第四話
子守唄




 ナマエとのお茶会は和やかな雰囲気で終わった。
 このささやかなお茶会のホストであるナマエはゲストの二人が楽しめるようにと、話題を振ったりカップに紅茶を注ぎ足したり焼き菓子を勧めたりと細やかな気配りを欠かさなかった。
 午後にのんびり茶を飲んでおしゃべりに興ずるなど宮廷貴族どもの暇つぶしもいいところだ。……などと思っていたものの、実際もてなされる立場となれば話が違ってくるらしい。ホメロスは自分が存外このお茶会を楽しんでいることに気づいた。
 隣では、このような社交の場に慣れぬグレイグが終始居心地が悪そうにしていたが、それでもナマエの問いかけにいちいち生真面目に答える様は端から見ていておもしろくもあった。
 まあ、とはいえ話題が途切れて沈黙が訪れる度に互いを意識してぎこちなくなったり、発言のタイミングが被ってはにかみあったり、手がぶつかっては赤面するのは勘弁してほしい。隣に座っているのがいたたまれなくなってくる。
 お世辞にも社交的とは言いがたいグレイグの実直な受け答えに、しかしナマエの親友を見つめる瞳は優しい。当然か、グレイグは彼女の命を救ったと聞いている。そんな男を悪く思う女などいない。むしろ惚れぬ方がおかしい。多分、そういうことだ。
 まあグレイグとて、慕われて悪い気はしないだろう。
 ホメロスはぎこちなくやりとりする二人を眺めながら、ふん、と鼻を鳴らす。冷めた紅茶が苦みを増して、喉を通り過ぎていった。

 ナマエの部屋を退出すると、緊張していたのかグレイグが思い切りため息をついて肩を落とす。
 そのすっかりくたびれた親友の様子に、ホメロスは「くくっ」と肩を揺らした。
「お前の好みではないだろうが、たまにはああいうおしとやかなのも悪くないだろう」
「……? なんの話だ?」
「あの姫、お前に惚れているぞ」
 ホメロスの一言に、グレイグが一瞬きょとんとする。次の瞬間、意味を理解して耳まで真っ赤にして狼狽した。
「は!? い、いやいやなにを言っているんだホメロス、それはありえないぞ」
「ありえなくもないぞ、なにせお前は彼女の命の恩人だ。惚れていてもおかしくはない。どうだ、助けた少女から好かれる気分は。悪くない気分だろ?」
「いやだから別にそうと決まった訳では……というかお前、おしとやかとかおしとやかでないとか、俺の好みの一体なにを知っているんだ!?」
 ホメロスの追及にしどろもどろになっていたグレイグは、これ以上は親友に振り回されるものかとなんとか話題を変えようとした。無駄なあがきを嘲るように、ホメロスは鼻で笑う。
「お前の好みか。簡単な質問だ。明るくて積極的で家庭的、あと尻と胸がでかい。どうだ?」
「ぐっ、否定できない自分が悲しい……!」
 親友の確信を持った提示に、グレイグはぐうの音もでない。
「ふん、何年お前の親友やっていると思っているんだ、お前の女の好みくらい把握している。そうだ、そういえば新しく入った下町の飲み屋のバニー、おまえの好みドンぴしゃだろ? たしかユリアといったか」
「確かにあのバニーは俺の好みだが……ちょっと待て、お前がバニーの名前を覚えているだと? 飲み屋の女なぞまったく興味ない振りをしておいて、まさか口説く気か? そんな無慈悲なことはやめてくれ」
 一気に青くなった親友の顔を、ホメロスは一笑に伏した。
「誰が口説くか。というかオレをいっちょ前に牽制しておいて、どうせ口説けもせずだらしない顔で胸と尻を眺めているだけだろ」
 図星だったのか、グレイグはうっと言葉に詰まって足を止める。
 成人し、グレイグと二人で酒場を出入りするようになってから、ホメロスは自分の顔がつくづく異性受けがよいことを実感した。自身は一度も口説いたことはないが、社交の場では自然と女の方から集まってくる。おもに顔目当てなのと、微笑みを絶やさぬホメロスの方が一見人当たりが良く見えるせいだ。
 それはある意味当然だった。ホメロスにとって、自分に利することならば心にもないお世辞を言うのは造作もない事。グレイグはそれが出来ない。どこまでも実直な男なのだ。だからこそ自分が不器用な親友に代わって矢面に立ち、うまく立ち回り、泥だって被ることさえいとわない、とも思っている。
 お互い成人し立派な騎士となった今でも、ホメロスにとってグレイグは、バンデルフォン王国が陥ちた日に王が連れ帰ったあのいたいけな少年の姿が重なる。暗闇におびえる幼い少年に、最初に手を差し伸べたのはホメロスだ。その日から、ホメロスにとってグレイグは幼なじみでもあり、唯一の親友でもあり、いわば見守るべき兄弟でもあった。どちらが兄かは言うまでもない。昔は乗馬も剣術もからきしだったくせに、今となっては図体と腕力ばかりが立派に成長したようだが、それでもグレイグに道を指し示してやる役は己だと自負していた。
 閑話休題。とにかく、そういう訳で酒場でお世辞のひとつも言えないグレイグが異性とお近づきになれるはずがない訳だが。とはいえグレイグとて男っぷりは良いのだ。それこそホメロスと並んでも遜色ないほどには。しかし本人にその自覚がないのと女性に対しては消極的なのとで、こと恋愛的なことに関してはかなり損をしてきている。
 そんなことを取り留めもなく考えているうち、グレイグがショックから戻ってきたらしい。彼はぐっと拳を握りしめ、一転反撃に出た。
「そういうホメロスはどうなのだ。宮廷のご婦人方から人気の高い、色男の幼なじみ殿の女の好みは。……はっ! そういえばお前、この間俺の気になっていたメイドから手紙もらっていただろ。あれはどうなったのだ?」
「どのメイドのことだ? そんなもの、いちいち覚えておらんな」
「覚えていない!? くっ、腹が立つがその自信家っぷりが様になっているのが悔しい……」
 くだらん、とホメロスは親友の戯れ言を一刀両断する。興味のない者からいくら好意を寄せられようが、ささやかれる愛はすべて雑音にしかなり得ない。自分が唯一無二と心に決めた者からの愛でなければ、それ以外はすべて無意味だ。そしてその唯一無二の座は、いまだ空席だ。
 二十を過ぎても、未だ心からの恋愛をしたことがない。近頃になってホメロスは自分のことを、愛情が薄い人間だと感じていた。このままいけば、打算で恋愛をし、打算で結婚してしまいそうだ。――まあそれでも、何の支障もないのだが。
「女の好み、ね。オレは頭が良くて機転がきいて、それとヒステリーじゃない女が好みだ。特に顔の美醜は問わん。まあ女というより男女全般に言えることだがな」
 ホメロスのどこか冷めた横顔に、グレイグは困ったような、何とも言えぬ表情で顎髭をポリポリと掻いた。
「なんというか……合理的だな、ホメロスは」
「理性的と言ってくれ」
 理性的な恋、それは今までのホメロスの恋愛観となんら変わりない。
 不意に、グレイグが真顔になった。
「理性的、か。だがホメロス、恋とはもっと理性を忘れて『落ちる』ものではないのか?」
 真摯な問いかけ。グレイグの瞳は親友を心配するそれだった。腹の奥底で、ツキリと何かが哭いた。
「はっ、相変わらずロマンチストだな。だいたい、理性を忘れた人間はただの獣だろう」
 宮廷貴族たちが伴侶に内緒で、あるいは堂々と不倫に勤しんでいるのを見る度、吐き気がした。例に漏れず貴婦人方に秘め事に誘われる事の多かったホメロスは、恋愛本能というものをどこか嫌悪していた。
 ホメロスは自身の顔が優れているのは分かっていたが、所詮彼らが見るのは顔だけだ。外面しか見ない人間に興味はない。
 そうだ、彼らはいつだって顔しか見ない。ホメロスがいくら努力したところで、彼自身を見てくれる者はほとんどいなかった。この顔を利用したこともあったが、この顔のせいで周りから散々やっかみを受けてきた。
 ――顔の良いやつは、やっぱり教官からの覚えもいいから得だな。
 ――兵士長に取りなしてもらえるなんて、どんな色目を使ったんだ? 卑怯者め。
 ――俺の立場を奪いやがって、軍略のイロハも分からぬお坊っちゃまが。すました顔しやがって、覚えていろよ。
 ……ああ、本当にイヤになる。
 男の嫉妬ほど恐ろしいものはない。ホメロスの場合、何度も身を持ってそれを実感している。

 
「それにしても、やはり信じられないな」
「なにがだ」
 唐突なホメロスの言葉に、グレイグが首を傾げる。
「勇者のことだ。あの王が、本当に言ったのか。悪魔の子だと」
「……ああ、間違いなく王のお言葉だ」
 先日グレイグと酒の席を共にした際、酔った彼がぽろりと漏らした言葉。他言無用となっているらしいが、遠征組の兵たちの間では周知の事実になっている。じき、城中に噂が広まるのも時間の問題だろう。ナマエの肩身がますます狭くなることは必至だ。
 ホメロスは、グレイグが漏らした王の言葉とやらに疑問を持った。幼い頃から王の横顔を見てきた者としては当然の疑問だ。希代の名君として名高いデルカダール王は、王妃を亡くした時も決して王としての本分を忘れなかった。王として采配を振るい、国を治め、民を慈しみ、敬愛する王妃陛下を失って悲しむ民に寄り添う態度を見せた。一方で、王妃の忘れ形見であるマルティナ姫を深く愛する子煩悩でもあった。
 そのような王が、勇者は邪悪なる魂を復活せしめる忌まわしい存在、などと言うだろうか。そもそも、王は勇者伝説の熱烈な信者だったはずだ。
「王の場合、マルティナ様の事もあって私情も多いに含まれているだろうが、しかしあの聡明なお方がそこまで見識を曇らせるだろうか? 何者かが王に誤った情報を流しているのではないか」
 そもそもの因果律が逆なのだ。悪しきものが復活する時、勇者がこの世に誕生するだろう。勇者は悪しきものを倒すために生まれる。それが、今までこの世界に語り継がれてきた正統なる物語だ。
 しかし王は、勇者と邪悪なるものを表裏一体の存在ととらえた。片方が滅する時、また片方も滅ぶ。つまり勇者が邪悪なるものを復活させる鍵と捉え、勇者が死ねば邪悪なるものの復活もまた防げる、と考えているのだろう。
 正直むちゃくちゃな理論だ。勇者は悪しき者に対抗しうる唯一の存在だ。運命の神とやらの存在はまったく信じないが、勇者は大樹の定めた運命の下に生まれてきた存在。勇者が消えれば、世界は滅びの一途を辿るだろう。
 しかし勇者が真に運命に導かれる存在ならば、まだ勇者は生きていてもおかしくはない。
「王が勇者を災いを呼ぶものとしたい理由はなんだ……? それとも邪悪なるものは既に復活していて、暗躍している可能性も――」
「……ホメロス、それ以上は」
 グレイグが無言で首を振る。ホメロスははっとして口をつぐんだ。
 こんな往来で誰が耳をそばだてているか分からない中、王の言葉を疑う発言は自らを危険にさらす。下手をしたら不敬罪で告発される恐れもある。
 万が一、何者かが王を裏で操っているとしても、まずその証拠を見つけるのが先だ。疑問はそれまで胸にとどめておく方がいいだろう。



 王の帰還から、数えること十日。
 教会の鐘の音が、鈍色の空に鳴り響く。天気は雨、しとしとと静かに降るそれはまるで涙雨のようだった。
 この日、マルティナ姫の葬儀が行われた。国をあげての葬儀に喪服を纏った市民たちが参列し、幼い姫の魂の安寧を祈った。どこからともなく鎮魂歌が響きわたる。厳かな雰囲気の中で王宮のバルコニーに姿を現した王は、王宮前広場に駆けつけた市民たちを一瞥し、静かに口を開いた。
「先日、我が娘マルティナはユグノア国が襲撃された際、命を落とした。マルティナはデルカダール王国にとっての希望だった。すべてはマルティナを守れなかった、不甲斐ないわしの責任にある。今日は、マルティナのために集ってくれた皆に感謝の意を述べたい。生前は皆に愛され、今こうして皆に弔われ、あれの魂も無事に大樹の御元へと昇っていったであろう」
 しん、と空気が静まる。皆、王の言葉を聞き漏らすまいと固唾を飲んでいた。
「わしは今日、ここに誓わん。必ず。必ずやマルティナの命を奪った黒幕を見つけだし、仇を取ると。大勢の無辜の民の命を奪い、ユグノア王家を滅ぼした敵はいずれここデルカダールの脅威ともなるであろう。ユグノア国は易々と敵の侵攻を許したが、ここデルカダールでは決してそのようなことは許さん。故に、我らには喪に服している暇なぞない! 今より一層の軍備の強化を計り、デルカダールは世界一の軍事国家を目指す! それをもって、マルティナへの弔いとする!」
 力強い宣言。ざわめいていた市民の間に次第に高揚が伝播し、わっとバルコニーが揺れるほどの歓声があがった。
 王はその様子を冷めた目で見下ろし、おもむろに歓声を片手で制した。そして後ろに控えていた人物を手招きする。
 王の隣に並び立ったのは、喪服を纏ったナマエだ。黒のヴェールに隠れていて、表情は窺えない。
「さて、一部の者は既に知っているようだが、我が国は先日ユグノア王家の姫を庇護した。皆に紹介したい。ユグノア国第二王女、ナマエ姫だ」
 ナマエはヴェールをめくり、固い表情でお辞儀をした。その顔色は青ざめている。
「姫をデルカダール王家の一員として迎える。皆もよくしてやってくれ」
 今度こそ、市民は戸惑ったようにざわめいた。自国の姫を亡くしたばかりなのに、他国の、しかもマルティナの死の要因となった国の姫を保護したと。感情が納得しないのも無理はない。
 ざわめきを残したまま、王とナマエは城の中へと戻っていった。

 やはり、王の様子はどこかおかしい。広場の警備に当たっていたホメロスは、一部始終を眺めてそんな感想を持った。
 王はどこまでも冷徹だった。まるでマルティナ姫の死を建前に、軍を強化するのが目的のような口ぶり。それにナマエのことだって、あんな演説の後では彼女のことを逆恨みするものも出てくるだろう。それが分からない王ではないはずだ。一体なにを考えているのだ。
 しかしマルティナ姫の喪に服さない、という王の宣言はホメロスにとっても正直衝撃だった。なにせマルティナ姫のことは、グレイグと一緒に赤ん坊のころから見守ってきたのだ。


 演説が終わり、デルカダール王は共を連れ立って回廊を歩いていた。ナマエの前を行くデルカダール王の歩みは早い。先の王の宣言に泡を食った大臣たちが、必死の表情でその高い背に追い縋っている。
「お、お待ちください王よ! 喪に服さないというのはまことですか!?」
「言ったとおりだ大臣よ、喪には服さぬ。一刻も早く悪魔の子を見つけねば」
「しかし王よ、王族が亡くなっているのにも関わらず、喪に服さぬのは前代未聞のことですぞ。どうかお考え直しください。国民も姫を失って傷ついております、彼らにも悼む時間が必要でしょう」
「くどい!」
 王の厳しい一喝に、大臣たちは「ひっ」と一気に萎縮した。驚いたナマエも思わず歩みを止める。
「喪に服している暇などない。悪魔の子が生まれ、ユグノアが陥ちた。これは紛れもなく悪しきものが復活する前触れである。国を守るため、早急に軍を強化する必要がある。行方不明となった悪魔の子も捜索せねば。大臣、わしはこれ以上この件に関する議論は望まぬ。……良いな?」
 有無を言わせぬ王のひと睨みに、身の危険を感じた大臣たちがあわてて平伏する。それを冷たく一瞥し、王は踵を返してその場を去っていく。残された大臣は俯いたまま、無念を滲ませた声色でぽつりと呟いた。
「しかしそれでは……あまりに姫がおかわいそうだ」
 悔しそうな声を聞きながら、ナマエはそっと瞼を伏せてその場を後にした。自分には、どうすることもできないのだ。



 デルカダール教会にある地下聖堂には、歴代の王家の人間の遺骸が納められている。そこへ新たにひとつ、小さな空の棺が加わった。マルティナの棺だ。夭折した王妃の隣に彼女の墓標が建てられ、その周りは数日の間市民からの献花が絶えなかった。
 ナマエは数日前からマルティナ姫の墓前への参拝を要望していたが、安全を確保できないとの理由で断られ続けていた。そして本日やっと、その許可が下りた。護衛としてやってきたのはグレイグとホメロスだった。侍女のアリサに献花を用意してもらい、念のためにとホメロスから渡されたフードを被って、顔を隠して城下町へと下りる。どこか重たい雰囲気が漂う町中を無言で抜け、教会の地下へと向かう。
 地下聖堂は事前に人払いを済ませてあり、彼ら以外に誰も参拝客はいなかった。じめじめとした薄暗い聖堂内に、無数のろうそくの灯りが揺らめいている。聖堂の一番奥まった場所に、マルティナの墓標があった。ナマエはフードを降ろし、墓標に花と祈りを捧げる。二人の騎士はナマエの祈りが終わるのを待って、それぞれ花を捧げた。
 しかしグレイグの祈りは長い。マルティナの棺の前で膝をついて、ずっと祈っている。ナマエがフードを被り直し、支度を終えてもグレイグはまだ微動だにせずいた。
「お二人とも、今日はお忙しい中、私のわがままに付き合ってくださりありがとうございました」
「いえ、オレたちも参拝がまだでしたからね。ついでですよ」
 そうホメロスは言うが、ナマエと違い彼らの外出は基本自由だ。これが初めてということもあるまい。きっとこちらを気遣ってのことだろう。彼の気遣いに内心で礼を言いながら、ナマエはそっと騎士の片割れを見やった。
「……あの、グレイグ様は大丈夫なのでしょうか?」
「ああ、気にしないでやってください。しばらくはずっとあんな調子でしょうから。ナマエ様、もう城に戻られるのだったら、奴のことは気にせず置いて帰っても構いませんよ」
 ホメロスは慣れた調子で親友を一瞥し、ナマエにそう提案する。ナマエは静かに首を振った。元よりグレイグの祈りが終わるまで待つつもりだ。
「いいえ、もうしばらく待ちましょう。……お二人は、マルティナ様と仲が良かったと乳母だった方にお聞きしましたが」
「ええ、オレ達二人とも、マルティナ姫とは赤子の頃からの付き合いです。特に姫様はグレイグに懐いていたので、その分人一倍思い入れも強いんでしょうね」
「そうでしたか……」
 わかっていたことだが、気分が沈む。彼らとマルティナ姫との未来を奪ったのは、悪魔の子であり、ユグノア王家であり、ナマエだ。無知で純粋な民ほど、きっとそう捉えている。
「ほんとうに、マルティナ様は……お亡くなりになってしまったのでしょうか」
 空の棺をじっと見つめる。マルティナ姫の遺体は未だ見つかっていない、ならば一縷の希望はあるはずだ。だが王がマルティナ姫の死を宣言した以上、もう探し出すつもりはないのだろう。親ならば、せめて遺体だけでも、とも思わないのだろうか。
「当時のユグノア城がどのような状況だったかはわかりませんが、魔物の襲撃は凄惨を極めたと聞き及んでいます。もし姫がおひとりで逃げたのなら、あの歳の幼子が魔物に襲われて助かるとは思えません。あるいは、食い殺されている可能性も」
「食い殺されて……」
 ホメロスの何気ない言葉に、ナマエは体から血が引くのを感じた。
「おっと。ご婦人相手には血生臭い話題でしたね。失礼を」
「いえ、大丈夫です」
 ふらついた体をそっと支えられる。軽く礼を言って、ホメロスから一歩距離を取った。
 その可能性は、まったく考えていなかった。だがあり得ることだ。ユグノア地方には、人を襲う魔物もたくさんうろついている。魔物に追われ、逃げ戸惑う小さなマルティナ姫。どんなに心細かったことだろう。そばにいて守ってあげられなかった無念さが、今更じわりと滲んでくる。父も、姉も、義兄も、甥も、すべて見捨てて。こうしてひとり助かってしまった事への、罪悪感が胸を苛む。
「――ナマエ様はマルティナ姫と面識が?」
 沈んだ意識にホメロスの声が響く。ナマエははっとして、伏せていた顔を上げた。こちらを見る彼の目は、ナマエを気遣っているようであった。
「はい、マルティナ様は何度か陛下とご一緒にユグノアにお越しになっていたので、私も度々親しくさせてもらっていました。マルティナ様はエレノアお姉さまに特に懐いていらっしゃったのですが、サロンコンサートでは私の歌もお気に召してくださっていたようです」
「歌を」
「はい、宮廷お抱えのトルヴェールに師事しておりました」
 ナマエのその言葉に、ホメロスは一瞬考え込む仕草を見せた。そして思いついたとばかりに、ひとり頷く。
「……では、一曲お聞かせ願えませんか。マルティナ姫がお喜びになるかもしれません」
「ここで、でしょうか。しかし、楽器もなにもなくては……」
 唐突な提案に戸惑うナマエに、ホメロスはいたずらっぽく笑って口角をつり上げた。
「多少音程を外したところで、ここには音楽に疎い観客しかいないのでそうそうバレませんよ。まあ、マルティナ姫はどうか分かりませんが」
 そこまで言われては歌わない訳にはいかない。ナマエはホメロスの軽口にクスリと笑い、フードを取って軽くお辞儀をした。
「では、お耳汚しですが一曲だけ」


 ナマエの澄んだ歌声が、聖堂内の石壁に反響して鼓膜を震わす。歌声はこぼれ落ちる水滴の音のように、心地よくホメロスの胸の奥を満たしていった。ユグノア地方に伝わる子守歌だろうか。音調は静かでもの悲しく、反して歌詞の内容は少し恐ろしい。
 先ほどからグレイグの肩が震え出していることに、ホメロスは気づいていた。これはどちらにしてもグレイグを置いて帰るしかないらしい。本人とて、みっともなく泣きはらした顔を他人に晒したくあるまい。
 ナマエの横顔を眺めながら、ホメロスはぼんやりと思った。このユグノアの姫にとって、デルカダールは安息の地とはならないだろう。王の匙加減ひとつで、彼女の座る椅子は茨となる。正直、彼女と真剣に付き合うのだってリスクが高い。分かっている、深入りは危険だ。程々なところで身を引かねば。そう、自分に言い聞かせる一方で。
 彼女の横顔から、目を逸らせない。


 狼眠る森の中 月の光は届かず――
 鴉が夜に溶け 赤い瞳がおまえを見ている
 眠れぬ魂は独り 魔物に怯え闇にさ迷う
 お眠り あいつがおまえを見つける前に
 お眠り あいつがおまえを攫う前に
 夢の中に逃げ込んだら もうおまえだけの世界

 おとぎの世界はおまえを抱いて
 醒めぬ夢に踊り続ける
 ――永遠に