それってつまり、しあわせ






 夕陽に包まれる黄昏の街、そこで今日も元気なナマエの声が聞こえた。

「――それでね、ロクサス、ハイネがいきなり海におっこちちゃって……」
「……」
「叔母さん叔父さんも真っ青になっちゃってさぁ、もう大変」
「……」
「みんな慌てて海に……――って、もう、ロクサス聞いてる!?」

 ナマエの呼びかけに、少し前を歩いていた栗色の髪の少年は無言で振り返った。その表情に、友好的な色はどこを探したって見つからない。ほらまた、とナマエは、懲りずに肩を落とすのだった。

 どうして、彼はいつもいつも無愛想なのだろう、と少年ロクサスに恋をするナマエは切なく思った。
 ナマエはハイネの従妹だった。ハイネに紹介してもらい、ロクサスやオレットと友達になり、ある時ナマエは大人びた少年ロクサスに恋をしたのだが、彼は思った以上に難攻不落でこれが中々進展しない。
 彼はナマエには何故か無愛想、よく言えば、大人しいのだ。ほかの人には、満面の笑みは稀だろうが、それにしたって愛想笑いくらいは見せるのに。どうしてどうして自分の時だけ。そんな無愛想な人になってしまうんだろう。
(もう、ロクサスの、バカバカ!)
 声を大にして云いたいところだが、しかしそこは恋する乙女。嫌われるのが恐ろしくて、口が曲がっても云えやしない。堪らずハイネに泣きつくと、彼は苦笑してナマエを慰めてくれた。
 ハイネ曰く、ロクサスは不器用なのだそうな。
 ――だからといって、不器用にも程がある。
 だから嫌わないでやってくれ、と言った従兄に、もうそろそろ限界です、とナマエは涙を浮かべた。

「ちゃんと聞いてるよ」
 しかし返ってきたのは、ナマエの荒れに荒れた心情とは裏腹に、いつもどおりの冷静な反応。ぷつりと、何かが切れた気がした。
「どこがよ! ロクサスっていっつもそう! そうやって誤魔化して、私の話がつまらないならそう云えばいいじゃない。いっつもつまらなそうな表情して、私といるの、そんなに退屈?」
 ナマエは、そこが人通り激しいトラム広場であることをすっかり忘れて目の前の少年に吼えた。ロクサスは少し瞠目し、困ったように眉を下げたが、それだけだった。悔しくて、なおも叫ぼうとした時。
ナマエ
 ぐいと強く腕を引かれる。思わず二、三歩前へとよろけた時。
 ゴォ、と、ついさっきまでナマエがいたところに、大型のトラムの影が過ぎった。
(ひえぇっ)
 危うく轢かれるところだった。ナマエが硬直していると、ロクサスは掴んでいた彼女の腕を離し、何事もなかったかのようにまた歩き出す。
「ま、待ってよ」
 はっと我に返ったナマエが慌てて彼の後ろを追う。ロクサスはちらりと振り返った。
「……こっち歩いて」
 そして、ごくさり気にナマエを壁側に誘導する。隣に、少し背の高いロクサスが並んだ。
 まるで危険から庇うようなそれに、くらり、と理性が揺らいだ。
(うわぁ)
 思わず、胸を抑えてよろけそうになる。
 さりげない優しさ、ナマエは彼のこれにとことん弱いのだ。普段の無表情で寡黙な分を補って余りあるほど、それは効力があった。
 例えば、重い荷物は必ず持ってくれる。
 例えば、何かにつけて先を譲ってくれる。
 例えば……。
 しかしそのさりげなさは、ナマエを切なくさせる。言葉少ないが、彼はとても優しい。その行為の端々に、真意が滲んでいるようで、ナマエは時たま一人浮かれる。もしかして彼に好かれているのではと。そして、決まって後で切なくなるのだ。
 つまり、ナマエは確りとした言葉が欲しいのだ。態度などではなく。
 幾ら好意を態度で示されようが、それを自分が読み間違いをしていないかと不安になるのだ。だから、いくら態度が柔らかでも、無愛想で何も言ってくれなくては、彼に不安も不満もじれったさも募るというもので。
 ナマエは未だ不満の残る瞳でロクサスをじっと見つめる。
 整った横顔は、相変わらず真っ直ぐ前を見ていた。ふわりと、栗色のくせ毛が風に揺れている。
(ああ、やっぱり、カッコイイ)
 嫌でも、己が恋を再自覚せざるを得ない。

「……あんまり、じっと見つめないでくれる?」
 ナマエがあんまりにも真剣に見つめるのに気恥ずかしくなったのか、ロクサスはつと困ったように眉を顰めた。頬が少し赤いような気がするのは、気のせいだろうか。
「ご、ごめん!」
 ナマエが反射的に謝ると、ロクサスは不意に立ち止まって、「参ったな」と小声で呟いた。そして、思い直したようにナマエに向き合うと、
ナマエの話は、いつも全部聞いてるよ。聞いてない、なんてことないから」
 思いがけず真剣な瞳を向けられ、ナマエは呑まれたように固まった。ナマエの当惑に気付かないロクサスは、「それに、ナマエのことは……」と小声で続けて、何故かそこで顔を真っ赤にし、そしてさらに小声になって非常に云い辛げにぼそぼそと呟いた。
「い、いつも、……見てる、し」
「――え?」
 ナマエは、面白いほどに真っ赤になった少年の言葉に、眩暈を覚えた。あのクールなロクサスが、赤面して、さらに信じられないような言葉を下さった。
 ――ああ、かみさま。
 ナマエは、いま、とほうもなくしあわせです。
 と、訪れた幸福を噛締めていると、ロクサスは恥ずかしさに耐え切れないように視線を逸らした。
「ごめん、俺、やっぱ言葉苦手」
 短く言って、照れ隠しのようにふいと前を向き、早足で歩き出す。
 あ、とナマエは彼の背を視線で追った。髪から覗く彼の耳は、未だ真っ赤。
(照れてるんだ。やだ、可愛い)
 ぷ、と小さく吹き出して、ナマエは慌てて彼の背を追った。

「ロクサス、待ってよ」
 小走りで追いつくと、彼の歩調は少し遅くなったようだった。
 ロクサスの顔を覗き込もうと思ったが、彼のプライドのために止めといた。代わりに、そっと彼の指に自分の指を重ねる。
 それは払われる事なく、優しげに握り締められた。
 嬉しさに緩む頬を、しなやかな筋肉がついた背にそっと押し当てる。
 ……ロクサスの匂いがした。
「ロクサス」

 好き。

 聞こえないように呟くと、「オレも」と小さく返ってきたような気がした。