絶対に無理だと証明する方が、実ははるかに難しい。




『――何故、
 なぜ人は、後悔するとわかっていて、その道を選んでしまうのだろう。
 なぜ人は、いずれ訪れる別れを予見しつつも、その手を取ってしまうのだろう。

 この先の未来には、悲しみしかないと、初めからわかっていたことだった。
 価値観も、生きる道も、世界も、すべてが違う、決して相容れない存在なれば。

 それでもなぜ人は、
 愛することを、やめられないのだろう――』






 気がつけばナマエは、故郷の地に立っていた。
 青い空と、緑光る豊かな大地。そしてどこまでも広がる、エメラルドグリーンの輝く海。懐かしいはずの故郷の景色はしかしすぐに崩壊した。
 鮮やかな色彩は突如として涌きいでた夥しいほどの黒い闇によって塗りつぶされた。両親も兄妹も友人も、全部闇が飲み込んでいった。闇が世界を壊してゆく中、ナマエは恐怖にかられてひたすら走った。悲鳴が執拗にナマエの後を追う。
 恐ろしい、恐ろしい。逃げ場はどこ。ひかりは、どこ。
 大地が崩れ落ち、足に闇が絡げた。足元をみると、闇の中で不気味に光る一対の瞳と目があった。ばけもの――、喉が引き攣れて、声が出ない。ナマエの体は徐々に闇に引きずり込まれてゆく。
 いやだ、たすけて。たすけて。だれか――。
 不意に、視界の端に光を捉えた。救いを求めて反射的に顔をあげると、そこにあの人の姿が、
『マー……ッ』
 ……否、大鎌を振り下ろそうとする、しにがみの姿があった。

「――いやあっ!」
 恐怖に震えた悲鳴が、耳を劈いた。咄嗟にはっと悪夢から目が覚めると、それが己の発した悲鳴だと気づくまで数拍かかった。
「……ゆ、め?」
 ああ、夢だったのか、と気がついて、人知れず安堵の息をつく。しかしなにやら喉が苦しい、と感じてから、それまでずっと息を止めていたことに気づいてナマエはあわてて大きく息をすった。冷えた空気が肺を刺激する。思わずむせこんでから、強張った体をゆっくりと動かした。すると、いつのまにか掻いていた大量の汗が背を伝い、ナマエはおもわず顔をしかめた。
 どうやら、床に座ったままソファに頭を預けてうたた寝してしまったらしい。変な姿勢のまま眠ってしまったためか、首が痛んだ。ナマエはゆっくりと首を戻してから、足元に投げ出されてあった分厚い本に気づいて手を伸ばした。ナマエが眠りにおちる前に、読んでいた本だった。読んでいたとはいってもナマエが読むにはいささか小難しすぎると思われる哲学の本で、しかし彼の――マールーシャの愛読本だと知ったがゆえに勝手に本棚から持ってきてしまったものなのだが、これがなかなか難解でいくら読めども先には進まないので、早々に飽きて居眠りに落ちてしまったというわけなのだが。実際、読み始めてから数時間はたっているはずなのに、数ページしか進んでいない。
 もうすこし、軽い内容のものを選べばよかった――。
 ナマエはため息をついて、本を胸に抱えた。また、あのときの夢を見てしまった。ナマエの故郷がハートレスに食い尽くされた時の悪夢だ。もちろんこの難解にして重たい内容の本のせいであるとは思わないが、これが恋愛ものの小説なのであれば、きっともう少し楽しい夢を見られたに違いないのに。
 あの時の事は、今もまだナマエの心の奥底に恐怖の記憶として根付いているようだった。
「このごろはしばらく見なかったのに……。いやだな、あんな夢、いつになったら見なくなるんだろう」
 ぽつりと呟く。あの夢を見た後に残るのは、底知れぬ絶望感だけだ。
 と、思案に沈み込みかけ、ナマエはふるふると頭を振った。今は、小難しいことは考えたくなかった。
「……寒い」
 ナマエは本を横に置き、のろのろと立ち上がって消えかかっていた暖炉に薪を足し入れる。火掻き棒でかき回すと、ややあって火に勢いが戻った。
 パチパチと、燃え上がる炎。頬は火の熱を受けて、赤くなっている。けれどナマエは、まるで目に見えぬ寒さに凍えるように、ぎゅっと体を丸めてじっとしていた。
 ――この室の主は、まだ帰ってきていない。
「まだかな……」
 はやく、帰ってきてよ。
 マールーシャ……。


***



 ナマエがマールーシャに連れられ、今まで暮らしていた場所から今現在のところに移り住んだのは、つい数週間前ほどだ。
 いきなりのことでナマエは目を丸くしたが、「今日からここに住む」という彼の決定に逆らえることなどできるはずもない。もともとナマエの私物なぞ無いものに等しく、引越しはすぐに終わった。
 新しい居住は一見玩具のような外見であったが、内装は反して白一色で統一されており、どこか冷ややかな空気が漂っていた。広さでいえば以前とはそう違いはなかったが、しかしナマエに課せられた制約は以前よりも多かった。自室と彼の私室、そして新たに作られた空中庭園。それ以外の部屋の出入りは一切禁じられた。理由はただ一言、危険だから。それ以上の説明は無い。
 マールーシャは、どうやら彼の在籍する機関にこの城の管理者を任されたらしい。それがどれほど名誉なことなのかは知らないが、けれどこれほど大きな城を任されたとあってはきっと重要な仕事なのだろうと思うし、実際今まで以上に彼は忙しそうに日々をすごしていた。畢竟、ナマエが彼の側にいられる時間が少なくなったわけである。

 今日も、マールーシャの帰りは遅い。彼の私室で帰りを待ちはじめてから、すでに数時間は経過している。手持ち無沙汰なナマエは、大量の暇な時間を読書で紛らわすしかなかった。とはいえ、読書に飽いてうたた寝してしまった結果、悪夢にうなされ嫌な気分で目が覚めてしまったのも事実ではあるが。けれど少なくとも、彼が側にいてくれれば、うたた寝などしないし悪夢だって見ずにすんだはずだ。
 ……別に不満があるわけではない。ナマエの周りから、あの黒いコートをまとった人たちが少なくなっただけでも楽になったのだし、妙な実験に付き合わずにすむと思っただけでもほっとする。けれどその分、彼に会える時間が少なくなったことを考えると。
「寂しいんだけどな」
 でも、マールーシャにそう訴えても、きっと鼻で笑われて終わるだろう。彼は人の心を理解しない存在だから。
 心を持たない存在、ノーバディ。
「……心がないって、どんな感じなんだろう」
 たとえば私の心がなかったとしたら? とは考えてみるものの、生半可な気持ちじゃ、彼の立場に立つことなど無理だろう。心がない、なんて、ナマエには逆立ちしたって理解できやしない。だってあるものをないものとするなど、無理に決まっているから。
 つと、長いため息が出る。それがなによりも己の心情を如実にあらわしているようだった。
 元をただせば、マールーシャだって心をもつ普通の人間だった。それを世界に巣食う闇――ハートレスという生き物が彼から心を奪ったのだ。それで、彼は心を失い”抜け殻”となった。そして、彼は選ばれ、力ある者が集う『機関』という集団に属するようになる――。
 彼のことを、すべて理解したいだなんて望んではいない。……けれど本当は、心の奥底で、わかったような気になっているのではないか。側にいられるだけでいい、愛してほしいとは望まないなどと口にしつつ、けれど本当は。
 ……これ以上考えるのはやめておこう、堂々巡りになりそうだ。
 ナマエはふと自嘲し、窓の外へと顔を巡らせた。夜空に燦然と輝いていた黄金のキングダムハーツは、今はそこにはない。物寂しい星空があるだけだ。なんとなく悲しくなって、ナマエは暖炉の火に視線を戻し、頭を己のひざに預けた。火のはぜる音は、どことなく安心感をもたらしてくれる。
 ぬくもりを感じながらしばらくじっとしていると、ふと唐突に思い出したことがあった。
 以前、機関の人間には、その名に必ず『X』の文字が入るのだと教えてもらったことがある。なぜその文字限定であるかまではわからないが――おそらく『X』には『正体不明の』という意味合いがあるのに由来しているのかもしれないが――とにかく元の名前にその一文字を付け足し、アナグラムのように並び替えて出来上がるのが、現在の名前だと。あれは誰に教えてもらっただろうか。詳しいことは忘れてしまったが、けれどそれをナマエに教えてくれた人はなんとなく親しみやすい雰囲気を持っていたのは覚えている。彼もまた、黒いコートを身に纏っていたから、機関の一員なのだろうけど。
「……そういえばマールーシャって、元の名前はなんていうんだろう」
 今まで考えもしなかったことだけにナマエはひどく新鮮な気がした。
 マールーシャになる前の彼。人間だったころの彼。どちらも已然として彼の過去であり、けれどそれがナマエには想像がつかない。なぜ今まで考え付かなかったのだろうかと首をかしげ、すぐにその原因に気づいて微苦笑をうかべた。いままで彼の口から、それらしい話題が出たことは一度もなかった。意図してその話題を避けている、とは思えないが。
 おもむろに触れた床に、指先で彼の名前を綴ってみる。暖炉から出る灰が薄らと積もっていたのか、白い床に文字らしきものが浮かび上がった。
 だが、文字とするにはあまりにも曖昧だ。


 白いレポート紙がまた一枚、黒いインクにつぶされ無駄になった。
 床に座るナマエの横に幾枚も放り出されるように重なっているそれは、端から端まであますところなくびっしりと黒い文字につぶされてはいたが、かつてレポート用紙だったものだ。床に文字を書くだけでは満足できなかったナマエは、あれからわざわざレポート用紙とペンを用意して、アナグラムの解読に没頭していた。使用する文字は限定されているから、そこから思いつく限りのそれらしい単語の列をつくっては消し、つくっては消し、を繰り返している。一応名前らしい綴りは出来上がったのだが、どれもこれも彼に似合わない気がして一向に終わりが見えない。
 こんなもの、本人に聞けば一瞬で終わることだったが、けれど何も考えずに作業に没頭できることが楽しかった。それになんとなく本人に訊くというのは憚られる。何故だかはわからないが。
 というわけで、ひたすらレポート用紙を黒く塗りつぶすことに夢中になっていたナマエは、そのとき不意に室の扉が開かれ誰かが入ってきたことにも気がつかなかったのだが。
ナマエ?」
 突然背後から声がかかり、驚いたナマエは短く悲鳴をあげた。咄嗟に背後を振り向くと、そこにいつの間に帰ってきたのやら、彼女の待ち人が不審な表情でこちらを見下ろしているところだった。全身を黒いコートに身を包んだ、マールーシャだった。
「マールーシャ」
 やだもう、とナマエは恥ずかしさをごまかすように悪態をついた。彼が帰ってきたのに気づかないなんて。ナマエはあわてて散らかしたレポート用紙を隅に寄せると、立ち上がってマールーシャを出迎えた。
「おかえりなさい、マールーシャ」
 彼はそれに軽い抱擁で応え、頬にキスをくれた。薄紅色のやわらかな髪が首筋にかかってくすぐったかったが、彼女はその腕の中から逃げ出すことはしなかった。
「ただいま」
 抱擁はすぐに解かれたが、ナマエは頬にさしてくる赤みを抑えることができなかった。マールーシャはその宝石のように美しい蒼の瞳を細め、ぽん、と彼女の頭に触れてから暖炉の前へと向かう。彼の袖口からは、やさしげな春の花の香りがした。
 暖炉の火はすでに消えかけ、薪もほとんどが燠火となって燻っている。この城の暖房設備はあまり整っていないから、こうして薪を燃やして暖をとるのだが、実際のところあまり効率はよくない。ついつい薪を足すのを怠ってせっかくの火を消してしまうことが多い。
 暖炉の前へといったマールーシャは、薪を足して火を熾そうとしているようだった。けれど、彼はこの作業があまり得手ではないようだ。
「私、やろうか?」
 マールーシャの背後に回ったナマエがそっと声をかける。ここに来てから、火熾しの技術だけは上手くなったナマエである。
「いや」
 と、しかし返ってきたのは、素っ気無いものだった。生来プライドの高い彼だけに半ば予想はついたが、ナマエは苦笑した。
 暖炉に火が戻ったのは、それからすぐだった。
 
 ふと、マールーシャが暖炉脇に落ちていた紙に気づいてそれを拾い上げた。火のあたたかさにまどろんでいたナマエは、いつのまにやら彼の手の中にあった物の正体に気づくと仰天した。あの紙の存在を忘れていたなんて、とナマエは頭を抱えた。マールーシャは手の中の紙をしげしげと眺めている。
 と、彼がふいにこちらを見たので、ナマエは反射的に身構えた。
「これは?」
「な、なんでもないわ」
 正直に答えたほうが身のためだとわかってはいたが、口をついて出たのはそれだった。だって正直に答えたら、つまり「ずっとあなたのことを考えていたのです」と白状したようなものではないか。そんな苦し紛れのナマエの返答だったが、けれど相手は残念ながら素直にだまされてくれるようなひとではなかった。
 案の定ナマエの様子を不審に思ったのだろう、マールーシャは目を眇めて彼女を見つめた。威圧感のあるまなざしは、思わずすくみそうになるほどだ。
「――本当に? 先ほどは、名前を呼んでも私に気づかないほど熱中していたようだが」
 その言葉に、やだもう、とナマエは本日二度目の悪態を心の中でついた。無論どちらも己に向けてだ。先ほど彼が帰ってきた時、不審な表情をしていたのはそういうことだったのかと理解して、ナマエは顔を赤くした。
 これはもう、観念するしかないだろうか。どちらにしても彼相手じゃあ、言い逃れは許してくれそうになさそうだし。
 ナマエはしばし黙した後、「あの」とためらいがちに切り出した。
「……あなたの、名前を」
「私の?」
 と、彼が少し意外そうに片眉を上げた。ナマエはそれに頷いてから、続けた。
「マールーシャの元の名前を、考えていたの」
「……元の」
 彼はまるで虚を突かれた人のように言葉を失ったようだった。
 もしかして怒ったかしら、とその様子を見ていたナマエはいまさら心配になってきて、ちらちらと彼の様子を盗み見た。けれど無表情で黙り込む相手がいったい何を考えているのかなんて、読めるはずもない。
 カサリと、そのときふいに音がした。何かと思って見てみると、マールーシャがまだ残っていた紙を、一枚一枚拾い上げている。
 彼はその紙の量を見やって、微苦笑のようなものを浮かべた。
「ずいぶんと悩んだな。それで、良い名は思いついたのか?」
 ナマエは一瞬言葉に詰まった。だけどすぐに肩を竦めて、頭をふる。
「……全然」
「これだけ書いて?」
 声に呆れが混ざったのがわかって、ナマエは顔を赤くした。
「だってまったく思いつかないんだもの。どれもこれも、しっくりくるものがなくて……」
 と、反論を試みるも声がだんだんと小さくなってしまい、ついには居たたまれなくなり「ごめんなさい」と謝罪してしまったナマエである。
「なぜ謝る?」
「……勝手なことをしたから」
 ふう、とマールーシャがため息をついた。ナマエはなんとなく彼を直視できず、うつむいてしまった。「気にするな」、などという、ナマエにとって都合の良い返答はやはりもらえないようだ。
 彼は紙に視線を落とし、何かを思案している。やはり怒ったのだろうかと思った時、マールーシャはおもむろにテーブルに転がっていたペンを取り上げ、レポート用紙にかろうじて残っていた白いところにさらさらと何かを書き足し始めた。
 何を書いているのだろうか、ナマエは気になって恐る恐る覗き込もうとしたが、しかしそのときにはもう彼は書き終わっていた。と、マールーシャが急にこちらを向き手に持っていた紙をずいとナマエに突きつけて見せたので、彼女は反射的にその紙を受け取ってしまった。
「これが、私の本当の名前だ」
 え、と彼女は瞠目した。一拍遅れて、告げられた言葉を意味を理解し、すぐに紙に目を落とす。そしてナマエはしばし言葉を失った。
 余白に、流麗な筆跡の文字が踊っていた。そっと指で文字をたどる。そして、そこにあった七つの文字が織り成す音を、ナマエはおそるおそる口にした。確かめるようにもう一度口にしマールーシャを見ると、彼はそれでいいとでも言いたげにゆっくりと頷いた。
 ナマエはほっとして、顔がほころぶのを感じた。
「満足したか?」
 ええ、と彼女は満面の笑みを浮かべて頷いてみせた。
「ありがとう、マールーシャ。とても素敵な名前だわ」
 でも、と彼女の言葉は続いた。少し照れたように小首をかしげてマールーシャを見上げる視線はまるで夢見る少女のようだったが、それにナマエは己で気づかない。
「でも、私にとっては、マールーシャはやっぱりマールーシャが一番だわ」
 愛の告白に負けるとも劣らない台詞。告げてからそれに気づいて少し恥ずかしくなり、ナマエは赤くなった頬を押さえた。
 ……けれどマールーシャは、ただ目を細めるだけだった。
(――マールーシャ?)
 ナマエはその様子に少し違和感を覚えた。別に気分を害しているわけではないようだが、けれどいつもだったらもう少し嬉しそうに――。
 ……。”いつも”?
 か れ が い つ 、 う れ し そ う に な ど し て い た だ ろ う か。
 パシリ、とまるで頭にヒビが入ったように一瞬頭が痛んだ。突如起こった記憶の混乱にナマエは戸惑ってこめかみを押さえる。しかし彼女の手は、こめかみに触れる前に黒い何かに捕らえられてしまった。……否、黒いレザーの手袋をつけたマールーシャの手だ。
 彼を見上げたナマエの視界に、冷えた男の瞳が飛び込んできて無意識に瞠目した。その瞳に見覚えがある。けれど、いったいどこで見たのか思い出せない。ぞくりと背筋に震えが走る。この感覚にも、身に覚えがあった。
 と。
ナマエ
 呼ばれ、彼女ははっと我に返った。どうやらぼんやりしていたようだ。気がつけばマールーシャが柳眉を顰め、覗き込んでいる。
「どうした?」
 と、尋ねる彼の表情には、先ほどの冷たい美貌の男は存在しない。
 問いに、ナマエはすぐには応えられなかった。マールーシャの顔をじっと見つめて、しばし黙り込む。長い沈黙の後、彼女は先ほどの出来事を忘れることにした。きっと、何かの見間違いか勘違いだろう、と。
 彼はナマエの反応に特に不審がることもなく、疲れたのか? と微笑した。彼女はその微笑に知らず安堵を覚え、「そうね」と応えた。「誰かさんの帰りが遅いから、すっかり待ちくたびれちゃったみたい」
 よく言う、とマールーシャが口の端を吊り上げる。
「ならば今度から、私の帰りを待つのは止めれば良い」
「えっ」
 驚いたナマエが咄嗟に何かを言いかける。しかし彼はナマエが反論する前に、その口で「さあ」と彼女を促した。
「もう夜も遅い。早く寝るといい」
「あれ……? もうこんな時間」
 時刻を確認すると、いつのまにやら日付をまたいでしまっている。時計の針はそろそろ二時をさししめそうとしていた。
 だが、ナマエはなかなか立ち上がらなかった。ナマエ? とマールーシャが訝しんで顔を覗き込んでくる。
「どうした」
 問いかけに、ナマエは縋るように彼を見た。しかしすぐに気まずげに視線をはずし、うつむく。
「……眠りたくないな」
 ややあって零れた呟きに、マールーシャはぴくりと眉をひそめた。
「なぜだ?」
「また、夢を見たから……」
 また、と彼はナマエの言葉を静かに反芻した。みなまで言わずとも、何の夢であるかマールーシャにはわかったようだった。
 ナマエはうつむいた。あの悪夢を見た後は、決まって眠るのが恐ろしくなるのだ。性質の悪いことにマールーシャが隣にいる時でもお構いなしに悪夢はナマエを苦しめ、彼に起してもらうことも度々あった。そのたびナマエは申し訳ない気持ちでいっぱいになり、ますます眠るのが怖くなる――。これでは、悪循環だ。
 と、唐突にふっと体が宙に浮いた。いったい何が、と思って顔を上げると、どうやら自分は宙に浮いたのではなく、マールーシャに抱え上げられたようだった。ナマエが目を白黒させていると彼はソファに腰を下ろし、そして彼女の頭を引き寄せ、まるで壊れ物を扱うかのようにそっと抱きしめた。
「マールーシャ……」
 ナマエは突然の彼の行動に驚いたが、しかし逆らいはしなかった。
 否、逆らえなかった。だってナマエは今、どんな夢よりも甘い夢を見ているのだから。
 ナマエはうっとりとマールーシャの腕の中に身をゆだねた。いつもの薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。レザーのコート越しに、彼のしなやかな胸筋を頬に感じた。
 マールーシャはナマエを宥めるように髪を梳きながら、耳元に唇を落としてから囁いた。
「……おまえのことだ、どうせうたた寝でもしたんだろう。浅い眠りは夢を見やすいらしいからな。深く眠れば、悪夢など見ない」
「うん」
 ナマエは頬を染めて頷く。いい子だ、マールーシャがまた耳元で囁いた。
「じきにそんな夢も見なくなるだろう」
「……うん」
 マールーシャが言うんなら、きっとそうなのだろう。ナマエは何の疑問も抱かず、幸せそうに微笑んだ。
 と、つい、と顎を取られて上をむかされる。瞠目する間もなく、目の前にマールーシャの端正な顔が迫った。反射的に目を瞑る。唇に吐息を感じた。
 彼との口付けはいつも以上に甘く、情熱的だった。深く食まれ、熱い滑りが口内を探る。そしてナマエの息があがる頃、ようやくマールーシャは彼女の唇を解放してやった。
 ナマエは再び彼の胸に頭を預けて、うっそりと目を伏せた。このままこの腕の中で眠りにつくことができたら、どんな夢を見ることができようか。先ほどまであった悪夢への恐怖心は、すっかりなくなっている。
 ――なんだか幸せ。
「……ねえ」
「なんだ」
 マールーシャの唇を指先でそっとなぞると、先ほどまで口付けていたそこはまだ熱い。ナマエは微笑んだ。
「早く心が手に入って、元に戻るといいね」
 マールーシャがピクリと微動した。
 が、幸せに目の曇ったナマエはそれに気づかない。彼の凍りついた表情にも、気づかない。
 ふいに、マールーシャが彼女の手首をつかんだ。その所作がなんとなく乱暴に感じられた、――が、
「……手が冷たくなっている。ナマエ、早くベッドへ行って暖まれ」
 きっと気のせいだ、とナマエは思った。
 マールーシャの言葉に、ナマエは「うん」と頷いて、ゆっくりと立ち上がった。そのまま寝室へと向かおうとし、しかしふと足をとめて振り返る。
「マールーシャは?」
「私もすぐに行く」
 と、振り返った彼女が見たのは、マールーシャの艶やかな笑みだった。
 ナマエは、そう、と微笑み、寝室の扉を開け身を滑り込ませた。扉を閉める間際、彼に「おやすみなさい」と告げ、そしてゆっくりと扉を閉めた。


 一人残されたマールーシャは、しばし静かにソファに沈んでいた。ふとその視界に、テーブルの上の紙の束が映りこむ。
 それを手に取ると、己の筆跡をじっと見つめた。そして次の瞬間、彼はなんのためらいもなく、バサリと暖炉に向かって投げつけた。ほとんどの紙は床に散らばったが、何枚かは暖炉の火の餌食となり、すぐにボ、と音をたてて燃えあがった。
 火は勢いを増し、しかしすぐに沈静する。マールーシャはその様子を、(こご)った瞳でじっと見つめていた。

 ――扉の向こうでは、ナマエが何も知らずに彼のことを待ちつづけている。