暁の皖・九





 赤壁での戦いは、見事連合軍の勝利に終った。
 劉備は帰還した兵を自ら出迎え、労いの言葉をかけていく。兵の顔には疲労が色濃く現れていたが、それ以上に勝利の喜びで表情は明るかった。
 諸葛亮が劉備の出迎えを受けている、その後を追うように降り立った趙雲は、久々の主の姿を目にして表情を和ませた。出迎えに出てきた民が喜びの声をあげているのをぼんやりと耳にしながら、束の間訪れた平和に暫し目を瞑って身を任せた。聞こえてくるのは剣戟や悲鳴ではなく、ただ喜びの声ばかり。いいものだ、ふと目を開けて手にしていた槍をちらと見る。また、修理が必要だろうか。
 そこで趙雲は、はたと我に帰った。きょろきょろと辺りを見る。何かこの風景に、一つ大事なものが欠けている様な気がする。
 劉備が笑顔で趙雲の元へとやってきて、彼は深々と拱手した。君主から労わりの言葉を掛けられ、それに応対している合間も、その欠けているものの事を考えた。一体なにが欠けているのだろう。
 ああ、と趙雲はやっとそれに気付いて得心した。
「ところで殿、ナマエ殿は――?」
 問いに、劉備の笑顔が固まった。

 一旦城へと戻り、劉備は改まったように事の詳細を告げた。その内容に、趙雲は天地がひっくりかえったような衝撃を受けた。
「はぁ!? 劉琦殿の元へとお戻りになられたぁ!!?」
 思わず立ち上がって、劉備へと詰め寄った。その場にいた者達も同様に衝撃を受けていたので、彼を諌める者は誰一人としていなかった。
「い、いや、すまなんだ。気付いた時には既に時遅く、その、文とこの櫛を残して……」
 劉備は趙雲の剣幕にたじたじになりながら、残されていた文と櫛を差し出した。趙雲はそれを無言で受け取り、目を通す。
「……」
 文を読み下す趙雲の眉間に皺が一つ現れ、手に持っていた櫛がギシっと軋んだ音を立てた。
「な、なんて書いてあるんだ? 子龍」
 皆がおそるおそる見守る中、趙雲は無言で顔を上げ、踵を返した。主に何も告げずに扉へと向かう行為は、無礼なものであるのに関わらず、あまりの剣幕に誰もが彼を諌めようとはしなかった。
 だが、流石諸葛亮だけは冷静であった。
「趙将軍、一体何処へ?」
 呼び止められ、趙雲は立ち止まった。
「決まっている、ナマエ殿の元へだ」
「まだ、すべき戦が残ってるのですが――」
 鋭い視線に、諸葛亮は至って冷静に告げた。そう、曹操を破った今、孫権に奪われるより早く荊州南部の領地を攻略せねばならないのだ。
 それを承知している趙雲は、一瞬ぐっと言葉に詰まったようだった。けれど、それで大人しくなるようなものではなかった。
「……分っているっ!」
 一言残し、趙雲は飛び出していった。




 劉琦が居住とするところは、馬で数刻のところであったのは幸いだった。
 その日のうちにたどり着いた趙雲は、迷いの無い足取りで劉琦邸の門戸を叩いた。家人が出てきて対応し、居間に通され、暫らくして趙雲を出迎えたのは劉琦だった。
「趙雲殿」
 扉から現れた青年に、趙雲は立ち上がって拱手した。
「劉琦殿、此度は突然の訪問申し訳ありません」
 趙雲は続けて用を告げようとしたが、劉琦に先を制された。
「用件は分っている、ナマエのことだろう。だが、すまない。貴殿が来ても絶対に通すなといわれている」
 趙雲は無表情で劉琦を見上げた。その瞳の奥に僅かに苛立ちを見つけた劉琦は、苦笑して趙雲に座を勧める。失礼します、と一言断わって座した趙雲に、茶を用意した。
 劉琦はしげしげと趙雲を観察した。寡黙で忠義心溢れる若武者、冷静だが誰よりも情熱的で、臣にすればこれほど心強い男はいないだろう。趙雲は劉琦にとって、どこまでも好感の持てる青年だった。
 じっと見つめる劉琦の視線が気になったのだろう、趙雲が「何か」と問う。劉琦は「いや」と微苦笑した。これが妹が惚れた男か。
「我儘な妹ですまないな」
「いえ」
 簡素な答え。多くを語らぬ男だ、と劉琦は思った。それだけ信頼に足る、ということだ。
 茶を啜り、椀を静かにおくと、切り出した。
「趙雲殿には知らせておこうか。今、妹を外に出す事は危険なんだ」
「なぜですか?」
 真摯に問う趙雲に、劉琦は少し満足げに頬を緩めた。
「臣の間で、ナマエを弟の元に連れ戻そうとする動きがあるようだ。下手にナマエを動かして、居場所を知られては拙い」
 思いがけぬ言葉に、趙雲は神妙な顔つきになった。思案する表情は、武人のそれだ。
「そうでしたか……」
「そうだ。だから、今、ナマエを劉備殿の元に戻して、厄介ごとを増やしては申し訳ないからね」
 殊更明るく言った劉琦に、趙雲はしかし少し眉を顰めただけだった。劉琦の言葉に含めれられた、ナマエのことは任せられない、という意思を読み取ったのだ。憮然とする趙雲をうかがい、劉琦はふと独り言のように漏らした。
「あるいは、貴殿にあの子を守り切る覚悟があるのならば……」
 まかせてもいいだろうか。
 趙雲は顔をあげた。じっと問い掛けてくるような視線に、劉琦は微笑んで手を振る。
「いや、何でもない。すまないが、今日の所は諦めてくれ」
 趙雲は無言で、大人しく立ち上がった。
「また来ます」
 退出際、そう律儀に言い残した青年の背を見送り、劉琦は溜息を付いた。あの分では、どうやら諦めるつもりはなさそうだ。一つ苦い笑みを浮かべると、室に篭っている妹の元へと向かった。

 数日前、邸に飛び込んできた二人の少女。一人は梅林で、もう一人はナマエだった。道中言い争いをしてきたらしく、二人ともげっそりとした表情だった。劉琦は呆気に取られたが、ナマエの目が赤くなっているのに気付いて、何も言及せずに迎え入れたのだった。
 可愛い妹の初恋は破れて終ったのだろうか。残念に思った。けれど。
(大層いい男じゃないか、小妹)
 劉琦は、夕刻を迎えた空を見上げた。黄昏の空に、一際輝く宵の明星が現れている。
 あの星のように、輝いていて欲しいと願った。






 それから帰還した趙雲を待ち受けていたのは、南郡平定という仕事だった。戦続きで休む暇も無かったが、寝る間も惜しんで仕事をこなした。傍ら、少しでも時間が出来れば劉琦邸へ足を運ぶが、結果は全戦全敗だった。
 そして怒涛の如く南郡の一つを囲み、これをあっさりと陥落させた。失った太守の代わりを趙雲が継ぎ、臨時で桂陽太守の位を頂き、郡の守りに勤しんだ。結果として仕事量が倍増してしまった趙雲は、慣れぬ仕事に負われる日々を送る羽目になった。
 そんなある日、劉備の元を訪れていた趙雲に諸葛亮からの報せが届いた。
 何だ、と思って文を広げた趙雲は暫し固まり、そして弾かれたように立ち上がって駆けていった。こんな報せを受けて、執務などやってられるか、趙雲は劉備の元へと駆けつけ、そしてその足で劉琦邸へ向かった。
 それは紛れも無い、天明の無事の報せであった。
 ――天明は生きている。
 もうナマエが心病む必要は無い。

 そして数刻後――。
「よう子龍、しけた面だな」
「なんだ、また会えなかったのか?」
「……」
 今日も収穫無しで帰還した趙雲を見かけた張飛たちが、茶化すように声をかけてきた。趙雲は野次馬根性全開の彼等を無言で睨みつける。
「しかし、此処まで頑なに拒絶をされるとは……」
「もしかして子龍、おめぇ、何かやらかしたんじゃねぇのか?」
 諸葛亮が言って、張飛がそれに続く。意味ありげな言葉に、趙雲は激しく反応した。
「私は別に何も……!」
 趙雲は僅かに言葉に詰まった。口づけを交わした事を思い出したのだ。確かに口づけは交わした、が、あれは別に疚しい事でも何でもないはずだ。
「本当かぁ? そうやって、むきになるところ、怪しいぜ」
 張飛がニヤリと笑ったので、趙雲は思わずかっとなった。
「莫迦を言うな、俺に疚しい事など何もないっ!」
 ぎりぎりと張飛とにらみ合っていると、諸葛亮が冷静に口を挟んだ。
「趙雲殿は寡黙な方ですからね。その点は美徳だとは思いますが、しかしそれが原因で相手に思いの半分も伝わっていない、ということもありますよ。例えば、言うべき事を言っていない」
「ああ、ありうるな。特にあの姫さんは頑固だから、拗れたら大変だろうなぁ」
 ケラケラと張飛が笑う。他の者も、幾分苦笑しているようだった。
 ――人事だと思いやがって。
 外野からなんやかんやと散々言われ、趙雲の怒りはじりじりとこみ上げてくる。
「おい趙雲、ちょっくら行って、その強情な姫さん掻っ攫って来るかぁ」
「翼徳、それは少々乱暴ではないか?」
 のんびりとした口調とは裏腹に、過激な発言をした張飛に劉備は不安げな視線を寄越した。諸葛亮は、しかし微笑んだ。
「おや、私は中々良い案だと思いますよ?」
 ね、趙雲殿、と笑う、劉備軍随一の頭脳派。
 趙雲は最早、爆発寸前だった。
「~~っ!!」
 ガタン、と突然立ち上がって猛然と何処かへ向かおうとする趙雲に驚いた一同、しかし中でも直ぐに我に帰った張飛が、慌てたように声をかけた。
「お、おい、趙雲!?」
 呼ばれ、趙雲は一瞬立ち止まって振り返り。
「攫ってくる!!」
 一喝して、嵐のように去っていった。

 残された一同は暫し唖然として。
「……。――とうとう奴も切れたか……」
 誰かが呟いた言葉に、その場にいた者たちは大いに頷いた。いつでも冷静な彼が切れた場面を見るのは、これが初めてのような気がする。普段は老成した雰囲気を纏う趙雲も、まだまだ青い若者なのだということを、改めて思い知ったようだった。
 諸葛亮は苦笑して、趙雲が去っていった方を眺めた。
「……仕方がありませんね。劉琦殿に知らせを遣りましょう」
「知らせ? なんと?」
 劉備の純粋な問いに、諸葛亮は妖しく笑んだ。
「今宵、我が軍の将一人がナマエ殿を攫いに参りまので、何卒ご許可を、と」
「……」
 ――誰が許可するんだそんなこと。
 誰もが思ったが、楽しげに自室へと向かう軍師に、その場にいた者は何も突っこむ事が出来なかった。

 だが、そこに一人の官が報せを携えてきて。
「軍師殿、これを」
「……拙いですね」
 諸葛亮は、その報せに盛大に眉を顰めた。
「至急、趙雲殿に報せを」
 ――花盗人は、どうやらあなただけではないようです、趙雲殿。





 今宵は綺麗な月だった。
 夜空は雲もなく晴れ渡り、輝く星が一面に散らばっていた。
 この空を、彼もどこかで見ているだろうかとナマエは思って、くすりと自嘲した。どうせ、もう二度とまみえることない人物のことを考えても無駄だとは分っていたが、しかし無意識に思うのはやはり趙雲のことであった。彼は顔を合わせる事を恐れて逃げ出したナマエの事を、どう思っただろうか。飽きれたかもしれない、怒ったかもしれない。どちらでも変わりは無い、だってもう二度と会わないのだから。
 劉備の元を去る際、頼んでも無いのに文句を云いながらも付いて来てくれた梅林が、消極的なナマエに対してカンカンに怒っていた。せっかく掴めそうだった幸せをみすみす手放すなんて、と彼女は主に詰め寄ったが、ナマエは犠牲の上になりたった幸せなんて欲しくなかった。ナマエはそれがどこまでも甘い考えであることを知らない。趙雲が覚悟を決めてナマエの手を取ろうとしてくれていた事はなんとなく分った、だが天明のことがある以上、罪悪感が彼女の行動を縛っていたのだ。後ろめたい気持を抱えたまま、あそこには居られなかった。居心地の良い空間ではあった、差し伸べられた手を取りたかった。けれど本来そこに居るのは、ナマエではなく天明だったのだ。どうしようもない事だった、あれは仕方の無いことだった。理性では分っている。あれは決して全てナマエが悪いわけではない。けれど、どうしようもなく苦しくて、哀しくて――。
 あの日向のような笑みは二度と見られない。
 ……苦しいのではない。天明という親友を喪って、ナマエもまた哀しかったのだ。
 根本にあるものは、深い哀しみだった。そしてナマエは、その哀しみを越えられないでいた。哀しみに包まれたまま、差し伸べられた手をとるわけにはいかない。それは決して幸せな結末を迎えないと分っていたから。
 ――けれど。
 けれど兄から趙雲が来ていると告げられた時には、胸が驚喜に包まれた。追いかけてきてくれたのだと知って、ナマエは思わず立ち上がって室内を右往左往したものだ。そんなナマエを梅林は急かした。「今行かないと、愛想をつかれて手遅れになりますよ」と。しかし、予想に反して彼は何度も来てくれた。純粋に嬉しかった。けれど彼に対面する覚悟がどうしても持てなくて。彼の顔を見てしまえば、否が応にでも天明の事を思い出してしまうだろうから。

 室内からぼんやりと空を見上げていたナマエは、来室を告げる音で物思いから抜け出した。「どうぞ」、と扉の向こうの人物に告げると、静かに扉が開いた。入ってきた人物を認めて微笑むと、ナマエの視線はまた空へと転じる。
「……いつまでそうやって落ち込んでいるんだい?」
 劉琦はゆっくりとナマエに歩み寄った。月夜に照らされる横顔は欲目なしでも美しいと思ったが、どこか精彩に欠けていた。
「戻る気はないのかい?」
 問うと、ナマエは萎れたように俯いた。
「……戻れないわ、今更」
 そんなことはないよ、と告げると、ナマエは縋るように大好きな兄を見上げた。
「兄様は、私を見捨てないで下さるでしょう? もう、頼れるのは兄様だけなの」
 劉琦はただ一人の血の繋がった妹をじっと見つめた。小さい頃、良くそうやってナマエは劉琦に甘えていた。可愛い妹は、いつの間にか自分以外の男を想い、綺麗になった。
 寂しいといえば、嘘になるが――。
「お前もそろそろ、兄離れをしなくてはいけないよ」
 劉琦は、どこまでも優しげに微笑んだ。





 夜半、劉琦邸は静まり返っていた。
 家人は全て夢の中、ナマエもまた静かに寝息を立てていた。そこに、突然の侵入者が現れるまでは。
 浅い眠りの中にいたナマエは、室の隅でカタっと何かが立てた音に気付いて、緩やかに目を開けた。寝ぼけたまま体を起こすと、突然視界を影が覆った。
「な、……っ!?」
 まさか賊か。悲鳴をあげようとしたナマエは、しかし大きな手に口元を覆われ、それは叶わなかった。気が動転して手足をばたつかせると、耳元でナマエの名を呼ぶ声が聞こえた。
 聞き覚えのある声にはたと我に返り、ぱちぱちと瞬く。己の口を塞ぐ犯人を見上げた時、さぁっと月の光が差し込みその者の顔を照らし出した。そこに居たのは……。
 ナマエはこれ以上無いくらいに仰天した。
「趙雲殿!!? なな、一体何故此処に……!?」
 ナマエが口をぱくぱくしていると、趙雲は「お久しぶりですね」と全くの無表情で告げた。その表情が何故か逆に空恐ろしく、背中に汗が流れた。
 趙雲は勝手に室を漁って温かそうな衣服を見つけてナマエにぐるぐる巻きつけつつ、しらっとした表情で続ける。
「全く見事に避けまくってくれましたね。そろそろ面倒くさくなったので、あなたを攫いに参りました」
 たっぷり二拍の間があって。
「……――はぁあぁぁ!?」
 ナマエは絶叫した。
 趙雲の理論がぶっ飛んだ言い分に、もう思考が追いつかない。なんで面倒くさくなったからって、攫うに結び付くんだろう。訳が分らない。うんうん唸りながら頭を抱えていると、趙雲はナマエを抱き上げようとしたので、慌てて寝台の端に逃げようとした。だが、すぐに回り込まれ、ひょいと抱えられてしまった。
「さぁどうぞ、観念して大人しく攫われなさい」
 か弱い女子を脅迫するなど、なんて男だ。ナマエは顔を引くつかせた。
「……い、嫌ですっ! 降ろしなさい! わたくしを降ろして! ちょ、ちょっと、警備のものは何をしているの!? だ、誰か~っ!」
 と、再び絶叫した時。

 バタンと扉が開いて、ナマエは漸く救いの手が来たかと顔を輝かせた。現れたのは劉琦、「お兄様っ」と声をかけ、そこでナマエは兄が救いの手でもなんでもないことに気付いた。
「趙雲殿、邪魔をして悪いが、急いだ方がいい」
 劉琦は抱えられているナマエをちらと見て、早口で告げた。この状態に驚きもしない兄。まさか共犯か、とナマエは愕然とした。
「に、兄様……?」
 ナマエが恐る恐る声をかける中、劉琦は趙雲に一通の文を渡した。趙雲はそれにさっと目を通し、険しい剣幕を浮かべた。
 まずいな、と趙雲は呟く。なにが拙いのだろう。……この状況以上に拙いのだろうか。
「……どうしたの?」
 条件反射で思わず問うと、趙雲は抱えていたナマエをちらと見て微笑した。
「少し、急ぎます」


 少々乱暴に運ばれ、問答無用で馬に乗せられた。逃げる間もなく趙雲が後ろに騎乗し、ナマエを押さえ込んだ。
 劉琦は狼藉者の行為を止めもせず、まるで妹を見送るように突っ立っていた。趙雲が手綱を握ると、馬が嘶いた。
「お兄様!」
 呼ぶと、劉琦は穏かな笑みを妹に向けた。
「お前は幸せ者だよ、ナマエ。こんなに想ってくれる方がいるんだ、大切にしなさい。……――幸せにな」
 まるで別れのような言葉に、ナマエは息をのんだ。
「お、お兄様の薄情者っ!! 妹であるわたくしが誘拐されようとしているのよ!? な、何故止めてくれな、い……っ!?」
 ガクン、と突然ナマエの体が揺れた。馬が走り出したのだ。
「飛ばしますよ。口をしっかり閉じていてください!」
 趙雲が手綱を操りながら告げる。
「妹を頼む!」
 劉琦の声、趙雲は一瞬振り返って頷いた。ぐん、と増すスピード。
 ナマエは慌てて後ろを振り返った。兄の姿が小さくなっていく。騒ぎを聞きつけた邸の入口から、数人の家人が飛び出して唖然とナマエを見送る。中から梅林が飛び出してきて、ナマエの後を追う様に駆け出したが、途中で転倒してしまった。兄が梅林に駆け寄って抱き起こすと、彼女は泣いているようだった。
(待って、まだ……)
 ナマエは遠くなってしまった人々に手を伸ばす。届かない。
 見る見る間に邸は小さくなっていく。ぬるま湯のような居場所を与えてくれた邸が、遠くなっていく。

「……兄様ーっ!」

 ――ナマエの視界から、遂に邸が消えた。