砂の城・前篇




 ――私は、想う。
 たゆたう波間で、ただ一人。
 ――私は、想う。
 穏かに目を瞑って、あの嵐のように過ぎ去った生を。

 ――貴方の腕の中に居られたあの瞬間だけが、至福の時であったことを。

 もし、この短い生の中で、貴方と出会わぬ道があったとしても。
 もし、平穏な人生とやらを選べる岐路に立っていたとしても。

 私は、何度でも貴方の傍に居られることを選ぶだろう。
 運命を何度繰り返したとて、貴方に出会い、そして恋をする。
 それは、絶対に塗り替えられぬ運命。

 この運命は。

 私がこの世に生を受けた時から、既に決められていたのだと――。





1.神

 それは、まだ厳寒の冬が大地を覆う季節であった。
 私は、この世で最も大切なあの方から、一つの命を受けた。あの方――、つまり既に没落した名家の当主であり、我が国においてはそこそこの位を頂く官で、彼の同僚からは用心深く狡猾な人物、と評されてはいるらしいが、しかし私にとってはこの命よりも大切な、養父であった。乱世で生きる術を失った私を、拾ってくださった方。彼の養い子のなかでも、あまり出来の良くない子であった私を、それでも捨てずに此処まで育ててくださった、大切な方。
 私の全存在は、この方なしでは考えられない。それほどに、無くてはならない存在であったのだ。たとえ、捨て駒のように扱われようとも。否が応なしに、私の、全てであった。
 そして今、私はこの方の命により、遠い地へ赴こうとしている。
 いまだ寒さが身に沁みる、明け方のしんと張り詰めた空気の中。あの方は、まるで神々しい唯一の神のように、私の目の前に現れた。
「――其が忠誠は」
「貴方様とともに」
 私は、反射的に深く頭垂れた。
 その関係は、まるで神とその憐れな子羊のように。その関係を、あの方は事の外気に入っていらっしゃった。つまり、私は彼の娘であると同時に、彼の良き従順な奴隷であったのだ。
 彼は一つ満足気に笑って、携えていた剣をすっと私の前に突き出した。そして、高らかに告げる。
「行け、ナマエ
 私を見据える瞳は、何処までも苛烈で容赦がない。
「この宝剣が、そなたを守ってくれよう」
 私は、突き出された剣を恭しく押し戴いた。その刀身に一つ唇を落とすと、ぞわりとするような冷たさが全身を包む。この方の家紋が刻み込まれたそれは、貴重な宝剣であることを私に教えてくれた。同時に、私に課せられたこの任務に、養父がいかに期待しているかを物語って、私は武者震いにふるりとなった。
 ああ、この方に認められることの、なんとも甘美な感覚か。この方のお褒めの言葉は、私のようなものには桃源郷に成る果実よりも甘く、そして何よりも得難いものであった。
 感激で言葉も無い私の反応に、彼は暗く笑った。ぎっ、と、彼の瞳の奥に宿る危険なまでの炎が燃え盛った。
「――我が国に仇なすものは、全てこの宝剣が裁いてくれよう」
 それはまるで神託のように。彼は陶酔したようにうっとりと空を仰いだ。
 お告げが、下される。

「其は、埋伏の毒となれ――」

 その早朝、私は故郷を出奔した。
 この大役、きっと果たしてみせる、強く心に誓いながら。
 暁の光が空を染める、美しい朝であった――。




2.其が名は

 しかし、私は何も知らない子供であったことを、直ぐに思い知った。
 故郷を出てより、初めて触れる外の世界に、私は始め戸惑ってばかりいた。
 養父の命を受け、出奔した私は半月後、蜀へとたどり着いていた。天嶮に抱かれた地理ゆえか民はどことなく閉鎖的だったが、一度打ち解けると何処までも優しい。故郷とは違って、霧と濃い緑が多いせいか、何処となく優しい空気が流れている。素敵なところだ、それが、蜀に入ってより三日目の感想であった。
 だが、私は単に観光に来ているわけではない。
 四日目にして、私は街に張り出されていた一般兵の求人の看板を見つけ、早速その試験を受けに城へと向かった。
 試験の結果は、合格。蜀に入ってより六日目で、私は無事に蜀軍正規の兵として難なく入り込めたのだ――。上官は、あの西涼の馬家の――、馬孟起。近年、蜀に帰順したばかりの将軍だ。それを知って、私はほっとした。長年劉備に忠誠を誓っている関羽や張飛などよりは、彼の方がよほど誤魔化しやすいだろうと。馬家など、たかが一地域を統べる豪族だ。
 だがその私の認識は、間違っているものだったと、彼に直接対面して身に沁みた。
 彼と直接声を交じあわせたのは、半月後のこと――。軍の訓練の最中であった。

「おい、そこの」
 と、いきなり馬超様に声を掛けられたのは、号令にあわせて陣を揃え、剣をふるっている時だった。私は、上官である馬超様に直々に声を掛けられ、一瞬焦って手を止めた。そのまま真っ直ぐ彼が近付いてきたので、迷わず動きを止め跪拝する。
「独特な剣の型だな、我流か?」
 真っ直ぐな声で問われ、私は躊躇しながらも答えた。その内、面を上げよ、と命じられ、ゆるりと顔をあげると、興味深そうに私を見つめる瞳とかち合って、私は一瞬訳もなく慄いた。
 その、瞳の力強いこと。泉のような美しい瞳は、まさに抗えないほどの吸引力が存在していた。
 整った容貌、彼はきっと、世間でいうところの”魅力的な”と評されるような顔立ちなのだろう。しかし、その時私はそんな事を考える余裕もなく、生き生きとした瞳に呼吸すらも奪われるような錯覚に陥ってしまっていた。
 ――この、身のうちに生まれてくる不可思議な感情はいったい何だろう。戸惑いが、生じる。
「見かけぬ顔だな、お前」
「……ナマエ、と申します」
 馬超様の言葉に、私は反射的に頭垂れて答えた。
 この度新たに一般兵として配属された者です、と言い足すと、馬超様は「そうか」と言ってにっと不遜げに笑った。
「俺は馬孟起。まあ、言うなればお前の上官だな」
 私は、深々と頭垂れる。その、頭にぽんと置かれた温もりを感じて不思議に思うと、それは紛れもなく彼の手であった。まるで、子供かなにかのような扱いだったが、その手は何処までも優しい。馬超様は、私の戸惑いの混じった視線に気付いて、ふっと微笑む。
「ひとつ、宜しく頼むぞ」
「あ……」
 あたたかな笑みに、私は視線を奪われる。それは、養父にも与えられたことのない、人らしい温もりであった。私はその時、何かが瓦解し始める音を、確かに聞いたのだ。
「その、一兵卒の私には、勿体ないお言葉で……」
 瞬間。
 ぞわりと背筋を這うような殺気が迫って、私ははっと咄嗟に身構えた。馬超様の後方――しかもかなり近い、から狂気じみた表情の男が剣を繰り出すのが見えて、息を呑む。
「わが国に仇なす者よっ! 死ぬがいいっ!!」
 瞬間、確かに私の全身は痺れたように動かなくなった。
 ――仇なす者。
 その刺客の男の激昂は果たして馬超様に向けてであったか、私に向けてであったか。分らなかった。だって、男は惑うようにふらふらと私と馬超様に向かってくるのだから。
 だが、とにかくその時迫り来る狂気に私の躯は反応し、五感全てがかっと熱くなったような錯覚に陥った。
 攻撃には攻撃をもって迎えよ――、養父の言葉と体に叩き込まれた数多の技が甦った。反射的に、私は飛び出し剣を翻す。
ナマエ!」
 馬超様の声がどこか遠くに聞こえ、絶叫が耳を劈いた。勢い良く飛び出した血飛沫が私の全身を襲う。胸をつくような錆びた鉄の匂い。顔に掛かったそれが、今更ながらに血は生暖かいのだと身をもって知って、私は慄然とした。
 周りが静けさを取り戻した瞬間はっと我に返ると、目の前の惨劇に思わず剣を持つ手が震えた。男は、――死んでいる。一体誰が……、否。
「あ……」
 これは、私がやったこと、なのだ。私は、全身返り血に濡れる自分自身に愕然となる。
 私は、――初めて人をあやめてしまった。
ナマエ
 誰かが私の名を呼ばう。ゆるりと顔をあげると、そこに見知らぬ男が立っていた。
 ……否、馬超様だった。
 私の上官で、たった今、彼を襲う刺客から私が御守りした方で、そして――いつの日か、私が裏切る方。
 私は、どこか硬い表情でこちらを見つめる馬超様の存在に不意に安堵し、何故だか微笑みたくなって目を細めた。
「ご無事、ですか?」
 無事にお守りできてよかった、養父上――。何故だかその時、馬超様が私の大切な方と重なって見えており、温もりを求めるようにすうっと手を伸ばした。そのお二方を比べても、容貌、体躯、全てが似ても似つかぬというのに。
 養父上、貴方は、褒めてくださるだろうか。無事に、私が貴方をお守りできた事に。
 だけど、私は知っている。貴方は、こんなことで褒めてくださるような甘いお方ではない。けれど、私はそれで満足していたから――。
「無事で、良かった……」
 ふいに緊張の糸が切れたように、意識がぷつっと途切れた。瞬間、確かに私の体を支える暖かくて力強い腕があった事を、深い底に引き釣りこまれる意識の端で感じた。
 ――それが、私と馬超様の最初の出会いであった。





 ……幸せな夢を見た。
 養父が、微笑んでいる夢だ。そしてその傍らで、私も楽しそうに笑っている。皆が笑顔で、幸せな夢だった。
 その中から金色の立派な鎧を着た馬超様が現れて、私にとても優しく笑いかけてくださる。
ナマエ、さあ、行くぞ』
 手を差し伸べられ、私は躊躇いもなくそれを取るのだ――。

 はっと目を覚ますと、私は、与えられた質素な室で横たわっていた。身を起こすと、卓の上に何か置かれているのに気付いた。
 書簡。それは、馬超さまからの、私を兵卒から什長へ昇進させるとの通達だった。

3.惑い

 ある戦後にて、馬超様はふと思い返したように私に振り返った。
ナマエ、お前は本当に期待した以上の働きをしてくれるのだな。今度からは、卒伯としてお前に一部隊を預けようかと思うのだが、どうだ?」
 たかだか一什長ごときの私の意見を聞こうとする馬超様の態度は、私には到底理解し得ないものであった。上官は馬超様なのだ、わざわざ部下の意見など問わずそれらしく命を下せばいいだけなのに。それを、部下と同じ目線に立とうとする馬超様の行為は、私には全く分らなかった。
「……私ごときには、勿体ない事でございます」
 私が内心戸惑って頭を下げると、しかし馬超様は、またか、と言いたげに顔を顰めた。
「全くお前は、すぐそれだ。謙遜のしすぎは、却って嫌味に聞こえるから気をつけろ」
 ご機嫌を損ねてしまっただろうか。
 一瞬思うも、しかし直ぐに、よしよし、というように頭を撫でられるあたたかな手の感覚に、私の戸惑いは大きくなる一方だった。馬超様の大きくて、暖かい、その手に。

 あれから、私は馬超様の配下として、幾つかの戦場を渡り歩いた。私の偵察を得意とした策略の功績が認められ、春になる頃には私は卒伯にまで昇進していた。それは、養父の元にいた頃と比べても、異例の出世であった。私の力……、いや、私自身が他人から認められているようで、それは酷くこそばゆく誇らしく、そして恐ろしい。また一つ階段を上っていく度、私はあの方に課せられた大事な命が霞んでいくようで恐ろしかった。
 早く、養父から指令の一つでも来ないものか。そうしたら、この心地よい空気から抜け出せるのに。
 しかし、既に蜀に来てより三ヶ月は経ったが、あの方からはいまだ一度も連絡が無い。まさかあれは命などではなく、単に役立たずの厄介払いではなかったんじゃないかと、疑心暗鬼になってしまうほど私にとっては長い長い日々であった。
 早く、養父上。貴方の温もりに触れさせてください。たとえそれがどれほど冷たかろうが、私にとってはそれが救いとなるのだ。だから、早く――!
 ……だがしかし、同時に、このままあの方に忘れられてしまっても良いかもしれない、とも衝動的に思ってしまう自分に、少なからずの衝撃が走った。それほどに、馬超様の元は居心地が良かったのだ。
 そして、それ以上に――。
 私はこの頃になると、幾度となく彼の手伝いをさせられていた。何故だか知らぬが、彼が私を手元におきたがった故の結末である。私は、どうやら目上の方に可愛がられる、という性質をもっているらしい。しかし如何せん、私としてはただただ不満を買わないよう遜っていたつもりなだけに、不意に言葉すら交わしたこと無い将軍方から私の名が飛び出た日には、心臓に悪い事この上ない。その原因は他でもない馬超様にあったのだと後に知って、あること無い事部下の自慢話をそこら中に広める上官に酷く頭を痛めたが。
 急に身近になった将軍方の嗜好や行動を知るのは正直都合が良かった。いつか来る裏切りの日のため、私は何気ない顔で彼等の兵の動かし方を観察する。けれど、その朗らかな人となりをじっと観察する内、いつの日か彼等の優しげな瞳が憎しみに燃えながら、裏切り者の私を映すのだと考えかけ、……何度も頭を振ってその思考を中断させたこともある。養父から頂いた、あの宝剣を身に抱きしめて、言い聞かせる。
 私は、――毒なのだ。
 不意に深い森のような思考に迷いそうになるたびに、私は強く自分に言い聞かせた。目立ってはいけない、不審に思われてはいけない、信頼されなくてはいけない。そして、――愛されてはいけない。

「小鳥のようだな」
「小鳥?」
 ある日、主の気まぐれな言葉に、私は内心警戒した。ぎょっとしてた私の目の前に、馬超様の顔が迫る。――硬直した。
 それは馬超様の室にて彼の仕事を手伝っていた時に、唐突に切り出された科白だった。馬超様がこのように、唐突に不可思議な言葉を言い出すのは、此処にいたってようやく慣れてきたことだった。
 だが、この馬超様の突飛な思考にはいつもぎょっとさせられると言おうか。時折、予想だにできない事を不意に口に出し、しかしそれは決してでたらめな事を言っているのではないことは私も直ぐに分った。それは少なからず真実を十分に突いた言葉であった故に、言われた本人は不意に心の奥底を暴かれた気分になってぎくりとするのだ。
 私はしかし直ぐに気を取り直して、遠慮なく見詰めてくる馬超様に表情を取り繕う。ここで、取り乱せば益々図星を突いて、この方をいい気にさせてしまう。
「何がでございましょう?」
「お前がだ。小鳥のようだと」
「将軍には私が、小鳥などという可愛らしい動物に見えるのですか?」
 そう云えば、馬超様は泰然としたように「見える」と頷いて見せた。
「きょろきょろと、いつも警戒するように周りを見ていて落ち着かない。触れようとすればすぐさま飛び立ってしまうところが、そっくりだ。何かに怯えているようだが――」
「……そんなことは」
 本当に遠慮のない。ずかずかと土足で人の心に踏み入ってこられるような真っ直ぐな瞳に、私はふいに空恐ろしさを感じた。本当はそこで、笑い飛ばせればよかったのだが。
『恐れるな、ナマエ
(養父上……)
 無意識に養父を呼び、ぎゅっと硬く拳を握り締める。馬超様の声が、過去の養父のそれと不意に重なって、私は硬直してしまった。
「どうした、ナマエ
 だが呼ばれ、はっとして顔をあげると、そこに泉のような美しい瞳があって、目を奪われた。
「何を恐れている?」
 与えられるのは、過去のそれと違って何処までもあたたかな温もりであった。
「……怖いのか? 大丈夫だ、俺がいるからな。お前は、一人ではない」
(養父上――!)
 それ以上、土足で私の中に踏み入ってくれるな。
 私は、心の中で絶叫した。

 私は、いつか来る裏切りの日を思い、養父からの連絡を息を潜めてじっと待つ。早く、来い。早く――。馬超様を裏切る事を恐れている私が、これ以上大きくならない内に。
 今は惜しげもなく与えられる馬超様の優しく美しい瞳が、いつの日か苛烈な色に染まり、私を裏切り者と呼ばい毅然として槍を向けるのだろう。私は、それに耐えられるのだろうか。
 私は、――毒だから。
 既に森のような深みに捕らわれつつも、私は必死で自分に言い聞かせた。私は、埋伏の毒だ。目立ってはいけない、不審に思われてはいけない、信頼されなくてはいけない、愛されてはいけない。
 ――愛しては、いけない。



4.悪夢

 夢を見た。昔の、夢だった。
 薄暗い一室で、私は一心不乱に剣を振っていた。上へ下へ、右へ左へ、ある一定の型を何度も何度もなぞる。何刻とも続けられるそれに次第に剣を持つ手は痺れ、足元はふらふらだったが、私は重い剣を取り落とさないよう必死に握りつづけていた。剣を落とせば、鞭が飛んでくるのだ。全身を濡らすような汗が流れ落ち、それが額を伝い目に入る。それに慌てて一瞬でも足をとめると、あの方の厳しい声が私を容赦なく責め立てた。
 養父は拾ってきた子供を、皆影の者として育て上げた。私もそれの例外ではなく、ほんの小さな子供だった私に、すぐさま訓練を開始した。小さな体には熾烈な訓練、毒物に慣れた体を作るため、時には少なくは無い量の毒すら投与される。
『あ、あ、ぐ……』
 酷なばかりの余りの苦しみに、喉を掻き毟る。床に強く爪を立てたせいか、爪が剥がれて血が流れた。指先が痛みに痺れたが、全身を襲うのはそれ以上の苦痛。
『耐えよ、ナマエ
 養父は、しかしいついかなる時でも甘やかそうとはしなかった。残酷な方。
 そして私は、この方が下さるただ一言のために、ひたすらその苦しみに耐える。
『養父、上……っ』
 私は思わず喘いだ。すると、見上げた養父は酷く満足気に微笑んでいて――。
『いい子だ、ナマエ

「――ナマエ?」
 肩を強く揺さぶられる振動に、はっと悪夢から解放された。しかし、いまだ意識は悪夢の残痕を色濃く残し、私は恐怖でかっと目を見開いた。喉が震えて、声にならない悲鳴を上げかける。
 私を覗き込んできている誰かがいることに気付いた。まさか、養父だろうか。もしかしたら、また私は訓練で気を失ったのだろうか。そうならば、なんと不甲斐無いと叱られるかもしれない。
 私の意識は、この時完全に小さな子供時代に戻っていた。養父の叱咤を恐れ、ひたすら懸命に励む日々。
 けれど、落ちてくる影を虚ろな瞳でぼんやりと見上げると、そこには養父の顔ではなく、別の男の――しかも、何故だか心配そうだ――顔があって、私は内心首を捻った。
ナマエ?」
 呼ばれる、その声は。
「馬超、様……?」
 意識が一気に覚醒した。
 私は、ここは。……ああ、そうだ。
 今、蜀は戦に臨んでいて、丁度一段落して束の間の休息を取っているところだった。そして私は火の寝ずの番を任され、しかし焚き火を前に腰を下ろして剣を抱いたままいつの間にか寝入ってしまったのだ。
 火は――。
 はっとして慌てて身を起こそうとすると、悪夢のせいか体が強張っていることに気付いた。嫌な汗が、額を伝い流れ落ちる。肝心の火は、……しかし消えることなく煌々と燃え盛っている。何故、と思った瞬間、その原因がわかってしまった。私が体を動かした瞬間、はらり、といつの間にか肩に掛けられていた上着が地に落ちた。私は、落ちた上着を拾って、その汚れを払い落とした。その上着は、到底私のようなものが持てる代物ではなくて――。もっと身分が上の方が召されるような……そう、例えば、今、丁度私のすぐ隣に座って焚き火に薪を足している上官が着ている様な。
 時刻は既に明け方に近い。東の空が明るんできていた。しんとした静けさの中、起きている兵たちはほぼ寝ずの番の者ばかりで、各々話し相手としっとりと語り合っているようだった。
 一体どれほど寝こけていたのか。私は、眠りに落ちる瞬間を覚えてはいなかった。寝ずの番を放棄した私の代わりに、もしや馬超様が直々に代わって下さったのかもしれない。だとしたら、なんたる失態。しかし馬超様は私の失態を責めるどころか、ただ淡々とこちらを見詰めている。
 私は恥じたように、俯いた。
「……申し訳ありません、寝入ってしまったようで」
 ああ、とやはり馬超様の声は淡々としていた。
「うなされていたようだが」
 その言葉に、私ははっと顔をあげる。馬超様の、泉のような綺麗な瞳が私を映している。
「嫌な夢でも見たか」
「……昔の、夢です」
 なぜか、私はこれ以上のことは恥ずかしくて言えないと感じ、再び俯いた。私の過去は、決して自慢できるようなものではない。人に話せるようなものでもないが、私はこの時馬超様には絶対に私の過去を知られたくはないと感じたのだ。
「辛い事でもあったか」
 馬超様は淡々としていて、けれどそれが却って強烈な誘惑となる。話してしまいたい――、と。
「辛い事など吐いてしまえ。そうすればすっきりする」
 馬超様には、私はよほど物言いたげに見えたのだろうか。その馬超様の言葉に、私は思わず口を開きかけ、……しかし言葉を失った。一体、自分は何を言うつもりだったのだろう。愕然として、無意識にわなないた唇を、噛締める。
「どうした?」
「……辛い事など」
 ありません、と言うと、馬超様は私のその反応に憮然とした表情になった。
「俺では不足か?」
「いえ、でも、私めの過去など将軍にはつまらぬことでございましょうから」
 そう云うと、馬超様はますますむっとしたようだった。
「変な遠慮などするな。お前は俺の大切な部下なのだからな」
 大切な、部下。その響きは、私の深いところに沈んでいったようだった。体が、訳もなく震える。
 あくまで真摯に向き合ってくれる馬超様に、私は必死に笑みを浮かべて頭だれた。
「――もったいない事でございます」
 一瞬、馬超様を取り巻く空気が剣呑なものに変わったが、直ぐにそれは消えた。卑怯な逃げ方だ、私は内心、私の行為を嘲る。だけど、そうでもしないと、馬超様に全てを曝け出してしまいそうだったから。
 それ以上、馬超様は私の過去について触れることは無かった。

 私はあの時、確かに馬超様に心を委ねる気だったのだ。私の一番脆い部分が、馬超様の恐ろしいほどの包容力の、抗い難い魅力に無意識に惹かれてやまなかった。
 あの懐の深い胸に、全てを委ねて。全ての辛い事を忘れて。
 馬超様と一緒なら、それすらも可能であるような錯覚さえ起こしてしまいそうだった。あのあたたかな体に抱かれたならば、全ての疲れが癒されるだろうと。
 けれど、私にとっては馬超様はいつの日か裏切らねばならない相手。そして私は、毒なのだ。
 私は、夢を見る。

 しかしそれは、砂の城と同じ。
 ――波間に浚われ、脆くも崩れる、砂の城。
 私は、そんな儚い夢を見る。




5.無償の愛

 蜀軍は、その後も快勝を続けた。
 その間、あの方からの連絡は未だ一度も無かった。気がつけば、私は蜀に来てより半年が経とうとしていた。この頃私は、きっと養父から出来が悪すぎて見放されたものだという結末を半ば本気で望んでいた。そう、このまま蜀へ、馬超様の元へ残れたら、いっそどんなに幸せかと――。
 けれどそんな甘い夢を見た後、決まって私を苦しめるのは、酷い罪悪感と、どこかに置き忘れてきてしまったあの方に誓った忠誠心だった。養父に頂いたあの宝剣の刀身が、鈍く光り私を捕らえる。
『――我が国に仇なすものは、全てこの宝剣が裁いてくれよう』
 養父の声が、不意に耳に甦る。耐えられず、私は硬く目を瞑った。
 あの方の存在はいまだ驚くほど私の奥深いところまで根をはり、私を支配している。
 裏切る事は、許されない――。

 そんな折、快勝を続ける将兵たちへの慰労会が催された。体面上は身分の上下問わずの無礼講の宴だったが、やはりそこは出席できる者は限られていた。私は恐れ多くも馬超様の付き人として随行し、……そして他の将やら女官やらから上機嫌で酌を受けてあっという間に出来上がった馬超様に詰め寄られていた。
「お前、暗いぞ。ほら、もっと呑まぬか」
 詰め寄られているというよりも、いつも以上に弄られていると言ったらいいだろうか。
 とにかく、いつもよりも甘ったるい声を出してとろりとした瞳で見詰めてくる馬超様に、私は内心非常に困っていた。馬超様は、けれど私がどんなに困っていようが離す気がないのか、先ほどから掴まれている腕を一向に離そうとはしない。
「……将軍、困ります」
「俺の言う事が聞けぬのか? ほら、お前も呑んで、一緒に楽しく騒ごうではないか」
「将軍」
 いよいよ私が途方に暮れると、馬超様は少し呆れたように、仕方のない奴だなと苦笑した。
「お前はそうやって、いつも何かに耐えるような顔をするのだな」
「……そうでしょうか?」
 私が内心の驚きを隠して問うと、馬超様は明るく笑った。
「そうだぞ。お陰で、俺はお前を笑わせたくてたまらないではないか」
 そう言って、馬超様はふいに真面目な表情になって覗き込んでくる。
「ほら、俺のために少しは笑って見せろ」
 私はとうとう困り果ててしまった。馬超様の我儘な強請りに、自然と眉間に険がこもる。笑えといわれて笑うというのは、私にとっては非常に難しい。
「そんなことをいきなり言われても……」
「ほら、また、難しそうな顔をする」
 恥ずかしくなって、放って置いてください、と言っても、馬超様は頑として頷かなかった。少し憮然とした表情で、けれど驚くほど真摯な瞳が私を捉えている。
「放っておけるか」
「何故ですか、たとい私が笑えない無愛想な女でも、将軍には何の問題も無いでしょう」
 いや、と馬超様は首を振った。
「お前には幸せになってもらわないと、俺が困るんだ」
「どうして、馬超様が困るのですか?」
 所詮人事でしょうに、そんな意味合いを込めて問うと、なぜか馬超様は少し照れたように口角を持ち上げた。
「それはだな。お前を見ていると、まあ、なんだ、娘かなにかを持ったような気がしてきてな」
 私は、ひっそりと眉をひそめた。
「……なれば、将軍は私の父上でしょうか。これはまた随分と、若い父上で」
「いやいや、やはり父は止めだ。兄にしよう、兄に」
 私の小さな抵抗である皮肉は、馬超様の底抜けに明るい笑みに掻き消された。
 ナマエ、と馬超様は一度私の名を呼び、手を肩に委ねられて、不意に泉のような瞳が優しげに細められた。
「そら、ひとつ、この兄のためにお前の幸せそうな顔を見せてみろ」
 衝撃に近いものが私の胸を襲った。幸せな、顔なんて。貴方はそれを望むのか。
 どこまでも酷な方だと思った。この方が、恐ろしいと。
 どこまで私を引寄せて止まない彼の言動は、すべて無意識に発せられ、私の心を穿とうとするのか。
 俄かに恐ろしくなった。これほどに、私は馬超様に惹かれているのか。唇がわなないて、それを隠すように袖で口元を覆う。愕然とした私は、それでも顔を伏せて動揺を隠すことだけは忘れなかった。
「……もったいない事で、ございます」
 暫しして。
 はあ、と大仰なほどの溜息が聞こえて、何故だか耳に痛かった。
「お前も、不器用だな」
 その言葉に、私は益々深く頭を下げた。
 やれやれ、と肩を竦めた馬超様が漸く私を放した。頑固な部下に呆れて、そのままどこか他の方のもとへと行くかと思ったが、けれど馬超様はなぜか何処にも行こうともしない。先ほどまでとは一変して、今度は静かに飲み続けている馬超様の傍らで、私はひたすらじっとしていた。
 馬超様の顔すら、もうまともに見られない。そんな気がした。

 何故馬超様は、こうも容易く愛情を分け与えようとしてくださるのだろう。
 無償の愛情など、私には到底信じられなかった。何かを得ようとするならば、等価のものを差し出さねばならないと、ずっと思っていた。だから、私は馬超様が怖かった。臆病者の私は、馬超様のあたたかな眼差しを受け止める事すらできないのだ。
 私は。
 私はずっと孤独で、愛情に餓えていた。
 養父の元にいたころ、私はあの方の愛情が欲しい一心でひたすら幼い体に鞭打っていた。
 ただ一言、あの方に褒めて欲しい一心で。
 それはとても、孤独な。
 私は、閉じ込められた孤独の中で泣き叫ぶ。
 誰か、助けて。誰か。
 私に気付いて。

 ――馬超様。