暁の皖・二




「はぁ……」
 ――これで、一体何度目の溜息だろうか。
 と、劉表の娘、ナマエの侍女にして長年の友人である梅林は、朝から止まる事の知らない己の主の溜息に半ば呆れ、半ば感心していた。あんなに続けて溜息をついて、よくも飽きぬ、と。ちなみに、最初は数えていた溜息の回数も、それが百を越えた時点で、莫迦莫迦しくなって放り投げた。
 空はどんよりとにび色に染まっていた。
 北から吹いてくる風は強く、美しく咲いていた花々をも散らしてしまいそうな勢いである。
「姫様、そろそろお支度をなさいませんと……」
 梅林は、先程からぼんやりと外の景色を眺めている己の主人に、そっと声をかけた。
「うん……」
 促がしに、ナマエはのろのろと動き出した。だが、梅林が取り出した化粧道具に気付き、眉を顰める。
「化粧、やっぱりするの?」
「当然でございます。劉表様にも、そうされるよう言い含められているではありませんか」
 その言に、ナマエは諦めたように化粧台の前に座った。

 今日、ナマエは珍しくも劉表から言伝を受け取った。久しぶりの父からの伝言に心躍らせたが、中を見れば実に事務的な口調にて一言。『着飾り、晩餐に出席せよ』たったこれだけの内容に、ナマエは溜息をつきたくなった。同じ城内にいるとは言え、多忙を理由に滅多に顔も合わせてくれない薄情な親であったが、これは流石に切ない。せめて労わりの一言くらいは欲しかったが、しかし晩餐への出席は思い直してみれば久々に父や兄と顔を合わすということに気がついたナマエは、嬉しくなって早速話し相手の梅林にも喋ったのだ。そしたら梅林は、にっこり笑って「では今日は、腕を揮ってお綺麗にしてさしあげなければ」と一言。ナマエは、その笑みに顔を引き攣らせた。
 櫛で髪を梳られ、ぐいぐいと引っ張られては捻られ、複雑な形に出来上がっていく己の頭に、幾つもの簪や牡丹などの花が挿されていく。肌に白粉が叩かれ、眦に彩を入れ、唇には鮮やかな色がひかれた。侍女達が数人で忙しく己に化粧を施していく、その所作を、ナマエは神妙に見ていた。
 実のところナマエは、化粧が嫌いだった。否、正確に言えば、化粧をして美しくなる事が嫌いなわけではない。白粉の匂いも、どちらかと言えば好きではあった。あったのだが……。
「耳飾は、どれがいいかしら?」
「珊瑚が良いわ。丁度、このお衣装の色と合っていて」
「あら、でしたら、薄物もその色に合わせましょう」
(楽しんでるなぁ)
 ナマエは内心呆れながら、実に楽しそうに支度を進める侍女達を眺める。普段飾り甲斐の無い主人ゆえ、珍しくこういう事があると嬉しくて仕方が無いのだろう。
 最後に薄物を羽織ると、一応支度は終わりのようだった。侍女達が、自分たちの"作品"の出来栄えに感嘆の溜息をつく。
「さ、出来ましたわ、姫様」
 ――まるで、別人みたい。
 ナマエは、渡された鏡を覗き込みながら、そう嘯いた。鏡に映る自分は、まさしく天子の血を引いた姫の気高さ、美貌。だが――。
「……ありがとう」
 自分が、自分じゃなくなるみたい。
 この奇妙な感覚が、なんとも苦手だったのだ。ナマエが華と賞されるのは、全ては化粧や錦、宝石のおかげなのに。素の自分は、そんなに美しいものではない。化粧を取れば、普通の娘と対して変わらない筈。
 全ては化粧のおかげ。ナマエはそう思い込んでやまない。そろりと、はしゃぐ侍女を伺う。この者たちだって、今のナマエのように着飾れば、きっと同じように、いや、或いはそれ以上美しくなるに違いない。
 "華"だなんて称されても、所詮はただの娘。なのになんで、そんな特別な存在のように扱われるのだろう。
 ナマエを苛むのは、劣等感だった。
 偉大な父と立派な兄と、周囲から愛される弟に挟まれたナマエは、その存在価値を何処にも見出せずに育ってしまった。父の期待は常に兄に、そしてその愛情は遅くに生まれた弟に注がれ、見向きもされない。男に生まれればよかったと思うこともままあった。だって、男だったら、武でもって父を援けられるかもしない。
 政なら、あるいはもしやという一縷の希望が、ナマエに本の虫へと走らせた原因だった。知識を得れば、荊州を統治する父に助言の一つでも送れるかもしれない、その一心で、書を読み漁った。全ては、父の一言が欲しくて。



 父からの迎えが来て、ナマエは皆が集う室へと向かった。室の中には父と兄がいて、和やかな雰囲気で談笑している。隣には、見知らぬ男性と、綺麗な少女。誰だろうと思いつつ、父の元へと向かう。実に久方ぶりの対面に、ナマエは湧き起こってくる緊張を押し殺す。
「お父様、兄様」
 淑やかに頭を下げると、劉表がナマエに気付いて手招きをした。
ナマエ、こちらは劉備殿だ。ご挨拶を」
 ああ、この方が。ナマエは、劉備と紹介された男性に向き合った。随分と己の予想とは違ったが、目の前の人が持つ穏やかで泰然とした雰囲気は、なるほど一介の群雄にあらずと納得させるような何かを有していた。
「――お初お目にかかります。ナマエにございます」
「これはこれは。……成る程、噂に違わぬ美しさであるな」
 その人は瞠目して、そして朗らかに笑った。普段であれば容姿を褒められても引け目を感じるだけで終るのだが、劉備に関しては違った。そのあまりにも温かい笑顔に、ナマエは純粋に嬉しくなった。この方に褒められると、どうしてこんなに心躍るのだろう。
「ありがとうございます」
 礼を言うと、うむ、と劉備が頷く。と、その時、劉備の隣にいた綺麗な少女が、遠慮気につんと彼の袖を引っ張る。少女を振り返った劉備は、すっかり忘れていたという笑顔になる。
「おお、そうだ、此方も紹介しておこう、わが娘、天明だ。仲良くしてやってくれ」
 天明と呼ばれた少女は、父親に向かって、よく出来ましたと言わんばかりににっこりと笑い、すっと一歩前へ出る。
「はじめまして、ナマエ様」
「天明様」
 頭を下げられ、ナマエもそれに倣った。同じ年頃か、それよりも下だろうか。顔立ちは美しいというより可愛らしく、なにより日向のような暖かな笑顔が目をひきつける。
 愛されて育った娘の笑顔だ。
「ようこそ、荊州へ」
 ナマエは、天明の手を取った。掌に、少し、違和感を感じる。すべらかな筈の天明の掌には、まめのようなものが出来ていた。
「何か不便な事があれば、直ぐにでも仰ってくださいね。及ばずながらご助力いたします」
 天明は、ありがとうございます、とふんわりと微笑んだ。

小妹(しゃおめい)
 声をかけられ、ナマエは振り返った。その声の主を認め、途端に花のような笑顔が咲く。
「兄様」
 父譲りの聡明そうな瞳と端整な顔立ち、すらりとした体躯の持ち主は、悪戯げに笑ってナマエの頭を撫でた。昔と変わりなく接してくれる兄の前では、ナマエはただの娘に戻ってしまうのだ。
「可愛い小妹、今日はまた随分と綺麗じゃないか。さては、梅林たちの仕業かな?」
「お察しの通りですわ。もう、久々だからって張り切ってしまって」
 ナマエの困り顔に、はは、と劉琦は上機嫌に笑う。持っていた杯を傾ける。
「ところで聡明な小妹よ、学問は進んでいるかい?」
「勿論です、兄様。薦めてくださった韓非子も、もうすぐ終るところです」
 自慢げに微笑んで言うと、劉琦は予想通り驚いたように目を見張って、すぐに笑顔になった。
「はは、流石は私の――」
「まだ学問なんぞ続けておるのか、ナマエ
 唐突に、朗らかな空気にすっと冷えた声色が割り込んできた。二人は声の主を振り返って、些か硬い表情でその人を迎える。
「父上」
 劉琦が呼び止めるも、劉表は構わずナマエの前へと立ちふさがった。厳しい表情の父に怯える娘に、躊躇うことはない。
「お前には学問など必要ないと申しただろうが。心配せずとも、お前にはよい縁談を持ってきてやる」
 ナマエがびくりと体を震わせた。青くなった顔を伏せ、下唇を噛む。
「しかし父上、ナマエは……」
「劉琦、お前はナマエに甘すぎだ。あまり、これを助長させるようなことはせんでくれ」
 見かねた劉琦が庇うも、逆に咎められてしまう始末。これには劉琦も図星なのか、反論する言葉が見つからない。
「父上……!」
 それでも諦めきれず、劉琦は去っていく父を呼び止めようとした、が。
「いいのです兄様」
 静かな、それでいて諦観したような声が劉琦を止めた。
「しかしナマエ……」
 振り返った劉琦は、己の妹の表情に、掛けるべき言葉を失った。
(いいのです、兄様。私はどうせ、父上の役には立たない……)
 ふっと肩を落とすと、耳元で珊瑚の耳飾がちゃらりと鳴った。父や兄に久しぶりに会えるのだと、綺麗に着飾った己が、どこまでも滑稽に思えた。





「本当に、天明様は色々なものを見ていらっしゃるのね」
 感嘆の声に、天明は恥ずかしそうに微笑んだ。
 ナマエは、晩餐の折に知り合った天明を、翌日さっそく御茶会に誘った。一目見てから気が合いそうだと感じ、彼女とのお喋りはさぞかし楽しいものだろうと思っていたが、その予感は間違っていなかった。
 ナマエの知らない世界の事を気兼ねせず聞かせてくれる天明の話はとても面白かったし、なにより彼女と一緒にいると肩肘を張らなくてすむような気がした。出会って間もないというのに、天明という少女は人の心に自然に入り込んでくるような存在だった。流石は劉備の娘といったところか、天明は心豊かな娘だった。
「父に連れられての流浪の旅ばかりだったので、本当に色々なところを廻って来ましたから。……あの、私の話、つまらなくはないですか? ナマエ様は、私と違って本当のお姫様ですから、知らぬ内に無礼を働いていないか心配です」
「そんなこと! どうぞ気を楽にしてくださいな。私、世界の色々な話が聞けて楽しいですし、それに貴女のような方と仲良くして頂けてとても嬉しいのですよ」
 そう手をとって伝えると、天明は日向のような笑みを向けてきた。
 その後、取りとめもなく話をした。劉備ら義兄弟のことやら、ナマエの兄弟のこと。そうしている内に結構な時間が経ち、そろそろ天明も戻らなければならない時間がやって来てしまった。
 いけないいけない、とナマエはぼんやりしていた己を叱咤した。実は、ナマエが天明を誘ったのには、邪な理由あってのことだった。勿論天明と話してみたいというのは本音だが、しかしそれは理由の半分。そのもう半分を、これから訊ねなければならないのだ。
 ぼんやり見送っている暇はない、まだ肝心な事を聞いてはいないではないか。そう、先日からナマエが気になっている存在の事を、天明は良く知っている筈なのだ。それは。
「あの、ところで天明様」
「はい、何でしょう?」
 無邪気な瞳で見つめ返され、ナマエは暫し、いや、かなりの間、言葉を発するのに戸惑った。
「……趙雲殿、という方、劉備様の元にいらっしゃいますか?」
「趙雲ですか? ええ、確かにいますが、あの者がどうかしました?」
 ナマエの顔が、にわかに輝いたのは言うまでもない。




 結局、趙雲については余り詳しく尋ねる時間もなく、茶会もお開きになったので、ナマエは戻っていく天明を途中まで送ることにした。
 建前は天明が迷子になってはいけないとの配慮だったが、その実まだまだ楽しくおしゃべりしていたいという気持からの提案だった。
「今日は本当にありがとうございました」
「宜しかったら、また今度是非」
「はい!」
 途中で出会った劉備の将に天明を渡し、ナマエは明るい笑顔で彼等を見送った。
 二つの背が見えなくなるまでじっと佇んで、ふうと溜息を付いた。
「楽しかった、な……」
 ぽつりと呟いたナマエに訪れたのは、喧噪のあとのなんとも言えない寂しさだった。
「また、すぐ会えるわ」
(そしたら今度は、あの人の――趙雲殿のことについて聞いてみよう。そうだ、天明様には想い人はいらっしゃるのかしら?)
 寂しさを紛らわすように、ナマエは態と元気よく、くるりと後ろを振り向いた、その時。
「――もし、そこの小姐(しゃおちぇ)
「……え?」
 なんか、聞き覚えのある声だ。そう思って、ナマエはゆっくりと声の方を振り向いて、呆気に取られる。
 そこには、まぎれもなく。
「少し、道をお尋ねしたいのだが……」
「貴方は――!」
(趙雲殿!)
 ナマエは驚きで声も出ない。だってそうだろう、今さっき考えていた相手が、急に目の前に現れたりしたら、誰だって驚くに違いない。
 相手の方も、ナマエに気付いたのか、ぱちりと瞬いて「あっ」と声をあげた。
「もしや、先日の庭園にいた小姐か」
「はい」
 変わらぬ端整な顔立ち、ナマエは、高鳴っていく鼓動を抑えながら頷いた。
 ああ、どうしよう、と内心で慌てふためく。私ってば、きっと顔真っ赤ね。衣裳は……、少し梅林が気を使ってくれたから、あまり派手なものでないから良かった。はっ、化粧は! もしかしてバッチリメイク!? ……あ、薄化粧でお願い、って頼んだんだっけ。良かった~。
 などと、ナマエの内心の葛藤にこれっぽっちも気付かない趙雲は、おもむろに彼女に向き合ったかと思うと、さっと頭をさげ、潔さが印象に残るような拱手をした。
 ようやく自分の世界から帰還したナマエが、頭を下げられたことに気付いて「えっ」と小さく声をあげる。一体、彼は何故、自分のような娘に頭を下げているのか。そう疑問に思っていると、趙雲はゆっくりと顔を上げて、一言。
「先日は、無礼な行為を働いてしまい、申し訳なかった」
 あ、なるほど、そういう事ね。ナマエは、趙雲の言葉に深く頷き、自らも頭を下げた。
「いいえ、私こそ、生意気な口を聞いてしまって、ごめんなさい」
 直ぐに、いやそんな、と慌てる声が掛かって、ナマエは顔をあげる。そこに、少し困ったような表情の人がいて、やはりどきりと胸が高鳴った。

 ぽちゃり、と水音がなった。池で飼われている魚が、はねたのだろうか。
 音の方に振り返った趙雲の横顔を眺めていたナマエは、はて? とそこで首をかしげる。彼はここで何をしているだろう。
 間もなく、ナマエは「あ……」と呟く。
「もしかして、迷子になっていたのですか?」
 ぴくり、と趙雲が反応した。図星らしい。
「はぁ、お恥ずかしながら。城下へ出ようと思って出口をさがしているのだが、どうにも変なところに迷い込んでしまったようだ」
 端正な顔に情けない表情をうかべる彼が可愛らしくて、ナマエはくすくすと笑みを零した。
「どうぞ、こちらです。ついてきて下さい」
 かたじけない、と言って、趙雲はナマエのあとをついてきた。

「……これから、城下にいらっしゃるのですか」
「はい、見回りも兼ねてと思いまして」
 さらさらと、衣擦れの音がする。
 静かだった回廊に、だんだんと喧噪の音が大きくなってきた。ナマエは、趙雲と共に居る時間を少しでも多く過ごしたくて、ゆっくりと進む。目的地が近付くにつれ、なんだか、切なくなってきた。
「そうですか。良いですね、私も、機会があれば降りてみたいわ」
 え? と、趙雲は首をかしげた。
「あまり、城下には出られないので?」
「はい」
「仕事が忙しいのですか?」
 ああ、そうか、この人は自分を女官だと思っているんだっけ。ナマエは、趙雲の問いに苦笑を禁じえない。
「いえ、そういう事ではないのですが……」
 言葉を濁し、すっと立ち止まる。
 目の前には、城壁に付けられた、小さな戸口。城門の西に面するそれは、よく使用人やらが使う戸口で、余り見張りが厳しくない。
「着きました、ここが城の裏口です」
 ナマエは後ろに立つ趙雲ににこやかに振り返った。
「城下は治安も良いと聞きますし、どうぞ楽しんでいらしてくださいね」
 ああ、と趙雲。
 しかし彼は、その場に立ち止まったままだった。ナマエが不思議に思っていると、彼はしばし考え深げに睫を落としたのち、思い返したようにナマエにすっと片手を差し出した。その手の意図がわからず、ナマエは目を瞬く。
「宜しければ、ご一緒に」
「――え?」
 趙雲の顔に、笑みが浮かぶ。
「案内、――と言っても、私もこの街は詳しくないからあまり楽しくはないだろうが、一緒に城下を回ってみませんか? たまの息抜きも必要だ」
 急な提案に、ナマエはぽかんとしたままだ。そりゃ、ナマエだって本心はまだまだ趙雲と一緒にいたいけど、だけど自分は劉表の娘で、それゆえ危険だといわれる城下に下るのはもってのほかで、うっかり遊びに出て誘拐なんてされた日には目も当てられない、だけどだけど目の前に差し伸べられた手は抗い難いほど魅力的で。
「でも」
 戸惑うナマエに、趙雲はにこりと笑った。
「大丈夫。私が、ついておりますので、危険はございますまい」
 精悍な笑み。どくん、とナマエは己の胸が高鳴るのを感じた。
 親に隠れていけない事をしている気分とは、こういう気分なのかとナマエは思った。だが、その何かは、とてつもなく魅力的にナマエを誘うので、とても逆らう事など出来はしない。
 ナマエは、己に差し出されている大きな手に、そっと自らの手を差し出した。その大きくて武骨な手に触れた瞬間、ナマエは危うく心臓が止まるのではと思った。
「……では、お言葉に、甘えて」
 一言。それも、語尾が震えぬよう、注意するので精一杯だった。

 ナマエは趙雲に手をひかれて、ギクシャクと歩き出した。
 誰にも見咎められずに、二人が戸口を出た時、急に振り返られたものだから、ナマエは危うくむせ返るところだった。
「あ、そうだ。あと一つ」
 な、なんでしょう? と趙雲を見上げる。
「あの時、あなたの名前を聞きそびれた」
 その言葉に、浮かれていたナマエは冷水を浴びたように青くなった。
「あ、……そ、そうでしたね」
 ああ、そういえば、言わずに逃げ出したんだっけ。考えてみれば、私ったらなんて失礼な事を。
「今日は、教えてくれるでしょう?」
 ずい、と笑顔で迫ってきた相手に、妙な迫力を感じ、ナマエはしどろもどろになった。
「ええと、その、あの」
 そうしてうろたえる姿は、劉表の娘としての威厳など、どこにも見当たらない。好きな人を前にした普通の娘と同じで、それゆえ趙雲は微塵も疑わなかった、ナマエが、己の君主が世話になっている劉表の娘であるなどと。
「……ナマエ、です」
「そうか、ナマエ殿か」
 ……。
「では、行こうか」
 ……あれ?
 反応が、普通だ。あれ? と再度首を傾けたナマエは、そこではっとある事に気がついた。
 なんだ、もしかして名前隠さなくっても、良かったんじゃない。考えてみればそうだ、趙雲が、劉表の息子ならばいざ知らず、滅多に表に出てくる事のない彼の娘の名前など知る由もないし、それにナマエは劉の華と言う通り名で知られていたが、そんなまさか”華”などと喩えられる者が、女官などと間違われたナマエと一致する筈もない。……そこまで考えて、ナマエは少し悲しくなった。ほらやっぱり、華だなんて、身の程知らずな名前なのよ。
「……ナマエ殿?」
 趙雲がひらひらと目の前で手を振っている。はっと我に帰って、ナマエは慌てて誤魔化した。




 ごめんよっ、といきなり声がして、大きな荷物を積んだ車輪がすぐ自分の横を無遠慮に通り過ぎる。威勢のいい商人が客引きをしていて、ぼんやりとしていたナマエは何度かそれにとっつかまった。それを救うのは、趙雲の役目だった。
 これまで何度か城下に下りた事のあるナマエであったが、しかしそれは護衛の者を連れだってであり、しかもナマエ自身は車に乗ってのこと故、じかに己の足で市井を見て歩くのは、いささか刺激的過ぎた。ナマエにとっては見るもの全てが新鮮で驚きに満ちていたが、それを露にしては余りにも世間知らずに思われてしまうだろうと、必死に平静を取り繕った。
「に、賑やか、ですね」
 ナマエは内心びくつきながら、隣を歩く趙雲に話し掛ける。その顔が少し強張っているが、趙雲は気付きもせずに、ああ、と頷いた。
「人々にも活気がある。いい街だ。きっと、統治者が優れているからだろう」
 そう話す趙雲の目は、穏やかに市井に居る人々を映している。父の事を褒められて、ナマエは純粋に嬉しい気持ちになる。
「そう、ですか?」
「ああ」
「そうですか」
 ふふ、とナマエは趙雲に微笑んだ。
 趙雲は、それに気付いて自然と笑みが浮かぶ。先程まで、何故か隣を歩く相手がビクビクとしていた事に内心気になっていたのだが、今は楽しそうに笑っていることにほっとする。もしや、己が怖がられているのではないかと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。それにしても、会って間もないというのに、いきなり誘うのはやはり急性すぎただろうか。雅な女性のようだったから、内心で無作法な男だと呆れられたかもしれない。
(まあ、いいか)
 と、趙雲は、あっさりと物思いから抜け出した。あくまで自分は、好意で誘ったにすぎないのだから。下心など何も無いはずだ。
 なおもナマエはニコニコと微笑んでいる。
「嬉しそうですね」
「嬉しいです。趙雲殿が、この街を気に入ってくださって」
 指摘すると、彼女は満面の笑みでそう告げた。思わぬ笑顔に面を食らって茫とした趙雲は、女人に向かってぶしつけな視線を向けては失礼かと思い、慌てて視線を外した。

 大通りを歩く二人は、良くも悪くも注目を集めていた。
 娘達の視線を感じるなぁ、と思いつつ、ナマエは隣を歩く人の横顔を見上げた。そこには、雪解けの冷たい清流を思わせる整った顔立ち。兄・劉琦も美丈夫ではあるが、それとはまた違った美しさがある。
 と、ぼんやりと見詰めていると、急にその相手が振り向いてきたので、ぐっとナマエは息を詰まらせた。
(ふ、不意打ち……っ!)
「少し、寄りたいところがあるのだが、いいだろうか?」
 ナマエは詰まった喉を抑え、こくこくと頷いた。

 一軒の薄汚れた店が、目の前に建っていた。
「鍛冶屋……?」
 看板に記された文字を小声でなぞると、趙雲は「はい」と頷く。
 鍛冶屋、というと、剣とか槍とか、武器を扱う店だ。へぇ、と呟いて、ナマエは入口へ向かおうとした、が、止められる。
「あなたには似つかわしくない場所ですので、どうぞここでお待ちください。直ぐに済みますので」
 何を言うの、とナマエは止め立てした人物を見遣る。
「いいえ、私も見てみたいわ」
「汚い場所ですよ?」
「構いません」
 ナマエは既に、好奇心旺盛で我儘な劉表の姫君へと戻っていた。好奇心を隠せない瞳を輝かせながら、ずんずんと店の中へと入っていく。それを、趙雲は苦笑しながら追う。
「好奇心旺盛な方だ」

 入った途端、わ、と思わず声をあげてしまった。そこは、ナマエにとって未知の世界だった。
 見たこともない武器が所狭しと並んでいて、圧倒される。
「すごい」
 呟いて、ナマエは近くの台に飾ってある短剣に触れた。恐る恐る持ち上げてみると、それは見た目以上に重量があった。
「重たいわ」
「気をつけて」
 後ろから声をかけられる。そういえば趙雲が居たんだっけと振り返って、頬を染めたまま頷いた。

「おお、これは趙雲殿」
 来客に気付いた店の亭主が奥から出てきて、趙雲に気付いて朗らかに声をかける。趙雲は、それに「ああ」と応えた。
「先日預けたものは、もう出来上がっているだろうか?」
「はい、先程、修理が終りました。ただいま、お持ちします」
 店の亭主は、また奥へと戻っていった。と思ったら、今度は背丈以上もある布に包まれた棒の様なものを持って、現れた。
 それが持ち主に手渡されると、趙雲は布から取り出して念入りにチェックしていた。彼の手の中にあるもの、それは立派な槍だった。
「それが、趙雲殿の武器なのですか?」
「はい、私の相棒です」
 ナマエが好奇心を抑えきれずに問うと、趙雲は微笑んで応えた。
「持ってみても?」
 これには流石の趙雲も、えっ? と耳を疑う。
「持てないでしょう。あなたには重過ぎる」
 すると、ナマエがむっとするのが手に取る様に分ったので、呆れを通り越して笑ってしまった。
「そんなことない。持ってみないと、分りませんよ」
「良いでしょう。どうぞ」
 にっと悪戯げに笑った趙雲が、槍を支える手を離した、瞬間。
 支えを失った槍はぐらりと揺れ、ナマエは咄嗟にそれを掴む。揺れは少し収まったが、しかし槍は予想以上に重かった。
「あ、……わ、きゃっ、趙雲殿!」
 危うくナマエごと倒れそうになる瞬間で、趙雲は彼女ごと得物を支えた。
「はい、返してもらいます」
 笑って、ナマエを覗き込む。
「言ったでしょう? 重いって」
 彼女は、覗き込んできた趙雲をじっと見上げた。
ナマエ殿?」
 少々意地悪がすぎたか。嫌われたかな? と、そんな考えが趙雲の脳裏に過ぎる。その時。
「吃驚した! そんなに、重いとは思わなかったわ」
 いきなりの声に、趙雲はきょとんとナマエを見た。
「趙雲殿って、凄いのね」
「何がですか?」
「だって、そんなに重たいものを持って、戦場を駆けるのでしょう? すごいわ、本当」
 目を輝かせる少女に、もはや趙雲はくすくすと笑いが止まらない。ナマエの反応は、まるで予測がつかない故に楽しい。妙齢の女性を笑いものにするのは失礼かと思ったが、ナマエに至ってはそんな気使いなど無用に思えてくる。優雅な見た目と中身のギャップが、趙雲にとっては好感の持てるものだった。
「劉備殿のご息女は、剣を使われますよ」
「ええ!? それ本当?」
「はい、関羽殿の、直々の指南を受けていられます」
 目を丸くするナマエに、趙雲はくすくす笑った。
「よほど、育ちがよかったと見える」
「あ……」
 その言葉に、ナマエは恥じたように赤くなった。
ナマエ殿は、本当に、平和に育てられたのですね」
「……」
 趙雲の、のんびりとした口調が、今は耳に痛い。
 そう、自分は、何も知らない。市井の者がどんな暮らしをしているのかだって、今日初めて知った。
「……私も、剣を習った方がいいのかしら」
 その言葉に、趙雲は心底驚いたように声をあげた。
「何を仰る」
「だって、この時勢ですし、やっぱり知よりも武の方が、役に立てるかと……」
 顔をあげれば、真摯な瞳とぶつかった。
「誰かの役に立ちたいと?」
「はい」
 真剣に頷くと、ややあって趙雲は優しく微笑んだ。
「立派な心がけですね」
 布に包んだ槍に視線を落とす。
「だが、貴方のような方が剣を持つ必要はない」
 そう言って、槍尻でドンと力強く地を打った。趙雲は、ナマエを見る。

「この槍にかけて、貴方をお守りします」

 たっぷり、二拍の間があって。
「…………は?」
 なんだなんだ、いきなりの告白か。ナマエは頭が真っ白になって、間抜けな声を出してしまった。
 その混乱に気付くことなく、目の前の人は、いたって真剣にナマエを見詰める。
「劉備殿の大徳の元、ナマエ殿を含め皆が平穏に暮らせる泰平の世を創り守るのが、私の役目と自負しております故」
「……」
 ――あ、なんだそういうこと。ナマエは、拍子抜けした。趙雲は、ナマエ個人を守ると言ったわけではないのだ。
 思いっきり勘違いをしてしまった己を恥じていると、趙雲は何を思ったか、心配げな表情を浮かべた。
「……己の力を過信する、奢った男だと呆れられただろうか」
「い、いいえそんなことは。とても、素敵なことだと思いますわ」
 ナマエは、慌ててフォローに廻らなければならなかった。
 趙雲はその言葉に気を良くしたのか、槍を背負ってナマエを外へと促がした。
「さて、日が暮れる前に、帰りましょう」


 店を出ると、黄昏時だった。
 その眩しさにナマエが目を覆った時、不意にざっと数人の足音が聞こえた。
 影に囲まれた――。緊張が走る。
「何者だ」
ナマエ
 趙雲の警戒した声と、己の名を呼ぶ懐かしい声が重なった。影の正体に気付いて、びくり、と体が震える。
 目元を覆う手を除けると、果たして目の前に立っていた人物は、予想通り厳しい表情だった。この人が、こうしてここにいるという事は、つまり――。
「黙って城を抜け出したのだな。そろそろ皆が騒ぎはじめる、父上に気付かれる前に、早く戻りなさい」
「……ごめんなさい、兄様」
 ナマエは反論もせずに謝罪する。
 その展開に一人ついていけない人物――趙雲は、目の前に現れた立派な武人の正体に気付いて、瞠目した。
「劉琦、殿?」
「趙雲殿か。――妹が、迷惑をかけたようだ」
「は……いえ」
 言葉が出ないとは、こういう事か。趙雲は茫然として、先程までごくごく普通の娘だった少女を見遣る。
「劉表殿の、姫君であらせられたか」
「黙っていてごめんなさい。別に、騙そうとしたつもりは……」
 罪悪感に耐えられなくなって、とうとうナマエが趙雲へと一歩踏み出そうとした時。

「――とんだ失礼をいたしました。数々の無礼、お許しください」

 すっと跪かれ、立場が逆転した。それだけで、ナマエはもう、踏み出そうとした一歩を、踏み出せなくなってしまった。
 趙雲に、一線をひかれたのだ。踏み込めない一線を。
「趙雲殿……」
 彼は目を合わせようともしない。
 せっかく。せっかく仲良くなれたと思ったのに。
「さあ小妹、趙雲殿をあまり困らせるな」
 嫌だ。帰りたくない。ここで別れたら、もう一生会えなくなってしまう。ナマエは何故だか分らないが、そんな思いに駆られた。
「小妹、帰るぞ」
 焦れた劉琦に強く促がされる。ああ、何か言わなければ。
 でも一体なにを。彼を騙してしまった自分が、何を言えというのだろう。
「趙雲殿」
 彼は相変わらず顔を伏せている。
 もう一度自分を見て欲しい。あの目で見て欲しい。ナマエの心は、その一心だった。

「――貴方が好きです」

ナマエッ!」
 劉琦の厳しい声に、はっと我に返る。あれ? 今自分は、一体なにを言った。
 不思議に思って瞬くと、趙雲が顔をあげていた。

 趙雲は、――真っ赤な顔で絶句していた。





補足。小妹=そのまま、私の妹。小姐=お嬢さん。