暮秋





 とある秋の日。
 実家から林檎が届いたので、ナマエは甘藷とともにそれを煮こんでいた。ことことと半刻も煮込めば、母から直伝の、ナマエお得意の林檎と甘藷の甘露煮の出来上りだ。
 丁度賈充も帰ってきていたので、ナマエは彼と共に四阿でお茶を頂く事にした。
 愛情込めて煮込んだ秋の味覚を器に盛り、ことんと賈充の前に置く。
 賈充は器から一口すくって口に運び、口内で秋の味を堪能し、口元を綻ばせた。
「お口に合いますか?」
「ああ」
「よかった」
 賈充の反応にほっとしたナマエは、茶壷を傾け杯に茶を入れると、それを彼の前に差し出す。
「お前も食べるといい」
「はい、頂きます」
 穏やかに促され、ナマエは自分の器に手をつけた。


 この日、賈充は久しぶりに丸一日休みを取っていた。たまの休みは貴重だとばかりに、彼は一日を有意義にナマエと過ごし、彼女は賈充がゆったり過ごせるようにと心を配っていた。
 穏やかな一時を、一緒にのんびりと過ごす。
 秋晴れの空が美しい日だった。
「公閭さまがお帰りになる日に天気が良くてよかった」
 おっとりとした口調でそう告げて、ナマエは庭園を見渡した。四阿から見渡せる庭園の景色はすっかり秋の色に染まり、どこかうら寂しい。花は枯れ、木々は落葉を待つばかり。
 だが、ナマエは満足だった。隣には賈充がいる。
 甘露煮は林檎の香り高く上品な甘さで、ナマエの満足のいく出来栄えだった。これなら幾らだって食べられるくらいだ。
 と、隣の器を見れば中身が既に空になっており、賈充が甘露煮を気に入ってくれたのだと知ってナマエは笑みを浮かべた。
「お代わりは、いりますか?」
「貰おう」
 空の器を受けとって、甘露煮を追加した。

 秋のひと時は肌寒い。から風が吹いてきて、ナマエは上掛けを前で合わせて賈充に身を寄せた。そのナマエの肩を抱き寄せた賈充がこちらを一瞥して一言。
「風邪など引くなよ」
 大丈夫ですよ、とナマエは微笑んだ。賈充は意外と心配性だ。
「そういえば先日、夢に公閭様が出てきたんです」
「ほう。俺は何をしていた」
 茶を一口飲んだ賈充は、顔を上げてナマエを見た。
「遠乗りに連れて行ってくださいました。とても楽しかったんですよ。一緒に紅葉を拾ったり、小川を散歩したりして」
「それは遠まわしにお前を邸に閉じ込めて、何処にも連れて行かない俺へのあてつけか?」
 からかい混じりの意地悪な言い方にナマエは慌てた。
「べ、別にそういうわけでは……。公閭さまがお忙しいのは分かっていますので、我侭は云えません。それにこうして一緒に過ごせるだけでも私は幸せです」
 ふ、と賈充は微笑む。
「分かっている。俺も心ない言い方をした」
 ナマエ、と艶のある低音が静かに名を呼んだ。
「俺は俺なりに、お前の事は気にとめているつもりではいる」
「はい」
 賈充の気遣いは身に染みて分かっているつもりだ。その意味を込めて真摯に頷くと、ふと賈充は片方の口の端を吊り上げた。
「だが、それだけでは足りんのかもしれんな」
 かたり、と茶杯が卓の上に置かれる。
「行くか」
「え?」
 きょとんとしたナマエを見下ろし、賈充は零れるように笑った。
「紅葉狩りだ」


 昼を簡単に済ませ、手早く支度をして邸を出たので、なんとか昼過ぎには目的の場所へとたどり着いた。
 都を出て、北に向かって馬で半刻ほど走らせたところに紅葉の名所があった。道沿いに、広葉樹の並木が並んでいる。
 賈充の馬に同乗させてもらい、ゆったりとした足取りで並木を走りながら、ナマエは赤と黄色の鮮やかな秋色の共演に感嘆の声を上げた。
「すごい、とても綺麗ですね」
「ああ」
 賈充はナマエの言葉に同意しながら、はしゃぐ妻の様子に口元を綻ばせた。
 と、道沿いの先になにかを見つけたナマエが声をあげる。
「あ、公閭様あそこ、栗が落ちてるわ。持って帰って、栗餡の饅頭にしてみるのはどうでしょう」
「うまそうだな」
 賈充の同意にナマエが嬉しそうに振り返って微笑んだ。
「じゃあ拾って帰りましょう」
 近くまで馬を寄せ、ナマエは下馬してするりと賈充の腕から抜け出した。賈充は近くの樹に馬を止せ、手綱を繋ぐ。
 喜んで栗の樹の下に走り寄っていくナマエの背に声を掛けた。
「怪我をするなよ」
「はい!」

 熟れてはじけた栗の実が、地面に沢山転がっていた。
 棘に気をつけながら、ナマエは夢中になって栗の実を拾い、持っていた手巾を広げてその中へと納めていく。
 しばしの間、賈充は近くの樹に背を寄せ、その様を愉しげに眺めていた。ナマエの姿を眺めているだけで、不思議な事に飽きないものだった。


 秋の日暮れは早い。そろそろ日が傾こうとしている。
 ナマエは満足いくまで栗を集め終わったらしく、沢山拾ったそれを手巾で零れないように包んで両端を結ぶ。
 そのナマエの背に、そろりと足音をさせずに忍び寄る影が一つ。
「きゃっ」
 背後からいきなり抱き寄せられ、驚いたナマエは栗の実の包みを取り落としてしまった。ころりと包みから零れた栗がひとつ、足元に転がる。
「くく……、童子のように夢中になっていたな」
「公閭様」
 ナマエは頬を染めながら、耳元で囁く声の主の名を呼んだ。
「この俺の事を放置するとは、いい度胸だ」
 顔を覗き込み、賈充はナマエの顎をくいと持ち上げる。甘く咎めるように囁いて、うっそりとこちらを見上げる彼女の唇をそっと塞いだ。
 食むように何度か唇を寄せる。
「夢ではこういうことはしなかったのか?」
 口付けの甘さにぼんやりとしているナマエに、からかうような口調で尋ねる。
 ナマエははっと我に返って、賈充の胸元にとんと手をついた。
「もう、公閭様」
 そしてうっとりとした表情で身を寄せ、「してくださいましたよ」と彼女は微笑んだ。
「どんな風に?」
 ナマエは賈充を見上げた。次いで眩しげに賈充を見つめたかと思うと、照れたようにはにかんだ。
「優しく……」
 そっと瞼を伏せる。
「優しく口付けしてくださいました」
「ほう……」
 鼻を鳴らした賈充は俯くナマエの顎を再びそっと掬い上げ、触れる程度の口付けをした。
 それだけでは物足りなく、上唇を啄ばむようにしてから唇を離す。
「これで満足か? ナマエ
「はい」
 頬を染めて、ナマエが頷く。

 ナマエの体を両腕に閉じ込め胸元に抱き寄せながら、賈充はその耳元に囁いた。
「たまには、お前からもして貰いたいものだな」
「え、私ですか」
 意外そうにナマエが瞬いて、賈充を見上げた。
「嫌か」
「そうではありませんが、でも意外です」
「なぜだ」
 含み笑いを浮かべて尋ねれば、ナマエは純粋そうな笑みをこぼして首を傾げた。
「だってそんな風に甘えてくださるなんて、あまり機会がなかったんですもの。いつも私ばかりが甘えているような気がして」
「そんなに意外か。俺はお前が思っている以上に、お前に甘えているつもりだがな」
 首筋に顔を寄せて息を吹きかけると、くすぐったいのかナマエはくすくす笑って身をよじる。調子に乗ってその首筋に噛み付くと、「やめてくださいまし」と笑いながら逃げられてしまった。

 空になった両腕を眺めて、賈充はひとつため息をつく。妻からの口付けが欲しいといという些細な願いは未だ叶えられていない。ナマエは暢気に栗の包みを拾い上げている。
「……ナマエ
「はい?」
「それで、俺はいつ愛しの奥方から接吻の栄誉に浴せるんだ?」
 口の端をにやりと歪めて尋ねれば、ナマエははっと我に戻る。次いで賈充の台詞に頬を染めた。愛しの奥方……、なんて素敵な響きだろう。ここは是非とも期待に応えなければ。
「は、はい。ただいま」
 生真面目なナマエは再び栗の包みを地面に置き、真剣な表情で賈充と向き合う。目が合うと照れたように瞬き、賈充の頬に指先で触れて、はにかむ。
「では、あの、目を閉じてください」
「くく、さてどうするか」
 と、あまりにナマエが真剣なものだから、賈充は内心おかしくてたまらない。
 まあ、とナマエは声を上げた。
「公閭様、意地悪しないで」
 困り顔のナマエを、賈充はくつくつと喉の奥で笑った。
「お前を困らせるのは癖になるな」
「もう……、いい加減にしてくださいまし」
 賈充の悪戯心を知ってか、まんざらでもないように微笑んで、身を寄せる。賈充はそのナマエの髪に指を差し入れ、愛でるように梳いた。
「好きなものを可愛がって何が悪い」
「公閭様の可愛がり方は、たちが悪いですわ」
「悪いな。俺はお前にいかれているんだ」
 にやりと笑って云えば、ナマエは頬を染めた。
 誘われるように、ナマエの指先が賈充の薄い唇に触れる。感触を確かめるように指が輪郭をなぞると、そっと顔を寄せた。
 唇が触れ合う。
 一瞬触れて、そっと離れた。
 だが、それだけでは物足りない。
 離れていく唇を追いかけるように、ナマエの首下に手を差し込み、ぐっと顔を寄せる。深く口付け、噛み付くように口内を蹂躙する。舌を絡ませ、歯列をなぞった。
「甘いな、お前の唇は……」
「公閭、さま……」
 唇を離した賈充は、けぶるような瞳でナマエを見下ろした。挑発するような美しい微笑がナマエの視界いっぱいに広がる。
「もっと俺をおぼれさせてみろ、ナマエ

 紅色にそまった紅葉がひとひら、ひらりと逃げるように落ちていった。