心がないというならば、この苦しみは一体なに?





 ナマエは自慢じゃないが人の機微というものに疎い方だった。だから相手が今どんな気持であるのかサッパリ検討がつかなかったし、それで人といざこざが起きた事もままある。相手の次の行動を読めないというのは、ナマエにとって決して有益ではなかった。
 まして、相手が心を持たない者ならば、なおさら。

 ――唐突だった。
 うなじに熱を感じた。それがいきなりだったから、びくりと反射的に体が驚いて、ナマエは後ろを振り向く。
 そこにはつい先程まで、普通に対話の相手として存在していた筈の男が立っていた。ナマエの真後ろ、うなじに感じた熱は、彼のせいか。
「なに?」
 首筋を手で抑えると、頭一つ分高いマールーシャの顔を見上げる。感情の無い瞳と、目が合った。男のくせに相変わらず綺麗な顔だ、そう思った瞬間、ナマエは唇に吐息と熱を感じていた。
「ん、んぅ!」
 あまりのことに真っ白になったナマエは、一拍後には我に返って濃厚な口づけを施す男を押しのけようとした。だが、その腕はあっさりと掴まれる。
「大人しくしていろ」
「何するのよ」
 耳の裏を、舐められる。爆発的に早まっていく心臓の音を鬱陶しく思いながら、ナマエは辛うじて残っていた気力で、自分を翻弄する男を制止しようと試みた、が。
「それを訊くのか?」
 マールーシャは、くつりと笑ってナマエの体に手を這わせる。まるでナマエの心情などお見通しだと言わんばかりに。
「嫌だと言ったら?」
 一瞬、動きが止まる。男はナマエを見た。ややあって、ならば、と、余裕の無い表情で睨み上げてくるナマエに挑発的な笑みをたたきつけた。
「その気にさせるまで」


 触れられた箇所が、次々と熱を生んでいく。
 決して乱暴などではなかった。だからといって、優しいわけでも冷たいわけでもない。
「見ないでよ」
 殆んど瞬きもせずに無表情で見詰めてくる相手に、恥ずかしさに耐えられなくなったナマエはその瞳を覆い隠した。直ぐに、手を取られて外されてしまったが。
「心は無いくせに、こういう事はしたがるんだ」
「本能的なものだろう」
 その冷静な表情とは裏腹にしっかりと反応している彼の下肢を小声で皮肉るも、恥ずかしがる素振りも見せずに堂々と切り返される。ナマエは悔しくなって、ふいに悲しくなった。
「つまり誰でもいいんだね」
「……理論上はそうなるだろうな」
 ――否定くらい、してよ!
 愛してる、なんて嘘をつかなくていいから、せめて。
 どうにも心の整理がつかず、理不尽にも彼を罵ってしまいそうだった。
「じゃあ他の人とやってよ!」
 ナマエは、たまらず身を捩って逃げ出そうとした。だが、逃れられない。
「私はお前が抱きたい」
「いや!」
 甲高い悲鳴は、降りてきた唇に容易く飲まれた。
 ナマエは、彼を振りほどける術を持ってはいなかった。

 彼の指に乱される。彼の匂い。息遣い。
 翻弄されて、思わずしがみ付くと、宥めるように頭を撫でられる。その手がどこまでも優しくって、思わず勘違いを起こしそうだった。
 ――心が、おかしくなりそう。
 彼は私を好きではない。彼は私を愛していない。
 勘違いしないで、勘違いしちゃ駄目よ。
 快楽に流されそうになりつつも、ナマエは必死で否定をする。
 それはとても、切なかった。



 夜半、目が覚めた。
 ぼんやりとした視界にまず映ったのは、手だった。綺麗だが骨ばったそれは、男のもの。
 頭の下の枕がなくなっていた。代わりにあったのは、腕だった。ナマエは戸惑い、その腕の持ち主を振り返る。
「……マールーシャ」
 ナマエは、後ろから己を抱え込むようにして眠っている男の名を呟いた。満足したから、てっきり薄情にもナマエを放って何処ぞへでもいってしまうと思っていたのに。
 なのにどうして、どうしてこの人は、自分を恋人かなにかのように、大切に抱きしめているんだろう。
 穏やかな寝顔をじっと見詰めていると、ふいに視界が涙で滲んだ。
「なんで、まだここに居るのよ」
 暫し間があって、悪いか、と小声で返答があり、ナマエはどきりとする。
「……何故泣く」
 衣擦れの音がして、眦に熱を感じた。涙を拭われる事に抗いたかったが、裏腹に体は動いてくれなかった。顎をつかまれ、口づけをされる。舌が割って入ってこようとしたが、ナマエは頑なにそれを拒んだ。
「私にはお前がわからない」
 ややあって、その強情な態度にマールーシャは溜息をつく。
「心があれば、お前の事を少しは理解できるだろうか?」
 その言葉に、ナマエの表情がきゅっと歪む。
「泣くな」
「放っておいてよ。どうせ好きでもないくせに」
 自虐的な言葉に、返答はなかった。ナマエは唇を噛む。
 無遠慮に頬に触れてくる手をはね避けようとするも、上手くいかない。零れ落ちはしないものの、どんどん溜まっていく涙を見かねたように、マールーシャは唇を寄せた。
「泣くな、と言っている」
「な、何よ偉そうに。高慢ちき!」
「……」
 まるで子供の癇癪だ、ナマエは思う。マールーシャも呆れたのか、黙って彼女を見詰めていた。
 いっそ愛想をつかせてしまえばいいのに。いや、愛想なんて持ち合わせてもいないのか。

「もういい。寝るぞ」
 ナマエがあれこれ考えていると、溜息とともにそんな言葉が降ってきた。マールーシャが当然のようにナマエをしっかりと抱え込んで、また寝る体勢に入ったものだから、ちょっと、と文句をつける。
「なんで一緒に寝なきゃいけないのよ」
「私がそうしたいからだ」
 予測せず真面目な瞳でそう告げられた。ナマエはその言葉に息を呑み、そしてやはり悲しそうに目を伏せた。
ナマエ
 頬を包まれる。ナマエはマールーシャを見上げた。
「きっと、この言葉だけでは、お前には不十分なのだろうな」
 悲しそうな微笑み。無意識に浮かべているとしたら、なんて罪作りな人なんだろう。
「すまない」
 ――そんな顔して、謝らないでよ、とナマエは俯いた。
 目覚めた時、いっそ独りにしていてくれれば、この心が勘違いを起こす事もなかったのに。
 彼に、愛されているのだと。

 俯くナマエが、一体何故哀しんでいるのか、分らない。もどかしい。
「私には、心がないんだ」
 懺悔のようにつぶやいて。
 ――いっそ好きだと告げてしまえば、楽になれるだろうか。君は微笑んでくれるのだろうか。






無いというならば、この苦しみは一体なに?