第十一話
悪魔が囁くとき・前篇





 籠の中をそっと覗き込む。
 そこにイチゴ色の嘴を持つ、ふわふわとした白い翼の小鳥がいた。小首を傾げ、黒々としたつぶらな瞳でこちらを見つめ返している。チチッ、と愛らしい鳴き声が部屋の中に響いた。
 この小鳥は今朝、見張りの兵がドアをノックして顔をのぞかせたと思ったら、急に鳥籠ごと差し出してきたものだった。
 訝るナマエに見張りの兵はこう告げた。『グレイグ将軍からの贈り物です』と。
 無論、すぐにその言葉は嘘だと見抜いた。鳥籠は昨日の思い出したくもない恐ろしい出来事の最たる象徴だ。こんなものを贈ってよこすとしたら、あの人以外にいない。
 昨日の恐ろしい光景がフラッシュバックし、言葉に詰まる。差し出された籠をすぐに受け取ることもできずにまんじりともせず見つめていると、籠を持ったままの兵の表情が次第に青ざめていった。なにか疚しいことでもあるかのように。
 恐らくこの兵は、”本当の贈り主”に命じられて嘘をついているだけなのだろう。『……ありがとうございます。グレイグ様にお礼を伝えておいてください』 本当の贈り主を追求するつもりも兵の嘘を糾弾するつもりもなかったナマエは、ややしてそれだけ言って籠を受け取る。すると兵はあからさまにほっと胸をなでおろしていた。
 そういった経緯で、新しい同居人を迎えるに至ったのだが。
 小さな同居人は決して広いとは言えない籠の中、翼を広げて毛づくろいをしてみたり、二本ある止まり木を行ったり来たりしてどことなく落ち着かない様子だ。
 本来ならば心慰められるはずのその存在に、そら恐ろしさを覚えてナマエは鳥籠にすら手を伸ばせないでいた。小鳥になんら罪はない。だが網膜に焼き付いた映像が、彼女の心を委縮させる。無残に踏みつけられた哀れな雛。いったい贈り主は何を考えてこの子を贈ってよこしたのだろうか。単に殺してしまった雛の代わりのつもりなのか、それとも謝罪のつもりか。どちらにせよ、この贈り物はただナマエを追い詰めるだけだった。

 丸一日、ナマエは小鳥を籠の中に押し込めたままだった。扉を開けてしまうと窓から逃げてしまうのが恐ろしかったし、下手に飛んで怪我をさせてしまうのも怖かったからだ。やがて夕刻がきて、夜が訪れると、すっかり大人しくなってしまった小鳥の様子にあることに気付いた。
 ――私はこの子に、自分と同じ境遇を強いている。
 立場にがんじがらめに縛られ、自由を奪われた己の境遇と、籠の中に囚われたこの小鳥の境遇とを無意識に重ね合わせて見ていたのだ。
 だからナマエは決意した。朝が訪れるのを待って、籠をバルコニーへと持ち出す。思い切って小鳥を閉じ込めていた格子扉を開け放った。
 旅立ちにはちょうど良い快晴の空のもと、心地よい風が小鳥の羽根を優しく撫でている。
「さあ、自由になって。私の分まで」
 幸いにも風切り羽根は切られていない。だからこの子は空を飛べるはずだ。
 小鳥はしばらく籠の中で大人しくしていたが、やがて外の世界へと遮るものが何もないことに気付いて、籠から飛び出し勢いよく大空へと羽ばたいていった。

 しばらく、小鳥が飛び立った方角を眺める。頬を撫でる風が心地よく、束の間心が穏やかに凪いだ。
 その静寂を破ったのは、背後から響いた声だった。
「鳥を放したのですか?」
 ちょうどバルコニーにいて見張り兵の来客を告げる声に気付けなかったようだ。背後の訪問客は部屋の主の返事がないことに焦れて、無断で入室してきたのだろう。
 ナマエは背後を振り返ることはしなかった。この声の主は良く知っている人物だ。先日、このバルコニーでナマエを絶望に叩き落とした男の声だ。
 しかし、なぜこうもタイミングよく現れるのか。だが不思議なことに、それほど驚きはしなかった。彼が近いうち、この部屋を訪れるだろうことは薄々分かっていたことだった。
「馬鹿なことをされた。もう戻ってくるまい」
「それでいいのです」
 感情を伴わぬ冷たい声色に、ナマエは口の端を噛んだ。きっと後ろを振り向けば、あの見下すような瞳でこちらを見つめているのだろう。
「誰だって自由な方がいい。あの子はどこへだって行けるんだもの。羽根を休めたい時にここに戻ってきて、また旅に出ればいい」
 望めばどこへだって行ける。その響きのなんと甘美なことか。
「グレイグ様だってきっとそう言うわ」
 グレイグ。背後の男がぽつりと呟く。
「グレイグ様があの子を寄越してくださった。そうでしょう?」
 かまをかけるつもりなど毛頭なかった。ただ自分は真実に気付いていて、何のためかは知らぬが男のつく嘘にあえて目を瞑っているのだという事を伝えたかっただけだ。
 背後の男はナマエの意味深長な問いかけに何も答えない。それでよかった。端から、彼を黙らせるための問いかけだった。
「……ホメロス様」
 ナマエは、静かに背後に立つ男の名を口にした。
「せっかく来てくださったところ申し訳ないのですが、あいにく気分が優れないのです。だから今日は、もう帰っていただけないでしょうか」
「それは大変だ。シスターを呼びましょうか」
「それには及びません。少し休んだら、きっと良くなると思うので」
「――ならば早く部屋にお戻りください。これ以上、外の風に当たって体を冷やすといけない」
 カツンと硬質な軍靴の音が響いて、耳元にホメロスの声が響く。彼の身に纏う香水がふわりと迫り、ナマエはぎくりと体を強張らせた。
 いつの間に距離を詰めたのか、すぐ後ろにホメロスが立っている。振り返ることもできず、寒さではなく得体の知れぬ怯えがためふるりと震える両腕を思わず抱きしめると、包みこむように肩に何かが掛けられた。思わず驚いて視線をそこへと下げる。肌寒い時期、バルコニーへと出るときに使用する彼女のガウンだった。部屋の隅のコートフックに掛けられていたはずだが、わざわざ取りに行ったのだろうか。そもそも、そんな隙はあっただろうか。
 困惑しながらも小声で礼を告げ、掛けられたガウンを前身頃でぎゅっと掻き合わせる。
 ふいに、あ、とナマエは声を上げた。
 磨き上げられた白銀の籠手に包まれた長い腕が横から延びてきて、テーブルの上にあった空の鳥籠を取り上げたからだ。男の手に持ち上げられ、ゆらゆらと揺らぐ鳥籠の行方を目線で追う。それまで頑なに背後を振り返らなかったナマエだったが、とうとう琥珀色の冷たい瞳と目があった。
 ホメロスはナマエの視線に気づいて、形ばかりの微笑みを寄越す。
「この籠はもう、不要でしょう」
「でも……」
 万が一小鳥が戻ってきた時のために、できれば籠は残しておきたい。
 そんなナマエの葛藤を見透かして、ホメロスは冷ややかに言い捨てた。
「そもそも愛玩用に育てられた小鳥など、厳しい外の世界に順応できるわけもない。きっとそう長くは生きられまい。大型の猛禽類にでも襲われれば、一発で仕舞だ」
 ナマエの表情が凍り付く。
 盲目になるあまり、自分がひどい間違いを犯したことにようやく気付いた。
 今度ばかりはナマエの手こそが、小鳥の生きる術を奪ったのだ。



 ホメロスは苛立っていた。
 今までは表立っては動かなかった王がとうとう重い腰をあげ、ナマエの縁談相手を探し始めたようだった。ナマエがデルカダールに迎え入れられ、数年は経つ。成人もとうに迎え、今が花盛りの年頃だが、王族としての立場では縁談相手を探しはじめるには遅いくらいだ。
 しかしその立場の複雑さを差し引いても、匂い立つような美しさを持つ彼女は引く手あまただ。そもそも今回は王公認での縁談でもあり、王が彼女にふさわしいと思われる相手に直々に声を掛けるのだが、中には声が掛かるのを待てずに我こそはと名乗りを上げるものも少なからずいた。
 王がナマエの相手として選んだのは、身分も持たぬただの学者風情の男だった。クレイモラン出身の、ひょろひょろとした長身の冴えない男だ。それを何がお気に召したのか知らないが、とんとん拍子で縁談が進んだようだ。どうやらその学者の実家はクレイモランでは男爵家の地位にあり、権力には程遠い三男坊で、二人は結婚後クレイモランへと移住するようだった。
 表向きはただの縁談だ。
 だが知ってしまった。ウルノーガが彼女を処分するよう命じたことを。
 縁談はほぼ纏まりかけ、その前にナマエがクレイモランくんだりまで男の両親に挨拶に行くことになり、どうやらその航海中に相手の男もろとも海の魔物に襲わせるつもりのようだ。
 ホメロスはウルノーガのことを見誤っていた。魔王は勇者の家系であるナマエに関心がないわけではなかった。むしろ虎視眈々とナマエを処分する機会をうかがっていたのだ。しかし王としてふるまうウルノーガは表立っては動けないため、彼女を処分するにしてもあくまで事故に見せかける必要がある。だからこの度の機会は絶好のチャンスだったのだろう。いや、おそらくそれこそが魔王の目的だ。
 それをホメロスが知ったのはつい昨日の事だ。それも魔王の配下が襲撃の計画のことを、彼の前でうかつにも漏らしたから知れたことだった。ホメロスはそれまで彼女の縁談相手の男の事すら知らなかった。それも仕方のないことだった。王がナマエの縁談相手を探し始めたのがつい半月ほど前で、これほど早くに相手を見繕うとは思わなかったのだ。まあ、どうせ海の藻屑と消える人間だ。都合が良ければ、誰でもよかったのだろう。
 二人の出航は三日後に迫っている。
 ホメロスはちっと舌打ちした。あの小鳥がまだ彼女の手元にあれば、もう少し早くに手を打てたのに。
 先日ナマエに贈った小鳥は、ホメロスの闇の力を埋め込んだものだった。小鳥の目を通して彼女の様子を探れるよう監視代わりに使えると踏んで贈ったものなのに、あろうことか彼女はあっさりと空に放してしまった。だから此度の王の企みに気付くのが遅れてしまったのだ。
 たとえ忠誠を誓った魔王であろうと、彼女に手出しはさせない。
 ホメロスはナマエを守ることに何の疑問もためらいもなかった。自分ならば、魔王に気付かれることなく男を始末することができると踏んでいたからだ。
 とはいえ今回ばかりは、今までのように何の計画もなく男を殺してしまうのはまずい。ウルノーガに筒抜けとなるため、魔物の配下の手を借りることもできない。だから事故に見せかけた。最悪死なないまでも出航が延期になれば、その間に時間を稼いで次の手を考えればいいと踏んだのだ。
 ホメロスは男がよく籠っている資料室で、うず高く積みあげられた分厚い図鑑やら本やらに少し細工を施した。男が資料室の椅子に座った瞬間、その本の塔が椅子に向かって崩れ落ちるように。本の角が凶器となるよう、角度も調整して。その目論見は成功し、男は大量の本に潰されあっけなく死んだ。きっと打ちどころが悪かったのだろう。運のない男だ。だが本に襲われ死ぬなど、いかにも学者らしい死に方に本人もさぞ本望だったことだろう。
 そして迎えた三日後。
 本来ならば晴れやかな旅立ちとなるはずだったその日は、皮肉なことに男の告別式の日となった。男の両親の到着を待たずに行われた葬儀には、無論ナマエの姿もあった。沈んだ横顔には悲しみに暮れた跡があったが、葬儀の間中彼女は涙一つ見せることはなかった。
 男の亡骸は城の敷地内にある墓地に埋葬されることになったが、彼女は埋葬には立ち会わなかったという。二日後に男の両親が訪れ、嘆き悲しみながら墓を見舞い帰国していった。
 そしてそれから数日が経つ。
 城の回廊を歩いていたホメロスは急に部下に呼び止められ、急ぎ墓地に来てくれという伝言を受け取った。仮にも将軍を名指しで呼びつけるとはなんたる不躾な奴か。伝言の主が顔見知りでなければ、あやうくホメロスの雷が落ちるところだった。
 伝言通り城の敷地内にある墓地へと向かうと、低い塀に囲まれた墓地入り口にナマエの部屋の例の見張り兵が突っ立っており、やきもきとしながら中の方を見つめている。あの無礼な伝言を送ってよこしたのはこの兵だ。
 兵士の見つめる先へと視線を向けると、女が一人、墓標の前で佇んでいる。ナマエだ。
 見張り兵はホメロスの姿に気が付くと、ぶんぶんと手を振りながら駆け寄ってきた。
「あの、お姫様が、護衛もなしに外に出ようとしてたから……危ないからって止めたんですけど、言っても聞かなくて……呼びつけてしまってすみませんでした。慌ててたもんで」
「いい、後は任せろ」
 しどろもどろに言い訳する兵を押し止めて、ホメロスは墓地へと足を踏み入れた。
 ナマエは死者への哀悼を示すための喪服に身を包み、手にはハンカチを握りしめている。
 ホメロスが背後から近づくと、彼女は軽く振り返って会釈を寄越してきた。ホメロスが墓参りに来たとでもと思ったのか、ナマエが脇に避けるようにして墓標の前を譲ったので仕方なく形ばかりの祈りをささげる。
 祈りが終わると、ホメロスは立ち上がってナマエの方を窺った。彼女の視線は相変わらず墓標に注がれ、その横顔は憂いに沈んでいる。
 ふいに、ナマエが静かに沈黙を破った。
「私などに関わらなければ、こんなことにはならなかったのかしら……」
「それほどまでに深くお嘆きになるほど、この男を愛していたのですか? たった一度や二度、顔を合わせただけの男でしょうに」
 ホメロスには、彼女がなぜこれほどまでに悲しみに沈んでいるのか理解できなかった。
「わかりません。愛を確かめる時間などありませんでしたから。……けれど、穏やかで優しくて、博学だけど謙虚で、私にはもったいないほどの良いお方でした。それだけに、お亡くなりになったのが悔やまれます」
 束の間口をつぐんだ彼女は、ふっと諦観のにじんだ笑みを口元に浮かべた。
「実は、少しだけ想像してしまいました。この方と一緒に、クレイモランの家で暖炉の火に温まりながら、シチューを作ったり、編み物をしたりして穏やかに過ごす日々のことを……」
 所詮は彼女の想像でしかない。だがそれを横で聞いていたホメロスは、腹の底でくつくつと煮えたぎるような怒りが生まれるのを感じた。ぎり、と食いしばった歯から苦々しげな音が漏れる。
 なぜこの男なのか。なぜ自分ではないのか。ナマエの夢物語の相手が自分ではない別の誰かであることが、茨の棘のように全身に突き刺さってホメロスを苦しめる。だんだんと増していく妬みにじわりと理性が溶けて、思考が揺らいだ。
「なるほど随分と甘い夢を見ていらっしゃったようだ。しかし現実は儚いものだな。しかもそいつの死因が本ときた。……ふっ、滑稽な男だ」
「やめて。死者への冒涜だわ」
「これは失礼を」
 ホメロスの死者を死者とも思わぬ発言に、ナマエは流石に柳眉をひそめた。その少し傷ついた彼女の横顔に人知れず溜飲を下げる。
 彼女は知らない。彼女の未来の夫となるはずだった男を死に追いやったのは、今まさに隣に立っている男であるということを。
「そろそろ部屋に戻りましょう。今後はあまり、おひとりで出歩かない方がいい。城の敷地内といえども、城の外はなにかと危険が多い」
 ほんとうに滑稽な話だ。彼女は何も気づいていない。ホメロスが男を殺したことも、そして魔王の目をかいくぐり危険を冒してまで彼女の命を守ろうとしていることも。




 ナマエにとっては辟易したことに、ひとがひとり亡くなったというのにデルカダール王は懲りずに彼女の元へと別の縁談話を持ってきた。せめて喪が明けるまでは待ってほしいと懇願し、幸いにもその後の数か月間は静かな時間を過ごすことができた。
 彼女は部屋で静かに過ごす傍ら、たびたび男の墓を見舞った。墓地では亡くなった男の同僚や友人に会うこともあったが、互いに会釈をするだけで言葉を交わすこともない。
 これほど熱心に通いながらも、亡くなった男の事を決して愛していたわけではなかった。だが自分という疫病神に関わったせいで男は亡くなったのだ。他人からすれば馬鹿馬鹿しい思い込みだろう。けれどナマエは半分本気で信じていた。自分に関わると、その人に不幸が訪れる、と。
 男の死に対し、誰よりも責任を感じていたのはナマエだ。だから墓参りはせめてもの罪滅ぼしのつもりだった。
 今日もナマエは護衛の兵を連れ立ち墓地へと向かう。最初に墓地を訪れたとき見張りの兵に随分と迷惑をかけてしまって以来、必ず誰かしらに護衛を頼むようにはしている。だが城壁の中の、しかも城の敷地内にある墓地で、どれほどの危険があるというのか。ナマエにはホメロスらの言う危険というものが理解できなかった。
 この日、いつもなら人通りの少ない回廊で、珍しいことにデルカダール王に遭った。
 王の進路を妨げぬよう廊下の端に寄って頭を垂れ、王が過ぎゆくのを静かに待つ。だが王は何か気になることでもあったのか、ナマエの前でぴたりと歩みを止めたようだった。俯く彼女の視界の中で、デルカダール王の纏う長衣のひだが揺れて止まる。
「どこへゆく? ナマエよ」
「墓地へ参るところでございます、陛下」
 頭上高くから問いかけられ、ナマエはさらに深く頭を下げつつ答える。ふん、と不遜げに鼻を鳴らす音が耳元に届いた。
「あの死んだ男のところか。熱心なことだ。そこの兵よ、姫の護衛を頼んだぞ」
「はっ!」
 王直々に声を掛けられ、背後に控えていた兵が畏まって敬礼する。
 それを見届け、王は静かに二人の前から去った。
 しばらく、ナマエは頭を上げることができなかった。王の冷たい物言いは今に始まったことではない。だが言外に、無駄なことよとせせら笑われたような気がした。
 無力感でいっぱいの胸が重い。自分のしていることは無駄なのだろうか。生産的ではないのは確かだ。色々なものに囚われ、がんじがらめになっている彼女には、何が正しいのか分からなくなっていた。
 あの小鳥の運命すらも握り潰して。自分は小鳥一匹守れない、無力な存在だ。
「……参りましょうか」
 ナマエはようやっとの思いで頭をあげ、こちらを気遣うように窺う護衛の兵に力なく微笑んだ。