その男、策略家につき




 ――きっと、第一印象はお互いに最悪だった事だろう。





 彼に出会ったのは、今から遡る事少し前のこと。
ナマエ、少し良いか? 紹介したい人物がいるのだが」
「はい?」
 と、当時官の見習をしていた私は、その日も忙しく走り回っていたところに突然呼び止められ、当時のそして今もなお変わらず尊敬する上官でありつづける呂蒙殿の言葉に振り返り、そこで今日も絶好調に濃ゆい上官の後ろに控えめに立っている紅顔の美少年の姿が視界に飛び込んできて、文字通り私はその少年の存在に一瞬で釘付けになった。
(――わ)
「お前も名くらいは知っているだろうが、顔をあわせるのはこれが初めてだろう。彼が陸家の現当主だ」
 呂蒙殿の言葉が右から左へと通り抜けた。年のころは十五ほどだろうか、どこか初々しさの陰りを残した少年の真っ直ぐな瞳が、私を捉える。
「あ」
 目が合って微笑まれ、その余りの眩しさに間抜けにもぽかんと口を開けた私にも構わず、美少年は呂蒙殿に何かを言われて(恐らく私のことを紹介しているのだろうが、この謎の美少年に見惚れていた私の耳には一切届きはしなかった)、実に爽やかに挨拶をしてくださった。
「初めまして、陸伯言と申します」
 が、私はというと、キラキラしい笑みを寄越してくる少年にすっかり茫然としてしまっている。ああ、その輝く瞳といったらまるで仔犬かなにかのようだ! なんだろう、この妙な胸のときめきは。
「あ、えと、私は……」
 挙動不審な私に対し、少年がちょっと首を傾げた。途端に私の胸がきゅんとする。わあもう、なんていう可愛らしい仕草なのだ! 今度はまるで子猫を思い出させるかのような仕草に、小さい物や可愛いもの大大大好きな私は途端にこの少年の頭をくしゃくしゃに撫でたくてたまらなくなった。ああ、手が、手がむずむずする……!
ナマエ?」
 と、不審に思った呂蒙殿が私の体を揺するも、私の意識はそうそう夢の世界から戻ってこない。
ナマエ殿?」
「か……」
「か?」
「かわいい!」
 私は思わず叫んでいた。けれど、自分の煩悩を声に出した瞬間、あ、しまったと後悔した。少年のにこやかな笑顔が凍り、一瞬にして冷やかな表情へと変わる。その変わり様といったら、それはもう見事な程の豹変ぶりだった。
(あれ、あれ? どうしたの、少年?)

「――私は、男です」

 その可愛い顔からは想像もつかないような、底冷えするような声だった。どこか侮蔑が混じったような瞳は、その時完全に私を見下していたのだった。そしてその拳は、無垢で可愛らしい少年などと評されたということに(いや私はそんなつもりで言ったんじゃない! というか皆絶対思うって!)男して何たる侮辱か、とばかりに強く握り締められており、咄嗟に私は失言を謝ろうとして、けれど少年の苛烈で且つ冷然とした声に息をそして言葉をも飲み込むはめになったのだ。
「呂蒙殿の御弟子にしては、思ったよりも見る目のない方だ。だが、いまだ見習いの身である上お若い故に経験が不足していらっしゃる事を鑑みれば、物事の表面や外面に惑わされるのも仕方のないこと。これ以後、どうぞお気をつけ頂けるよう、ナマエ殿」
 そう告げる彼の目は、打って変って挑発的な瞳だった。表面上はにこやかな顔で告げてくるのは、なんとも白々しくそれでいて刺に満ちた科白。苛烈な瞳を向けられ、その時私は悟った。こいつ、見かけと違ってもの凄い腹黒、なのかもしれない。
 この瞬間、きっと私は、彼の中で(ライバル)と認識されたのだろう。
「まあ、ということで、同じ未熟者同士、これから宜しくお願いします」
「え、あ、はい」
 余りの豹変ぶりに私が呆気に取られながら対応すると、少年はまるで値踏みするような視線を向けてきたので、私はむかっとした。さっきこの少年が可愛いだなんて、一体誰が思った? いやいや、決して思うまい!
「……こちらこそ宜しくお願いします」
 売られた喧嘩は買いましょう、とばかりに私が挑戦状を受け取ると、彼は似つかわしくない冷笑を浮かべたものだった。どこか艶かしいそれは、まるで少年らしくもなく。
(……生意気!)
 私は思わず、心の中でそう罵った。

 それが、私と陸遜の出会いだった――。 
 そして、ここから私達の犬猿の仲のような関係が始まったのだった。



* * *


 ちりちりと、鈴虫が鳴いている。

「……ねえ」

「ちょっと」

「ねえってば」

 傍らで無心に筆を走らせる人物に幾度声をかけるも、返る声など一向に無く。
(……無視かい!)
 ここ数日続いていた寝不足で回らない頭の私はだんだん苛々し始め、筆を握る手に力が入るのを感じていた。

 季節は春、春といえば変わり目の時であり、民にとっても官吏にとっても何かと忙しい時であった。その中でも特に忙しいのが、人事異動前後の時期である。特に私のような下っ端官吏には、家に帰って寝る間もないほどの忙しさ。寝不足に過労にストレスと美容の大敵な言葉がオンパレードだ。膨大な書類に囲まれて、書簡に圧死される夢を見ることもしょっちゅうだった。
 ということで、私は本日もまたまた膨大な量の仕事を前に城で夜を明かしそうな予感たっぷりで書類に向き合っていた。だが今までと違うことが一つ、それは、珍しくも本日は完徹仕事仲間が一人いたことだった。
(いやあっちは少なくとも私を仲間とも認識していないかもしれないけれど)
 それが証拠に、先ほどから会話らしい会話は一つもない。
 時刻は既に深更。さらさらと筆を滑らせる音だけがする妙に静かな室の中、書簡と向き合ったまま一向に姿勢が変わらない彼に、私は先ほどからひたすら声をかけ続けていた。けれど無情にも一向に返答がなく傍から聞いていれば一人相撲のようであったことだろう。対する相手は恐らくというか確実に私の声は届いてはいるだろうが、どうやら無視を決め込んでいるらしい。
 寝不足ですっかり短気になっていた私はその態度にこそ向かっ腹が立ち、痺れを切らしたようにだんと筆を卓に乱暴に置き、その反抗的な人物の名を咎めるように呼んだ。
「ちょっと、陸遜!」
 息巻きながら、そのあとに「あんた聞いているの!?」と続けられるはずの私の言葉だったが、けれど不意に先ほどまで無視を決め込んでいた問題の人物――陸遜がぴくりと反応らしい反応を漸く見せた……と思ったら、じとりと半目でにらんできたものだから、その冷やかな眼差しに私はうっかり怯んでしまった。
「……なんですか煩いですね」
(う、煩い!?)
 いきなり痛恨の一撃。私は、がーん、という表情を隠せなかった。
「用件は手短にお願いしますよ。唯でさえ貴方は無駄におしゃべりが過ぎるのですから」
(ぐ、ぐう)
 の音も出ない。まるで年上を年上とも思っていない不遜な態度の陸遜に(それでも奴は年下だ!)、けれどこれまでの攻防の末に少しずつだがその不遜な態度に慣れていた私だったので、すぐに立ち直って用件を出来るだけ手短に伝える。どうせ何か反論しても、それ以上の嫌味を含んだ応報が帰ってくるに違いないのだから。口先で奴に勝てる筈もない。
「恐れ入りますが陸遜殿、ちょいと一本筆をお貸しいただけないでしょうか?」
 私はそう言って、少しばかり嫌味をこめて慇懃無礼に頭を下げて伺いを立てる。続く膨大な量の仕事を前に、数本ストックしてあった筆も残り一本となり、その最後の一本も先ほど使い物にならなくなってしまったところであったのだ。
 筆を貸して欲しい、その言葉に陸遜はかなり渋い顔になる。どうやら貸したくないらしい。……お金持ちのボンボンのくせに、ケチンボめ。
「……替えの物はないのですか?」
「生憎とこれが最後の一本で」
 そう云うと、陸遜は渋々ながらにまだおろしていない筆を差し出してきた。
「替えの筆も持っていないなど、不用意にも程があります。流石はナマエ殿ですね」
 その滅多にない彼の親切に私は少し感激したが、けれど渡し際にしっかりと嫌味を付け加えるのも忘れないあたり陸遜らしくて、告げようと思っていた御礼の言葉も彼方へ吹き飛んでしまった。だが、その嫌味に莫迦正直に反応してしまうのを堪えただけ、まだましだろう。
 私はひくつく口元を抑えつつ、聞こえないほどの小声で罵る事でストレスを緩和しようとした。
「何よ偉そうに、ガキ」
 ぼそり、と呟くと。
「何か?」
 冷たい視線が突き刺さり、私は戦々恐々となった。まさか、あんな小声が聞こえていたのか、地獄耳め!
 私は慌てて誤魔化すようににっこり笑い、礼を告げた。
「いえいえ、筆、ありがとうございます」
 どう致しまして、と陸遜もまた笑みを浮かべた。その笑顔に、どこか恐ろしさを感じたのは気のせいではないだろう。
「お礼は、朝食の奢りで宜しくお願いします。最近巷で人気が出てきているらしい東煌飯店という店、あそこが良いですね」
 ……そう、やはり気のせいではなかった。私は、お礼は朝食奢りと勝手に決める陸遜に慌てて待ったをかけた。
「ええっ!? ちょっと待ってよ何勝手に決めてるのよ! ていうか”東煌飯店”っていえば御偉い方々御用達のかんなり高級料亭じゃないのーっ! 私の安月給じゃ無理無理、絶対無理だってば!」
 下手したらまるまる一か月分の俸禄が飛ぶかもしれない、私は青くなった顔をぶるぶると振った。
 けれど陸遜は容赦がなかった。
「じゃあ、今ナマエ殿に差し上げた最後の筆の補充分、代わりに買ってきてくださいますか?」
「え、これって最後の……」
 私が瞬いて先ほど借りた筆を見ると、陸遜はにっこりと凶悪的な笑顔で続けた。
「ちなみに同じ方の意匠でないとダメですからね、筆には少しばかりこだわりがあるものですから。ちなみにそこの店自体は郊外にあるのですが、一見さんお断りの頑固な店主で、そうと見込んだものにしか売ってくれないそうなのですよ。後から場所を教えますから、この後行ってきてくれますか」
 たかだか筆に一見さんお断りかよ、と内心でつっこみたくなった私だが、その筆の値段を聞いた途端、ははあと大人しく頭を下げたのだった。ごめんなさい、もうあなたには逆らいません。
「……喜んで朝食奢らせて頂きます」
 陸遜は、分れば宜しいといったように微笑む。相変わらず、その外面だけは非常によく、黙っていれば天使のような微笑みに見えるというのに。しかしてその中身といえば。
「この根性悪め」
 と、日頃の恨みを込めてぼそりと呟くと。
「下らないこと言っている暇があったら、さっさと手を動かしてください。この調子じゃ朝までに間に合わないですよ。ちなみに、これが仕上がるまで我々には休息は無いものと考えておいてください」
 天使の面がはがれ、まさしく悪魔の本性を垣間見た瞬間だった。
「さっ、さあさあ、さくさく行きましょう!」
 私は口元を引き攣らせ、慌ててまた執務に取り掛かったのだった。


 そしてそれから、大方私が休憩を取ろうとして陸遜に叱られるような下らない言い合いを何度もしつつ、仕事をやっつける事暫し。一向に減らない書簡の量にうんざりしていたところ、突然扉が叩かれて救世主が現れ、私は顔を輝かせた。その救いの主とは。
「お前たち、はかどってるか?」
「呂蒙殿……!」
 片手に籠を持った上司はゆっくりとした歩みで私達の前に腰を下ろし、呂蒙殿大好きな陸遜は愛想よく「お疲れ様です」と微笑み、私はというと我慢しきれずこれまでの不満をぶちまけていた。
「聞いて下さいよ呂蒙殿~、さっきから陸遜にいわれのない迫害を受けてばかりなんです」
 と告げれば、さっと視線を鋭くした陸遜が横やりを入れてくる。
「それこそ全くの不当な言いがかりですね。大体、隙あらばサボろうとする方は一体どなたですか」
 んまあ、と私は憤慨した。
「サボってなんてないってば! あれは立派な休憩なの! 気晴らしなの!」
「へえ、1刻に4度も5度も手を止めて無駄にぼんやりとする……、あれが休憩ですか。私にはどう見てもサボっているとしか見えないのですが」
「一度も休憩を取らない陸遜が異常なのよ!」
 陸遜の莫迦にしたような冷笑に私の苛つきはピークに達した。
 ぎりぎりと歯軋りがしそうなくらいの勢いで、殺気を込めてじりじりと陸遜とにらみ合っていると、ふいに横から苦笑が聞こえてきた。振り返ると、呂蒙殿が可笑しげに私達の様子を眺めていて、その視線に陸遜ははっとして少し恥ずかしそうにしていた。
「お前達は仲が良いな。そうやっていると、まるで姉弟のようだな」
 私はその上司の言葉に、目を剥いた。
「なに、じゃあ私が姉で陸遜が弟ってことですか!? 止めてくださいよそんな。どうせならもっと素直で可愛らしい弟が良いです!」
「私だって願い下げです、こんな手のかかる姉なんて」
「きいぃっ、あんたには年上を敬うっていう気持を持ち合わせてないのかしら!?」
「勿論持っていますよ。敬うに相応しい相手に限定ですけどね」
 こ、このガキは。
「あ、あんたって本当に可愛くないわねぇ……!」
「可愛いなどという言葉はこちらから願い下げです」
 ――む か つ く!
 怒りのためか、握っていた拳がぷるぷると震え出した時。
「本当に仲の良い……」
 ふう、と気疲れしたような、それでいてあきれたような溜息が聞こえて、私ははっと我に返った。……ああ、上司の前で我を忘れるなど何たる失態。すいません、と謝ると、呂蒙殿は笑って頷いた。
「では、すまぬが、それの仕上げを朝までに頼むぞ」
「了解です」
「はい」
 二人ともしっかりと頷いたのを見て、呂蒙殿もまた自分の仕事を終らせるべく戻っていった。


 呂蒙殿の差し入れの籠から、美味しそうな匂いが漂ってくる。呂蒙殿が帰ってから、各々仕事を進めるべくさっさと卓に戻ったのだったが、どうにもその美味しそうな匂いが気になって仕方ない。陸遜を窺えば、しかしそんな様子は微塵も感じさせずにもくもくと作業を進めていく。先ほどから一度も休憩を取らないし、……奴はもしかして、超人なのかもしれない。――などと思わずありえない事を考えてしまうのは、やはり疲れているからだろうか。
「……ねえ、呂蒙殿の差し入れ、頂かない?」
「私は遠慮します。ナマエ殿は、好きなだけ食べてくださって結構ですよ」
 陸遜の反応はやはり予想通りつれない。わたしはむっとなって、言い返した。
「む、またそうやって意地になって。少しは休憩入れないと効率が悪くなるわよ。待ってて、いま、お茶淹れてくる」
 そう言って、私は彼の返答を待たずに立ち上がった。

 ぽつ、ぽつつ、……ざぁーー。音にしてみればそんな感じだろうか。
「わ、雨だ」
 近くの給湯室でお湯を沸かしつつ半蔀から外を窺った私は、突然降ってきた雨が俄かに激しくなった事に驚いて碗の用意をしていた手を止めた。雨音は激しく、建物全体が叩きつけられるような音を立てている。その激しさといったら、開かれていた半蔀から容赦なく雨が降り注ぎ床を濡らすほどで、私は慌てて半蔀を閉じようと近付いた。
 その時。
「うわ……っ」
 空が閃いて、雷がすぐ近くの庭園に落ちたようだった。その大仰な音に驚いた私だったが、次の瞬間足元を振り返って大いに落胆したのだった。足元には、先ほどまで手に持っていた陶器の碗の残骸。雷に驚いた際に落としてしまったらしい。
(あ~あ、割っちゃった)
 と、肩を落として溜息を付いたとき。
「……大丈夫ですか?」
 ふいに後方から声をかけられ、私は驚いて振り返った。
「陸遜」
 と、声の主を呼んだ途端、また近くで雷が落ちたらしい、どおん、という音に驚いてびくりと肩を竦ませた私に陸遜は少し意外そうな顔をして寄ってきた。
「雷、怖いんですか?」
「こ、怖くないわよ」
 音に驚いたのよ、音に。慌ててそう云うも、どうやらそれすらも弁明に聞こえたらしい、陸遜はやはり例の人を小ばかにするような笑みで見下ろしてきた。
「強がりですね」
 私がむっとしたので、陸遜は可笑しげに目を細めた。
 どこか挑発的な笑みは艶があって、ふいに一歩詰め寄られた私は妙な圧迫感を覚えた。出会った時には同じくらいであった目線は、いつの間にか見下ろされるほどになっている。
「それとも、年下の私の前だから弱い自分を晒したくない?」
「べ、別にそんなんじゃ……」
 私は、なぜか気まずくなってふいと陸遜から目をそらした。

 しゅんしゅんしゅん。
 火にかけていたお湯が沸騰したようだった。その音にはっとした私が顔をあげると、丁度陸遜が薬缶を火から下ろしているところだった。
 と、不意に彼が顔をあげる。
「ここは片つけておきますから、ナマエ殿はお茶を入れて執務室の方に持っていっていただけませんか?」
「え、でも」
「良いから。貴方が片つけると、余計に時間が掛かりそうだ」
 いつに無い親切な彼の言葉に私が戸惑うも束の間、彼の毒舌ぶりはやはり健在だった。私は(このガキ)と内心で悪態をついて、そのくらい出来るわよ、と語尾荒く告げて、おもむろにしゃがんで破片を拾いに掛かったのだった。
 だが。
「指を切りますよ」
「いた……っ!」
 頭上から声が降ってきたと同時、私は間抜けにもその通り指を切っていた。陸遜のあきれたような溜息が聞こえて、私はほぼ八つ当たりのように彼を睨んだ。
「ほら、だから言ったじゃないですか」
「煩いな。陸遜のせいだよ、余計なこと言うから」
 すると陸遜は苦笑を浮かべて、しゃがみ込み。
「指、見せてください」
 と言ったと思ったら、実に手際よく切った指の処置を施していった。そしてさっさと私がやらかした残骸も綺麗に片付け、終いにはお茶まで淹れてしまう。なんというか、手早い。
 ……うーん、陸遜って意外と良い主夫にもなってくれそう。と思って、私ははあぁと深いため息をついた。
「陸遜って本当にしっかりしているよね。年上の私よりも、全然」
 その言葉に、なにを突然、と言ったように、陸遜が振り向く。
「お家柄も良いし、才能もあるし、人柄……はまあ置いといて、押しも押されぬ今一番の出世株。あーあ、それに比べて私ときたら……」
「落ち込んでいるのですか? 珍しい事ですね」
 何となく自分が情けなくなって愚痴を零すと、陸遜は少し驚いたように瞬いて、……そしてにっこりと笑ったのだった。
「大丈夫ですよ。私から見ても、あなたもそれなりに才能はあるし、大きくは無いでしょうがこの先いくらかは出世するでしょう。とはいってもまあ、少なくとも私のほうが貴方よりも早く出世する予定ですが」
 それは一見慰めのように聞こえた。けれど、はたと考えてみれば実はそうでないことに気付いて頭に血が上った私の耳には、その時漏らされた、寧ろそうでないと拙い、という陸遜の呟きは全くもって届かなかった。
「な、なによそれーっ! 莫迦にするのもいい加減にしてよ!」
「――莫迦にしているのは貴方でしょう」
 突然、陸遜の目がすいと冷え。
「……っ!?」
 いきなりつかまれていた手が引っ張られ、その反動で体がよろけた私は次の瞬間目を白黒させた。なんで、陸遜の顔がこんなに近いんだろう。 
「いい加減、認めて欲しいものですね、私の事を」
「り、陸遜……?」
 その瞬間、憎らしくも可愛い後輩であった陸遜が、俄かに見知らぬ男に見えて私は驚いた。咄嗟に身を引こうとする。あわせたように、陸遜がずいと一歩大きく迫ってきてぎょっとした瞬間、唇の端に柔らかくて熱いものが押し付けられた。
(な、なん、なん)
 ――何なんだ! この展開についていけず私がすっかり仰天していると、すっかり化けの皮が剥がれた陸遜はすっと例の挑発的な笑みを浮かべたものだった。
「言ったでしょう、年下でも私は男だと。二度と、私の事を可愛いなどと言わないで下さい」
 私は言葉も無い。陸遜は私の反応に機嫌を良くしたのかにっこりと微笑む。
 冗談じゃない。日々敵視され先輩を先輩とも思わぬ生意気な態度にむかつきつつも、それでも陸遜のことを可愛い後輩だと思ってきた私は、この時すっかり彼の手の平の上で転がされていたのだった。いや、今考えれば、これまでですら私は彼の手の平の上で踊らされていたのだろうか。今までのつれない態度からすっかり毛嫌いされていたのだとばっかり思っていたところにこのサプライズ。これ以上不意打ちをつく策はあるはずもない。
 ――本当に冗談じゃない。私は、ドキドキといまだ収まらぬ鼓動を抑えた。

 私が一人動揺しているうちにも、陸遜はさっさとお茶一式を盆に載せて、私を振り返る。
「指、どうですか? 筆は持てそうですか?」
「あ、え、うん……」
 と、私がしどろもどろになりつつ答えると、
「良かった。じゃあ、早く仕事を仕上げてしまいましょう」
 すっと柔らかに微笑んだので、私は瞠目した。
 ……たぶん、それが私が一番最初に見た、陸遜の屈託無い笑顔。それは、その時の私にとっては非常に目に眩しかった。
(ああ、なんかこれって、非常に拙いかもしれない)
 笑顔一つで動揺するなど、腹黒陸遜の策にまんまと嵌っているとしか考えられない。
「何もたもたしているんですか、早くしてください。急いで仕事を終らせますよ」
 と、頭を抱えているところ、催促の声が掛かり、私は慌てて陸遜の後を追い、隣に並んだ。陸遜は、私の憮然とした表情が可笑しいのか、くつりと笑う。

「見ていてください。その内、貴方を追い越して年など関係なく思えるくらいに良い男になってみせますから」
「!」

 不意に耳元で囁かれた言葉に、やはり私は可笑しなくらいに動揺してしまった。
 ああもう、本当に奴は。
 生意気で、悔しいほどに要領が良くて、可愛くなくて、その上嫌味なくらいに顔だけは良い。
 むかつくほどの、かなりの策士。
 ――まったく、敵う気がしない。



「……というか、あんた愛情表現ひん曲がっているって言われない?」
「お望みならば、ストレート且つこれ以上無いほどに分りやすく表現して差し上げても結構ですよ」
「!? おわ、やっぱり結構です!」
「……ちっ」
(いま舌打ちしたよコイツ!)
 訂正、やっぱりむかつくガキだこいつは!