夢の直路





 益州を手に入れた劉備が、ようやく安住の地を手に入れた。
 流浪の軍であった劉備軍も、この頃になるともう立派な一軍に成長していた。元は劉備主騎であった趙雲も、その器量に相応しいだけの将軍の位を頂いている。
 趙雲将軍。
 といえば、大抵は「ああ、あの将軍か」と納得し、幾人かの女人は頬を染め、また幾人かは悩ましいため息をつく。
 つまり、蜀においては、ちょっとした、いやいや、かなりの有名人になりつつあったのだった。
 そしてその将軍が、近日、主君劉備に祝福されながらも一人の女性と華燭の典を挙げるのだという実に衝撃的な噂がたち、ある一部においては誰の葬式だと思うほどどんよりとした暗い雰囲気に包まれていた。さらに追い討ちをかけるように、噂は事実だったことが判明した。だが已然として相手はわからずじまい、――ただ分っているのは、大層雅な人だということだけだった。


 などと、都中で騒がれていることも知らず、噂の本人ナマエは、花や布で綺麗に飾られた車に揺られて、一路趙雲邸を目指していた。自らも大層美しく着飾られ、ナマエは内心の緊張と期待を押し隠せずにいた。纏う衣裳は、いわゆる花嫁衣裳。つまり今日が、日取りによって決められた趙雲との華燭の典の日であった。とうとう私も嫁ぐのだ――、その期待感に、ナマエは朝から緊張を隠せないでいた。
 劉表の娘、ナマエは華とも謳われた姫君であった。世間知らずな彼女の初恋は、なにを隠そう荊州で出会った若者趙雲。今でこそ笑い話にできるが、出会った当初の趙雲は、まったく取り付く島もない堅物であった。ナマエの初恋成就は困難を極めたが、紆余曲折の末ようやく実ったのだった。しかしといって、その後は万万歳で結ばれた訳ではなかった。時は乱世、続く戦が邪魔をした。
 だが、趙雲ら将兵たちの目覚しい働きによって益州を手にいれたことで一先ず訪れた平穏に、ようやっと念願叶ってナマエは趙雲に嫁ぐ事ができたのだった。
 それまで劉備の奥方のところで仕えていたナマエはそれに喜び、その後見を関羽が申し出てくれ、宴は彼女の望みで華美ではない、至ってささやかな宴が開かれた。関羽は生憎荊州の守りを任されているため駆けつけることは出来なかったが、代わりに祝いの品が届いた。祝辞をうけ、隣に座していたナマエの夫君も、照れたようにしていた。
 昼から始まった宴もそろそろ頃合となり、新郎は新婦を連れてその場を辞した。ナマエは用意された馬車に乗り、新郎は邸宅までの道のりを馬で行った。その行進に十数人の従者がつき従い、花嫁の乗る車を守った。そしてその行列は、一路趙雲邸を目指してゆっくりと進む。

 花嫁行列が目的地へ着くころには、既に夕刻へと差し掛かっていた。
 ナマエが趙雲に手を取られて馬車から降りると、邸の前には使用人と思わしき人々が緊張の面持で立っていた。恐らく花嫁の出迎えだろう、ナマエはそれに気付いて、嬉しげに笑みを零した。そして傍らの趙雲を見上げる。いつにもまして凛々しい彼の様子に、ナマエは高鳴る胸の鼓動を抑えられなかった。宴の間は、気恥ずかしくて趙雲の方を見れなかったのだ。
 趙雲はナマエの視線に気付いて目を細めた。そして手を取ったまま、先導する。
 おかえりなさいませ、と侍従頭が進み出て、すっと頭を下げた。それに趙雲は、うん、と頷く。
「皆、紹介する。私の妻、ナマエだ。今日から此処に住むことなる」
 紹介され、ナマエはおずおずと前に進み出てぎこちなく笑んだ。
「至らぬところもあるとは思いますが、宜しくお願いします」
 言うと、彼等はばらばらと頭を下げた。
 無事挨拶をし終えたことで、とりあえずナマエの緊張は解けた。その視界に飛び込んできた、じっと見詰めてくる可愛らしい童子に気付いて、ナマエはにっこりと微笑んで、おもむろに童子の目線にあわせてしゃがみ込んだ。
「あら、なんて可愛らしい。名前はなんというの?」
 ナマエの行動に、慌てたのはその子の母親だった。物怖じしない瞳がナマエを見詰め、今にも開かんとした童子の口を大慌てて塞ぐ。きょとんとしているナマエを尻目に、母親は誤魔化すように笑って童子を抱えてどこかに飛んでいった。
「え……? どうしたの?」
 訳が分らない。
 ナマエは呆気に取られて、説明を求めるような瞳を回りに向けた。だが、皆視線を泳がせ、誰一人として声を発しようとはしなかった。
「私、何か気に触ることでもしたかしら? どうして皆さん口を聞いてくれないの?」
ナマエ
 ナマエが不安になって眉宇を寄せた時、怪訝そうな顔の趙雲が隣に来て肩を抱いた。ナマエは思わず縋るように彼を見上げ、胸中の疑問をぶつけた。
 まさか、信じたくはないが。
「……趙雲殿、もしかして私、歓迎されてないのかしら?」
「と、とんでもねぇ!」
 と、ナマエの言葉を遮ったのは、それまで懸命な面持で黙っていた壮年の男だった。ナマエがきょとんとすると、その男は決心したようにぎゅっと拳を握った。
「お、奥方は雅な方だと聞いて、その、わし等は丁寧な言葉っちゅーもんを知らんし、訛りが酷いし、もしかしたら嫌がられちまうんでねぇかと……」
「訛り?」
 ナマエは瞠目した。そんなことを心配していたなんて。
 確かに、聞く限りでは訛っていたし、洗練されたものとは程遠かった。もともと荊州の人だったナマエは、益州の訛り自体にもまだまだ慣れない部分もあったが、しかし問題は無かった。
「そんなこと気にしないで、気兼ねなく私とおしゃべりしてください」
 微笑んで言うと、今度は皆砕けたような笑みを浮かべ、ナマエはほっとした。
「改めて、宜しくお願いしますね」
 その様子を、趙雲は穏かに見詰めていた。


ナマエの室は、一番日当たりの良い南側にした」
「私の?」
 趙雲の言葉に、ナマエは瞳を輝かせた。
「案内して頂戴」
 彼女の隠せない好奇心に苦笑して、趙雲はナマエをいざなった。
 花嫁を迎え入れるにあたり、普段は質素な趙雲邸も美しく飾られていた。趙雲の案内の元回廊を進み、途中見かけた庭園にナマエは声を上げて立ち止まった。それに気付いて、趙雲も立ち止まる。
「可愛い庭園、素敵だわ」うっとりしたナマエは、ふと眉宇を動かした。「でも少し花が足りないわね……」
 少し考え込むように押し黙ったナマエは、暫し後、なにかをせがむような瞳で趙雲を見上げた。
「ねぇ、趙雲ど……、子龍様、あのね」
 次に言う言葉が容易に想像でき、趙雲は微苦笑と共に頷いてやった。
ナマエの好きなようにして構わない」
 ナマエの顔が綻んだ。

「この室だ」
 戸をあけてナマエを中に招く。それに従った彼女は、しばし室内を見渡していた。花で飾られた室内は広く、西に傾いた柔らかな日差しが降り注いでいる。鏡台、家具と、室の中央には一際大きな寝台。ナマエは嬉しそうに微笑んで、おもむろに寝台に近寄りそっと腰を下ろした。ざぁっと、敷布に指を滑らせる。
「大きな寝台。お日様の匂いがするわ」
「気に入った?」
 いつの間にか隣に立っていた趙雲が、ナマエの耳元で優しく囁く。ナマエはぱっと顔をあげ、はにかんだ。

「子龍様の室は?」
「私の室は、隣だ」
「見てみたいわ」
 趙雲は、妻の要望に快く応えた。
「――此処が趙雲殿の室? なんだか、殺風景ね……」
 案内された室は、自室というより、なんだか物置き場のような印象である。書物や武器など、色々な物が置かれていたが、きちんと整理されていたので、散らばっているという感じではなかったが。中央にぽつんと一つ置かれてある、使い込まれた文机だけが、ここが趙雲の自室であることを主張していた。
 けれどそれにしたって、自室と言うには寂しすぎるのではないか。ぐるりと見渡したナマエは、あるべき物が見当たらない事に気付いて、首を傾げた。
「それに、寝台が見当たらないわ」
 言った瞬間、ふっと背後から包まれたような感覚が訪れた。ふり返る間もなく、耳に熱い吐息が掛かり、ナマエは無意識にふるっと体を震わせた。
「それは勿論」
 熱い何かが耳に押し当てられる。
 それが趙雲の唇だと気付いて、体に甘い痺れが走った。

「今宵から一緒に寝るのだから、必要ないだろう」

 奥方、と、まるで媚薬のような艶やかな声。
 一拍後、ナマエは盛大に真っ赤になった。