Blue Sky・後篇





 
「本当にそれだけでいいのですか?」
 ナマエの手元から香る甘い匂いに顔を心持ち顰めつつ、趙雲が問う。ナマエは蜜にたっぷりと漬け込まれた果実をほおばりながら、極上の笑みを浮かべた。それこそこの世で一番美味なものを食しているかのように。
 ナマエが強請ったのは、この蜜菓子一つのみだった。と言ってもこの菓子が、庶民の手に届かぬほど高い物という訳ではなく、むしろ其れとは逆に露店の彼方此方に見かけられる、庶民に親しみある菓子の一つであった。趙雲としては、どんな高価なものを請求されるかと内心身構えていただけに、拍子抜けしてしまうのも無理はない。
(まぁ、何でも手に入る立場にいる方としては、このような庶民の物の方が珍しいんだろうな……)
 が、趙雲は知らなかった。ナマエが、この菓子が大の好物で、むしろこれ目当てにわざわざ城を抜け出すこともままであったということを。
 じっと見詰めるその趙雲の視線を誤解したナマエが、菓子を頬に含みながら仕草だけで「欲しい?」と問うて来た。慌てて、趙雲が首を横に振る。

 と、道幅の広い大通りの向かい側に立つ、護衛の姿がちらりとナマエの視界を掠めた。その男達の、心なしか疲れを滲ませた顔に気付いてナマエは市を渦巻く熱中から、はた、と我に帰った。夢中になって歩き通しで気がつかなかったが、そういえば結構な時間が過ぎているのだ。と、気付いた途端どっと疲労が襲うものだから、やっかいこの上ない。隣を歩く趙雲も人ごみに嫌と言うほど揉まれて少々疲れているようだし、と、ナマエがそろそろ帰ろうと言い出そうとした、その時。
 ポツ、ポツツ。
「えっ?」
 雨が降りはじめた。しかも悪いことに、雨脚は直ぐに激しくなりそうだった。
「やだ、また?」
 空を見上げ、ナマエがこの上なく嫌そうに顔を顰めた。その言葉尻は、既に激しくなった雨の音にかき消されている。ぱ、と空が光った瞬間、同じように上を向いていた趙雲が、はっと急いで視線を地上に戻して辺りを見渡す。
「どこか雨宿りが出来るところを……」
 瞬間、ゴロゴロ、と天が唸りを上げた。次の瞬間、人々が取る行動はほぼ決まっていた。即ち、押し合い圧し合い我先にと避難所を求めて四方八方走り出すこと。当然、その場にごった返しの混乱図が出来上がる。どん、といきなり後ろから押されたかと思うと、今度は前から人がぶつかってくる。
「あっ! きゃあっ、ちょっと押さないで……! ……っ、趙雲っ!」
 と、次第に間が開いた二人のつなぎ目は、少年の体当たりによってとうとうプツリと切れてしまった。ナマエは慌てて趙雲へと手を伸ばしたが、その姿も人々に揉まれて直ぐに飲み込まれる。
ナマエ殿……っ!」
 大げさに悲愴を滲ませた声を残しながら。

「あ~あ」
 ナマエは人々の流れに逆らってその姿を追おうとしたが、すぐに無駄な足掻きだと諦めて肩を落とした。
「っ、痛っ! ちょっと誰か今足踏んだでしょっ!」
 濡れ鼠な状態に加え、どうやら足元におまけも貰ったようだ。ナマエは憤慨し周りに声をぶつけるものの、この状況では容易に犯人は割り出せない。
「もー、だから雨は嫌いなのよ~」
 何とか建物の柱に掴り、情けない声を出した。と、再び天がぱ、と明るむ。
「おまけに雷まで………趙雲~」
 ――と。
ナマエ殿!」
 聞きなれた声と共に、がしり、と腰を掴れて咄嗟に慌てたナマエだったが、直ぐに落ち着きを取り戻した。
「趙雲」
 呼ばれ、彼は笑って頷いた。ナマエは、漸くほっと安堵の笑みを浮かべる。
「こちらへ、雨を凌げる場所を見つけました」

 半ば守られる様に趙雲の腕に抱えられ、連れてこられた所は鍛冶屋か何かの店にちょんと出張っている軒下だった。だが僅かでも雨を凌げるのならば、と其処にすら人々は殺到する。何とかしてその壁際の一部を陣取った趙雲が、腕と壁の間に隙間を作ってナマエの避難場所を確保した。
「狭いが、我慢してください」
 殆んど無理矢理に押し込められたナマエは、その今ある状態に、はた、と我に帰って返答に詰まった。今ある状態、即ち、抱き合っている。ナマエは、頬を瞬時にばっと赤らめた。対する趙雲は、気付いているのか気付いていないのか、うざったそうに肌に張り付いた髪を掻き揚げている。まぁ狭い場所で二人分の居場所を確保せねばならないこの状況では、仕方ないの一言で済まされてしまうものなのだろうが。
「まったく、困った雨だな。……この混乱で護衛とも逸れてしまったようだし……っと」
「っぅぷ!」
 言葉尻で、何者かに後ろを押されたらしく、趙雲は慌ててナマエを潰さないよう両手を壁につけた。が、その効果も薄く、ナマエは更に趙雲と密着する羽目となった。
(狭い、どころの話じゃないのようっ! この、鈍感っ! 図太いにも程があるわ! なんでそんな平然としていられるのよ~っ!?)
 聞こえていないのを良いことに、云いたい放題だ。

 すみません、と謝ろうと下を向いた趙雲が、ナマエの混乱を見て取ったのだろう、くすり、と苦笑を浮かべた。
ナマエ殿?」
「なっ! 何!?」
 呼ばれ、ナマエは慌てて応答した。
「何を、緊張しているのですか?」
「しっ! してないわ! 緊張なんて!」
 趙雲の言葉を、まるで全身で否定するかのように顔をぶんぶんと横に振りながら、しかし赤くなった頬は完璧には隠せてはいなかった。相変わらず苦笑を浮かべる趙雲に、これは分が悪いと見て取ったナマエが顔を隠すように俯く。そうして何か言い返そうと口を開いたが、実際、優しく背中に回された腕に途端に心臓が大きく跳ねてそれどころではなかった。

 が、暫らくそうしている内に落ち着きを取り戻したのだろう、ナマエは再びゆっくりと口を開いて、その場のしじまを壊した。
「よ、良く見つけられたわね。こんなところで」
「ええ、なんとなく此方ではないかと。思ったとおりで良かった……」
 ほっ、と今更のように趙雲が安堵のため息をつく。ナマエは心配を掛けたことに少し申し訳なさそうな表情をしたが、趙雲の別の言葉に興味を惹かれた様で直ぐに顔を上げて問うた。
「なんとなく?」
 ええ、と趙雲。
「元々、勘は良い方なので。良くそれに助けられています」
「そう、趙雲も勘がいいのね」
「も? ということはナマエ殿も勘が良いのですか?」
「うん。でも私の場合、趙雲とは逆ね。良いことに関しては全然ダメ。悪い事にしか働かないの」
 ホラ、とナマエが半ば投げやりに雨が続く空を示した。そのしょぼくれた表情に、趙雲がくすりと笑う。
「雨が悪い事ですか?」
「ん、私にとってはね」
 肩を竦め、ナマエは微苦笑を浮かべた。そのナマエの状態ときたら、肌も髪も衣服もしとどに濡れ、おまけに泥まではねているものだから、悪いことだと言われても十分納得できるものだった。
「……確かに」
 くすり、と笑い、趙雲はナマエの顔に掛る髪を掻き揚げてやろう手を伸ばした。と、瞬間、ナマエが顔をあげ、結果として趙雲の手が柔らかな頬に当たる形となる。笑みを刻んだままのナマエがいきなりの温もりに驚いて目を瞬く、が、何も云わずに、そのままふっと笑みを深めた。
 先ほど溶けたばかりの緊張が、今度は形を変えて二人の間に糸を張るのを感じた。だが、今度はナマエも緊張にがっちりと固まってしまうことは無かった。
「……」
 指がナマエの頬に当たったままの状態だった趙雲は、その笑みを認め、そして瞳にある種の熱を灯らせた。ねっとりと、絡み衝くような熱さを持つ、熱。ナマエの頬から頬骨へと滑らし、そのまま肌に掛る髪を後ろへと撫で付けた趙雲の指は、しかし肌から離れることなく戯れるように頬と生え際の間を行ったり来たりしている。

「……ね」
 と、暫らくその動きに身を任せていたナマエが、くい、と微かに顎を持ち上げて趙雲を見上げた。
「……ん?」
 趙雲が、微かな声で反応した。しかしその今にも消えそうな声とは裏腹に、趙雲の視線は常にナマエの瞳を捕えている。
「趙雲の勘と、私の勘、取り替えっこしない?」
 ナマエが瞳を細めると、趙雲も同じように目を細めた。やや可笑しげなものを含みながら。
「どうやって?」
「分らないわ。趙雲、知らない?」
「ええ……生憎、存じませんね」
 実のある話ではない。ほぼ言葉遊びと化した会話をしながら、然し二人は楽しそうに微笑む。
 と、それまでナマエの頬のあたりを彷徨っていた趙雲の指が唇に触れ、ナマエは笑みを零した。趙雲の視線が、己の唇あたりで留まっている。
「今、趙雲が考えていること当ててみせましょうか?」
 ちら、と移動した趙雲の目が、再びナマエの瞳を捕える。
「当たりそうですか?」
「さぁ、どうかしら」
 水面に一滴媚薬をたらしたような、愉しげな笑みを浮かべるナマエに、趙雲はゆっくりと少しずつ顔を傾げていった。まるで焦らすのを楽しむかのように。
「それは、ナマエ殿には悪いこと?」
 ナマエが悪戯気な笑みをはにかんだ其れに変え、ふふっと肩を竦めた。
「……そうでも、ないみたい」
 と、僅か鼻が触れ合う程の距離を残し、趙雲が知らずその口元を優しげに綻ばせた。

 その時。
「あー、ゴホン」
 わざとらしいまでの咳払いが背後から聞こえ、その場を抱擁していた緊張がぶつりと音を立てて切れた。
「っ……!!」
 ば、と空を切る音がするほど素早く振り返った二人の目に飛び込んできたのは、先ほど逸れた筈の護衛の一人だった。と、視界にある筈の人ごみや激しい雨が何処にも見当たらず、変わりに飛び込んできたのはいつの間にか晴れた空と人々の好奇の目だった。
「!?」
 忘れていた、此処は公衆の面前だった。流石の趙雲でもこの動揺は隠し切れず、頬が熱を持っていくのを呆然と立ち尽くしながら感じていた。と、ごそ、と己の腕に何かが寄りかかるのを感じた。うぅ、と小さな唸り声。ナマエだ。
「すみません、お邪魔だとは思いましたが……」
 失礼ながら声を掛けさせて頂きました、と姿勢を伸ばし、妙に神妙な顔つきの護衛が頭を下げる。きっと笑いを堪えているのだろう。
「い、いや、いい……気にするな」
 気にするな、と云ったものの、実際のところは微妙だった。どうせ声をかけるならもう少し待ってくれるか、それとも、もっと早くに声を掛けてくれたならば。羞恥心に加え、心残りがチクチクと刺してくるのを感じ、趙雲はため息を抑えることを出来なかった。
 だが、何時までこうしていても、どうにもならない。はぁ、ともう一度ため息をつき、趙雲は心残りに蹴りをつけた。
「残りの者達は……良し、揃っているな。……では、ナマエ殿」
 と、趙雲の腕にぶら下がっていたナマエが、え?と顔を上げる。
「どうしますか、まだ市を廻りたいですか? ……それとも、もう帰りますか?」
 ナマエは未だ真っ赤な顔のまま、「帰ります」と小さく呟いた。

 そうして、護衛たちが野次馬を散らしつつ、そろそろと歩き出した一行だった、が、ひょこ、と右足を庇うように歩くナマエの仕草に気付き、趙雲が歩みを止めた。
「どうしました?」
 え? とナマエが同じように歩みを止め、ああ、と少し遅れて頷いた。
「あの、右足をね、さっき誰かに踏まれたみたいで……」
「一度何処かで休みましょう」
 そう云うなり、趙雲は止める暇も無くナマエを抱え上げてしまった。と、何事か、と回りにいる護衛たちに、趙雲は鷹揚に頷いた。
「先に帰っていてくれて構わないぞ」


 趙雲にそろりと下ろされた場所は、茶屋の軒下にあった腰掛であった。ナマエが何か言う間もなく、趙雲が茶屋の者を呼びつける。
「すまぬが」
 はいはい、と出てきた人の良さそうな茶屋の親父に、趙雲が茶代より少々多めの駄賃を手渡す。
「清潔な布と、水を持ってきて欲しい」
 それを二つ返事で引き受けた茶屋の親父は、ただちに、と残して奥に引っ込み、そして言葉どおり直ぐに戻ってきた。気を使ったのだろう、多めに持ってきた布を「有難い」と受け取り、一枚をナマエの手元に渡し、もう一枚を己の手元に、残りを返した。そして、ナマエの足の具合を見るべく自ら片膝を付き、失礼、と断わって右足に手を添える。
「趙雲、自分で……」
 出来るから、と云いかけたナマエが、男の穏やかな笑顔で制される。その笑みに、何故かうっと言葉に詰まってしまったナマエは、大人しく右足を男の手に委ねることにした。趙雲の頭をぼんやりと見下ろしながら、手持ち無沙汰な両手は、何もすることがない、と云わんばかりに布の端っこをいじいじと引っ張って苛めている。本来ならば、その布は濡れそぼった髪なり顔なりを拭くために手渡されたものなのだろうに。今は、この恥ずかしい状況から、唯一ナマエの気を紛らわせる物と化していた。
 ナマエが非生産的なことをしている間にも、趙雲は手際よく足の具合を見ていた。片方の浅沓を脱がせ、布の一片に水を浸して泥を落とす。傷口を綺麗にし、いつも携帯している軟膏を塗りつけ、浅沓で傷口が擦れないよう裂いた布でしっかりと覆ってやれば、応急処置は終わりだった。
「軽い擦り傷です。ニ、三日で治るでしょう」
 と、まるで宝玉でも扱うかのように丁寧に浅沓を履かせ、趙雲が顔を上げる。その優しい仕草に、赤い顔のナマエは「そ、そう……?」と云うのが精一杯だった。

「輿か馬車を用意しましょう。それで城に帰ります」
 苦笑しつつ立ち上がった趙雲が、ぽん、とナマエの頭に手を置いて何処かへと向う。「此処にいてくださいね」と念を押すのを忘れずに。ナマエは暫しぼんやりとその背中を見送っていたが、先の趙雲の言葉がやっと脳に到達すると、すぐさま立ち上がって遠のく背中を追った。
「ま、まって!」
 運がいいんだか悪いんだか、丁度御者を見つけて話かけようとした趙雲の背中に、慌ててナマエが縋る。
ナマエ殿?」
「私、歩けるから。其処までしなくともいい」
 え? と目を瞬いた趙雲に少しばかり苛だたしさを感じ、ナマエは心持ち声を顰めて続けた。
「お願い、大ごとにしないで。たかが擦り傷よ? 輿なんかで帰ったら、お城を抜け出したことがお父様に伝わるじゃない!」
「しかし」
 趙雲にとって今の最優先事項は、あくまでナマエの傷の具合なのだ。此処は譲れないところだろう。が、必死の形相で噛み付くナマエの心情が分らんでもない、と、趙雲は珍しくあっさりと譲歩した。
「では、途中まで私が負ぶっていき、後は馬で帰ります。それでいいですね?」
 負ぶって、という言葉にナマエがぎょっとしたような表情になったが、しかしこれ以上手間を掛けさせるのも悪いと思ったのか、黙って頷いた。しかし、抱き上げる、という他の選択肢は選べなかったのだろうか。まぁ、恥ずかしさの度合いでいえば、どちらも変わりないのだが。

 大人しく負ぶわれ、茜色に染まった街をゆっくりと眺める。ナマエは男の逞しい首にそっと顔を寄せ、目を瞑った。趙雲のしっかりとした足取りが、頼もしく感じられる。
「趙雲」
「はい?」
「今日は、ごめんなさい。……ありがとう」
「いえ」
 簡素な答えに、ナマエが苦笑する。この男が、ごだごだと礼なり謝罪なり並べられるのが得手でないということは知っているので、ナマエはあえてそれ以上何も口にしなかった。
 暫し沈黙が訪れる。と、ナマエが再び口を開いた。
「……趙雲」
「はい」
「また、……また……」
”一緒に、お出かけしてくれる?”
 ナマエの脳裏に浮かんだ言葉は、しかし口から飛び出ることは無かった。
ナマエ殿?」
「また、護衛に頼んでもいい?」
「無論です」
 一呼吸置く間もなく即答され、ナマエは微苦笑を浮かべて目を瞑った。甘さの中に突如現れた、ほろ苦さを味わいながら。


 部屋に戻ったナマエを出迎えたのは、ナマエの帰りを今か今かと待ちわびていた侍女だった。良かった、とほっと息をついた侍女だったが、次の瞬間濡れ鼠の状態のナマエに気付いて悲鳴を上げた。途切れることを知らぬ御小言を続けつつ、どこかぼんやりとした状態のナマエに気付き、はてと侍女は首を傾げたが、しかし問答無用で己の主を湯殿に放り込んだのだった。
 それからの数日も、ナマエはどこか上の空だった。珍しく香油をつけたり、紅を塗ってみたり、と思ったらため息をついたり、と。しかし落ち込んでいる、というわけでもないらしい。物憂げ、とでも云ったらいいのだろうか。そんな様子のナマエに、侍女は首をかしげるばかりだった。
 けぶるような外の景色をぼんやりと眺めるナマエの頬を湿らすのは、涙ではなく、この時期に多い雨。
「……また雨」
「この頃、多いですわねぇ」
侍女の声を背中で聞きながら、ナマエは深くため息をついた。あの青空が恋しい、と。良く晴れた青空の下に、彼の笑顔はいかほどに映えるであろうか。意図せず思い浮かんだ想像に、ナマエは慌てて頭を振って其れを吹き消した。
(兄が……)
 と、再びため息。良き兄である筈の男が、しかしそうではなかった、――そうではないと思い知らされてしまった、そんな感じだ。表面上で、兄と決め付けているのとは裏腹に、心の底では決してそれだけの関係を望んでいるのではないような。それ以上を望む自分がいながらも、しかしくすぐったい、躊躇われる。…それに、どう、思われているのかさえ分らない、そんなあやふやな状況。身動きが取れないのだ、この雨の中に飛び出すのを躊躇するのと同じように。
(……口付けを、しようとしたんだろうか)
 ナマエは先日の一件を思い出し、途端に奇妙な気分になった。するり、と、己の唇に指を宛がい、吐息をつく。口付けをしようとしたのかそうでないのか、は、確かではない。あの時に戻って問いただしでもしない限り、正確な答えは得られないのだから。それに実のところ、其れが問題なのではない。では何が問題なのかといえば。
(あれから一回も顔を合わせてくれないだなんて。せめて弁明なり何なり、……ああもうとにかく)
 もやもやする、のである。肝心なところで、言葉も行為も受け損ねてしまったのだ。趙雲の気持ちは確かなものであると思いたい一方で、いまいち自信に欠けてしまう。まるで、わき道に足を取られて見事に嵌っている、そんな中途半端な気持ちであった。ナマエにとって今は良き兄分である趙雲が、城仕えの女官たちの目にどう映っているのかは知っていた。だからこそ、であろうか、独占できる立場にありつつも、しかし其れを実行したくは無かった。それ故に、如何ともしがたい焦りが募る。
「あら……姫様見て、虹ですわ」
 と、掛けられた言葉に、ナマエがゆるりと顔を上げた。窓枠の向こうに広がるのは、青空と幾重にも重なる色の道。ナマエは、じっと――虹が消えゆく瞬間まで、飽きもせずに空を眺め続けた。


 一月も経たない内だった。城下にまた市が立つという噂を聞きつけ、其れまで物憂げだったナマエはその知らせに直ぐに活気を取り戻し、懲りもせずに再び城を抜け出したのだった。しかし今度は予想がついたらしい、そろりと中庭に抜け出したナマエを待ち構えていたのは、――趙雲だった。
「約束しましたので」
 と、ぬけぬけと言う趙雲にナマエは呆気に取られたが、すぐに嬉しそうに笑った。

 数人の護衛を連れ、大通りに催されている市へと向う。市それ自体小規模なせいか、人々もそれほど多くは無かった。先日と同じようにやや離れた所から護衛されつつ、市を逍遥する。
 誰よりも市を楽しみにしていたはずのナマエは、何故か気もそぞろな様子で、目の前を通り過ぎる珍しいものに見向きもしないでいる。隣を歩む趙雲に話し掛けようか掛けまいか、いやしかし後方を護衛する男達の目が気になって、ちらりちらりと窺っている、という感じであろうか。だが結局、市を通り過ぎるまで、口を閉ざしたままであった。
 そんなナマエの様子に戸惑いを感じていた趙雲が、疑問を投げかけるために漸く立ち止まった。向かい合い、趙雲が声を掛けようとした瞬間、しかしナマエは全く予想だにせぬ行動に出たのだった。

「……ナマエ殿っ!?」

 真昼間の穏やかな時、その場に一番そぐわぬ鋭い趙雲の声が響く。何事か、と振り返った人々の目に映ったのは、男の腕を振り切り、走り出すナマエの小さな後姿であっただろう。それを慌てて趙雲が追い、そのまた後を数人の屈強そうな男達が追う。なんとも不思議な構図だ。
 ナマエは見かけによらず俊足の持ち主であったらしい、趙雲は内心でひどく慌てながら、人波を掻き分けつつ見失いそうになるナマエの背中を必死で追っていた。恐らく趙雲の後ろを追っているであろう護衛たちは、この分だとまた逸れてしまうかもしれない。しかしそんなことには構っていられなかった。

 人波を掻き分けつつ、必死に手を伸ばした先に触れたナマエの腕を、これ幸いとばかりに趙雲はがしりと掴む。その腕の主は間違いなくナマエだったようで、きゃ、と声を上げたかと思うと前のめりに倒れそうになる。趙雲はそのナマエの体ごと乱暴に手元に引寄せ、今度こそ逃げられないようしっかりと両肩を抑えた。
「な……」
 ナマエを叱りつけようと趙雲が口を開きかけたが、思った以上に息が切れており、言葉が続かない。ナマエの様子も同じようなもので、彼女の方が少し辛そうだった。
 が、趙雲が持ち前の体力で直ぐに息を整え、すっと大きく息を吸う。
「何を考えているのですか! 少しは護衛の者たちのことも考えてやりなさい!」
「だって!」
 びく、と趙雲の大声に身を竦ませたナマエだったが、こちらも負けじと大声で続く。

「こうでもしないと、二人きりになれないんだもの!」

 その台詞に、呆気に取られたのは趙雲だった。何か云おうと口を開き、然し続く言葉が出てこない。空気を無駄に何度も飲み込み、最後に喉から絞られるように出てきた台詞は。
「全く、あなたには、いつも驚かされてばかりですね……」
 だった。
 突飛な台詞にすっかり怒りも消沈したらしい、あきれ返ったような、しかし何処か照れを感じさせるような趙雲の苦笑を認め、ナマエはその時初めて申し訳なさそうに身を縮こませた。
「ごめんなさい……」
「謝るのならば、はじめからしないで欲しかった所ですが」
「だって、それしか思いつかなくて……」
 と、縮こまって言い訳を口にするナマエに、趙雲は「はいはい」と相槌を打つ。その仕草が、いかにも適当にあしらわれているように感じ、ナマエがむっと口を尖らせた。
「子供扱いしないでくださる?」
「していませんよ」
「本当?」
 どうやらナマエは、すっかり疑心暗鬼になってしまったらしい。問いを繰り返すナマエに、趙雲は苦笑して肩を竦めた。
「子供に対して、”子供扱い”なんて云いませんからね」
 その言葉に、ナマエが目をしばたき、ついで頬をむっと膨らませようとした。

 その時。
 ざざっと、桶どころか湖ごとひっくり返したような大粒の激しい雨が俄かに降りだし、たちまち辺りを濡れそぼらせる。季節特有の、激しい夕立だった。いきなりのことに、二人驚いて立ち尽くす。と、ナマエの方が少しだけ早く我に帰り、濡れそぼつわが身を顧みては嬉しそうに声を上げた。とうに、趙雲に言おうと思っていたことなぞ頭の中から抜け落ちてしまっている。
 全く凄い雨だ。此処まで激しく、こんなにまで全身びしょ濡れになった雨は初めてだった。濡れる、というよりこれは寧ろ、湖に飛び込んだといっても通じるだろう。ザアザアという、この轟音に、果たして声すら届くかどうか。
 趙雲はその様子を見て、はたと我に帰り、ナマエをどこかへ避難させねばと辺りを見渡した。と、その前に嬉しそうに其処らを歩き回るナマエに、遠くに行かぬ様声をかけねば。ただでさえ豪雨で視界が狭まっているのだ、気がついたら見失っていた、などとなれば目も当てられない。
ナマエ殿!!」
 叫び、趙雲は途惑った。ナマエが此方を向いて、微笑んだからだ。そのナマエが、何かを叫んだようだった、が、良く聞こえない。
「今、なんと!?」
 しかし、返ってくるのは相手の笑顔ばかり。ざああと、叫び声すらもかき消してしまう程の雨音の中。確認できるのは、互いの表情のみ。これでは何も聞こえぬとばかりに趙雲が一歩近づくたび、ナマエは一歩遠のく。何が楽しいのか、くすくすと笑ってばかりいる。そのうち趙雲は、ナマエを捕まえるのを諦めてその場に立ち尽くした。

「ずぶ濡れだわ! 滝に打たれたらこんな感じかしら!?」
 叫ぶように、ナマエが問い掛ける。趙雲の顔が怪訝そうになり、なに、とその口が動いた。その仕草に、くす、と笑みが浮かぶ。ナマエは、肩を竦めた趙雲にことんと首を傾げ、再びゆっくりと歩き出した。上を向いて雨粒を顔に受けたり、足元に出来た水溜りに足を踏み入れたり、と。趙雲はどうやら見守ることにしたらしい、近くにあった樹に寄りかかり、此方の様子を眺めている。

 と、ナマエが立ち止まる。
「趙雲!」
 呼ばれたのが分ったのだろうか、趙雲が顔を上げた。
「今日は楽しかったわ! ありがとう!!」
 流石に台詞の内容までは察しがたかったのだろう、怪訝そうな顔をする趙雲に、ナマエが苦笑を浮かべた。と、その苦笑を奥にゆっくりと引っ込め、代わりにほろ苦さを含んだ甘い笑みが頬に浮かんだ。
「ねぇ、私のことどう思っているの? 君主の我侭娘? それとも、手のかかる妹?」
 其れは、既に叫び声ではなかった。
「教えて」
 相変わらず、趙雲は怪訝そうに此方を窺うばかり。ふっと、ナマエの口から息が漏れた。
 ああ、今ならきっと、――きっと云える、だろうか。
「私はね……私は……」
 雨音に、紛れさせて。

「……大好きよ!」

 趙雲の瞳が、弾かれたように開かれた。と、次の瞬間、其の表情が深い笑みに変化する。す、と一歩此方に踏み出した趙雲を、今度はその場に立ち尽くして見詰めるのはナマエだった。
 数歩後、目の前に迫った趙雲を、ナマエはじっと見上げていた。と、口を開きかけた刹那、そっと引き寄せられる。そのナマエの耳元に囁かれた言葉は。
「……光栄です」
 囁かれた言葉を瞬時に理解したナマエが、ぱ、と顔を上げる。信じられない、というような表情で。
「分っちゃったの?」
「読唇術は、得意な方なので」
 曖昧に頷いた趙雲が、はにかんだ笑みでそう答える。なぁんだ、とその趙雲の答えにあっさりとナマエが得心した。読唇術、なんていうものは、まったく念頭に無かったのだ。その上相手が得手とするものであれば仕方ない、とナマエは先の己の言葉を否定することを諦めた。やはりこの趙雲、一筋縄ではいかない。などと、照れを誤魔化すかのように、冗談めいたことを考えたりなぞしてみる。
 何か云おうとした趙雲を、ふう、と、ため息で遮り、ナマエは直ぐにぱっと体を反転させた。
「じゃあこれは? 分る?」
 そう言いつつ、再びナマエは趙雲の腕の中から抜け出した。数歩離れ、両手を広げてみせる。

口づけ(キス)して」

 微苦笑、それを頬に浮かべる趙雲は、暫しその場に立ち尽くして、――そしてゆっくりと歩み出す。目の前に立ち、ナマエの頬に手を掛け、そっと顔を傾け…。
 その、趙雲の唇に、添えられたのはナマエの指だった。
 趙雲が驚いて目を瞬かせ、己の行動を妨害する本人を見やると、ナマエはまるで悪気がないかのように微笑んで首をかしげた。
「ねぇ、恋人はいるの?」
「いえ」
 すっかり聞くのを忘れてた、という様子で、しかし何処か可笑しげにナマエに問われ、趙雲はかくり、と首を落とした。何も今聞かずとも、というところであろうか。
 己の唇に添えられた指を問答無用で除け、先の彼女の願いを叶えるべく動いた、時。再びナマエの声が耳を打った。
「じゃあ、予約していい?」
「何を?」
 半ば脱力感に苛まれながら、趙雲が問う。
「趙雲の、特別席よ。恋人のためのね」
「……勿論」
 と、笑みを深めて。
「望まれるのならば、ずっとあなたのために空けておきますよ」
「ずっと?」
「ええ」
「それは贅沢ね」
 ふふっと笑ったナマエが、すっと目を瞑った。その唇に掠めるだけの口付けをした趙雲が、ナマエの耳元に口を寄せて「だから早く大人になってくださいね」と囁いた。ナマエは真っ赤になって、小さく頷く。
「趙雲のね、この腕の中に、ずっといたい」
「……仰せのままに」
「やだ、命令じゃないわよ」
「分っていますよ」
 呟いて、趙雲は再びナマエの唇を覆った。今度は少し深く長く。豪雨の中、抱き合って何度も何度も。嬉しそうに微笑んで。

 と、暫らくするうち、雨が次第にあがり、分厚い雲もゆるりと流れ、その切れ目から美しい青空が顔を出した。その目まぐるしい変化に、ふたりで不思議そうに空を見上げた。輝かしいばかりの空を見上げながら、ナマエがポツリと零す。
「……晴れたわ」
 暫らくぼんやりと空を見上げていたナマエが、何かを思いついたらしい、くるりと振り返って嬉しそうに趙雲を見上げた。
「ね、趙雲って……」
「何です?」
 云いかけ、しかしナマエの口はそれ以上動くことは無かった。飲み込んだ言葉は、目の前に居る相手以上に大切なものでもないから。
「ん、なんでもない」
 不思議そうな顔をする相手に、微笑んだ。

「……帰りましょうか、一緒に」