早足で、回廊を駆けてゆく。いつもの通いなれた道が、今は何処か寒々しい。昼間だというのにこんなに薄暗いのは、きっとこのうんざりする様な曇天のせいだろう。いつもなら何処からか漏れ射してくる光の存在は、この場には無い。
 さっきからずっと早足でいるせいか、息が少し上がってきたけど、私は歩を緩めようとはしなかった。少しでも早く、たどり着きたくて――。
 目的の戸を前にして、私は一度息を吐いた。戸の隙間から漏れてくる暖かな光に、自然頬が緩む。光――、それはまるで、この室の主の性質そのものを表しているようで。温みを求めるように、私は戸を押し開けて光の中へと足を踏み入れた。

「伯約っ」
 字を呼びながら、ひょこりと彼の室を覗き込んだ。けれど覗いた先には室の主はおらず、正直かなりがっかりした。
「……残念」
 呟いて、明かりだけが煌々と灯されている室を恨めしそうに眺めた。室内に主が居ない、それだけで、この光景が冷たい無機質な印象へと成り代わる。何故だか、身震いがした。
 ――だが、ふと気付く、次の間から感じる気配。誰か居る――現金なもので、それだけで沈んだ気分が一気に浮上した。そろりと忍び足で次の間へと歩み寄り、また先程のように覗き込むと――。
「……見つけた、伯約」
 珍しい事に卓ではなく長椅子にゆったりと座し、けれどやはり生真面目な顔で書面に目を通していた室の主は、直ぐに私の存在に気が付いて笑みを投げかけてきた。思わず、ほっと頬が緩んだ。
「あぁ――来ていたのですか。どうしました?」
 柔らかな声――それを耳にするだけで、どれくらい私がほっとするのか、この人は知っているのだろうか? いや、きっと知らない。軽いジレンマを感じながら、のろのろと彼に歩み寄った。
「ちょっと、会いたくなって――」
 云いながら彼の横に立ち、先程まで彼が見ていた書面を覗き込んだ。けれど硬質な文字が綴られたその文面は、一見だけで理解することは難しそうだった。あたり前だ、何時だって彼の仕事に関するときは、私は蚊帳の外。だから私にとって、何時だってそれは天敵だ。ちょっとむっとして、今も彼の思考を占領する憎らしい書簡をその手から奪おうとする。彼は困るだろうかと思ったが、予想に反してあっさりとそれを手放した。――大切な物なのに。
「先程、会ったばかりじゃないですか?」
 微かに苦笑が混じった、笑い声。私は彼から奪った書簡を長椅子の上に放ると、誘われるように彼に視線を移した。そこに、甘い笑み。きゅ、と私の中で、何かが震えるように感応した。
「うん、だけど――」
 また、会いたくなったの。その言葉は最後まで音にはせず、私は彼の首に腕を巻きつけ緩く抱きついた。突然の私の行為に、彼が微かに戸惑ったような気配を見せたから、少し不安になって益々強くしがみ付いた。肩口に顔を埋めて、顔を見られないように――。
 香りがした。――彼の。
「伯約」
 思わず、彼の字を呼んだ。けれど声はくぐもって、きっと彼には不可解な音としか聞こえなかっただろう。きっと聞こえてない、そう、思ったのに――。
「はい?」
 けれど予想に反して、応えは返ってきた。純粋に嬉しくなって、私は微笑を浮かべた。不意に頭に感じた重さと温もりは、確かめずとも正体は分った。彼の手が、ゆっくりと私の頭を撫でてくれている。優しく頭を撫でられる仕草が、まるであやされているようで――。思わず、瞼を伏せる。
「伯約」
「なんですか?」
 再度の応え。律儀だなぁ、と笑えてしまった。けれど浮かんだ笑みは脆く、すぐに消えた。また、囁く。
「……伯約」
 けれど、今度の応えは……。

「……っ?」
 ――不意に、大きな振動が訪れた。
 気が付けば、彼の腕の中にあった。ああ、彼に抱きかかえられたのか。そう理解すると、急に彼が覗き込んできたので、驚いてぱちりと目を瞬いた。
「……どうしたの?」
 目が合って、彼が笑ったから、私も笑った。
 ――そう、どうしてしまったのだろう、私は。こんな風に、彼に甘えるなんて。
 ただ、ひどく寒かったのだ。そして寒いと思った途端、無性に彼に会いたくなってしまって。気が付けば足は彼の元へと向かっていた。そして――、さっきまで寒くて寒くて仕方が無かったのに、彼に触れた途端、凍えた体が徐々に暖まっていくような気がした。彼の体温が、高いのだろうか? ただ漠然と感じるのは、とてつもなく大きな安心感。
「……ううん」
 私は結局彼の問いには答えられず、そっと彼の胸に顔を埋めただけだった。細身だけど、引き締まったその体は、思わぬほど温かい。彼は、問いかけから逃げ出した卑怯な私を溜息一つで許してくれたらしい、両腕がそっと背中に廻されたのが分った。ああ、温まってゆく。
「伯約って、あったかいね……」
 長い溜息とともに、独り言のように呟いた。音がする、彼の鼓動だ。ゆっくりと命を刻む音……、いや、今は少しだけ、早いかもしれない。
「そうですか?」
 淡く笑う声。何故だか居た堪れなくなって、猫のように身を丸めて頭を彼の胸に押し付けた。
「あったかいよ……すごく」
「今日は、確かに寒いですからね」
 返ってきたのは予想外に頓珍漢な応え。思わず小さく吹き出したが、私の背中を摩ってくれる温かな手が愛しくて、何も言う気は起きなかった。背中に感じる温かさが、寒さで縮こまった私の心身を溶かしてゆく。体が、心が、次第に温かくなってゆく。――もういい、この腕の中に居られるのなら、天候のせいにでも何でもしてしまおう。そう思ったとき。
「手も冷えてますね」
 不意に手を取られ、彼の頬に当てられた。それは当然ながら私の手が彼の頬を包むような形になって。
「伯約」
 けれど今度の温かさは、私に恥ずかしさをもたらした。頬で暖を取らせようとする所作が、まるで子供を甘やかす親のようで。
 ――そう、私は甘えたかった。甘えにきたのだ、この腕の中に――。
 今、私は、甘えているのだ、――子供みたいに。
「ほら、そっちの手も」
 いや、これではまるで、本当に子供ではないか――。
 そう思うと、更に恥ずかしくなって、私は慌てて手を引っ込めた。頬が、熱い。赤くなっているかもしれない。
「も、もう、いいよ」
「え?」
「十分、あったまったから」
「そう……?」
 戸惑う彼に、うん、と頷きながら、先程長椅子に放った大事な書簡を拾って、さっと彼の手に押し付けた。
「仕事、邪魔してご免ね」
 慌てて言って、私は踵を返そうとした。
 ――けれど。

「……伯約?」
 私は、私の腕を掴んで何か物言いたげに此方を見詰める相手を恐る恐る呼んだ。呼んだ途端、その相手ははっと息を呑んで急に表情を崩したものだから、私は驚いた。
「あの……今夜、あなたの部屋を伺っても良いですか?」
「え……」
 数瞬、私は呆気に取られた。そしてその台詞を理解した途端、頬が上気するのが分り、狼狽して暫し彼を見た。彼は、私を何処か不安そうな表情で見詰めている。
「……う」
 ずるい、と思う。そんな、急に不安そうな顔をしなくたって、いいじゃない。答なんて、もうとっくに決まっているのだから。きっとこの表情は無自覚なのだろうが、やはりずるい。けれど、弾む胸を抑えられる筈もなく、自然緩む頬を隠すように俯きながら、私はこう言うのだった。
「……うん、待ってる」

 ――瞬間、いっそう熱い感覚が額を掠めた。