たまにはこんな日も




 その日、私は自宅で恋人のおとないを待っていたところだった。だがそんな私の元に訪れたのは、その恋人からの使いの者だった。私は首を傾げた。なぜ彼ではなく使いの者が来たのだろう、と。今日は待ちに待った、彼と一緒に遠出する日だというのに。
 そして、その使いの者が告げた言葉に、私は目を丸くした――。
「子龍が、風邪?」



「わあ、珍しい」
 案内された室にひょっこりと顔を出すと、私は寝台の上に目的の人物が赤い顔をして横たわっているのを見つけて、そう声をあげた。
ナマエ
 私の声に気付いたのか、この邸の主人は、ふと目を開けて顔をほころばせた。

 子龍が風邪を引いたと聞き、あれから私はすぐに趙雲邸を訪れた。邸には相変わらず必要最低限の人間しか居なく、ふいの私の訪れに家人は慌てて飛び出してきたようだった。見舞いの品を渡し、寝込んでいるだろう彼の容態を尋ねると、是非とも顔を見せてやって欲しいと頼まれ室に案内されたのだ。
 私は、臥せっている子龍の傍までいくと、静かに椅子に腰を下ろした。
「鬼の霍乱? 子龍が風邪で寝込むなんて」
「見舞いに来ておいて、それは無いんじゃないか? ナマエ
 少しばかり揶揄すると、憮然とした声が返ってきて、私は肩を竦めた。
「ごめんごめん。でも、びっくりしちゃった」
 そっと子龍の額に手を伸ばす。汗が浮かんだ額から伝わる熱は大分高い、思った以上に具合が悪そうだった。子龍はじっと目を閉じて、私の手に任せているようだ。
「すまない」
 そっと手を引っ込めた時、ぽつりと子龍が謝った。ふと閉じられていた目が開き、熱で潤んだ瞳が向けられ、私はどきりとした。なんか色っぽいなぁ、と思ったことは表情に出さず。
「今日、楽しみにしていたのだろう。私のせいで駄目にしてしまった」
 再度、すまない、と謝った子龍に、私は少し慌てたように首を振った。
「いいよ、気にしないで。疲れていたんだよ、ゆっくり休んで」
 そう言うと、子龍の表情は少し安堵したように緩んで。それを見てしまえば、本当は残念だったなんて本音は言い出せなくなって、私は苦笑してしまった。
 ふと、たった数日前まで彼が南伐に赴いていたことを思い出した。今の季節、唯でさえ成都は暑さに包まれているというのに、ここよりさらに南の方では此処以上に蒸し暑くじめじめとしていて、暑さに慣れない者の体力をじわじわと奪ったに違いない。もとより、子龍は北の生まれで暑さにはそんなに強くないのだろう。
 子龍はじっと目を伏せたまま、僅かに荒い呼吸を繰り返している。私は、傍らにあった水の桶に沈む手布を見つけて、おもむろに手布を絞り、彼の額の上に乗せた。すまない、と小声で礼が返ってきて、いいのよ、と私は首を振った。
 不意に、疑問が浮かんだ。
 この邸の家人達は、高熱を出して寝込んでいる主人を放って、一体何処に行っているんだろう。確かに常より使用人の数は少なすぎる趙雲邸だったが、それにしたって細々とした主人の面倒を見る侍女の存在の一人くらいはいた事は知っていたし、義理堅い彼等がまさか本気で主人を放置しているということは考えにくい。そうであるならばつまり。
 人が居ないのだろうか。先ほど室に案内された時に通った廊下はいやにしんと静まり返っていた事を思い出し、今現在この邸には殆んど人がいない事を暗に知らせていた。
 けれどそれにしたって何故だろう。私は、恐る恐る趙雲に尋ねた。
「ねえ、看病してくれる人とかって、いないの……?」
 そう問えば、ああ、と子龍はぼんやりとした瞳を向けた。
「ほとんどの者は、一時帰郷させている」
「ええっ!? いつから?」
「昨日」
 私は、あちゃあと頭を抱えた。なんて間の悪い。
 子龍は、しかしふっと微笑んだ。
「大丈夫だ。先ほど侍医に診て貰って、薬を頂いたし、寝ていれば治るだろう」
「……寝ていれば治るって言ってもねぇ」
 常よりも力の無い笑みを浮かべながらもそう言う彼に、なんだかえらく大雑把だなぁと私は顔を顰める。子龍は、他人に対しては細かな気遣いを忘れないというのに、こと自分のことになるとどうしてか大雑把になってしまうようだった。これは、彼と深く付き合うようになってから知った子龍の性癖であった。悪い癖だから直したほうがいいと私は何度も言い張ったが、相手も頑固者なのだろう、容易に直りはしなかった。……努力はしてくれたみたいだが。
 私としては、子龍にもっと自分を大切にして欲しい、とも思う。もっと頼って欲しいとも。子龍は、ただでさえ何でも出来て自分一人で何でもこなしてしまうから。少し寂しい。
 この時も、じゃあ私が看病するよ、と提案するも、それは悪い、と即座に素気無く断わられしまって、がっかりした。
「遠慮しないでよ、こんな時くらい頼ってくれてもいいじゃない。何のために私がいるのよ」
「……本当にいいのか?」
 少し不機嫌そうに言えば、子龍が少し遠慮しながら訊ねてくる。私は、ふいに遠慮深い恋人に失笑した。これで子龍が私であれば、遠慮もへったくれもなく申し出を受けているところだろう。
 この恋人が生真面目なのはいつものことたが、こういう時くらいは甘えて欲しい。そう思いながら、私は温くなった額の上の布を取り上げ、桶の中に沈めた。
「いつも子龍にはわがまま聞いて貰っているし、そのお礼ってことで」
「それは……」
 いーの、と私は謝ろうとする子龍を押し止めて、にっこりと笑って見せた。
「沢山我儘聞くから、今日は遠慮なく甘えてね」
 すると、子龍は束の間考え込むように目を伏せ。
「……いつも甘えさせてもらっているが」
 え? と私は子龍の言葉に首を傾げた。覚えている限り、子龍に甘えられているという記憶なんて、なかったはずだ。一体、いつの事だろう。と、私が困惑していると、子龍は意味ありげに艶やかに微笑んだのだった。
ナマエには、いつも夜に甘えさせてもらっているではないか」
 ……それってつまり。
「――もう、黙って!」
 と、私は照れた顔を誤魔化すように、べしゃ、とからかい顔の子龍の顔に容赦なく水だらけの布を被せたのだった。子龍がくすくすと笑って、布を除けて私を見上げてきた。まったくもう、こういう時まで喰えない性格をしていなくてもいいじゃない。

 気分を改め、私は寝台の隣に座した。熱のせいか大量に汗をかいていた子龍の顔を硬く絞った布巾でそっと拭い、ついで首元を拭いてやる。中々、弱っている彼に何かしてやるという状況はかなり珍しい。そう思うと何となく気が大きくなったようで、私は上機嫌に緩む顔を子龍に向けた。
「何かすることはない?」
 にこにことそう問えば、子龍は少し苦笑して、そうだな、と思案する。
「服を替えたいのだが」
「じゃあ、手伝うよ」
 その言葉に一も二もなく頷いて、替えの衣服を勝手に箪笥から引っ張り出し、さっそく子龍の体を起こしに掛かった。そして汗に湿った衣服を手早く剥いていく。逞しい筋肉がついた体躯が現れて、私がその逞しさに内心どきりとしながら、替えの服を手に持った時。
「背中がべたべたするな……」
 少し不快そうに呟かれた子龍の一言にはたと手を止めた。
「体、拭いてあげようか?」
 そう云えば、先ず子龍は予想通り「しかし……」と戸惑いを露にした。けれど、その反応を読んでいた私は、子龍に完全に断わられる前に先手を打ったのだった。
「遠慮は禁止だよ」
「……じゃあ、頼む」
 との、子龍の少し苦い笑みも何のその、彼の滅多にないお願いに私は張り切った。家人に頼んで温めのお湯を用意してもらい、子龍の体を拭ってあげる。拭いながら、相変わらず綺麗な体だなあとほれぼれしてしまったりした。美しく陰影を作るしなやかな筋肉は、まるで芸術品のようにさえ思えてくる。
「どうした?」
 と、うっとりと見惚れていた時に子龍にかけられた声に、私ははっと我に帰る始末。
「あ、ごめん、何でもないの。ただ、きれいだなぁと思って」
 慌ててそう云うと、何がだ、と子龍は首を傾げる。私が、子龍の体が、と告げると、苦笑した彼はおもむろに意味深な笑みを浮かべたので、不意打ちにどきりとした。
「こんなもの、見慣れているだろう」
 私は、思わず持っていた布巾を取り落とした。すると子龍はくすくすと可笑しげに笑い出し。
「……もう、あのねぇ!」
 子龍ったら! と、私は悔し紛れで子龍の肌をぺちりと叩いた。彼はけれどそんな私のささやかな抵抗が痛くも痒くもないのか、微笑んでばかりいる。埒があかない、私は赤くなった頬を誤魔化すように少し難しい顔をして、さっさと子龍の着替えを終らせた。
 ああもうもう、こんな時にも余裕の態度を崩さない恋人の、なんて可愛くないことだろう。

 その後、軽く談笑しつつ、邸の家人が持ってきた食事をした。それも終わり一息ついたところで、私はふと持ってきたお土産の存在を思い出して子龍に声をかけた。
「あ、そうだ、お見舞いに桃を持って来たの。食べる?」
「ああ」
 子龍が頷いたので、私はさっそく趙雲邸の家人に頼んで預けていた桃を持ってきてもらった。
 どうやらよく冷やしていてくれたらしい、ひんやりと冷たい桃を手に持ち、私はそんな感想を抱いた。よく熟した桃に小刀で軽く切込みを入れて、皮を剥く。果汁が滴り落ちるのを何とか阻止しつつ適当な大きさに切って、小皿に盛り付けた。
「はい、桃、剥けたよ」
 私はそう云いながら、その内のひとかけらを子龍の口元に持っていった。彼が躊躇いもなくそれにぱくつき、嚥下するのを見て、声をかける。
「おいしい?」
「ん」
 彼が小さく頷くのを見て私は満足げに笑い、その内の一つ小さな欠片を頂いた。口の中で瑞々しくとろけたそれは、甘くて美味しかった。子龍も気に入ったのか、持ってきた桃はあっという間にぺろりと平らげられた。

 気が付くと、子龍の頬に赤みが増してきたようだった。心なしか、具合が悪そうだ。
「子龍?」
 その呼吸も先ほどより少し荒くなってきている事に気付くと、私は彼の額に手を当てた。
「あ……」
 ――あつい。
 私はそのことに気付くと、少し潤んだ目で見上げてくる子龍を慌てて横にさせて、上から掛布をかけた。
ナマエ?」
 少し、舌ったらずな口調で子龍が私の名を口にする。暑いのか、子龍が掛布から手を出そうとするのを、私は慌てて阻止した。
「ダメだよ」
「暑い」
 子龍が不機嫌そうに言う。けれど、私は頑として許さず彼を掛布の中に押し込めた。彼には申し訳ないが、ここは一つまた沢山汗をかいてもらわねば。
「熱、上がってきたみたいだしね」
 ちゃんとあったかくしないと、というと、漸くのように子龍が大人しくなる。目を瞑った彼はやはり体力が落ちていたのだろう、直ぐに寝息が聞こえてきそうなほどであった。
 あ、とそこで私は重要な事を思い出して、慌てて子龍に声をかけた。
「子龍」
「……ん?」
「子龍、寝る前に薬飲まないと。何処にあるの?」
 すると彼はうっすらと目を開けて私を見て。
「卓の上」
 私は立ち上がり、急いで卓に駆け寄った。


「ほら、薬」
 差し出した薬を、子龍は素直に飲み込んだ。水の入った杯を渡し、それを流し込んだ彼がもたげた頭を枕に戻すと、疲れを吐き出すように一息ついた。
 やはり気が付かぬ内に、彼の熱は大分上がっていたらしい。私は子龍に掛布をかけつつ、そのことに全く気付けなかった自分に落胆していた。看病していたにも関わらず、あろうことか知らぬうちに子龍に無理をさせ悪化させてしまった。
「ごめん、熱上がったの、わたしのせいかな。煩くしちゃったから」
「そんなことは、ない」
 申し訳なくなって謝れば、けれど子龍は優しく微笑んでくれて、私は切なくなって俯いた。
「気にするな」
「……ん」
ナマエ
 念押しされるように呼ばれる。顔をあげると、熱に潤んだ子龍の瞳が私を見つめていた。
「……うん」
 優しいな、子龍は。そう思いながら、私は頷いたのだった。

 少しずつだが、薬が効いてきたようだった。私は、じっと目を瞑る子龍の顔を眺めていた。顔はまだ赤いが、先ほどまで浮かんでいた険のある表情は消えている。少しは具合が良くなったのだろうか、そっと子龍の額に触れるとけれどやはり大分熱が高い。
 溜息を付いて、そっと手を引っ込めようとした時。
ナマエ……」
 突然呼ばれて、彼は眠っているのだと思っていた私はどきりとした。
「なに?」
 といえば、子龍は閉じていた目を薄っすらと開け、私を見る。やはり熱で潤んだ瞳はいつも以上に艶めいて、私は必要以上にドキドキした。
「頭、冷やす布、取ってくれ」
「あ、うん」
 子龍の言葉に我に返った私は、慌てて桶に放っていた布を絞り、彼の額に乗せたのだった。すると子龍は気持が良さそうに目を細める。
「具合、大丈夫?」
「大丈夫だ」
「後は? することはない?」
 そう問えば、何故か少し躊躇うような間があって。
「子龍?」
 熱に浮かされた瞳が、私を捉えた。
「……寝るまで、傍に居てくれるか?」
 その言葉に一瞬不意を突かれた私は瞠目し、そして直ぐに笑みを浮かべて頷いた。
「うん」

 ――睫長いなあ、うらやましい。ああ、唇、割れちゃっている、痛そう。
 などとぼんやりと思いながら、私は子龍の寝顔を眺めていた。子龍の手を握りながら、私は何となく嬉しい気分に浸る。念願の、恋人に甘えられている、という状況のせいだろう。相手が相手ゆえ滅多にないことで、そのせいか私は緩む頬を抑えられずにいた。あどけない寝顔を浮かべる子龍にこみ上げてくるのは紛れも無い幸福感だった。私はその幸せを、しっかりと噛締めていた。
 その内に、静かに聞こえてくる寝息。
「子龍、寝たの?」
 私はそっと声をかける。返答はなかった。ふと息をつき、握っていた手を静かに離して掛布の中に入れる。
 そろそろお暇しなければ、客人の私がぐずぐずと居て邸の家人に気を使わせるのも申し訳ない。そう思って立ち上がり、私は今一度眠る子龍にしっかりと掛布をかけてやった。
「お大事に、ね」
 囁いて、そっと踵を返そうとした時。

「……帰るのか?」
 思わず足を止めて声の主を振り返ると、いつの間にか目を開けてこちらを見上げている子龍と目が合って、私は驚いた。
「子龍、起きてたの?」
 私は再び彼の枕もとまで戻ると、起き上がろうとする子龍の体を慌てて押し止めた。すると、その手を取られ。
「帰るのか? ナマエ
 熱のせいか甘ったるい声でどこか強請るように言われ、普段無い事に私はぎょっとして暫し固まった。普段甘えない人に甘えられるというのは、なんだかものすごい破壊力を持つ様な気がする。頬が熱い。
「し、子龍……」
ナマエ
 腕を引かれ、私ははっとした。
「わ、分った分った、もう少し居るから」
 そう云うと、子龍はまるで少年のように微笑んだものだから、逆らえない。

 風邪を引いた時などは、よく心細くなることが多いのは何故だろうか。何となく誰かに甘えたくなるという感覚は、私にもよく分かる。もしかして子龍もこの時、そうだったのだろうか。
 私はまた椅子に腰掛けながら、ぼんやりと子龍の顔を眺めていた。時々、額に乗せた布を替えてやる。寝顔があどけなく、厭きもせずにその様を眺めながら、なんだかかわいいなぁ、などと思ったりもして頬を緩ませた。
 と、ふいに子龍が目を開いて、ぱちりと目が合って微笑まれた、と思った時。
ナマエ、寒い」
 え、と思わず瞬いた。再び、寒い、と言われた私は慌てて立ち上がり、何か掛布になるものはないかと室の中を捜そうとする。
 ――が。
ナマエ
「わ!?」
 片手を捕まれたと思ったら、次の瞬間には力強い腕に掛布の中に引き摺り入れられ、私は目を白黒させた。そうしている内にも、その犯人はやすやすと私を抱え込んで一息ついている。密着した背中が、暑い。
「あたたかい、な」
 まどろむような声が耳元をくすぐる。
「子龍」
「ん」
 私を抱く腕に力が入る。そのまま寝入りそうな子龍の様子に、私は内心いたく焦っていた。このままの体勢で寝られても、非常に困るのだ。
「ちょっと」
「甘えていいと、言った……」
 子龍の腕から逃げようとしていたところ、思わぬ反撃にあって私はそのまま動けなくなった。
 その内、聞こえてくるひそやかな寝息。

「――子龍?」
 そっと名を呼ぶ。返ってきたのは、穏かな吐息だった。
 私は彼を起こさないよう慎重に体の向きを変えると、子龍の寝顔を見つめて苦笑した。そこにはすっかり安心しきった、穏かな彼の顔。思わず、苦笑した。
「仕方ないなぁ」
 私は口調とは裏腹に嬉しげに緩む頬を抑えず、呟いた。
「ま、たまにはいいかもね」

 ――こんな日も。