春の訪れ・四





 目が覚めて隣を見ると、隣に賈充はいなかった。飛び起きてあたりを見回すと、どうやら寝過ごしてしまったようだった。
 慌てて内衣の上に上着を羽織り、室を飛び出すと玄関へと向かう。
「奥様?」
「公閭様は!?」
「先ほどお出かけになりました」
 途中で会った侍女に飛びつくと、返って来たのは無情な返答。
「そんな……」
 思わず脱力する。ふらふらとして、壁に手をついた。
 最悪な時に寝過ごしてしまった。昨夜は甘い一時を過ごしたはずなのに、ナマエの不注意で賈充の機嫌を損ねてしまったままなのだ。
 朝起きたら一番に謝ろうと思っていたのに。
 小さな口論だった。だけど次に賈充と顔を合わせるのはずっと先だ。諍いを抱えたまま長く会えないのは互いにとって手痛いことだった。仲直りも出来ずに、そのまま賈充は出かけてしまったわけか。
 ナマエが愕然として立ち尽くしていると、彼女の格好を見咎めた侍女が眉根を寄せた。
「奥様、そんなはしたない格好で。風邪を召されると旦那様に叱られますので早く着替えてくださいませ」
 
 侍女に言われるまま室に戻ったナマエは、着替えもせずにしばらく茫然と寝台に腰掛けたままだった。
 どうしよう、どうすればいいんだろう。
 賈充はあと数日は城に居ると云った。その間に顔を出したいが、きっと遠征の忙しさでナマエなぞに構っていられる暇なんてないだろう。それに賈充の邪魔になるくらいならば、邸で大人しくしていた方がましだ――。
 それくらいの分別はナマエにだってあった。
 いや違う、でしゃばって会いに云って、更に賈充に迷惑をかけて嫌われるのが怖いだけだ。
「どうしてあんな事云っちゃったのかしら」
 後悔に顔を覆ってため息をつく。つくづく自分を叱咤してやりたい気分だった。
「莫迦だわ私、あんなふうに責める様に云ってしまったら機嫌が悪くなるのも当然よ」
 それでも突然長く会えなくなると知った時のナマエの気持ちも知って欲しかった。だがそれにしても別の言い方があったのではないか。考えて、頭を振る。別の言い方があるにせよ、今更考えても仕方のないことだった。
「きっと、びっくりしたからだわ。公閭様にしばらく会えなくなるって聞いて、心の準備が出来ていなかったせい」
 そのせいで随分手痛い目を見る羽目になってしまったが。
 そう自分を納得させ、ナマエはひとまず着替えに立ち上がった。

 支度を終え、朝食を取ると大分気分は落ち着いた。ひとまずは賈充のことだ。先ほどまではどうにかして謝る手立てはないものかと思っていたが、少し冷静になって考えてみればそれがどれほど意味のある行為か分からなかったため、一先ずは保留にした。なによりナマエは怖気づいていたのだ。余計な事をして賈充の機嫌を更に損ねることだけはしたくない。
 その代わり、手紙を書こうかと思った。
 手紙であれば暇を見つけて読んでくれるだろうか。

 新しいまっさらな書簡に賈充に対する想いと謝罪をしたためる。永く離れることをとても寂しいと思うこと。ナマエの言い方に気分を害させたことを悪く思っていること。できれば何処にも行かずに、傍に居て欲しいということ。……愛しているということ。
 ゆっくりとしたため、家人に頼んで書簡を届けるため使いを出す。
 内容が内容だけに、同僚の目に留まり賈充が気まずくなっているところが目に浮かんだ。だが構わなかった。ナマエの気持ちが届けばそれでいいのだ。

 二日待ったが、手紙への返信はなかった。当たり前の事だ、賈充は忙しいのだ。
 返信がなく、そわそわしたのは三日目までだった。気にしてもしょうがない、と開き直ったのは次の日のことだ。
 その頃にはもう、遠征隊が許昌を立ったという知らせがナマエのもとまで届いてた。
 手紙は読んでくれただろうか。機嫌は直してくれただろうか。その点だけが気になった。
 実際、手紙を書くことはいい気分転換になった。賈充への想いを再認し、書くだけで満ち足りた気分になっていた。
 ナマエの手紙はその後も続いた。
 遠征地まで届いているのかは実際分からなかったが、宮城の賈充の執務室宛に手紙を出せば居残った彼の副官がきっと処理をしてくれるだろう。

 賈充への書簡が五巻目を過ぎるころには、手紙の内容は取り留めのないものになっていた。すっかり雪が積もった、ご近所の奥様がうんぬん。日常の細やかな事をしたためる。
 遠征地からも賈充からの返信はなかった。だが噂によると遠征は滞りなく進んでいるらしい。
 その間にも冬が深まり、季節はやがて春へと向かっていく。
 二ヶ月が過ぎ、そして三ヶ月が過ぎる。



 その日、三月前に許昌を出発した遠征隊が凱旋したと知ったのは、午後も過ぎてからのことだった。
「帰ってきているの? 公閭様が」
 家人からその知らせを受けたナマエは、青白い顔を持ち上げた。この日、朝から具合の悪かったナマエは長椅子にぐったり凭れたままだった。先ほどは吐き気に襲われたし、今度は眩暈が治まらない。風邪でも引いたのかもしれない。
 それでも凱旋の知らせを聞けば居ても立っても居られなく、ナマエは侍女の伊理を呼びつけ支度の手伝いを申し付けた。
「城に行くわ。支度を手伝って」
「でも奥様、具合がお悪いんじゃ」
「大丈夫。少し治まってきたわ」
 心配する伊理を押して、ナマエは支度を進めた。
 外はちらちらと雪が降っていた。近頃あたたかくなってきたせいか雪が溶け出して、道は悪い。こんな日に、本当は出かけるべきではないのかもしれない。
 賈充だって戻ってきたばかりで、戦後処理で忙しいだろう。
 それでも帰ってきたと聞けば、会いたい気持ちが急いて仕方がない。ナマエは昨日書き上げた最後の手紙を携え、護衛を伴い馬車で宮城へと向かった。


 城の中は慌しかった。
 下官らがひっきりなしに政務棟の室を出入りし、女官らが慌てて小走りで去ってゆく。
 案内人の下官は賈充の執務室の前までナマエを案内すると、用事があるのか頭を下げてすぐに踵を返して去っていった。
 賈充の執務室の前に巻物が山と積まれていた。声を掛けるのをはばかられ、室の前でまごついているとついたての奥から副官の男が飛び出してきて危うくぶつかりそうになった。
「これは奥方、何しにこちらへ?」
 謝りながらもナマエの姿に瞠目したのは彼女も馴染みの副官だった。
「公閭様はいらっしゃいますか」
 お待ちください、と副官は再び踵を返していった。

 しばらくすると、珍しく慌てた様子の賈充が副官を伴ってついたての奥から姿を現した。どうやら見た限り怪我はないようだ。実に三ヶ月ぶりの元気そうな姿を目にし、具合の悪さも忘れてナマエはほっと息をついた。
ナマエ? お前何故こんなところに」
 怪訝そうに尋ねられる。ナマエは賈充を眩しそうに見上げて、微笑んだ。
「公閭様、ご無事のお戻り何よりです。怪我などはされていませんか」
 ない、と賈充は短く云って、わずらわしそうに眉根を寄せた。
「あと二三日したら邸に帰る。それまで家で大人しく待っていろ。見ての通り俺は忙しい」
 予想通りの態度に、ナマエは慌てて懐から一通の書簡を取り出した。
「待ってください。あの、これだけでも受け取っていただけませんか?」
「これは……」
 ナマエが賈充宛に書いた最後の手紙だ。
 賈充が書簡を受け取ると、その様子を見ていた副官が、そういえば、とふと思い出したように声を上げた。そしていそいそと室の中に入っていったと思ったら、今度は盆を携え戻ってくる。
 盆に載せられていたものに、ナマエは見覚えがあった。
「お忙しくて渡せなかったのですが」
 と恭しく差し出されたそれを、賈充は茫然と眺めた。そこには山と積まれた、ナマエが賈充宛にしたためた書簡が。
「私の手紙……」
 ナマエが呟くと、振り返った賈充が怪訝そうに眉根をひそめた。
「なんだこれは。お前、こんなに書いたのか」
 賈充から返信など来るはずもなかった。だってナマエが書いた手紙はすべて賈充の執務室で留まっていたのだから。
 おずおずと頷いたナマエに賈充は深いため息をついて、盆から一つ書簡を取り上げた。
「悪いが最初の手紙しか読んでいない。使えない副官だ、こんなものも届けられないとはな」
「申し訳ありません。急ぎの用とは伺っていなかったもので」
「いいんです、公閭様」
 賈充が副官を咎めるのをたしなめ、ナマエはかぶりを振った。
 居住まいを正し、賈充に向き直る。
「遠征にお出かけになる前の夜、あんなふうに取り乱してしまって、見送りの言葉もかけてあげられなくて、あの時は本当にごめんなさい。公閭様にしばらく会えなくなると知って、私とてもびっくりしてしまったんです」
「ああ分かっている。まさかお前、あの時のことまだ気にしていたのか?」
 返事の代わりに、ナマエは微笑んだ。賈充があの時のことを気にしていないと分かるとほっとして、遠のいていた眩暈がまた近寄ってきたような気がした。
「本当は我侭を言って公閭様を引き止めたかったんです。でもそんなことをしてしまうと公閭様のご迷惑になってしまうと思うと云えなかった」
 耳鳴りがして、意識が遠のく。ふらりと足元をふらつかせたナマエに、賈充は怪訝そうに顔を上げた。
「この三ヶ月間、公閭様に会えなくて本当は苦しかった。ずっと会いたくて、会いたくて……っ」
ナマエ!?」
 珍しく狼狽した声。
 ナマエのふらついた体が、賈充によって支えられた。
「いてもたってもいられなくて……。今日、城にお戻りになると知って、お邪魔になると分かっていても、来ちゃいました」
 うまく笑えているだろうか。そんなことを遠のく意識の中で思う。
「喋るな! 誰か、誰か典医を呼べ!」



「おめでとうございます。ご懐妊です」
 告げられたのは、言祝ぎの言葉だった。
「まあ」
「なんだと?」
 驚愕した賈充が、目を見開き鋭く典医を問い詰める。
「それは本当なんだな」
 その問いに、白髪の典医は慈愛あふれる笑顔で頷く。それに安堵したのか、賈充はいからせていた肩を落として長く息を吐いた。
 あの後、気を失いかけたナマエを抱えて執務室へと飛び込んだ賈充だったが、果たして副官を走らせ典医を呼びつけた後に待っていたのは、驚愕の事実だった。
 ナマエは仮眠室の賈充の寝台に横たえられている。
「公閭様……」
「起きあがるな。大人しくしていろ」
 喜びをあらわに起き上がろうとしたナマエを、賈充は鋭く押しとどめた。
「公閭様ったら、病人じゃないんですから、大丈夫ですよ」
 ナマエはあきれた声を出しながら、また寝台へと横になる。
「駄目だ。絶対安静にしていろ」
「相変わらず心配性ですね」
 それでもどこか嬉しそうに零すナマエにため息をついて、賈充は典医を振り返った。
「容体はどうなんだ?」
「母子共に順調のご様子。ですがあまりご無理はなされないように。なるべく安静にしている事ですな」
「家事くらいはしても大丈夫ですよね?」
ナマエ
 懲りないナマエの言葉に、賈充が咎めるようにその名を呼ぶ。
 夫婦のやり取りに、典医が苦笑した。
「どうやらお二人でじっくり話し合った方がいいようですな。私は失礼させてもらいますよ。ごゆっくりどうぞ」
 そう云って、典医は頭を下げて退室していった。
 典医の姿が見えなくなると、賈充はナマエが口を開くのを遮って先制した。
ナマエ、お前から愉しみを取り上げるつもりはない。だが胎の子のため、今は自粛しろ。もとよりお前自ら家事をせずとも、邸の方は回るだろう」
「でも公閭様、少しくらいは体を動かしていた方がお腹の子にもいいと思うんです」
 ナマエは慌てて反論した。賈充は過保護だ。すべて云う事を聞いていたら寝台から一歩も動けなくなる羽目になりかねない。
 反論に、む、と賈充が眉根に皺を作った。
「典医は安静にしていろと云ったが」
「なるべくって仰いましたから少しくらいは」
 はあ、と深いため息がナマエの言葉を遮った。
「……ナマエ、俺の云う事が聞けんのか」
 冷ややかな声色にナマエが身を竦める。
 その怯えが伝わったのか、賈充ははっとして口元を抑えた。
「悪い。こういう云い方がお前の負担になると分かっているつもりだが……」
 いいえ、と反省したナマエがかぶりを振った。強い口調から、賈充の心配が嫌というほどよく伝わってきた。彼の肝を潰してしまわぬよう、自重しようという気になったのだ。
「大丈夫です。心配してくださってありがたく思っています。……家事は、しばらくお休みします」
「そうしてくれ」
 はぁ、と疲れたように云う賈充に、ナマエはややして遠慮気に微笑んだ。賈充はそんな彼女の肩を、労わるように包み込む。
「今日はこのまま泊まっていけ。明日は共に帰るぞ」
「ほんとうですか?」
 賈充の言葉にナマエは喜色を浮かべた。彼は喜びをあらわにするナマエに苦笑を浮かべる。
「溜まったお前の書簡も読まねばなるまいな」
 そう云って賈充は背後を一瞥する。卓の上にはナマエの手紙が載った盆が置かれていた。
 ふと、賈充は表情を改める。
「俺も意固地になって悪かった」
 枕元に跪き、ナマエの頬にそっと触れる。
「俺も、本当はお前に引き止めてもらいたかったのかもしれん」
「公閭様……」
 ナマエは潤んだ瞳で賈充を見上げた。
「では今度は沢山我侭を云って引き止めますから」
「くく、この俺とした事が、お前に掛かれば形無しだな」
 愉しげに笑う賈充に、ナマエは幸せそうに微笑む。慈しむような瞳で賈充をじっと見上げ、おもむろに口を開いた。
「公閭様」
「なんだ」
「手を、貸してくださいますか」
 訝しみながらも賈充はナマエの求めに応じた。掛け布を捲り、ナマエは賈充の手をそっと己の腹の上に導く。今はまだ薄っぺらいそのふくらみは暖かく、だが確かに掌の下に小さな命が宿っているのだ。
「ここに、公閭様のお子がいるんですよ」
 それは奇跡のような響きを持っていた。
「喜んでくださいますか」
「……ああ、またとない吉報だ」
 賈充は静かに、深く微笑んだ。
「これが我が世の春か、ナマエ

 春はもう、すぐそこまでやってきている。



~春の訪れ~
Fin.