明るい家族計画




 それはナマエが趙雲邸に迎えられてより、暫らくたったある日の事であった。

 邸の中を、ナマエは時間をかけて散策していた。趙雲の邸自体はそれほど大きくもないが、慎ましやかな花が咲く庭園はまるで主の性格を表しているようで、好ましかった。ナマエはこの邸に来てより、園丁の手伝いを度々していた。
 ふとナマエは足を止めた。何処からか漂ういい匂いに引寄せられるように足を進めると、女達が忙しく立ち振る舞う台所へとたどり着いた。時刻は既に夕刻に近い、恐らく夕餉の支度だろう。
 具材の入った大きな鍋を片手で扱う様子を見ていたナマエは、感心したようにため息をついた。
「すごいのねぇ」
「これは、奥方様」
 彼らがナマエに気がついて慌てて手を止めようとすると、ナマエはそれを制してニコニコと台所に足を踏み入れた。「隅で見ていて良いですか?」とナマエが問うと、恐縮しながら椅子を用意された。
 ナマエはその椅子に座って、大人しく見学することにした。
 主の奥方が見守る傍ら、女達は緊張の面持でまた料理を再開した。とんとんとん、と一定のリズムで刻まれていく野菜。炒め物の香ばしい匂い。一見食べ辛そうだった具材も、料理人の手によって見事に形を変え、美味しそうな湯気を立てる料理へと生まれ変わっていく。
「すごいわ、本当。魔法みたい」
 思わずナマエが感心して言うと、傍にいた者が恐る恐るといったように声をかけてきた。
「奥方様は、料理をしたことがないんですかい?」
「ええ、包丁なんて、持ったこともないわ」
 ナマエは言って、苦笑した。そして、うっとりとした瞳で、動き回る女達を見つめる。
「でも、ちょっと、大切な人に手料理を食べてもらうのに憧れているよね」
 はぁとため息をつく。ナマエだって料理が出来れば、大切な夫君に手作り料理を味わって欲しいとは思う。
 思うのだが……。
 そこでナマエは、あっと声をあげた。ビクっとした使用人に勢い良く振り返り、キラキラとした瞳でずいと迫った。
「そうだわ、ねぇ、――私にも手伝わせて頂戴!」

 女達が冷汗を流す中、ナマエは上機嫌でニコニコとしていた。不器用な手付きで野菜を剥くので、気付かぬ内に食べれるところまで剥いてしまっているのだが、誰も何もいえない。
「次はなにをすればいいの?」
 と言われ、「いやもう十分です」と頭を振れば、ナマエはしかし聞く耳もたず、勝手にやりかけの料理を見つけては手を出した。その度、使用人たちは、ひいっ、と悲鳴をあげる。
「あ、これを炒めればいいのね。……あつっ!」
「お、奥方様、もういいんで、よしてください!」
 熱で暖められた鍋に直に触ってナマエが飛び跳ねれば、とうとう女達は泣きついた。
「万が一怪我なんてされちゃ、あたし達が趙雲様に殺されちまいます~!」
「で、でも……」
 さすがのナマエも、その必死の形相にたじたじになる。
 自分が彼女等の足を引っ張っているのはわかっていた、邪魔である事も。けれど趙雲のための手作り料理は諦め切れなくて、ナマエはその狭間に挟まれてしゅんとした。
 しょげ返ってしまったナマエに、女達は戸惑った。まるで叱られた子供のような様子に、良心が咎めたのだ。彼女等とて、良人に手作り料理を振舞いたいという気持はいやと言うほど良く分る。
 その内の一人が、おずおずとしたようにナマエの前に出た。
「じゃ、じゃあ、これを切ってくれますか? これなら簡単ですし、奥方様にもできると思います」
「え、いいの?」
「はい」
 その言葉に、ナマエは瞳を輝かせた。
 ぎこちない手付きで包丁を持つと、恐る恐るといったように手渡された野菜に刃をいれた。慎重に刃を進めると、それは綺麗にすっぱりと切れた。
「あっ、これなら出来るわ!」
 大発見だというように、ナマエは瞳を輝かせた。
 そして一瞬で機嫌をなおしたかと思うと、次に切る野菜を所望するのだった……。


 帰宅した趙雲は、先日迎えた妻が一向に迎えにこないことに首を傾げた。
 訝しく思いながら妻の姿を探す。しかしながら庭園にも自室にも、応接間にもナマエの姿はなかった。そしてたどり着いたのは、常より少し賑やかな台所。その中を覗いた趙雲は、ナマエが包丁を手にしているのを見て目を疑った。
「なにしてるんだ?」
「あっ、趙雲様!」
 趙雲の訪れに気付いた女達が慌てた。しかし唯一その中で慌てなかったナマエは、全く悪びれずもせず夫に向かって満面の笑みを向けた。
「子龍様、お帰りなさい! もうすぐ夕餉が出来るから、ちょっと待っててね」
 そうして、鼻歌を歌わんばかりに止めていた手を再開する。
 訳の分らない趙雲は、傍にいた者に説明を求めた。
「なぜナマエが台所にいるのだ?」
「それが……」
 うるうると今にも泣き出しそうな口調で、その者は趙雲に事の始まりから事細かに話した。そして説明が終ると、どーか奥方を止めてくださいぃ! と泣きつかんばかりに趙雲に縋ってきたのだった。


 食卓に置かれた美味しそうな料理の中に、ぽつっと置かれている、山盛りに盛られた不揃いに切られただけの野菜が、ことさら異質な印象をあたえていた。
「――それで、その結果がこのくず野菜の山か」
「くっ、くず野菜……」
 趙雲の至って素直な感想に、ナマエは大分ショックをうけているようであった。その様子にくつりと笑った趙雲は、おもむろに手を伸ばしてナマエの手を取った。そしてその指先に赤くなっている部分を目敏く発見すると、僅かに眉宇を寄せる。
「火傷している」
 指摘され、ナマエは恥ずかしげに俯き、「だって」と口を開いた。
「子龍様に手作りの御料理を食べてもらいたかったんだもの……」
「その気持は嬉しいけど、余り無理をしないでほしい」
 弾かれるようにナマエは顔をあげた。
「別に無理はしてないわ。寧ろとても楽しいのよ」
「そうか」
 訴えるようにいわれれば、趙雲は苦笑するしかない。
 ナマエは趙雲がそれほど怒っていない事に気付いて、再び瞳を輝かせた。
「ねぇ、子龍様はなにが好きなの? 私、せめて好物くらいは作れるようになりたいの」
「私の好きなもの、か。さあ、特にこれといってあまり……。大体何でも食べるからな」
「もう、張り合いの無い人ね!」
 ナマエは憤慨した。
「いいわ、たくさん練習して、早く子龍様に、美味しい! って言ってもらえるような物作ってみせるんだから!」
「……せめて怪我をしないようにしてくれ」
 意気込むナマエに、趙雲は最早止め立てすることもできない。

 その様子を見守っていた使用人達が、ナマエに釘を刺すだけに終った趙雲に対して、愕然となった。
「ちょ、趙雲様~、奥方様を止めてくださらないのですかぁ!?」
「すまないな、私には無理だ」
 奔放な奥方に振り回される彼等に申し訳なく思いながらも、趙雲は穏かに微笑んだ。他でもない趙雲のためにと奮闘するナマエを、誰が止め立てできようか。このナマエの無謀な行動に一番嬉しく思ったは、紛れもなく趙雲だった。
 そうだ、月英殿に頼んでナマエに料理を教えてもらうのもいいかもしれない。他愛なく思いながら、自分で切った野菜の山を突付いているナマエを見遣る。

ナマエ
「はい?」
「手料理、楽しみにしている」
 はい、と一層ナマエは笑顔を輝かせた。