見詰めてくる美貌の妖魔に、たじたじになりながら引き攣った笑みを浮かべている。と、ふいにサイレンスが首をことりと傾げる。どうした? という意味らしい。多分。
「あ、いや、何をしていらっしゃるのか訊ねても良いですかなーって、あはあはは」
 ナマエは乾いた笑みを浮かべると、サイレンスはパタパタと翅を動かした。その意味するところは……、やはり全くわからなかった。
(何なんだ一体――!?)
 一向に離れてくれないサイレンスにほぼ諦めの境地に突入したナマエは、腹を括って大人しく纏わりつかれるままになった。
 ちなみにここは大都市マンハッタンの高級ホテルのロビー。朝、他の仲間が降りてくるのを待っていたところだった。普段ならば使わない豪華なホテルは、昨日ネルソンとクーロンでの金の売買によるイカサマ資金稼ぎで大金を手にし、すっかり金の羽振りが大きくなったブルーに、ナマエが偶には豪華なホテルに泊まりたいと強請った結果の末であった。
 流石四つ星ホテルのことだけあり、ロビーに集まった宿泊客は上品な客層が多かった。
 ――はっ。というか、他の人の視線が妙に痛い。
 我に返ったナマエは、やはりぴったりくっ付いている蝶々の存在に頭を抱えた。

「よおナマエ……。って、おおい蝶々さんよぉ、お前、一体何やってんだぁ?」
 その声に、ナマエは顔を上げた。ゲンの登場だ。その後ろにヌサカーンもいた。ようやく救世主の登場だとばかりに、ナマエはぱああと瞳を輝かせた。
「ゲンさん、先生、待ってました」
「お困りのようだな、ナマエ
 ヌサカーンが朝からフェロモン全開の微笑を浮かべる。その妖しい笑みを前に、普段ならば臨戦体勢を取るところであるが、今日は違った。どーかどーか助けてください、とばかりに、ナマエは熱い視線を送る。彼の性質上、真面目に取り合ってくれるかどうかさえ危うかったが。もしかしたら、からかわれて終るだけかもしれない。
 しかしそれは杞憂であった。ヌサカーンは、ふむ、と考え込み、何か思いついたように目を細めた。
ナマエ、つかぬ事を聞くが、今日香水か何かを使用したかね?」
「え? いいえ。あ、だけど、昨日、薔薇の香りのバスソープなら使いましたが。凄いサービスいいですよね、流石高級ホテル」
「なるほど。それはそれは、良い香りだろうね、サイレンス君」
 ヌサカーンはナマエの言葉に、得たり、と言った様に笑う。サイレンスは同意して、こくこく、と頷いた。
「どういうことだ?」
 要領が得ないナマエとゲンは、首を傾げた。
「サイレンス君は蝶の妖魔だからね、魅力的な花の香りには無条件に惹かれるのだろう」
 ヌサカーンが簡単に説明すれば、サイレンスはまたこくこくと頷く。
「反対に、臭い匂いは苦手ということだ。試しにホラ、この年中酒臭い、且つ親父臭を纏った君がサイレンス君に近付くと……」
 さり気に酷い事を言って、ヌサカーンは容赦なくゲンをサイレンスへと投げつけた。それをサイレンスはひらりと華麗に避け、ナマエはとばっちりを受けてゲンに突き飛ばされ、「ぎゃっ」と横転した。
「てめぇ、何しやがる……!」
 しかしそこはやはり、かつてのワカツの剣豪。ゲンは素早く体勢を整えると、己を突き飛ばしたヌサカーンに、食って掛かった。ヌサカーンは、ただ怪しく笑むだけで、取り合わない。
 突き飛ばされたナマエはサイレンスに手を取られ、立ち上がった。サイレンスは、やはりナマエの手を握ったまま、傍から離れない。
「理由はわかりましたけど……。サイレンス、あまり近寄られても困るんですが」
 おずおずとそう云えば、サイレンスは途端にしゅんとした表情になって離れていった。その綺麗な翅も心なしか萎れた様子に、そんなに落胆されたらまるで此方が悪者になったように思えてき、ナマエは慌てて引き止めた。
「あああ、ちょっとそんなあからさまにシュンとされても困るんですがっ!」
 そう言えば、少し拗ねた表情のサイレンスがちらりとナマエを見る。彼女は半ば自棄になって、「あーもう分りました! 好きなだけ引っ付いていてください!」と叫んだ。サイレンスの翅が、ぱたぱた、と揺れた。
「ブルーがこの様子を見たら、なんて言うか楽しみだな」
「ったく、悪趣味ですね相変わらず!」
 ヌサカーンの妖しい笑みに、ナマエは半分切れ気味に口元をひくつかせた。
 けれど、彼の言葉どおりである。あのブルーがこれを見たら、どんな反応をするのだろか。

 と、その時、丁度噂の人物が、不機嫌な表情で現れた。
 ブルーは、ナマエとサイレンスの塊(彼は好きなだけくっ付いて良いと言われ、ぴったりくっ付いていた)を見て、ぴきっと固まった、と思ったら。
「――貴様等、朝っぱらから何をやっている!」
 予想通り、雷が落ちた。
「ちょ、貴様”等”って、私も一緒にしないでくださいよ! この場合どう見たって私は被害者でしょう!」
「被害者もくそもあるかっ。朝っぱらから鬱陶しいおまえらが悪いんだろう」
「なっ……!」
 鬱陶しい、の一言に、ナマエはわなわなと体を震わせた。
「全くデリカシーの欠片もない人ですね! それだから女の子にもてないんですよ! あーヤダヤダ、これだから根暗は!」
「ね、根暗だと……!?」
 ブルー、LP-1の大ダメージ!
 ショックを受けたブルーは、我に返って負けじとばかりに舌戦をはじめた。

 そこに一番遅く降りてきたヒューズ――サイレンスと同じIRPO捜査官が、その様子を見て飽きれた様に溜息を付いた。
「おいおい、朝っぱらから何の騒ぎだありゃ」
「ふ、朝から元気で良いじゃないか。見習いたいところだな、ヒューズ君」
 言い合う二人+蝶を他所に、ヌサカーンは優雅に笑む。ヒューズはどうでも良いように返事をし、ソファに座って煙草を咥えた。
「食前の煙草は、健康に悪いよ、ヒューズ君」
「ほっとけ」
 ぷかり、と浮かぶ紫煙。

 と、ブルーが突然焦った声をあげた。
「――おいっ、サイレンス! 離れろ気色悪い! って、あ、コラ! だからといってナマエにもくっ付くな!」
 振り返ると、ナマエに引っ付きながらも、ブルーににじり寄ろうとするサイレンスがいた。何か、彼に惹かれるものがあったのだろうか。
 あ、と事情を知る者は、同時に思っただろう。

 ブルー……、もしかしてお前も薔薇のバスソープを使ったのか、と。