暁の皖・七





 ナマエが無事に劉備の元に辿り付くと、城前には劉備について行く荊州の民達が集まっていた。
 その数知れず、老人から赤子までの大集団をまとめるのに兵士達も手を焼いているようで、ナマエは改めて劉備という人物がいかに民から慕われているのかを思い知った。
 城内は文官武官ともに慌しく駆け巡っていた。出立が近いのだろう。城の一室に通されたナマエは、劉備親子の姿を見つけて駆け寄った。
「劉備様! 天明様!」
 その声に二人が振り返る。懐かしい顔を目にし、ナマエはそこではじめて緊張が解けたようにほっと微笑んだ。
ナマエ様! ご無事でよかった」
「おお、ナマエ殿。趙雲、よくやった」
 労いに、後ろに控えていた趙雲がすっと頭を下げる。ナマエは彼にまだ礼を言っていないことに気付いて、続いて趙雲に頭を下げて礼を言った。すると、戸惑ったように彼は「いえ」と、頭をふる。

「劉備様、城前に集まる民を拝見しました。あれだけ民に慕われているとは、流石人徳の方でいらっしゃいますね」
 ナマエが感心したように言うと、劉備は何故かばつが悪そうに上を向いた。その仕草に天明はくすりと笑い。
「ええ、お父様は本当にお人良しよ。だって、軍師様が彼らを連れていくことに渋っているものだから、さっきまでもの凄ーく不機嫌でいらしたのよ」
「こら、余計な事は言うな。天明」
 劉備は慌てて娘の口を塞ごうとする。その親子のやり取りに、周囲が微笑ましく思ったとき。
「――報告! 曹操の軍勢、およそ八十万程との斥候からの情報です!」
 ばんと扉が乱暴に開いて、一人の兵が転げるように膝をついて拱手した。よほど慌てていたのだろうその兵士は、ナマエの存在に気がついてさらに深く頭を下げた。
 ナマエが目を丸くしていると、劉備は兵の無礼を大して気にせず、「ご苦労」と労った。
「八十万の兵か……、曹操め、よほど私が目障りと見える」
「それほど殿を評価している、ということでしょう」
 忌々しく劉備が言えば、諸葛亮が冷静に返す。
「はは、成る程。私も大した物だと思わんか? ナマエ殿」
 と、いきなり話を振られ、ナマエは曖昧に微笑んだ。
「ともあれ、安々と捕まる事は出来ぬからな。我々は、八十万の軍勢からの逃亡を成功させねばならない。しかし、孤立無援は流石にちときついが」
 ナマエは首を傾げた。
「孤立無援、ですか? 荊州には、劉備様を支持する方もまだ中にはいらっしゃるはずです」
「しかし、こんな民草をつれた大集団に援軍を送ろうなどと考える方が居ようか。しかも、相手は天下の曹丞相だ」
 反論され、ナマエは言いよどんだ。確かに、荊州は既に曹操に降伏している。この荊州に居る限りでは、彼らに味方をするものは殆んど居ないだろう。ナマエは暫し考え込み、そしてふと閃いたように顔をあげた。
「ならば、兄様は……、兄の劉琦ならばどうでしょう? きっと力になってくださいます」
「劉琦殿か」
 その提案に、劉備は諸葛亮の方を振り返った。
 すると彼は心得たように頷いて。
「――では、使者を。ナマエ殿、一筆お願いしますよ」
 ナマエは、喜んで承諾した。

 使者の役には、関羽が申し出た。
「では、大任、頼んだぞ!」
「兄者、必ず援軍をつれて参りますゆえ、暫しの辛抱を」
「関羽様、ご無事で」
「天明、ナマエ殿、そなたらも無事であれ」
 そう言って、関羽は馬上の人となった。
「では、後ほど!」
 はっ、と威勢の良い声とともに、偉丈夫は瞬く間に地平の彼方へと消えた。
 ナマエは一人立ち尽くす。
(行ってしまった……)
 ざわざわ、と剣や槍を持った兵士達が、周りで準備を進めている。
 その張り詰めた物々しい雰囲気が、急に実感を伴ってナマエに襲い掛かった。
 ――戦が、はじまるのだ。




 その日は、結局疲れからか直ぐに寝入ってしまった。
 翌日、意識を失っていた梅林が目を覚ました。彼女はナマエが事を簡単に説明すると、あっさりとそれを受け入れ、てきぱきと行動を開始した。
「お世話になって、何もしないというわけにはいきませんね。姫様、私は少々御手伝いにいってきますので、こちらでお待ちくださいませ」
「あ、梅林」
 瞬く間に梅林は室を飛び出していった。なんて行動力のある、ナマエは目を丸くした。
 ナマエも倣って手伝おうと思ったが、しかし中々室から出る勇気が出ない。初めての戦というものに、戸惑いと恐れを感じていたのだ。
 怖いと思った。この先どうなってしまうのか。
 この数日で、ナマエを取り巻く環境も激変した。精神的にも大分参ってきたころであったが、戦前という緊張感は神経を麻痺させるのか、一粒の涙すら出なかった。父を喪ってよりこのかた、ナマエは涙を流していない。まだ泣くときではないと、心のどこかで堰き止めているのだろうか、しかし無理は体に支障をきたし、現にナマエは出された食事に手をつけられないでいた。
 食べなくては体が駄目になる。分ってはいたが、そう安々と食事は喉を通らなくて。

 そんなナマエの様子を耳にしたのか、室を訪れた一人の男が居た。
 こんこん、と扉を叩く音がして、ナマエは顔をあげて入室を許可した。少し躊躇うように入ってきたのは趙雲、ナマエは思わぬ人物の訪れに驚いたが、喜びこそすれ嫌な顔は見せなかった。あれから、殆んど会話らしい会話すら交わしていなかったのだ。
 趙雲は室に一歩踏み込んだものの、そこから先ナマエへと近寄るのを大分躊躇ったようであった。どうしたの、とナマエが促がすと、漸くのように切り出す。
「姫君、食事を取られてないと聞きましたが……」
 言って、趙雲の視線は卓に置かれた手付かずの食事を捉える。ナマエはそれに気付いて、ばつが悪そうに俯いた。
「少しでも食べないと体が持ちませんよ」
「ごめんなさい。食べようとは思うんだけれど、どうしても食べれなくて……」
 ナマエは恥じ入るように目を伏せた。
 実際、恥ずかしかったのだ。この非常時、貴重な食料を無駄にする事がいかに愚かな行為であることは分っている。本来ならば無理をしてでも胃に収めなければならないとは分っていたが、しかし一口食べるだけで吐き気を催してしまうものだから、情けないにも程がある。趙雲も、きっとあきれてしまうだろう。
 その考えに至り、唇を強く噛締めた。趙雲がふうと溜息をついた、その些細な反応ですらナマエはびくりと肩を震わせた。
 趙雲はしかし、ゆっくりとナマエに近寄り、安心させるように肩を包んだ。俯くナマエの顔を覗き込み、あやすように背を摩る。
「……怖いですか?」
 ナマエは反射的に顔を上げ、目を見開いて趙雲を凝視した。
 ――怖い、とてつもなく怖い。
 怖くて怖くてたまらない。
「無理もない。本来ならば、あなたは安全なところで守られているはずだった」
 本心のままにこくりと頷いたナマエに、趙雲はどこか後ろめたい表情を浮かべた。
「私が、無理矢理に連れてきてしまったから」
 ナマエは驚いて息を呑んだ。
「なんてことを言うのです。私は、あそこから助け出してもらって感謝しています。無理矢理だなんて、そんな」
「だが実際、あなたの意志を確認せずに連れてきてしまった」
 暗い表情を浮かべる趙雲に、ナマエは言葉を失った。
 この人は、ナマエを連れてきたことを悔いているのだ。自分がこのような情けない状態に陥ってしまっているが故に。自分が無理矢理連れてきてしまったからだと思ったのだ。
 ――ならば、落ち込んでいる場合ではない。

 ナマエは気合を入れるように拳を握ると、趙雲の手を取った。
「趙雲殿、何か私に御手伝い出来る事はありますか?」
 その急変ぶりに、今度は趙雲が戸惑う番だった。
「しかしナマエ殿、貴女のような方が手伝う必要は……」
「けれど、天明様も手伝っているのでしょう? 手伝わせてください、何かお役に立ちたいのです」
 姿勢を正し、真摯な瞳でそう告げたナマエは、趙雲が良く知る毅然とした華の姫君であった。ナマエの瞳に光が戻ったことに気付いて、彼はほっとしたように微笑んだ。
「そうですか……。では、私では分りかねる部分がありますので、軍師殿に指示を仰ぐといいでしょう」
「はい」
 頷くなり、ナマエは室を飛び出そうとする。
 扉に手をかけ、ふと思い越したように振り返ったナマエは、大輪の花のような笑みを浮かべた。
「趙雲殿」
 涼やかな声が、彼の名を呼ぶ。思いがけず、趙雲は心臓が止まるほどドキリとした。
「わたくし、覚悟を決めました」
 鮮やかな笑顔。何物にも代えがたいその存在。
「――っ」
 趙雲の心に痕を残して、ナマエは去っていった。

 一人残された趙雲は、痛みを覚えた胸を掴み。
「……私が、貴女を望んだせいだと知ったら、どう思うだろうか」
 自問自答のように呟いて、ふと瞼を伏せた。
 幾ら待てども答えは返らない。
 その答えは、彼自身が導き出さねばならないものだ。
 ――覚悟を決めねならないのは、むしろ趙雲自身。
 何かを望むのならば、対等に何かを差し出させねばならない。
 もし、彼がナマエを望むのならば……。




 そして――。
「出立する!」
 劉備の一声に、将も官も、民も声をあげた。
 先を行くのは劉備や高官達だった。劉備が先陣を切り、それにぞくぞくと人々が続く。行列は遥か彼方まで及び、行軍としては異常な光景ですらあった。
 ナマエはそこでも貴人として車を与えられていた。世話になっている身では忍びないと遠慮したが、ナマエのような身分の者が徒歩では逆に守れないと強く言われ、渋々梅林とそれに従った。

 ナマエが劉備に続いて出立しようとした時、趙雲が馬を駆ってやってきた。戦装束を纏った凛々しい若武者を見かけ、ナマエは車の窓から身を乗り出した。
「趙雲殿! 趙雲殿も一緒なの?」
 趙雲は苦笑して、窓から転げ落ちそうなナマエを「危ないですから」と押し留めた。しかし、おもむろに掴んだ彼女の手を、離さない。
「いえ、私は中軍を任せられたので、後から参ります。……ナマエ殿、ご無事で」
 見つめてくる視線が、熱いと思った。静かで熱い瞳に、ナマエは目の前の人が自分と離れることを惜しんでいるのだと気付いて、無意識のうちに彼の手を両手で包んで引寄せた。
「どうかご武運を」
 目を伏せ、その武骨な手を頬に摺り寄せ、甘えるように押し付けた。趙雲が少し瞠目したようだった。けれどすぐにじんわりと笑みを零し、ナマエの頬を己の手でいたわるように包んだ。
「あなたが祈って下さるのならば、――私は必ずあなたの元に帰ります」
「……え?」
 見たこともないような柔らかな笑みに、ナマエは瞠目した。
 趙雲が笑みを深くする。
「私も、決めました」
 何を、と訊ねる間もなく、趙雲は惜しむように手を離した。あっ、とナマエが手を伸ばしたが、趙雲は馬の頭を反して御者に叫んだ。
「車を出せ!」
 それと共に、ガラリと車輪が動いて車が走り出した。
「趙雲殿――!」
 彼の姿は、瞬く間に遠くなった。




 車での行軍は、数日は何事もなく進んだ。民を連れているため、普通では考えられないほどのゆっくりとした歩みである。
 そうして、俄かに斥候の行き来が多くなってきた事に気付いたのは、五日目であった。
「なにやら騒がしくなりましたね」
 梅林が窓の外を覗き込むと、兵の一団が後方へ駆けていくのが見えた。ナマエも彼女に倣うと、怪我を負った文官らしい男が馬で運ばれていった。
 異常なほどの高揚感、ナマエはこくりと喉を鳴らした。
「曹操に追いつかれたのだわ……」
 梅林がはっとする。ナマエは座に戻って、ぎゅっと手を握りしめた。
(趙雲殿……!)

 比較的前方を進んでいたナマエは、戦渦に巻き込まれるまでには暫らくあった。けれど確実に敵兵は侵入し、途端に激しい戦闘が始まった。
「馬車を守れーっ!」
 そう叫んで兵が敵へと突進していく。血が飛ぶ度、ナマエは悲鳴を押し殺した。守られるだけの存在である自分が、ひどく悔しかった。

 そうして敵の手をくぐり抜けること暫し、梅林が、窓の向こうに何かを見つけたように突然声をあげた。
「姫様、あれを……」
 促がされて覗き込むと、ナマエはあっと目を見開いた。前方大きな樹の根元に座っている、あの少女は。
「天明様!? ……車をとめて!」
 そう命じると、御者は戸惑ったように車をとめた。
ナマエ様」
 天明はナマエに気付いて、立ち上がって近寄ってきた。怪我をしているのか、足を引き摺っていることに気がついてナマエは眉を寄せた。
「ああ、お怪我をされたのですね。車は? 護衛の方とは逸れたのですか?」
 天明は恐らく先ほどまで手当てを受けていたのだろう、真新しい包帯にはもう血が滲んでいた。
「車は敵兵に破壊されました。護衛は、行方不明の母様方の行方を捜しに行かせております」
 天明の言葉に、ナマエは「まあ」と呟いて、暫し言葉を失った。
 他でもない天明が車を失って歩いているというのに、自分はこんな安全な場所にいてもいいのだろうか。
ナマエ様、私のことは心配なさらずとも大丈夫ですよ。怪我はそんなにたいしたことはありませんし、少しは剣も扱えますし……」
 ナマエの思惑に気付いた天明は努めて明るく笑ったが、顔をあげたナマエの決意の前では無意味なものと化した。
「――わたくし、降ります」
「姫様!?」
 驚いたのは梅林だった。一体なにを言い出すのかこの主は。
 梅林が唖然としているうちに、ナマエは扉をあけてさっさと降りてしまった。こうなってしまえば仕方がない、梅林もまた渋々降りて主の横に並ぶ。
「さあ天明様、この車に乗って」
 ナマエは困惑する天明の手を取って、車へと押し込んだ。
「けれどナマエ様……!」
 尚も遠慮する天明に、ナマエは微笑んだ。
「私はいいのです。歩ける者は、歩かなければ」
 天明の他に歩けなくなった老婆を乗せ、「さあ行って」と車を出した。

 ナマエはそれを見送って、そしておもむろに衣装の長い裾を持ち上げ、歩き出した。それに梅林が続く。
 照り付ける真夏の日差し、険しい坂道が続いた。こんな険しい道を歩いた事もないくせに、と梅林は内心主の事を心配した。すぐに音を上げるに決まっていると思ったが、しかし隣を歩くナマエは黙々と、時折後ろを振り返りながら、歩き続けた。
(趙雲殿が言ったのよ、必ず帰るって……!)
 ナマエは遥か後方で戦っているであろう趙雲に思いを馳せた。
(だから、私も無事に生き延びなければ!)
 その一心だった。

 一昼夜進み続けた。
 初めての強行軍というものに、ナマエの体はもうぼろぼろだった。喉はからからになり、熱さのためか視界が眩んだ。
「姫様、あれをご覧下さい!」
 けれど長坂橋を渡りきり、その瞳が見慣れた旗を捉えた時、ナマエは訪れた安心感にどっと脱力して意識を手放した。
 あの旗は、兄様の……。兄様が来てくれたんだ。
 ――兄様が来てくれたから、もう大丈夫。





 ゆらり、ゆらり、揺り篭のように揺れている。
 誰かに抱えられているような感覚が、心地よいと思った。
 ひやりと冷たい感覚が顔を拭った。気持良い。
「……なんだと!? ――が、居ない!?」
 誰かが怒鳴っているようだった。気になって、ナマエは少し目をこじ開けた。
「――もう一度良く探せ! 民衆の中に紛れているのかも知れぬ!」
 今度はよりはっきりと聞こえた。これは劉備の声だ、でも一体何故、彼は怒鳴っているのだろう。

 ナマエがはっきりと意識を覚醒した時、ふと頭上から覗き込む顔に気がついた。
「目が醒めたのか、ナマエ殿」
 ――この声は。
 ナマエはぱちりと一気に目を開いた。
 その視界に飛び込んできたのは。
「趙雲殿!」
 ナマエは飛び起きた。声が掠れて上手く呼べなかったが、喉の痛みさえ感じなかった。そして今一度これが夢ではない事を確認して、「ああ……」と吐息を漏らす。趙雲がいる。本物だ。
 無事に帰ってきたのだ、ナマエの元へ。
 目の前に居る、傷だらけの男の前では、何もかもがどうでも良かった。
「ご無事で――」
 感極まったように呟き、ナマエは我を忘れて趙雲へと抱きつこうとした。
 が、それよりも先に声をかける者がいた。
「気がついたか、小妹」
「兄様!」
 そこに現れた人物に、ナマエは今度こそ驚喜した。近寄ってくる兄に躊躇いもなく抱きつく。趙雲が遠慮したように一歩下がったが、ナマエは気がつかなかった。
「無事でよかった」
「助けに来てくださってありがとう、兄様。お会いしたかった」
「小妹、私もだよ」
 劉琦はただ一人の妹を強く抱擁してやった。久々に肉親の温もりを感じて、ナマエはひどく安堵した。

 その後すぐに、劉琦は何やら慌しく去っていった。軍の指揮官を務めているのだから、多忙であるのは無理もない。
 残されたナマエは傍らに居た趙雲に気付き、先ほど我を忘れて抱きつきそうになった事を思い出して顔から火が出る思いだった。すると偶然ぱっと目が合って、ナマエは慌てて視線を逸らした。なんだか、非常に気まずい。
「えっと、趙雲殿」
 呼びかけると、「はい」と律儀に答えが返ってきて、ナマエは途端に困った。用件なんてないに等しい、とりあえず呼んでみただけだったものだから、慌てて何か話題を探した。
「そうだ、梅林は、私の侍女はどうしていますか?」
「彼女は怪我人の救護に当たっています」
「そう、良かった」
 すぐに会話が途切れ、ナマエは慌てて次の話題を振った。
「えっと……、あ、先ほど劉備様が怒鳴っていらしたのは、何故?」
 その問いに、趙雲は「それは……」と言いよどんだ。ナマエが首を傾げると、彼は非常に歯切れ悪く告げる。それを聞いたナマエは、途端に蒼白になった。
「――天明様が行方不明!?」
 そんな、なんてこと。


 ナマエが慌てて劉備の元へと行くと、空気に緊張感が漂っていた。
「天明は、まだ見つからぬのか!?」
「申し訳ございません、ただいま我が兵が尽力しておりますが……」
 劉備は色を失って右往左往していた。
 まだ見つかっていないのだろう。ナマエは最後に見た天明の様子を思い出し、すうと背筋に冷汗が流れた。
「兄者、すまねぇ、俺のせいだ。殿軍を任されていたのに」
「いや、翼徳のせいではない」
「けどよぉっ!」
 張飛が悔しそうに歯噛みする。
 ナマエは蒼白な顔のまま、ふらふらと彼らに近寄った。
「劉備様……」
「ああ、ナマエ殿、目が醒められたか」
 ナマエを気遣う劉備の顔には、疲労が色濃く表れていた。
「天明様は……」
「見つからぬ」
 劉備は深く絶望したようにゆるく頭を振る。
 思わず、ナマエは漏れ出そうになった声を手で抑えた。微かに震え始めた体を抑えたが、震えは止まりそうもなかった。
 誰もがそのナマエの反応を不思議に思わなかった。大事な友人の危機に怯えているのだと思った。
 しかし、ナマエの脳裏を過ぎるのは、最後に見せた天明の慌てたような表情。
 そうだ、天明は、ナマエが無理矢理に車に乗せたのではなかったか――。
(もしかしたら、あの車に乗ったせいで……、敵に目をつけられたのかもしれない)
 そう考えても、おかしな事ではない。だって、ナマエもまたあの車に乗っていて、何度も襲撃を受けたのだから。
 もし、そうだとしたら、天明を見殺しにしたのは……。
 ナマエは震える体を抱きしめた。
「天明……。諦めねばならないのか」
 重い沈黙が落ちた。誰もが、あの姫の生死を絶望視していた。敵の手に掛かったか、それとも曹操に捕えられたか。しかしどちらも結果は最悪だ。
 と、その沈黙を破った男がいた。
「――殿、私がもう一度探しに行ってまいります」
 趙雲、と劉備ははっと我に返ったように瞠目した。
 この男が行くといえば、必ず行くだろう。だが、此度はいくら彼とて無事に帰ってこれるか分らない。
 劉備は暫し傷だらけの忠義の士を見つめ、ふと瞼を伏せた。
「……いや、それは、ならぬ」
「しかし、それでは姫が」
 尚も言い募ろうとする趙雲の肩を掴み、劉備は一本気な若者を諭すように言い聞かせた。
「お前には我が息子も助けてもらった、もう十分働いてもらった。見てみろ、傷だらけじゃないか。こんな状態で探しに行ってどうなる? みすみす命を無駄にするようなものではないか。……趙雲、私はお前を失いたくはない。これ以上、失いたくはないのだ……」
 それはまるで、己にもゆっくりと言い聞かせているようであった。主の悲痛な様子に、趙雲が言葉を失って目を伏せる。
 しん、とその場が静まり返った。


「……私のせいだわ」
 と、ぽつりと静かに落とされた言葉に、誰もが振り返った。
ナマエ殿?」
 呼ばれた少女は、びくりと怯えたように体を震わせた。
「私のせいだわ……、私が天明様に車を貸したりなどしなければ」
 半ば独り言のような言葉に、劉備は戸惑ってナマエに一歩近寄った。するとナマエは弾かれたように顔をあげ。
「ごめんなさい劉備様! ごめんなさい……! 私の、私のせいなのです! わ、わたしの……」
 搾り出されるような痛々しい泣き声だった。劉備が大いに戸惑っていると、ナマエは興奮が突き抜けて一気に虚脱したようにその場にくず折れた。慌てて趙雲がその背を支える。
「ごめんなさい、劉備様、ご、ごめんなさ……」
 堰を切ったようにぼろぼろと涙が零れた。それを抑える術がないナマエは、涙に濡れていく顔を覆う。
 呆然としていた劉備はその様子に心突かれるものを感じ、ゆっくりとナマエの元に歩み寄って膝を着いた。そして、そっと肩に触れ。
ナマエ殿、あなたのせいではない」
 悲しく微笑んだ劉備に、ナマエは「けれど」と反論しようとしたが、嗚咽を堪えていたせいで声が出なかった。代わり激しく頭を振ると、ぐっと少し強く肩を抑えられた。
「貴女は疲れているのだ、……もう少し、休まれるといい」
 そう言って、傍らで少女を支えていた趙雲に視線を寄越す。彼が頷いたのを見て、劉備らは劉琦や諸葛亮のもとへと行ってしまった。

 趙雲は嗚咽を零すナマエの背をひたすら摩っていた。
 ほろほろとナマエの頬を伝う涙。それを止める術を知らない自分に、趙雲は歯噛みしたい気分だった。気の聞いた言葉の一つすら言えないなんて。
「全て過ぎた事だ。もう、泣かれるな」
 ふるふるとナマエは弱く頭を振った。
「涙が、止まらないのです」
 弱々しい声。思わず手を伸ばした趙雲の指に、涙が伝い落ちて濡らした。
 指先がじんわりと熱い。ナマエの熱が伝わったかのようだと、ぼんやりと思った。
ナマエ殿」
 趙雲は、ただナマエの涙を止めたいと思った。その一心だった。この人が哀しむのは、自分のことだけでいい。
 ぎこちない動作で、手繰り寄せるようにナマエを抱き寄せた。突然のことにナマエは少し驚いて抵抗を見せたが、彼女を己の胸に少し押し付けるようにすると、抵抗はぴたりと止んだ。
 その内ふっと彼女が身を任せたことに気付いて、ああ、そうか、と趙雲は納得した。こうすれば、ナマエの涙が止まるのだ。
 とても簡単なことだった。
「もう大丈夫だ」
 ナマエ、と囁くと、腕の中の人が一瞬強張ったようだった。
 そっと涙に唇を寄せると、濡れた瞳が見上げてくる。瞬間、趙雲の強靭な理性は簡単に吹き飛んだ。
 暫し言葉なく見詰め合う。
 己が欲するままに顔を寄せると、涙に光る瞳はまどろむ様にゆっくりと閉じられた。



 長坂の長く辛い戦いが、静かに幕を閉じた。
 曹操の手から辛くも逃れた劉備軍は無事に劉琦軍と合流し、夏口へと至る。
 そして、曹操と対峙するため、江東の孫権へと使者を遣わした。
 ――歯車が、また一つ動く。