この虚ろに、涙など存在するはずもない




 ――この虚ろに、涙など存在するはずもない。

 嘗てこの世から一つの心が失われ、同時に”サイクス”という虚ろが誕生した時、無性に吠え叫びたい衝動に駆られた事を覚えている。それは今考えれば怒りとか恐怖とかいう、人だった時代に持っていた”心”というものの消失の残響だったのかもしれない。或いは、夢の残痕。心を失った彼らは感情こそ喪ったものの、死の安寧とともに空に還ってゆくはずだった記憶を辿ることで感情の表現方法を得、徐々に人らしい振る舞いを学んでいく。それはまるで生まれたての無垢な赤子がこの世界の理を一から学んでいくのに似ていた。けれど、彼らは無垢な存在とは似て非なるもの。
 有から生まれた無という極めて曖昧な存在であるノーバディはその特異性ゆえに酷く不安定だ。生まれたては尚の事、人間であった頃の残痕を色濃く残し心の残り香を嗅ぎつけてダスクが群がるのは稀でない。そして時がたつにつれ彼等はやがて非常にノーバディらしいノーバディへと変化する。つまり、無関心、無感情。生まれたノーバディは心こそ失っているものの、人であった時の記憶は失ってはいない。中でも一番色濃く残っているのは、喪う直前に心と体に焼き付いた感情だろう。喪った心の嘆き、あるいは叫びといってもよかったかもしれない。サイクスの場合、それは怒りであり、恐怖の記憶だった。
 喚き、泣き叫びたいほどの、何かを破壊してしまいたいほどの衝撃。彼はしかしながら、喪う直前に見た記憶を覚えてはいなかった。ただ残るのは、怒りと恐怖という衝撃のみ。そうして何時までも、彼は思い出せずにいた。
 とにかくサイクスは、この虚ろなる体が作られた当初、非常にコントロールし難い、喪った心の嘆きに苦しめられていたのである。サイクスはそれを厭うたが、何故、とはついに思ったことはなかった。ノーバディであるはずの己には、感情というものは既に過去の遺失物。怒りも恐怖も、ましてや、涙など。存在すべくも無い。彼にとっては、過去の記憶など無意味なものであった。
 そうして月日がたち、現在リーダーの片腕として名を馳せる冷然たるサイクスが形作られたわけであるが。氷のサイクスの異名をとる男が、……よもや昔、炎の神もかくやと云わんばかりに日々怒りの記憶に囚われていたとは思うまい。そう、ある時額に十字の痕を負った彼は、いまや誰よりも冷徹であった。
 彼は、一条の乱れもないほどに、完璧で、理性的で、冷酷だった。




 ダークシティに浮かぶ月、否、彼らノーバディの光明である”心”の完成は、機関に集まる人々の目的であり、使命であった。
 彼らは数多の心を狩り、目的の速やかなる完遂を目指さねばならない。それは即ち、ハートレスを増やし、人々の心を食わせ、そして喰った心で丸々と太ったハートレスどもを駆除し、解き放たれた心を送りその成長を促がす。完成には、兎に角沢山の心が必要だった、とても沢山の。

 サイクスは今、閑散とした名も無い街の広場にいた。中央には噴水があり、満々と水を湛えていて美しかったが、その様子に気にかけるものは居なかった。見渡す限り、動くものは居ない。サイクスは、無表情のまま手にしていた武器をしまった。
 彼が命じられて、この名も無い世界にハートレスを大量に流しこんだのは、つい数時間前のことだ。幸いにも、あの貪欲な黒の集団に太刀打ちできるだけの力を持つ人間はこの小さな世界には居なかったらしく、ひ弱な人間はただ悲鳴をあげて逃げ惑うばかりだった。小さな世界があらかた黒い彼らに覆い尽くされたのを見ると、サイクスはこの地を訪れた。
 あとは鍵の勇者が黒い集団を狩ればいい。我等の目的が遂げられる日は、そう遠くもない。サイクスはそう思ったが、決して満足そうな様子を見せなかった。ただ、無感情の瞳を閑散とした広場に向けるのみ。もう、狩るべき生き物はいない。彼以外、だれも。
 じきに、存在する必要の無くなったこの世界は滅びに向かうだろう。無明の闇に包まれて。

 空は、完璧なほどに青く澄んでいる。けれど彼はそれを美しいとは思わなかったので、おもむろに踵を返そうとした。
 その時、ふいに聞こえた音。サイクスは素早く、しかし油断なくその音のほうに振り返りながらも、武器を構えた。狩り残した動物か何かだろうか。
 しかし数瞬後、彼は僅かながら眼を見開き構えていた武器を下ろした。彼の目の前に現れたのは、憐れなほどに怯える一人の少女だったからだ。彼はこの状況下で生き残りがいたことに内心驚きながら、しかし表情はまったく崩さぬまま、
「まだ、生き残りが居たのか」
 と呟いて、ハートレスを数匹召喚した。
 少女は、どうやらサイクスの事を自分と同じく生き残った人間だと思っていたらしい、けれど彼の傍らに現れた黒い集団に眼を見開いて束の間立ち尽くし、そして脱兎の如く逃げ出した。髪を振り乱しながら走り惑う少女は、予想外にも俊敏だった。ハートレスはのろい動きで彼女を追ったが、このままではどうにも逃げられてしまいそうだ。サイクスは僅かに眉根を寄せ、自ら動いて少女の腕を捕まえた。
 振り返った少女はサイクスを見て驚愕し、恐怖に叫ぼうとした。だが、大きく開いた喉の奥からは、引き攣ったような音が漏れるのみ。声が出ないようだった。
 暴れる少女を、サイクスは容赦なくひきたて、その顔を覗き込んだ。黄金色の髪を持った少女は、整った、美しいと称される顔立ちだったが、サイクスは何の興味も引かれることはなかったので、例の如く淡々とした顔で告げた。
「お前も、我等が野望の礎のとなれ」
 そうすると、少女は気丈な事にサイクスをきっと睨みつけたのだった。その瞳が爛々と燃えてサイクスを詰っている。ふいに彼は、ひどく、そう、彼にしては実にひどく狼狽した。
 彼女の瞳は、蒼い瞳だった。完璧なほどに美しい、蒼だった。
 燃えるような蒼が、サイクスの虚ろを不愉快なほどに引っ掻いた。喪ったものが、ざわめいている。

 ――唐突に、彼は叫びたい衝動に駆られた。この見知らぬ少女を、抱きしめてしまいたくなった。

「――莫迦な」
 サイクスは茫然と呟き、彼らに群がり始めたハートレスどもに気がついて、少女をその中に押しやった。途端に群がる集団に少女はこれ以上ないほど瞠目し、声にならぬ悲鳴をあげた。断末魔は、すぐに途切れた。カランと、少女の首元を飾っていた筈の首飾り――それはまるで彼らの崇める”心”のように黄金色に輝き、またサイクスの額に刻まれた傷の形に似ていた――、が地に落ち、彼の足元まで転がってきた。サイクスはそれを、まるで不気味なものでも見るかのように、しげしげと眺めた。
 ふたたび静寂が訪れたが、サイクスの胸の内はいつまでたっても穏かにはならなかった。



 少女が掻き消えても、サイクスはしばらく、其処に立っていた。
 ふいに、空を仰ぎ見る。
「青い、な」

 光が、眼を刺した。

ナマエ

 唐突に、脳裏に一つの光景が甦った。
 それは彼がかつて心を喪う時の、喪った時の、記憶だった。
 かつて、故郷をハートレスに襲われた時、彼はあの憎き黒い怪物から愛しい人を守れずに、泣き叫びながらこの世から消された。
 彼が心を喪う直前に見たのは、愛しい人の美しい蒼い瞳から光が消えるところであった。そう、彼女は、先ほど己が消したあの少女のように、蒼い瞳をしていた。
 あの、少女の、よう、に。
「――”ナマエ”!」
 サイクスは思わず、かつての己が愛した人の名を口にした。
 鼓動が爆発する。彼は最早、平常の彼ではなかった。其処に居たのは、いままさに愛しい人を喪う瞬間の、怒りと恐怖に囚われたサイクスの姿であった。
ナマエ……!」
 彼女はどうしたのだろう。どこにいるのだろう。もしかしたら、あの、ダークシティの空に煌々と輝く月に還っているのだろうか。それとも、いまだどこかに彼女の心を喰ったハートレスとともに彷徨っているかもしれない。あの時彼が助けられなかったばかりに、伸ばした手が届かなかったばかりに。どうして己は、今まで彼女の事を忘れられていたのだろうか。
「な、ぜ、」
 この胸の引き裂かれるような痛みは何だ、ああ痛い痛いどうしようもなく痛い苦しい。俺は何て無力なんだ惨めなんだ彼女を助けることも出来ないああこのまま死んでしまう、の、、か!


 ふいに視界が歪んだ。
 サイクスは、小さくうめいて、顔を手で覆った。手の平がしっとりとぬれていて、それで彼は己が涙を流しているのだと知った。
「なみだ、だと……!」
 彼は愕然として立ち尽くした。

「とまらぬ」

 拭えども拭えども。

「あ、ああ」

 涙はとめどなく溢れてくる。

ナマエ

 空は、いまだ青く。
 
「とまらな、い」


 ――この虚ろに、涙など存在するはずもないのに。