桜の下に、いとしい君の記憶を埋めよう



 ――がらんとした寒々しげな回廊に、悲しげな泣き声が木霊している。

 庭園から自室までの道すがら、ナマエは遠くから不思議な音を聞いた。
 音? いや、あれはむしろ。
「……泣き声みたい」
 いったい誰の?
 子供よりも頼りない泣き声であったが、まさかこの城に赤子がいるのだろうか、と考え首をひねる。ナマエはこの城の住人については殆んど無知に等しい。
 だが、仮に声の主が赤子だとしたら――。
 束の間考え、彼女は誘われるように足を向けた。
 天井の高い白い回廊に、コツコツと長靴(ちょうか)の立てる音が規則正しく響いた。
 と、その音がふいに止む。

 黒くて丸いものが、廊下の真ん中に落ちている。
 一瞬、ハートレスだろうかとひやりとしたが、よくよく見てみると別の生き物のようだった。生き物と判じたのは、その物体が微かに震えているようだったからだ。
 恐る恐る近付く。すると、その生き物はナマエの接近に気がついて、威嚇するように鳴きはじめた。ミー、ミー、と。
「……あ」
 幼さの残るその声の主は、ナマエもよく知っている生き物だ。同時に、先ほどの不思議な声の正体が判明する。
「仔猫……?」
 幼い黒猫だった。ナマエは仔猫を驚かせないようそっと近寄って、膝を付いて小さな体に触れた。毛並みが柔らかく、さわり心地がいい。仔猫は緊張はしたようだが逃げはしなかった。青い大きな目がナマエを見詰めて、牙を剥いていっそう高く鳴く。悲しげな声だ、と彼女は思った。親を求めているのだろうか。
「でもなんで、こんなところに」
 誰かが飼っている、とも思えない。ナマエのいるこの世界は闇の眷属が支配するところで、到底このような生き物が生きられる場所ではない。かくいうナマエもただの生身の人間で、こちらの世界の住人に保護されてようやく城の中で生活できているのであるが。
 その小さな体を暫し撫でてやり、ナマエは思い立って抱き上げた。仔猫は手足をばたつかせてすこし抵抗したが、胸元のコートを少し広げて懐に入れてやると大人しくなった。この回廊に放り出されて一体どのくらい経ったのか、小さな肢体はすっかり冷え切っている。
 温もりに包まれ、仔猫は安心したようだ。
「お前、どこから来たの? 迷い猫?」
 ミー、と幼い鳴き声。海色の瞳がきょろりとこちらを見上げ、ナマエの心があたたかくなる。くすぐったさに笑みが漏れた。
「ふふ、可愛い」
 と、笑い声を零してから、こちらに来てから久しぶりに声を立てて笑ったことを思い出し、唐突に言葉を失った。
 ――この世界に、このようなあたたかいものは、ないに等しい。澱のように暗く淀んだ世界には、喜びを見出す事は難しい。
 脳裏に甦るのは、故郷が崩壊するあの瞬間。こんな世界、望んで来たわけではないのに。
 あの死神が、ナマエの故郷を奪ったから……。
 仔猫を懐に抱いたままぼんやりとしていると、急かすような鳴き声が聞こえてはっと我に返った。
 縋るような青の瞳。ふるふると震える小さな生き物が、懐でナマエを温もりを与えてくれている。
 ……急にその温もりが、いとおしく感じられた。
「ああ、ごめんね。ここは寒いから、部屋に行こうか」
 ナマエは無性に泣きたくなったのを堪え、微笑んだ。
 このぬくもりを、放したくない。
 この仔を連れてかえったらあの男は何か言うだろうか。十中八九『捨てろ』とでも言うだろうから、見つからないようにこっそり飼わないといけない。
「ね、おなか、空いてない? ミルク、貰ってこようか」
 ミルクだけではきっと足りないから他に餌も考えなきゃ、などと考えつつ、自室に戻ろうと立ち上がる。そして踵を返した、
 ――その、すぐ目の前に。
「こんにちは」
「きゃっ!」
 振り返るとすぐ後ろに誰かが立っていて、ナマエは驚いて後しざった。胸元の仔猫が驚いたのか、少し爪を立てた。
「だ……、誰ですか?」
 ナマエを驚かせたその人は、頭からすっぽりと黒いコートを被っていた。背格好からして女ではない。もしやあの男かとも一瞬思ったが、それにしては上背が足りない。手には分厚い本を持っている。
 それにしたって、一体どこから現れたのか。よもや彼もあの男と同種の生き物で、『闇の回廊』とかいう方法で現れたのだろか。
 急に現れた黒コートは失礼なことにナマエの問いには答えず、まじまじとこちらを観察しているようだ。
「あの……?」
 と、おずおずと声をかけた時。
「迷い猫ですか? 珍しいですね」
 男の頭を覆うフードから隠れきれていない口元の、口の端が静かに持ち上がる。上品な笑い方だ、とナマエはなんとなく思った。
「そう、みたいです」
 男は、ナマエの警戒心を見抜いているのかその場から動かない。別段こちらに危害を加えるわけではないらしいとわかって、ややして彼女は警戒を解いた。
「可愛いですね」
「あ、触りますか?」
 彼の視線が仔猫に注がれているのに気付いて、ナマエは懐から猫を出した。体をくねらせ嫌がる仔猫を、どうぞ、と差し出すと、彼は書物を小脇にはさんで危うげな手付きで受け取った。
「小さいな……ああ、こら、噛まないで」
 仔猫は、じゃれつくように彼の指に噛み付いている。なんとなくその光景が微笑ましく、ナマエは目を細めた。
 それにしても、どうやら目の前の人は、あの無慈悲な男とくらべて随分と友好的な人物らしい。よもやナマエと同じく人間だろうかと思ったが、この城に彼女以外の人間がいるなどと聞いたことがないから、やはり彼も同じく『機関』とかいう組織の一人なのだろうか。
 ノーバディという、心を失った人たちの集団の。
 無意識に浮かんだ思惑に、ナマエが物憂げに瞼を伏せたその時。
 ――唐突に、穏かでない響きがしじまを破った。
「殺してさし上げましょうか?」
 え――。
 慌てて思考を現実に引き戻して瞬くと、彼がこちらを見て笑っている。この人はいま、なんと云った?
「……はっ?」
 思わず頓狂な声を出してしまってから、聞き違いかと思ってもう一度聞き返した。
「あの、ごめんなさい。今、なんと?」
「――だから、殺してさし上げましょうか? と、云ったのですよ」
 軽やかな美声が、再度血腥い単語を紡いだ。小首を傾げる仕草はどこか愛嬌があり、それが逆にぞっとしてナマエは本能的に怯えを抱いた。
「だ、誰を、ですか?」
 よもやこの場でナマエを殺すなどと言い出しはしないだろう、という保証はどこにもない。恐る恐る訊ねると、しかし意外な答えが返ってきて瞠目した。
「この仔猫ですよ。あなたでは多分、殺せないだろうから」
 思わず、言葉を失う。ナマエは目の前の人の言葉を理解出来ず、頭がひどく混乱した。
「――な」
 なぜ、そんなか弱い生き物を手に掛けなければいけないのか。疑問が渦を巻いて、しかし喉で引っ掛かる。
 仔猫は無邪気に男の指にじゃれ付いている。その小さな背を撫でる手の主は、さらにナマエに追い討ちをかけた。
「僕に任せてくだされば、この仔猫もきっと苦しまずに死ねるでしょう」
 なにを。
 何を考えているの、この人。頭がおかしいのかしら。
「け、結構ですっ! 返してください!」
 ナマエは弾かれるように我に返り、男の手から仔猫をむしりとるようにして奪った。乱暴な仕草に仔猫は抗議したが、構わず守るようにして抱きしめる。一刻もはやくこの男から遠のかねば、この子が危険に晒される前に。
 と、急くナマエに、男の声がかかる。この場に似つかわしくない、ひどく穏かな声だった。
「……僕に会いたくなったら、地下の資料室か二階の図書室においでなさい。貴方だったら、いつでも歓迎しますよ」
「――失礼します!」
 ナマエは男をキッと睨みつけると、その横をすり抜け、逃げるようにしてその場を後にした。




 あの後仔猫は、あたたかいミルクを飲んだ後、安心したのかナマエのベッドで蹲って眠ってしまった。
 穏かな寝息を立てている仔猫を、起こさないようにそっと撫でた。途端にぴくりと耳が動いたので慌てて手を引っ込め、可愛い寝顔を見守る事にした。
「そうだ、名前、つけなきゃ」
 思いついてから首を傾げて考え込むも、そうそう良いものは思い浮かばない。
 小さな同居人ができたのは素直に嬉しかった。だが、あの謎の男の発言が心に引っ掛かり、どうも穏かではない。叶うならばあの人とは、もう二度と会いたくなかった。
 ……多分その願いは、仔猫がナマエの部屋を出なければ、きっと当分の間は叶えられるだろうが。
 だけど。
「あの人は、なぜ……」
 どういう意図で、あんなことを云ったんだろう。あれから色々考えてはみたが、それといった理由も思い浮かばず、あえなく断念した。一見むやみに命を奪うような人には見えなかったが、でも彼がノーバディであれば、ナマエには彼らの考えはきっと分らないだろう。
 思わず、溜息が漏れる。
 と、一人暗澹としていると、仔猫がのそのそと起き出して、毛づくろいをし始めた。
「ねえ、お前、どんな名前がいい?」
 問いかけに、当然ながら答えはない。ナマエにパタパタと尻尾だけ振ってみせた仔猫はひとしきり満足すると、今度はひょこひょこと近寄ってきて、彼女の手を玩具にしだす。
 牙は加減してくれているから良いものの、生えたての爪が結構痛い。
「ねえ、ってちょっと、痛いってば」
 けれどむちゃくちゃにじゃれついてくる仔猫が可愛くて、結局、「こら」とあまり迫力のない声で叱る事しかできなかった。
 その後二日間、仔猫はナマエの名目上の保護者であるマールーシャに見つからずに済んだ。あの人に見つかっては何かと面倒くさいことになるだろうから、なるべく顔を合わせないようにしたのが効を奏したのか。だが仔猫の鳴き声が意外と大きく、その度にバレやしないかとはらはらとした。
 そして、ついに。
 マールーシャが、訊ねてきたのだ。 
「なんだそれは」
 彼の第一声は、酷く冷やかなものであった。
 急な訪れだったため、仔猫を隠す事も出来ずにナマエは硬直した。冷たい眼差しが、ナマエと彼女の手元の仔猫に注がれる。あからさまな不快感が浮かぶ彼の瞳から、思わず仔猫を守るようにぎゅっと抱きしめた。少し苦しかったのか、仔猫が抗議するようにしっぽがぱたぱたと揺れた。
 ナマエ、と咎めるような彼の声。条件反射で身を竦ませてから、おそるおそる告げる。
「仔猫、です」
 その回答に、彼は柳眉を顰めた。
「そんな事を聞いているわけではない。なぜそのような生き物がここにいる?」
 静かな問いかけだったが、その分だけ迫力があり、ますますナマエは身を縮めこませるはめになった。
「……」
 問いに、口を噤む。叶うならばこのまま何も喋りたくなかったが、だんまりを決め込んでも彼の不機嫌さを煽るだけだと分かっていたので、すぐに諦めて白状した。
「……分らないわ」
 城の回廊に落ちていたのを拾ったから、何故仔猫なんかがこの世界にいるのかまでは自分にも分らない。そう告げると、マールーシャは暫し考え込むように瞼を伏せた。
「おおかた狭間の世界にでも迷い込んで、こちらに出てきたか」
 独り言のような呟きはナマエにも届いたが、あまり意味がないような気がしたため、聞き流した。
 思案する彼の様子に、小首を傾げる。マールーシャの様子は、意外なことに予想に反して大分穏かだ。もしかしたら、別段心配するようなことはなかったかもしれない。
 マールーシャ、と静かに呼びかけると、彼は思案を中止してこちらを見た。
「飼っては、だめ?」
「……それをか?」
 恐る恐るの懇願に、彼の表情が一瞬険しくなる。視線が仔猫に注がれて、そしてナマエへと戻った。
「だが、それは――」
 と、その時。
 いい加減抱かれるのに飽きた仔猫が、彼女の腕を蹴ってベッドへと飛び出した。自由を得た仔猫は得意げに鳴き、乱れた毛並みを繕い始める。二人はその様子を、無言で眺めた。
 毛繕いが終った仔猫は、満足した表情で腰を下ろす。気まぐれな猫らしい仕草が微笑ましい。ナマエは目を細めて、仔猫の頭を撫でてやろうとした……が。
 ――ガツッ。
「あつっ!」
 手が触れる前に仔猫が振り返って、その指に牙を向いた。甘噛みなどではない、まるで明確な敵意をもって深く噛まれたようだった。ナマエは反射的に手を引っ込めて、茫然とした。
 仮にも命の恩人にむかって、なんてことを。
 だが、ナマエが仔猫を叱る間はなかった。後ろから別の手が伸びてきて、さっと仔猫の首根っこを掴みあげた。じたばたと暴れる仔猫をつまみあげるのは無論マールーシャ。丁度顔の位置まで持ち上げた仔猫を彼が覗き込むと、引き立てられた小さな罪人はふてぶてしくも彼に向かってシャーッと激しく威嚇している。
 と、ぽつりと彼がつぶやいた。
「……やはり、闇に侵食されているな」
 呟きに、ナマエはハッとなった。
 心を持つ生身のものが、この闇の世界で生きられない最大の理由――、その答えが、これである。
 ナマエは仔猫を見た。青く輝いていた瞳には、忌まわしい黒い靄が掛かり始めている。
 ――闇は、確実に(こころ)の匂いを嗅ぎ取り、忍び寄る。それは徐々に浸蝕していき、ついには全てを飲み込むのだ。
 それを回避するには、闇から自らの存在を紛らわすしかない。たとえば、今二人が身に纏う黒いコートのように。これは特殊な作りで、着ている者を闇の目から誤魔化すことができるのだが、その保護がなければナマエもどうなっているか分らない。
 それを、失念していたのだ。
 つまり、ナマエは仔猫の飼い主になっているつもりで、守ってやることができなかったのだ。
 その事実に愕然としていると、狂ったように暴れる猫に飽いたか彼が床の上に放った。不安定な格好で放り出された仔猫は、なんとか体勢を整えたが着地に失敗してこてんと転がった。いよいよ衝撃にキョトンとする。だが、それが切っ掛けになったか、闇による凶暴化はおさまったようだった。
 仔猫は何事も無かったように毛を繕い、そしてナマエの膝元へと戻った。甘えているのか、ごろごろと喉を鳴らしている。ナマエはなんとも云えない表情を浮かべて、その小さな背を撫でた。
 その様子を眺めていたマールーシャは、ナマエに向かってどこか突き放すように告げた。
「まだ完璧に闇に呑まれたわけではないようだが、いつどうなるとも知れん。ハートレスをペットにしたいのなら、好きにするがいい。……が、それが嫌ならば、情が湧かぬ内に早いところ殺してしまえ」
 ナマエの手が、一瞬止まる。
 脳裏に、先日出会ったあの謎の男の言葉が浮かんだのだ。
『――殺してさし上げましょうか?』
「……だから、あのひと……」
 小さな同居人との幸せな日々は、長くは続くはずがないと、あの人は初めから分かっていたんだ。




 助ける方法はないの、とマールーシャに乞うと、私では分からんとすげなく一蹴され、ナマエは諦めて仔猫とともにあの男が告げた場所に向かうしかなかった。あいにくと地下の資料室には誰も居なかったため、その足で二階の図書室へと向かうことにした。
 重厚な扉の前に立つと、ギイイ、と前触れもなくそれが開いてナマエは怯んだ。
 奥から「どうぞ」と声が掛かる。室内はほの暗い。暫し躊躇ったが、思い切って中へと身を滑り込ませた。
 ……柔らかな黄金色の光が、差し込んできている。静まり返った室内に、長靴の音が高く響いた。おそるおそる、奥へと向かう、と。
「あ……」
 人が、立っていた。黒いコートが、月の光に浮かび上がっている。
 後で手を組んで、ナマエをまるで待ち構えているようだった。瞬時に、この前の人だ、と直感した。
 だが、男は以前と違い、顔はフードに隠されておらず、外気に晒されたままだ。
 蒼い目に、蒼い髪。少年のようだとナマエは思ったが、その感想は間違いだとすぐに気付いた。全体的に中性的でやわらかな印象を与える整った顔作りだというのに、その蒼い瞳だけはどこか冷やかで、まるでこちらを見下しているような印象を与える。顔に似合わず、雰囲気は老獪だ。
 ……なんだか、空恐ろしい。
 ナマエは一瞬怯んだが、「あの」と、意を決して声を掛けた。男は――ゼクシオンは、つと微笑んだ。
「来ると思ってましたよ」
 ナマエは少なからず驚きを覚え、そして言葉に迷った。
「……どうして?」
「あなたに、興味がありましたから」
 ――あなたが心をお持ちだから。
 云うなり、ゼクシオンはゆったりとした歩調でナマエへと寄った。彼の接近に緊張を覚えて、彼女はその場に立ち尽くした。
 彼は、ナマエに抱かれている仔猫に視線を落として、少し困ったように小首を傾げた。
「やはり、まだ殺してなかったんですね、その猫」
 物騒な単語に、やはりギクリとする。しかし首を振って、彼に向き直った。ナマエはこの男に仔猫を差し出しに来たわけではなく、彼がなにがしかの打開策を示してくれる智者であると思ったからだ。
「貴方に助けを、求めにやってきました」
「ええ」
「完全にハートレス化する前に、この子を、元の世界に帰してあげられる事は出来ないんでしょうか?」
「……、帰すことはできますよ。けれど」
 ゼクシオンは微笑んだ。
「――もはやハートレス化は止められないでしょう」
「そんな」
 ナマエは言葉を失った。半ば予期していた言葉だっただけに、救いようがない。
「ほかに、なにか手立ては」
「ありません」
 悪あがきは、すっぱりと切られた。ナマエはびくりと震えて、仔猫を無意識に強く抱きしめた。
「もとより此処は闇の世界、人間のあなたでさえそのコートがなければ危ういというのに、このような脆弱な生き物ではあっという間に闇に取り込まれてしまうのは必然です」
 彼は目を細めて、続けた。
「どちらにせよ、このままいずれ……」
 と、不自然なところで、ふいに言葉が途切れる。不思議に思う間もなく、グルル、と低く唸る声が胸元から響いた。
「――え?」
 何の、と音のほうを向くと、途端に闇に染まった目と出会った。間髪いれず鋭い爪がナマエの喉元を狙ってきて、どっと冷汗が吹き出した。
「……きゃ、ああッ!」
 ナマエは恐ろしさに目をぎゅっと瞑った。きたるべき痛みを思い、体が硬直する。
 ――だが、それより先に、音がナマエの鼓膜を打った。
 濡れた服を思いきり叩きつけたような音がして、急に静寂が訪れた。
 いつまで経っても痛みは訪れない。何が起こったのか分らないまま、ナマエは恐る恐る目を開けた、時。
「終りましたよ」
 息が止まる。
 目の前に、あの仔が寝そべっている。いや、寝ているのではない、だって苦しそうに痙攣しているのだから――。
「……あ、」
 小さな体を蝕んでいた闇は、月の光に霧散したようだ。硬直が解けて、ナマエは仔猫の元へと駆け寄った。
 だが、遅かった。小さな肢体は、長くもない痙攣の後、ぴくりとも動かなくなった。そっと抱き上げた仔猫は、手足をだらりと放り出している。
「……、……死、んでしまった」
 声が震えて、割れた。
 ナマエは動かない小さな体を、震える手で撫でてやった。何度も何度も、撫でてやった。
「死んでしまった……!」
 悲痛な叫びを上げ、ナマエは仔猫の亡骸を抱きしめた。途端に涙がどっと溢れ、嗚咽が零れる。
「何を嘆くのです。あなたは、その子がハートレスになったほうが良かったのですか?」
「……っ、いいえ、いいえ、――でも!」
 ナマエは耐え切れず顔を覆って悲哀に暮れた。
「ごめん、ごめんね――」
 こうなる前に、何か他に方法はなかったのか――、小さな体を抱きしめながら戦慄く唇を噛みしめる。思えば出会った最初の日に、この事実を知ってさえいれば、こんな悲しい結末にはならなかったかもしれないのに。この人が、それを教えてさえくれれば。
 そして、ある仮定が浮かんではっとする。
 ――或いはあの時、この人は既に、小さな体に巣食う闇の存在に気付いていたのかもしれない。その時点でもう手遅れである事を知っていて、『殺してさし上げましょうか』と告げたのかもしれない。
 真実を知るべく、ゆるゆるとナマエは傍らに立つ男を見上げた。……だが、ゼクシオンの表情は逆光で隠れて、その思惑は読み取れない。
 と、彼がふっと微笑んだような、気がした。
「良かったではないですか。その子にとっても、貴方にとっても」
「――、何がっ!」
 ナマエが思わず息を呑んで、カッとなる。その手で仔猫の肢体を壁に打ちつけ絶命させておいて、一体どの口が『良かったではないですか』などというつもりか――!
 しかしゼクシオンは激昂するナマエに構わず、自らも膝をついて彼女に視線を合わせた。感情のない瞳がナマエを見つめる。
 彼は一切、笑ってなどいなかった。
「ハートレスになってしまえば、そのものの心は冷たい闇の中を長い間彷徨う事になる。屍骸すらも残らない。何も、跡形もなく消えてしまうのですよ。ましてや僕らなど――」
 ふと、半目を伏せる。
 ……これは、きっと記憶のなかの感傷だ。どこか言い訳めいた口調で呟いて、無表情のまま彼はナマエの腕の中で眠る仔猫に視線を落とした。
「……少なくともその子は、貴方の腕の中でやすらかに眠る事ができる。慈しまれ、惜しまれ、躯はいずれは大地に還り、綺麗な花をも咲かすことが出来る」
 死は即ち無、ではない。生へと繋がるものである。……世界に災いをもたらしたパンドラの箱に最後に残されたものは、『希望』だ。
 だが、「けれど」と告げる声が、空虚に満ちている。
 ノーバディ――、『誰でもない』もの。
「僕たちには、それすらも許されてはいない……」 
 ゼクシオンは微笑んだ。静かな笑みは言葉と相反して、どこかちぐはぐな印象をあたえた。
 彼女は、唇をかみ締めた。
 ――そうやって弱々しげなところをみせて、同情でも買おうという算段か。今更何を云っても、所詮詭弁だ。貴方は私からこの仔を奪った。
 けれど何故かそれらを声にすることが出来なく、あえなくナマエは彼を詰る言葉を呑んだ。代わりに、涙が零れて落ちる。慰められるように、そっと背を撫でられた。何故だか悔しくなって、歯を食いしばった。
 ナマエは涙を乱暴に拭い、キッとゼクシオンを睨んだ。不意を突かれて彼が軽く目を見開く。罪悪感の欠片すら浮かばぬ顔を目にし、何も感じていないくせにそんなことをしないで、その手で触れないで、ときつく告げようとした。
 ――だが。
「……でも、思い出は消えない、記憶も、過去も」
 彼の顔を見た瞬間、咄嗟にこの唇から、そんな言葉が飛び出てしまったのは。
 ――果たして虚ろに沈む彼を救いたかったからか、それとも自分が救われたかったか。
「少なくとも、私は貴方のことを忘れないわ」
 溢れ出る涙を抑えて、震える声をも抑えて、ナマエはきっぱりと告げた。
「忘れやしない」
 ゼクシオンは少し眩しそうに目を細め、暫し沈黙した。やがて、何かが抜け落ちたようにふっと。
「――貴方の涙は、綺麗ですね」
 つと涙を掬われると、堰き止めていた感情が一気に崩れるのをナマエは感じた。
「……っ」
 嗚咽が零れる。それはすぐに、泣き声へと変わった。
 彼女はようやく、失った小さな命を心から悼むことが出来た。


 渋る保護者の許可をなんとか得て、亡骸を庭園の一番見晴らしのいいところに埋めてやる事にした。
 だが、いよいよ仔猫を土に埋めるというところになって、「待って」とナマエが止めた。
「どうしました」
「埋める前に、この子に名前を付けてあげたいの」
 ナマエは、愛しそうに仔猫の体を撫でている。既に小さな体は冷たくなっていたが、気にはしてないようだ。
「ずっと考えていたんだけど、結局間に合わなかったなあ」
「……今からでも、間に合うと思いますよ」
 ゼクシオンの言葉に、ナマエは涙の跡が残る顔で少し照れたように笑った。
「でもね、困った事に全然いいのが思いつかないの」
 うふ、と肩を竦める。己では明るく振舞っているつもりのようだが、けれど悄然とする様が隠しきれていない。
 ゼクシオンはしばし考え込んでから、ナマエ、と――先ほど初めて訊いた彼女の名前を、ゆっくりと呼んだ。
「こんなのは、どうですか?」
イェンツォ
 告げられた名前に、ナマエが一瞬きょとんとする。ついで、「いいですね、それ」と柔らかく相好を崩した。二度、三度と確かめるように口にすると。
「……埋めちゃいましょうか。ぐずぐずしていても、しょうがない」
「ええ」
 ナマエの笑みを眺めながら、ゼクシオンは密やかに呟いた。
 ――忘れない、と告げた貴方だからこそ、せめてその記憶の中に、かつて僕が失った名を――。
「……残させてくれても、いいでしょうか」
 ゼクシオンの思惑には気付かず、ナマエは埋まってゆく仔猫に別れを告げた。
「ばいばい、イェンツォ――」
 視界から、小さな体が消えていく。

 さようなら、いとしい君。
 今はゆっくり、眠っておいで。



 桜の下に、いとしい君の記憶を埋めよう



 かくして、かつて失われた名は、一匹の仔猫とともに今もひっそりと庭園の一角に眠っている――。