ホウ家の家庭事情






 その日、ホウ徳は戦から帰還し、久々に我が家へと帰ることが出来た。
 将といっても贅沢を好まないホウ徳の気質上、邸は決して大きくはない。許都の南方に位置するホウ徳邸は、小さいが四季折々の花を咲かせる庭園が自慢の邸であった。
 ホウ徳はあえて騎乗せず、馬を引いて邸への帰路を歩んだ。今回は予定を大幅に繰り上げた急な帰還だったから、邸のものは今慌てて主を迎える準備をしているだろう。
 そして、彼の奥方もまた、誰よりも大慌てで支度をしているに違いない。その姿がありありと脳裏に浮かんできて、ホウ徳の口角が僅かに持ち上げられた。

 前方に、見慣れた建物が見えてきた。ホウ徳邸、久々の我が家だ。庭園の花は今満開なのだろうか、ここからでも、花の香りが漂ってくる。
 ホウ徳が邸の古い門戸を開けると、主の帰宅にいち早く気付いた厩の少年が、はしゃぐように走り寄ってくる。
「お帰りなさいませホウ徳様っ」
「うむ」
 ご無事のご帰宅嬉しいです、と嬉しそうに言う少年に、ホウ徳はその小さな頭に手をぽんと乗せ、そして愛馬の手綱を渡した。
「おお、ご主人様、お帰りですか」
 見ると、邸宅の入口から慌てたように出てき、ホウ徳を出迎える召使達の姿。ホウ徳は、彼等に片手を上げて応えた。
 ホウ徳は、邸宅に向かうべくゆっくりと歩き出した。路の左右を囲むのは綺麗に咲いた花々だ。
 邸の者は、懐かしむように庭園を眺めるホウ徳の様子に微笑み、ある者は仕事へ、またある者はホウ徳を出迎える準備をすべく戻っていった。残されたのは、召使頭である男と侍女頭の女だけだ。
 ――と。
「む」
 ホウ徳の足は、あるものを見つけて止まった。
 視線の先には、やり掛けだろうと思われる鉢植え替えの花。恐らく、彼の奥方の仕業だろう。作業をしているところにホウ徳帰還の報を聞き、慌てて放り出して出迎える準備に走ったというところか。おっちょこちょいな女性なのだ。
 彼の人を思い出し、ふっと笑む。萎れかけの花を見つめる事暫し、ホウ徳が取った行動は――。

「まあまあホウ徳様!! そんなことはやらなくても宜しいのですよ! 私どもにお任せして、さあ中へ」
 急に立ち止まってどうしたかと思うと、なにやら土いじりをはじめたこの家の主人に仰天し、侍女頭は慌ててそう促がした。ホウ徳は聞いているんだか聞いていないんだか、「うむ」と頷きつつも決して手を止めようとはしない。終いには手早く鉢植え作業を終え、きちんと水遣りまでやっている。案外まめだ。
ナマエは?」
 ホウ徳は、土で汚れた手を布で拭きながら、出迎えに現れない妻の事を訊ねる。
「奥方様は、今大急ぎで旦那様を出迎える支度をなさっております」
 ふむ、と頷いた時。

「令明様っ!」
 一層色鮮やかな色彩が、ホウ徳の目に飛び込んでくる。どうやら、侍女達に散々にめかし込まれている所を逃げてきたらしい彼の妻、ナマエは、ホウ徳の姿を見つけて一直線に駆けて来た。裾を踏んづけて転んでしまわないよう、衣をたくし上げていたので、横に立つ侍女頭が頭を抱えている。ホウ徳は、そんな侍女頭に苦笑いしながらも、妻の姿から目を離せない。
「お帰りなさいませ、令明様」
 ホウ徳の元にたどり着いたナマエは、息を切らせながらさも嬉しそうに笑った。
「うむ」
 と、頷くホウ徳の手元に、水遣りの柄杓が握られていることに気付いたナマエは、赤くなって、きゃあ、と声をあげた。
「ご、ごめんなさい! それ、わたしのやりかけです!」
 ああ、と自らもそれを見る。
「やっておいたが」
 何か問題が、と問うと、ナマエは言葉に詰まり、そして見る見る落ち込んでいくのが分った。
 ああもう私の馬鹿おっちょこちょい、帰って早々令明様のお手を煩わせるなんて、と泣きそうな表情で独り言を呟くナマエを一瞥し、表情も変えずにおもむろにその小さな体を抱き上げた。どうやら、ナマエの天気雨のようにころころ変わるテンションには慣れているらしい。
 突然抱き上げられたナマエのほうは、「きゃっ」と声をあげてホウ徳に掴った。
「令明様」
 ホウ徳の抱き方は横抱きではなく所謂子供抱きというやつだったが、それでもナマエは嬉しそうに頬を染めた。
「変わりはなかったか」
「はい」
 室に着き、ナマエはそっと床に下ろされる。
「令明様、ご無事で帰られてなによりです」
 改めてそう云うと、ホウ徳は「うむ」と穏やかに頷いた。
「土産だ」
「わ、ありがとうございます」
 すっと差し出された布袋をナマエは受け取る。開いてみると、球根だった。明日庭に植えますね、と輝く笑顔で告げた。

「今日は、令明様のお帰りをお祝いして、沢山ご馳走作りますから」
 ホウ徳の支度を手伝いながら、ナマエは意気込んで言う。
「あまり、無理はするな」
 おっちょこちょいな妻の怪我が心配なホウ徳はそう言うも、いいえ頑張ります、とナマエは張り切っていた。
「お疲れでしょうから、すこし休んでいてください。今、お茶をお持ちしますね」
 そう告げられ、ホウ徳は一人ぽつんと取り残される。
 ややあってナマエはお茶を持ってきたが、すぐにまた出て行ってしまった。
 することがないホウ徳は、御茶で喉を潤し、縁側で庭園を眺める。やはり疲れがたまっていたのか、次第にうつらうつらしはじめたが――。
ナマエ様危のうございますっ』
 台所の方から絶えず聞こえてくる、「きゃっ」とか「ああっ」だとか明らかに苦戦中のナマエたちの声が気になって眠れない。しかしここは我慢だと自分に思い聞かせ。
『あっつぅ~~っ!』
「むっ!」
 愛する妻の悲鳴にぴくりと反応し、ホウ徳はとうとう立ち上がって台所へと急いだ。台所へ向かったホウ徳は、妻が無事かどうかを確かめるために中を覗こうとする。
 だが、
「まあご主人様、まだ覗いては駄目ですわ。もう少々お待ちくださいませ」
 その一言と共に、召使達に門前払いを喰らってしまい、結局ナマエの様子は伺えなかった。
「むう……」
 ホウ徳は、一人立ち尽くし、無念の唸りをあげた。

 用意された夕餉は、どれもこれもホウ徳の好みのもので、素晴らしいものだった。酒も一緒に、食も進む。にこにこと御酌をするナマエの指に、白い包帯が巻かれていたのがとても気になったが、きっと言えばまだ落ち込むだろうから、言及はしなかった。なにより、久々の一緒の食事だ、楽しいひと時を過ごしたい。
 夜空には月が出ていた。綺麗な月だ。
 食事を終えたホウ徳は、酒を片手に縁側で月見を楽しむ。傍らに座るナマエは、酔いが廻っているのか、ホウ徳にもたれかかってぼんやりとしている。今にも瞼が落ちそうだ。
ナマエ、寝るのなら寝床へ」
「ううん、令明様と、一緒に……」
 まどろんだように微笑んだナマエは、ぎゅっとホウ徳の衣を掴む。
ナマエ
「もう、離しません……よ」
「……」
 静かな寝息が聞こえてきた。どうやら完全に眠ってしまったらしい。
 ホウ徳は穏やかな、それでいて満足そうなナマエの寝顔を暫し見詰める。
「ふむ」
 刹那思案し、ホウ徳はナマエが寝やすいように体勢を動かす。そして、体が冷えないように上着をかけてやる。
 これでよし。
 満足そうに頷いて、ホウ徳は一人静かに月見を楽しんだ。
 愛しい妻をしっかりと抱いて。

 ――明日、ナマエと一緒に土産の球根を植えよう。