Pretty Woman





「――げぇ」

 呉郡、建業――。
 孫家の御膝元であるこの都の、それまたさらに奥まった宮城のとある薄暗い一角にて、己の親の仇という切っても切れぬような確執深い因縁があり、隙あらば葬り去ることすら辞さない思いでいつも付狙い、そのため喧嘩は毎日のようにやりとりし、しかし度重なる戦での協力の末近頃ではなにやら相棒面してくる厚かましく莫迦で煩くて鈴野郎で斬り込み隊長で年がら年中滾っていてそのうえ暑苦しく、けれどどこか憎みきれない呉軍きっての熱い男――その名も甘寧――が繰り出した衝撃の一手に、彼、凌統は思わず奇声をあげた。
 その瞬間、勝敗はついたのだった。
 ――囲碁という、熱き戦いの。

「マジかよ……」
 凌統は大きく息を吐いて、がっくりと肩を落とした。その反応に、ぽかんとした甘寧は、次の瞬間己の勝利に気付いてふんぞり返った。
「よーっしゃぁっ!! 凌統、俺の勝ちだぜ!!」
「嘘だろ……。この俺が、こんな莫迦に、甘寧に負けるなんざぁ……」
 凌統は、まるで世も末だ、というように沈み込んでいる。この上、甘寧が実は適当に打っていて勝ってしまった、などという事実を知れば、さらに落ち込むことは間違いない。とにかく甘寧との囲碁勝負にて初めての惨敗は、凌統に衝撃を与えたのだった。
「どうだ、見たことか! 俺に掛かればこんくらい楽勝だ!」
 甘寧も甘寧で、勝利に浮かれて鼻を高くしている。彼に掛かれば、偶然や幸運という不確かなものですらも実力のうちと言ってのけるだろう。
 甘寧はひとしきり凌統を打ち負かしたという優越感に浸ると、未だ落ち込むライバルにずいと迫った。彼等が囲碁勝負を始める前に、取り交わした約定を凌統が何だかんだと言い逃れして反故にさせる前に。
「てなことで凌統、さっそく罰ゲームだ」
「……ああん、なにそれ罰ゲーム? なに言ってんの甘寧さん?」
 凌統は半ばやけくそのように、ハッと笑った。その口元がぴくぴく痙攣しているところを見ると、よほど悔しかったのだろう。
 だが、甘寧としてはそんなことは関係ない。凌統の態度に向かっ腹が立ちこそすれ、同情を示す事はなかった。
「てめ、忘れたとは言わせねぇぞ!! 今回負けた方が買った方の言い分一つ聞いてやるって、始める前に取り決めたじゃねぇかよ!」
 激したように甘寧が言えば、凌統は諦めたように溜息を付く。
「そんな大声出さなくても、忘れてねぇよ。お前でもあるまいし」
 小ばかにするような態度に、甘寧はかっとした。
「なんだとぉ!? もう一回言ってみろテメェ!」
「ああもう喧しいな……。分った分った、何でもやってやるよ。で、何が望みだい?」
 その言葉に甘寧はにやりとし、凌統にずいと迫って耳打ちした。

「それはな――」









 ナマエ将軍、とこの地で呼ばれるようになって久しく経つ。私が劉表殿の元を去り孫家へと仕え始めたのは、赤壁の戦いでの折だった。孫家でのはじめての戦は、あの大戦赤壁の戦い。仕え始めで未だ孫家の軍律すらも熟知しておらぬ、私にとっては甚だ困難な戦であったが、どんな難しい状況に置かれても意地で突破した。その時の状況は、今思い出しても苦いものだった。新参者というだけで軽んずられることも多々あるというのに、その上さらに女であるという事実が周りから完璧に舐められてしまっていた。それこそ唯の一兵卒にまで舐められるという始末。私は、周囲から認めてもらうために、歯を食いしばってひたすら鬼のように剣を振るった。必要と在らば単騎突入も辞さず、幾人もの敵将の首級を上げ、功績をあげた。今思えばあの頃は、常に血の匂いを纏っていたような気がする。きっと人相も相当荒れていたことだろう。皆、私を忌避した。そしてようやっと、私が恐れられていることに気付いたのだった。
 ――その頃から私は、血も涙も流さぬ冷酷で恐ろしい女将軍だと、囁かれるようになった。


 良く晴れた日であった。
 将軍職ともなると、偶の休日はとかく貴重なものであった。私はその日、朝早くから起床し、溜まりに溜まっていたすべき事を気合で一掃させ、建業の街に繰り出した。無論友人なども居よう筈もないので、一人でだった。劉表殿の元に居る時はそのような事も無かったのだが、……過去を引き合いに出したとて仕方が無い。一人逍遥することに多少の味気なさを感じつつも、活気溢れる建業の街を直に歩くのは楽しかった。
 行き交う人々は皆輝いて見える。これも皆、我が孫呉繁栄の恵みだろう。この地においては安全が確保され、人々は安心して労働の汗を流す。まったく尊いものだ。
 ――そろそろお昼時だろうか。どこからか漂ってくる良い匂いにつられて足を向けると、菜屋の軒下にどこかで見覚えのある長身の男が突っ立っていて、辺りをキョロキョロと見渡してた。誰か探し人だろうか。近付くにつれ、男の容貌がはっきりと見えてきた。
 ……ああ、どこかで見覚えがあると思ったら。あのひょろりとした長身、高い鼻梁に流れるような視線、少し下がった目尻に刺と柔らかさを同時に感じさせる、男独特の色気を放つ男の名は、女官の話題には必ずと言って良い程のぼるくらい有名だった。しかし如何せん、私は彼とは一度も話したことは無かった故いきなり声をかけるのも失礼かと思い、彼の前を通り過ぎることにした。……のだが、その計画は狂った。
ナマエ将軍?」
 彼が私の名を呼んだのだ。これに吃驚し、私は往来で立ち止まった。
「……これは、凌統殿」
 私は如何挨拶するかに瞬時悩み、無礼にならぬ程度に慇懃に頭を下げた。すると、凌統殿はその瞳を僅かに見開いたようだった。もしや、私のことを挨拶もせぬ野蛮者だと思われていたなんてことは、……ありうるな。
「あー……、その、偶然だね。今日は休みですかい?」
 凌統殿は、歯切れ悪く問うた。その表情はまさしく苦虫を噛み潰したかのようで、彼もおそらく私の事を密かに恐れている部類の人だろうと思った。嫌なら声など掛けなければ良いのに。そう思いながら私は頷いて、社交辞令でとりあえず凌統殿にも同じ事を訊ねた。
「凌統殿も休みですか?」
 彼が頷いて、私は「そうですか」と言った。その後に続ける言葉も見つからず、私はとりあえず凌統殿の横顔を眺めた。つくづく整った顔だ、女官らが騒ぐのも無理はない。これで少しは彼と仲が良かったら、私も「今日は良い天気ですね」などと言って、し慣れぬ愛想笑いの一つでも浮かべるのだろうか。とはいえ、こんな武骨者では、ますます敬遠されるだけで終るだろうが……。
「それで、私に何か御用でも?」
「んー、まあ、用っつうか……」
 私の問いに、彼はなんだか要点を得ない。のらりくらりと返事をすることを避けるかのような態度に、次第に訝しく思ってふと眉を寄せた時、
「なあ、――腹減ってない?」
 と、唐突に切り出されて、私の問いは実に上手くかわされた。
 いきなりの問いに私はきょとんとし、とりあえず素直に頷いた。忘れていたが、時刻はお昼になるころなのだ。その時何かに合わせたようにきゅるきゅると私の腹が小さくなって、思わず己の腹に視線をやると、頭一つ分上からぷっと吹き出す音がした。……正体は凌統殿だ。笑われた事に少し恥を感じて見上げると、そこにくだけた笑みがあって私は思わず目を見張った。それはあのシニカルな笑みでは、ない。
「決まりだな。すぐそこに、行きつけの旨い店があるんだ。行こうぜ、奢ってやるよ」
「は!? いやしかし凌統殿……」
 なんだ、今日は吉日か、それとも厄日か。ここで、今までにこんな誘いを受けた事の無かった私はその彼の言葉に動揺した。凌統はさっさと歩き出していたが、私が呆然と突っ立っているのを見て、立ち止まった。
「あ、もしかして、何か予定でもあった?」
 ふるふると、頭を振る。すると彼は、形の良い唇の端を持ち上げた。普段の彼の笑みだ。
「じゃあ、黙ってついてきな。取りあえず腹が減っては何とやら、ってな」
 それもそうだ。せっかくの誘いを無碍には出来ない。納得してしまった私は、黙って脚を動かした。
 凌統殿のひょろりとした背を追う。少し猫背だろうか。そんな些細な事に気付いて、私は少し浮かれた。


「美味い」
 並べ立てられた料理はどれも湯気を立たせている。その内の一つを一口食した私は、素直な感想を零した。「そりゃ良かった」と凌統殿がにっと笑う。
 彼が案内したところは、いかにも庶民的な大衆料理屋、という感じであった。店内は明るく、昼時の客で混雑している。見渡すと、ほぼ満席だった。鶏の汁物をずずと啜る。なるほど、この味だったら人気が出るもの頷ける。
 美味い物は黙って喰う。それが私の癖なので、ほぼ無言で平らげた。凌統殿がもし食事時の楽しい会話を期待していたのなら、申し訳ないが。
「ご馳走様」
 かちり、と箸をそろえて置くと、私は食事開始以来久しぶりに凌統殿の顔を見上げた。すると彼は目を細めてこちらを見ていたので、幾分恥ずかしくなった。まったく女人らしくないと呆れただろうか。だが、そんな心配は杞憂に終った。
「良い喰いっぷりで」
「……どうも」
「そのくらい沢山食べてもらえると見ていて気持が良いな」彼はからりと笑って、続けた。「大体女の子は、男の目を気にしてるのかあんまり食ってくれないんだよな」
「淑やかに見られたいのだろう。大口あけているところを見られのは、恥ずかしいのでは?」
 まー、そうなんだろうけどな、と凌統殿は苦笑した。そして何を考えたのか、おもむろにずいと私に迫ると。
ナマエ殿はどうなの? 淑やかに見られたい男とか居ないのかい?」
 意地の悪い笑みだ、と思った。恐らく凌統殿はからかっているのだろう、けれど私はうっかり動揺してしまい、視線を彷徨わせた。
「わ、私は、料理人に申し訳ないがゆえ、そう云った食べ方はしませぬ」
 そう、と彼は笑った。
 柔らかな笑みだ。その笑みに、もしかして彼が私のことを僅かでも好いているかもしれないという考えが浮かび、すぐに莫迦な、と苦笑した。


「――で、これからどうする?」
「どう、とは?」
「時間あんだろ? どっか適当にぶらぶらしようぜ」
 食後に出された茶を頂きながら、当然のように今後の予定を話す凌統殿に、私は眉を顰めた。まったく、本当に彼は今日どうしたというのだろう。何をとち狂って、私のようなものと一緒に休日を過ごすつもりなのか。
「……一つ疑問なんだが、何故貴殿が私と――」
 一緒に、という続く言葉は、しかし凌統殿のわざとらしい笑顔と「あのさぁ」という張り上げられた声によって遮断された。
「俺、ここら辺良く知ってんだ。アンタ、あんまり詳しくなさそうだしな、案内してやるよ。腕の良い鍛冶屋とか、武具屋とか、酒場とか、いろいろ紹介できるぜ」
「……」
 私は暫し、考え込んだ。彼と一緒に過ごす休日と、一人で過ごす休日。少し考えれば、どちらが有益であるかは一目瞭然だ。だが、同じように凌統殿にとっても有益であるとは限らない。
「それはありがたいのだが、凌統殿の休みを私のために使っても宜しいのですか?」
「気にすんなっつうの」
 確認するように訊ねると、凌統殿はにっと無邪気に笑った。
 まるで少年のようだな、と私は思った。


 往来を、人の流れを縫いながら私は凌統殿の後をついていった。人波からぽんと突き出た彼の頭は、きっとどこでも良い目印になってくれるのだろうなと思いつつ、その背を追う。
 彼は時折私を呼び寄せ、馴染みの店の主人を見かけては律儀に紹介してくれた。さすが彼の顔の幅は広く、鍛冶屋の看板娘から妓楼で働く娘まで(……)、凌統殿を見かけては挨拶を寄越してきた。凌統将軍は女癖が悪い、城でよくそう囁かれていたが、私は今日になってようやく、彼が女たらしではなく、単に女の子という生き物に無条件で優しいのだという発見をした。なるほど、彼を慕う娘の多いことは、そういう理由だったのか。と納得し、私はなんだか妙な気分になった。凌統殿の目には、私は果たしてどう映っているのだろう、と。恐ろしい女将軍か、単なる仲間か、それとも女……の子か。
 ……。自分で思っておいてなんだが、一番最後のは無いだろうな、多分。うん。
 と、私が一人押し問答を続けている傍ら、凌統殿はきょろきょろと辺りを見回して、何かを探しているようだった。眉間に少し皺を寄せ、なんだかちょっと不機嫌そうだ。
「えーと、次は確か……、着飾らせるだったか? 畜生、甘寧の野郎、めんどくせぇ指示しやがって」
「え? 何か言いましたか?」
 彼の独り言が聞こえて私が首を傾げると、凌統殿は慌てたように否定し、誤魔化すように私をとある一軒の店に引っ張っていった。
「あ、いや、何でもない。あっ、ここ入ろうぜ!」
 ぐいぐい、と引っ張られていく先の店の看板に、思わずぎょっとする。
「えっ、でも此処は武具屋ではなくて女物の……」
「いいからいいから」
 と、まさしく有無を言わせず、満面の笑顔で押し切られた。


 何故私はこんなところで、絹の反物を眺めているのだろう。漠然とした疑問には、しかし答えてくれる者はいない。
 店に入った途端、色の洪水の嵐に見舞われた私は、さっそく眩暈がして動けなくなってしまった。高級な絹物の衣裳が多く扱われているようだったが、商品の中には、女性の兵士が使うような装飾の施された篭手などの武具も売っていた。だが大半は女物の衣裳ばかりで、そんなものに縁の無い私は見る気力も失せてぐったりとしながら突っ立っていた。
 が、凌統殿はなぜか楽しげに衣裳を持ってきては私に押し付け、そしてまた違うのを持ってきては押し付け、を繰り返し、いたく楽しんでいるようだった。何を考えているんだ。まさか、このような物を私が着るとでも思っているのか。
 そうこうしている内に、凌統殿は何点かに搾ったようだった。そして今一度私に押し付けると。
「――あ、これなんかすっごく似合うぜ」
 そうして目を輝かせながら、次にとんでもない事をさらりとのたまった。
「買おうぜ、これ」
「はぁっ!?」
 私は仰天した。まさかそのような事を言われようとは思わなかったので、というかそんな経験もなかったので、どう対処していいか分らず少しの間全脳内が完全にフリーズした。
 そうしている間にも、さっさと凌統殿は主人に話をつけているようだった。懐から金子を出す彼に私ははっと我に帰って、とりあえずこの愚行をとめねばと思い立った。
「いや、いやいやいや、それは悪い、悪すぎる。というかちょっと待ってくれ!」
「なんだよ、遠慮すんなっつの」
「いやそうじゃなくて……」
 そういう問題じゃないのだ、ああ全く持って。だがそれをうまく説明できないでまごついていると、店の主人が横やりを入れてきて、ますます事態が混乱してしまうはめになった。
「お嬢さん、ここは一つ兄さんの顔立ててやりなよ」
「そうだぜナマエ殿。旦那、良いこと言うねぇ。ああ、どうせなら着てけよ。なあ、女将さん、この人着飾ってやってくんない?」
「は? ちょ、まっ……」
 凌統殿が殊更わざとらしく微笑んで、もはや私はどうしようも出来ないところまで嵌められてしまった。
「ああ、お安い御用だよ。あたしに任せなさい!」
「んじゃ、早速頼んだぜ。ナマエ殿、ホラこれ持って、ああ、あとこの髪飾りと、首飾りと、腕輪と、……あとは靴だな。これ全部持って。さぁさぁ」
 ぐいぐいぐい、女物の衣裳やら飾りを腕に山盛りに抱えさせられ、有無を言わせず押しやられた。
「いや、あの、凌……、女将……」
「ほらほら、早くこんな野暮ったい服脱いで! 少しは綺麗にしておかないと、良い人に飽きられちまうよ。あの男、大層良い男じゃないか、しっかり捕まえときなよ!」
「いや、あの、そんな関係ではないのですが……」
 私は必死で逃げようとしたが、女将パワーに負けて脱出することは叶わなかった。私自慢の武力も、問答無用で人の服を剥がす女将の前には無力であった……。
「あら、アンタ、すごい良い体してんじゃないの。羨ましいわね~」
「うわあっ」
 女将にバシンと力任せに叩かれて、私は踏鞴を踏んだ。
 ああ、なんてこった、本当。

 こうして全ての支度が済み、恐る恐る凌統殿の元に戻ると、店の主人と話していた彼はこちらを見て、ぎょっとした表情になった。
「…………ナマエ殿か?」
「他に誰がいるというのです?」
「……マジで? ナマエ将軍?」
 その反応に、とうとう私は恥に耐えられず、ぎろりと凌統殿をねめつけた。
 ああ、似合っていないのは自分でも良く分っている。だから、あまりそんな目で見ないでくれ! 恥ずかしさに赤くなる頬を誤魔化すように、私は腕を組んで仁王立ちした(……)。
「可笑しいのならご自由に笑うがいい」
「……中身はナマエ殿だな」
「どういう意味です!」
 吼えると、頭の上の簪がしゃらりと涼しげな音を立てた。完全に使われる人が間違ってるよな、と思うと、哀しくもあり。
 凌統殿は、私の反応に慌てたように頭を振った。
「ごめん、からかったつもりじゃないんだ。ああ、おい、そんな恰好で仁王立ちなんかすんな」
 仁王立ちが悪いか、とも思ったが、言われて渋々組んでいた腕を解くと、凌統殿はしばし言葉に迷っているようだった。
「ただ、その、なんつうか、驚いて……」
 そう言って、言葉が続かない様子の彼に私は瞠目した。その表情が少し照れているように見えるのは、都合の良い解釈だろうか? まさか彼が私に見惚れているとでも?
 そうだとしたら、私も捨てたものじゃないなと思った。私だって、着飾ればそこそこ見られるらしい。そして、彼の反応に浮かれている自分に気付いて、苦笑した。
 ――つまり私はこの一日で、彼の事を好きになりかけているということか。
 なるほど。と、妙に素直に納得し、そして私はその感情に名をつけようかつけまいか少し迷った。

「アンタも女の子なんだな」
 しみじみと言われた言葉に、私は眉を顰めた。嫌味だろうか?
「どういう意味です」
「どういう……、って、そのままの意味なんだけど」
 苦笑されて、ますます分らなくなって首を傾げる。
「よく父上に、なぜ私が男児でないのだと嘆かれたことがあるが、そういう手合いの意味でしょうか?」
「どーいう手合いの意味だよ、それ」
 一瞬ポカンとした彼は、次にぷっと吹き出して「綺麗だって意味だよ」とさらりと告げた。
「え?」
 今、なんと言った? 今度は私が呆気に取られ、そして次の瞬間、顔に血が上った。
 この私を綺麗だと、凌統殿は言ったのだ、この私を! 恥ずかしい、こんな恥ずかしいことがあるか。だが同時に擽るようなどうしようもない嬉しさがこみ上げてきて、どうにも頬が緩みそうになる。いかん、このままでは、顔の緩みがばれてしまう。
「ばっ、莫迦な事を!」
 私はいささかわざとらしく声を荒げて、締まりのない顔を誤魔化すかのように、慌てて店の外に飛び出した。
「あ、おい!」
 凌統殿の焦った声、続いて「初心だねぇ」と呟かれた気がするのは、空耳だろう。いや、空耳にして欲しい。

 店に飛び出した瞬間、往来の人の目の多さに内心悲鳴を挙げた。しまった、これでは店の中に居た方が良かったかもしれない。いや、だが店の中には凌統殿がまだ居る。私はどっちを取って良いか分らず、とりあえず一歩踏み出した、
「うわっ!」
 ……ところで、お約束のように裾を踏んでしまった。ああ、この恰好で転倒するのだけは避けたいかも、と思ったのも時遅し、既に体は転倒の衝撃に備えて身を硬くしていた。
 だが、不意に腕を強く掴まれて引っ張られたことで、何とか転倒は免れた。
「大丈夫か?」
 はぁ、と安堵の溜息をついていると、後ろから声が掛かる。私は振り返って、腕を掴んで転倒の窮地から救ってくれた主、凌統殿に礼を言った。
「す、すまない。助かりました」
「忙しないねぇ、もっと落ち着いたら? 慣れてないんでしょ? そういう恰好」
 私はその言い草にむかりとした。大体、こんな恰好をさせたのは何処のどいつだ!
「こ、この服が歩きづらいのです! ええいくそ、何でこんなに裾が長いのだ!?」
「お、おい待て早まるな!」
 半ば自棄になって裾をぐいと持ち上げようとすると、途端に凌統殿がぎょっとして、その行為を止め立てされてしまった。
「まったく、油断も隙もない」
 凌統殿は、無事私の暴走を止める事に成功して、ほっと安心しているようだった。なぜ、そこで安心するのだろう、ただ、裾を持ち上げようとしただけではないか。
「な、何故止めるのです。別に凌統殿に迷惑は……」
「そうそう、迷惑掛けまくりだね。こんな往来で、裾持ち上げられて素肌を露にされちゃあ」
「……」
 言われて考えれみれば、流石にはしたなかっただろうか。そうは思っても、恥ずかしさと困惑とが去来していて、私は顔から険しい表情を取る事は出来なかった。凌統殿はそんな私を見て、苦笑すると、
「……ったく、しょうがねぇなあ」
 はい、とごく自然に、手を取られていた。
 いつもならばそんな手は即刻辞退するだろう、だが、今日の私は大人しくそれに従った。彼がそうしたことが、単純に嬉しかったのだ。
 そして一歩踏み出した瞬間、ちりりとどこかで鈴が鳴ったような気がした。はっと振り向いたが、見渡す限りでは別段異変は感じられなった。
 凌統殿が促がす。私は、慌てて歩を進めた。


 私はひたすら無言で歩いた。正確には、気恥ずかしくて何も言う事が出来なかった。斜め前を進む凌統殿の横顔を時折ちらちらと見上げ、ただひたすら彼がリードするにまかせた。
 彼の女性をリードする、その洗練されていること。態度一つとっても、凌統殿は女の子の扱いに随分と慣れているのだな、と感じた。そして同時に胸がちくりと痛み、私は顔を顰めた。
 その痛みはささやかだったが、妙に気になる痛みだった。切ないようで嬉しいような、とにかく騒がしい。彼の所作にいちいち別の女性の影を見ては切なくされ、しかし今彼の隣を歩いているのは間違いなく私で、そのことに多少の優越感を感じる。だが、しかしこれは単に偶然が幾重にも重なって今彼の隣に居るのが私と言う事で、きっと明日になれば彼の隣に居るのは別の女性だろう。おそらく、美しく淑やかな佳人が。そう考え、またちくりと痛んだ。それに、私は顔を顰める。
 ああ、もう、ちくちくとさっきから! つま先が痛んでしょうがない! ……ん? つま先?
 と、そこでようやく別の部分が痛みを訴えていることに気付いて、私はちらりと足元を窺った。今、私の足を覆うものは、刺繍の入った華奢な造りの靴。当然、私にとっては履きなれない物である。
 その靴はいつも愛用しているものより、ずっとずっと私の足を締め付ける。つまり、端的に言うと、……とても痛かった。
「凌、凌統殿。ちょっと待ってくれませんか?」
「どうした?」
「かたじけないのだが、靴が少々きつくて……」
 振り返った凌統殿は、その言葉だけで全てを悟ったようだった。私の足元をちらと見て、ああ、と頷くと、少し先にある一軒の可愛らしい茶屋を指し示した。
「少しあそこで休もう」


 ごゆっくりどうぞ、と店員が丁寧な物腰で頭を下げた。菓子と共に出された茶に手を伸ばしながら、私は店内を見渡した。見れば、どこもかしこもカップルだらけ。
 ……なんだか周りの客から浮いているような気がする。
 気まずくなって凌統殿を見ると、彼は全く気にしていないかのように茶を啜っていた。彼は可笑しいとは思わないのだろうか、この場に私と凌統殿が二人並んで座っている事に。
 しかし、私のすこぶる真っ当な疑問すら、彼には伝わらぬらしい。凌統殿は、私がじっと見詰めている事に気付くと微笑んだ。
 ――ちりり、と不意にどこかで鈴の音が聞こえた。
 この音はもしや。ぱっと凌統殿を見上げたが、しかし彼は彼でいたく寛いでいて音に気付いていないようだった。彼が気付いていないのならば……、それでいいかと思い、私は特に言及せずにいた。
 彼はその長い指で一つ茶菓子をつまみ、口に放り込んだ。そしておもむろに私のほうを見る。
ナマエ殿は、なぜ武官に?」
 突然の問いに、私はしばし返答に惑った。
「……父の夢のため、かな」
 ややあって、ぽつりと零す。凌統殿が少し驚いたように瞬いたので、私は苦笑して続けた。
「私の生家はもともと多くの武官を輩出する名家でした。だが父の代になって、何故か生まれてくる子は皆娘ばかり、父の後を継ぐ男児は、ついぞ生まれてきませんでした。そこで私が父の後を継ぐことにした。なに、一人くらい変わり者の末娘がいたとていいだろうと思いましてね。幸い、家族からの反対は無かった」
 言って、一口茶を啜る。
「それに、今は乱世のせいで男が少なく、逆に女があぶれている、少しは均衡をとらねば拙いでしょう」
「……けど、何もそれをアンタが均衡取んなくたっていいだろう。好き好んで、戦場に向かわなくても、別の生き方があるんじゃないの?」
 眉を顰めて言う凌統殿に、私は微笑んだ。
「優しいのですね、凌統殿は。……だが、こうして此処に在る以上、私は武官だ、男も女も無い。正直、この世界が怖くないとは言わぬ。だが、守るべき者がある以上、信念を通して守り抜きたいのです」
 例えばそれは大切な家族のためであったりとか、大事な友人のためであったりとか。思えば父の夢など恐らく建前の理由でしかないのだろう、私は、たとえ己を犠牲にしてもそれらを守りたいと切に願っていた。だが、もともと不器用な私は、それを言葉に出来ず暴力に頼り破壊を好む女だと思われることもままあったが。
 しかし、周りからどれほど恐れられていようが、それほど気にならないのだ。私が、大切な人々が息づくこの国の御柱となっているのであれば――。
 万感の思いを込めて、微笑む。椀の水面に映る私は、穏かな顔をしていた。
「……今までアンタのこと、恐ろしい鋼の女だと思ってたけど、訂正するよ」
 凌統が、静かな表情で言った。私はつと顔をあげ、苦く笑った。
「はは、鋼の女か、いいな、それは」
 なるほど、鋼の女か。だが、皮肉な事に、そこまで私の心は頑丈ではない。実際も、それほど強くいられたらいいのだが、そう言う意味合いを込めて笑うと、凌統殿はなぜかむくれたようにフイと顔をそらした。
「良くねーよ、ぜんっぜん」
 それは、どういう意味だろうか。
 だが、なぜかその理由を聞けず、私は戸惑って、持っていた椀の茶を一気に飲み干した。





 そろそ陽が西の彼方に沈むだろうか。
 茶房を出たところで、凌統殿は立ち止まってしばし茜色の空を見詰めていた。何かを思案しているようなその横顔は、きりりとしていて思わず見惚れてしまう。
 その端整な容姿もさることながら、シニカルな笑みに大人の男としての魅力を感じさせ、少し斜に構えた態度に隠れた包容力、時折見せる少年のような笑顔に、ごくさりげなく振舞われる優しさ、……誰もが彼に惹かれて止まないだろう。彼は魅力的だ。
 この頃になって漸く、私は彼にすこぶる好意的である自分がいることを認めた。そう、彼は驚くほど私の心を掴んでいた。たった一日で、可笑しなものだと私は内心苦笑する。会った時にはあれほど彼に疑心暗鬼になっていたのに、この期になって、彼との別れが惜しいと思うとは。いや、或いは、誰かを慕う気持とは、そういうものなのかもしれない。
 名残惜しむように彼の顔をみつめていると、凌統殿はこちらに振り向いて、ふと神妙な顔つきになったので、私は知らず息を呑んだ。
「まだ時間、あるよな。……もう少し、付き合ってくれるか?」

 一旦馬を預けたところまで戻ると、さっそく愛馬の手綱を掴んでその背に乗ろうとした私に、凌統殿は呆れ返っているようだった。
「アンタ、一人で馬に乗るつもり?」
 その言葉の意味が一瞬判らず、「なぜだ」と首を傾げると、彼は苦笑した。
「別に良いけど……、そんな恰好で横乗りできんの?」
「む」
 言われてみれば、このような恰好で馬を跨ぐわけにもいかず、だからといって私が一人で横乗りなどという高度な乗り方も出来るはずもない。それを読んだように、凌統殿が畳みかける。
「間違っても堂々と裾あげて、俺の前で太股晒すなんてことは勘弁してくれよ」
 人前で太股を晒す…….。先ほど似たような行為をしてしまっただけに、私はますます言葉に詰まった。たしかに、私のような者の筋肉だらけの脚なんぞが露になっていたら、さぞ見苦しいに違いない。
「しかし馬が駄目だとすれば、歩きか?」
 そう首をひねった私に、凌統殿はにやっと笑った。
「莫迦だね。――俺と一緒に乗ってきゃいいじゃんか」


 疾駆する馬の上、私はぎこちない仕草で凌統殿に掴っていた。いつもならばその風が頬を撫でる心地よさに身を任せているところだったが、今日はそんな余裕もなかった。なにせ二人乗りだ。緊張して、それどころではない。それに凌統殿がいくら好意で二人乗りしてくれたとしても、あまりひっつくのも悪かろうと思い、結果として私はとても不安定な状態のまま横乗りに耐えていた。凌統殿は凌統殿で、赤くなって遠慮する私をからかいながらも、決して嫌がらない程度で体を支えてくれていたのだが。……しかし、もしまた二人乗りをする機会があったとしても、もう勘弁願いたい。
 そして幾分もしない内に、到着した丘から臨める光景に、私は言葉を失った。
「ほら、着いたぜお姫様、俺の取っておきの場所だ」
「すごい、な……」
 地平の果てが見えるようだった。広い空、流れる雲は全て落輝で染め上げられ、美しいグラデーションを作っている。悠久を感じさせるような空の彼方は、どこの空に繋がっているのだろう。
 美しい世界、こんな光景を、凌統殿と一緒に眺めているなんて、にわかに信じられない。
 ……だが、目に映った違和感に気付いて、ふと現実に引き戻されてしまった。今まで幾度となく感じた違和感は、どうやらそれが原因らしい。そしてあることに気付いた、この夢のような時間は偶然でも幸運でもなんでもなく、どこかでけし掛けた人物がいるのだということに。それは恐らく凌統殿と、――もう一人。
 ……私が夢見る時間は、どうやら終わりが近いらしい。名残惜しい気持が去来して、私は自嘲して目を伏せた。
「凌統殿」
 後ろの人物に呼びかけると、「あん?」と少々気の抜けた返事が返ってきた。私は気にせず、伝えたい事を伝えた。
 これが仕掛けられた夢ならば、そうとはわかっていても……、しかし夢が醒める前にせめて夢を見させてくれた事に礼を言いたかった。
「今日は色々感謝しています。まるで、でぇととやらをしている気分だった」
「あー……、俺は初めからそのつもりだったんだがな」
 戸惑うような声が返って、私は思わずふっと笑みを零した。
「そう言ってくれるのは嬉しいが、……あまりこの私をからかってくださいますな」
「別に俺はからかってなんかないぜ」
 今度はむっとしたような声。しかし私は、それには惑わされなかった。すっと後ろを振り返ると、躊躇う凌統殿越しに、とある一点をすっと目を細めて見詰めた。そこには、あの特徴的な髪型の人物が木影から見え隠れしていた。本人は完全に隠れているつもりなのだろうが、ここから見下ろせば丸見えだ。
「ではなぜ、先ほどから甘寧殿がそこに隠れているのです?」
 凌統殿も思わずつられて確認し、そして苦い顔をした。
「……気付いていたのか」
「生憎私は耳は良い方でな」
 言って、私は少し力なく微笑んだ。
「お二人で、この私をからかっていたのでしょう? ……だが私は気にすまい。寧ろ、礼を言いたいくらいです」
 そのことに気付いて、認めてしまうのは少し辛かったが、しかし実際口に出してみれば、意外とさっぱりと微笑むことができた。からかわれていたとて、決して凌統殿を厭いはすまい、おそらく今日彼が見せてくれた顔は本心であろうし、今日は本当に楽しかったし、私が彼を慕う気持には変わりはないし、正直それだけあれば十分であった。彼が私をどう思っていようと関係ない。いや、少しは関係あるのだろうが、私が彼を慕っているのであれば、それでいいじゃないか。
「さあ、私を下ろしてくれ。帰りは一人で結構です」
 だが、せいせいしている私とは別に、凌統殿はすこぶる動揺していたようだった。一人で下馬しようとした私は、慌てて引きとめられ、彼にすごい剣幕で捲し立てられた。
「あ、ちょっと待ちなって、何一人で早とちりしてんだよ! ……ったく、仕方ねぇ、全部バラしちまうか。実はな、これは甘寧の奴と囲碁で賭けをしていてさ。ホラ、勝った奴が負けた奴になんでも一つ命令できるってやつ。で、何の偶然か甘寧の奴が勝っちまって、あの野郎、ナマエ殿をデートに誘えと抜かしやがったんだ。それが、事の顛末、わかった?」
「くだらない事を思いつく」
 なるほど、と私は苦笑した。すると凌統殿は腹を括ったように男らしく詫びを入れ、
ナマエ殿をだしにして、すまなかった。――この通りだ」
 すっと下げられた頭に、私はくつくつと笑いがこみ上げてきた。なるほど、悪意があったのではなくて、単なる好奇心と言うわけか。
「いや、気にしないでください。私にとっては有意義な一日だった」
 尚も頭を下げ続ける凌統殿を手で制して、私は少し目を細めた。
「可笑しいとは思ったのだ。凌統殿のような素敵な殿方が、私をこのようにお誘いしてくださるなど」
 彼が少し瞠目したようだった。しかしそれには気付かず、私は続けた。
「しかし、凌統殿にとっては、さぞ苦痛な一日となっただろう。何分私は女らしさも女心も欠片すら持たぬので……」
 幾分皮肉の篭った言葉に、彼はふと顔を顰めて呆れたような表情になった。
「アンタそれ本気でいってんの?」
「……私はいつでも本気ですが」
「あーはいはい、そうでしたね……」
 凌統殿はなぜか諦めたような、少し疲れたような笑みを浮かべた。
「俺は今、甘寧の莫迦に珍しく感謝してんだ。だって、あいつがこんな馬鹿げた罰ゲームを思いつかなきゃ、一生アンタのこと知らないでいたかもしれない」
 私は、その言葉に嬉しくなった。凌統殿も、すこしは私と同じ気持で居てくれているのかもしれないと。
「そうだな、お陰で私は凌統殿のことが好きになりました」
 興奮を押し殺して私が告げると彼は目を丸くし、「それ、ホント?」と訊ねてきた。頷いてやると、彼は少年のように笑って、やおら私の腕をひっぱった。突然のことに私は驚いて「うわっ」と凌統殿に倒れる。当然のように、私の腰に彼の手が回った。
 ……私は、今、彼に抱きしめられている! ああ、なんて甘美な感覚だろう。
 だがしかし哀しいかな、私は慣れぬ状況に硬直してしまい、宙に浮いていた腕をどうすればいいのか分らず、そのままわたわたわきわきとさせた。無論彼の背に回すなど、思い付くはずもない。

 驚きで言葉もない私に構わず、凌統殿は彼が隠れているつもりであろう方向に向かって叫んだ。
「おーい、甘寧! お前それバレバレだぜーっ!」
 少しして、ちりりと忙しない鈴の音が聞こえた。おそらく慌てふためいている事だろう。
 凌統殿は、その様子を眺めて「莫迦な奴……」と呟いて、おもむろに私に向き合った。その瞳に、私はどきりとする。
「また誘っていいか? 今度は賭けなんて関係なく、俺の意志でさ」
「で、でぇとにか?」
 問うと、彼はあっさりと頷いた。
「私などでよければ、喜んで。しかし、何も好き好んで私を選ばなくとも、凌統殿ならば恋人の一人や二人や三人くらいは……」
 はぁ、と大仰な溜息が私の言葉を遮る。凌統殿は一度大きく息を吸うと、
「……あのなぁ、俺、どんだけ浮気者なんだよっ! 言っとくけど俺は、一度に一人しか好きになれない奴なの、そこまで器用じゃねえ! 分った!?」
 一気に捲し立てた。私はぽかんとしてしまっていて、念を押すように再度「判った?」と迫れられ、とりあえずこくりと頷いた。すると彼は苦笑の混じったような、しかし何かを慈しむような笑みを浮かべて。
「アンタがいいんだよ」
 一瞬、私は眉を顰めた。私が良い、だと?
 すると彼は、全く惚れ惚れするような笑みを浮かべたものだった。

「つまり、惚れたってことだ」

「……!」
 ……ああ、これは、一本取られた。
 私は首まで真っ赤になって俯く。
 凌統殿は随分とご機嫌で鼻歌まで歌っている。それに内心苦笑し、私は大人しく彼に身を委ねることにした。

 ――私の中に芽生えた感情。これはもう、その感情に”恋”と名づけるしかないな、と苦笑した。