きみと歩む、365日間・前篇




 大事な資料を抱えながら外の回廊を小走りで進む私の頬に、ふと穏やかな秋風が吹いてきて足を止めた。背後を振り向けば、秋の青空に映えるデルカダール宮殿の威風堂々たる姿が視界に入る。
 まるで、剛毅だけど慈愛に満ちたこの国の王さまそのもののような質実剛健な城だ。それでいて、どこか優美ですらある。この城を見上げる度、私がこの城の中で暮らすものの一人であるという事実にまだ慣れないでいた。
 山のように大きな城塞は当然ながら部屋数も多く、こうして見上げると窓が沢山あってどれが自分にあてがわれた部屋だか判別が難しい。
 とはいえそんな中でもたった一つだけ、誰の部屋かを見分けられる窓が存在した。
 それは、『彼』の部屋だ。
 少し視線を巡らせれば、私の目はすぐに目的の部屋を見つけた。城の東塔の中二階部分、大きめに設えた窓が二つ並んでいる部屋。
 窓は昨日と変わらずぴっちりと閉められている。カーテンは開いているけど、部屋の中に人影らしきものは見えない。
 一昨日も、昨日も、この部屋に灯りが付くことはなかった。
 それもそのはず、あの部屋の主はもうずっと前から留守にしている。
「グレイグさん、一体いつになったら帰ってくるんだろう……。そろそろ虫よけポプリの効果が切れるころだけど、大丈夫かな……」
 もう一か月ほど顔を合わせていない恋人の名を溜息まじりに口にして、私は止めていた足を再びとぼとぼと動かした。


 今から約一年前、勇者さまが仲間と共に復活した邪神を倒し、世界に平和をもたらした。とある辺境の魔女の端くれであった私も勇者さまの旅に随行し、微力ながら世界平和実現へのお手伝いをさせてもらった。私はその褒美としてデルカダール宮廷付きの魔術師の職を得て、今はデルカダール城で生活を送っている。
 そしてグレイグ将軍。いや、グレイグさん。二人きりの時は旅をしていた時と同じように彼の事をそう呼んでいる。
 邪神ニズゼルファを倒し、私は故郷に帰る前に、グレイグさんにお別れの挨拶と一緒に胸に秘めていた想いを告げた。真面目で堅物な見た目に反し、天然で可愛らしい側面を持つ彼の事を好きになったのは一緒に旅をするようになってからすぐの事。だけど鈍感なグレイグさんはきっと私の想いなんて気付いていないだろうし、そもそもの立場が違いすぎる。でも、だからと言って黙ってお別れもしたくなくて、ならば土産に彼の初心な心をくすぐって、数年後にふと『ああ、そういえばそんな風変わりな旅の仲間がいたなぁ』などと思い出してくれる程度の存在にはなりたい。
 そんな、色よい返事なんて端からまったく期待もしていなかった告白だった。
 だけど、グレイグさんは言ったのだ。寒い雪山で散々遊びまわった子供みたいに顔を真っ赤にして、それでいて親の仇に挑むような勢いで新緑色の瞳をカッと目いっぱいに見開いて。
『頼む! か、帰らないでくれ……! 君が、君がいないと俺は、――俺はこの先どうやってナプガーナ密林の恐ろしい虫たちから身を守ればいい!?』
『……ええと。それは、私の作る虫よけポプリがまだ必要だと?』
『そうだ! 君がいないと困る! 非常に困る!』
『レシピをお渡ししましょうか? 結構簡単ですよ』
『ダメだ、君が作ってくれないと意味がない!』
 あなたの事が好きでした。お別れは寂しいけれど、いつまでもお元気で。そんな、別れの挨拶とともにさりげなく織り交ぜた軽い告白のつもりだったのに、妙な押し問答が続いて私は困り果てていた。
『――いい加減になさいグレイグ! 男らしくないわよ!』
『ぐはっ!?』
 それを草葉の陰で覗いていた(姫さま曰く「見守っていた」)シルビアさんとマルティナ姫様が急に飛び出して来て、グレイグさんに乙女の鉄槌が下された。それでようやく彼が胸の内を白状したのを、まるで昨日の事のように思い出す。
 そうして、私たちの関係は旅の仲間から恋人に変化した。
 あれから、もうすぐ一年だ。グレイグさんとのお付き合いもつつがなく続いていたが、それでも彼はまがりなりにも将軍職。イシの村の復興、そしておよそ十六年ぶりに帰還した姫さまの政界復帰などなどやるべきことが盛りだくさんで、この一年ゆっくり二人で過ごせる時間もあまりなかったように思う。
 あと少しで、付き合ってから一周年の日。他の人にとっては何でもないただの日だが、私にとっては特別な日だ。
 出来ればその日を二人でお祝いしたいな……なんて下心で、グレイグさんの部屋の暦に二ヶ月ほど前からそれとなく書き込みをしてある。でも、グレイグさんはきっと気がついていないだろう。男の人ってそういう記念日とかに鈍感な人が多いって聞くし、元よりグレイグさんにはそういう気配りとか期待は出来なさそうだし。そもそも当の本人がいつ帰ってくるか分からないのだ。
 さびしいなあ……。
 いつの間にか到着していた魔術研究棟の扉に手をつき、ふいに込み上げてきた感傷にまたひとつ、ため息が出た。
 グレイグさんが城を開けているのは、もちろんお仕事でのことだ。夏の終わり頃に城を発って、はや一ヶ月。赴任地はそう遠いところでもないため、たまには帰ってくる予定だと言っていた割には、以来一回も顔を見せてくれない。薄情者め。……まあお仕事の内容を鑑みれば忙しいのは理解しているけど。
 旅の間、親友みたいに気安く接してくれた姫さまも、デルカダール王国の王位継承者として日々とても忙しそう。旅の間のように、そうそうお茶におしゃべりにショッピング、なんてできるはずもなく。綺麗なドレスを纏い、侍従を連れ立って城内を足早に闊歩する姫さまの姿をお見かけしては、王族って大変なんだなぁ、とつくづく思った。


「あれ姫さま、なにしてるんですか?」
 借りていた資料を魔術研究棟書架の司書さんに返却して自室に戻ると、机の下になぜか姫さまが隠れていた。豪奢なドレスの裾が机の下からちょこんとはみ出ているのを見つけ声を掛けると、バツの悪そうな表情の王女殿下がひょっこりと顔を表した。
「匿って」
「え、ええ~?」
 どうやらお付きの人たちを巻いて公務から逃げてきたらしい。今頃、きっとお付きの人たちが消えた姫さまを必死に探しまわっていることだろう。めんどうに巻き込まれるのはいやだなあ、などと思いながら軽く難色を示すと、口をへの字に曲げた姫さまが抱えた膝小僧に突っ伏して、机の下で籠城の構えを取った。
「もう限界。もう疲れた。ナマエの入れたハーブティーを飲むまで私はここを一歩も動かないわよ」
「わあ、立てこもり犯にしてはえらく安い要求ですね」
「なら美味しいお菓子も所望するわ」
「はいはい、少しお待ちください」
 へそを曲げた姫さまはなかなか強情だ。こうなったら彼女が満足するまで接待にいそしむしかない。この城で暮らし始めてから今日のように何度か姫さまの急襲を受けていたが、そういう時は決まって私のハーブティーを所望されるのだ。きっとご公務が忙しくて、癒しを欲しているのだろう。
 ブレンドした数種類のハーブを入れたポットに沸騰させたお湯を一気に注ぐ。ふわりと立つ香りはカモミール。数分蒸らせば完成だ。
 リラックス効果のあるハーブティーをお出しすると、姫さまのふてくされた顔が一気に晴れた。机の下からなんとか立てこもり犯を引きずりだすことに成功したので、そのままソファに誘う。ハーブティーを飲んでやっと満足げに溜息をつく姫さまの隣にお邪魔して、私もお茶を頂くことにした。お茶請けには甘いタフィー。
「で、今日はなにから逃げ出されたのですか?」
「お見合い」
「ああ……」
 花のかんばせを不機嫌にむすりと歪め、一言。それだけで姫さまの心中を察し、私は何も言えず黙り込んだ。俗に言うお世継ぎ問題。とはいえ王さま自らが強要しているわけではなく、主に騒いでいるのは家臣たち。王族は本当に大変だ。
「はぁ~。もう、王位を継ぐと決めた時から自由恋愛は諦めているけど、こうも口うるさく言われたらたまったもんじゃないわね。こんなんだったらいっそ、また旅にでも出てしまおうかしら。ねえナマエ、あなたも一緒に来ない?」
「いやあ、それはちょっと」
 あいまいに返答を誤魔化す。心苦しいがデルカダール王家に仕える身として、まさか姫さまの逃亡を手助けするわけにもいかない。
「まあそうよね」
 とはいえ姫さまの方ももちろん本気ではなく、「じゃあまた次の機会にね」などと冗談を飛ばして笑っている。
 ……それにしても、結婚かぁ。
ナマエの方はこの頃どうなの? あの朴念仁は、ちゃんとうまく恋人やれてる? まめに連絡は寄越してるのかしら」
 女心と秋の空はなんとやら。それまでの不機嫌さは一転、興味津々な様子で振られた話題に思わずまごついてしまった。
「ん、う~ん……」
 まめな連絡。は、一度もないが、それを正直に言ったらグレイグさんが叱られる未来が待っている気がする。
「……うん、まあその反応じゃ、だいたい予想つくわね。グレイグったら相変わらずなんだから。でもようやく工事の目処も立ったみたいだし、きっともう少しで帰ってくるんじゃないかしら。今日ね、橋の落成式の日程が来月に決まったって知らせがあったの」
「本当ですか?」
 まさかグレイグさんの情報を得られるとは思わず、私は食い気味に身を乗り出した。
「ええ。けれど、帰ってきたらまずグレイグにきつく言ってやらなきゃ。恋人を放っておくなんて仕事人間も大概にしなさいってね」
 と、姫さまがいたずらっ子のような笑みでウィンクを寄越す。
「ふふ、姫さまのお説教は効果がありそうですね。でもまあお仕事ですし、しょうがないですよ」
「ダメよ、もっとわがままを言わなくちゃ。あの鈍感には伝わらないわよ」
 わがままかぁ。姫さまの有難いお言葉をしみじみと繰り返す。
 確かに会えない時間が長引くだけ、寂しさが募っていく。わがままを言うつもりはないけれど、彼にとってなにがわがままになるのかも分からないから、結果ただ黙って彼の帰りを待っているのだ。グレイグさんのお仕事の邪魔もしたくないし、でも美味しいものを一緒に分け合ったり楽しいことを共有したいとは思う。果たして、これはわがままなのだろうか。
「……実は、もうすぐお付き合いを始めてから一年なんです」
「もうそんなに経つのね」
 ふうん、と相槌を打った姫さまが三つめのタフィーに手を伸ばす。
「男の人ってそういう記念日とかあまり気にしないと思うけど、やっぱりせっかくですし何かお祝いしたいなぁ、なんて思っていたりはするんですけどね。一緒にご馳走を食べるとか、ささやかなことでいいんですけど」
 やっぱり難しいかなぁ、などと独り言のように呟くと、姫さまの指が伸びてきて私の鼻をつんといたずらに突いた。
ナマエはもうちょっと高望みしてもいいと思うけど」
「高望み、ですか?」
「ええ! なにかあるでしょ。例えばジュエリーとか、ドレスとか、香水とか、旅行とか」
「うーん、別にそこまでは……。あ、でも一緒に旅行は良さそうですね」
「なるほど、旅行ね」
 姫さまはひとり納得したようにふむふむと頷いたかと思うと、おもむろに立ち上がり、私に向かってにっこりロイヤルスマイルを浮かべた。
「――よし、わかったわ。じゃあ私に任せておきない!」
「え……? あの、姫さま?」
 一体なにをお任せされてしまったのだろう。しかし問いただす間も無く、この国随一の貴人は突進する猪のように部屋を去っていった。
 うーむ、まさにこの王女殿下にしてグレイグさんあり、という感じである。




 その翌週末の朝、私の部屋の扉をノックしたのは、なんとグレイグさんだった。
「え!? あ、グレイグさん!? お、おはようございます……いや、おかえりなさい?」
 寝間着姿のまま扉をあければ、そこに見上げるほど長身の男前が立っていたのだ。驚いて大きな声を出しかけて、まだ早朝であることを思い出して慌てて声量を抑える。
「ああ、ただいま」
 予想外の訪問者に慌てふためく私を見つめる新緑色の瞳が、ほっとしたように細められる。落ち着いた低音が帰還を告げたと思ったら、ふいに伸びてきた両腕に閉じ込められた。大きなグレイグさんに抱きしめられると、小柄な私の上半身はすっぽりと覆われる。人肌の暖かさと隆々とした筋肉が私のやわな体をぎゅうと締め上げた。鼻先に容赦なく押し付けられるグレイグさんの私服からは石鹸のいい香りがして、きっとここに来る前に身を清めたのだろうことが窺える。
 でも、これちょっと苦しいかも……。腕に込められた力加減に若干の息苦しさを感じたとき、くんくん、と頭頂部に近いところから不穏な音が聞こえてきてぎくりとした。
「あの、なにしてるんですか?」
「む、ナマエの匂いがする」
 悦に入ったそれは完全なる独り言。すぅー、と深く息を吸う音にいよいよ得心した。これは、匂いを嗅がれている。
「か、嗅がないでください!」
「――はっ! すまない俺としたことが、つい」
 羞恥のあまり手足をばたばたさせて抗議すると、我に返ったグレイグさんが慌てて身を離した。目が合って、乙女のように頬を染めたのはもちろん私ではない。「本当にすまん。久しぶりにナマエを近くで感じて、我慢がならなかった」と、照れたように目線を伏せて頬を掻いている姿に、私は内心身悶えた。
 ああもう、可愛いなぁ。そのギャップに落ちた身としては、そんな仕草を見せつけられては怒りなど氷のように解けてしまう。
「お、怒ってないのでそんな真面目に謝らないでください。……ええと、中入ります?」
「良いのか?」
 半開きだった扉を大きく開いて中へと招待をすれば、どことなくしょげていたグレイグさんの表情が俄かに輝いた。
「顔を洗って着替えてくるので、それまで待っていただけるなら」
「ああ、いつまでも待とう!」
 まるで大型の忠犬がご主人様の命令に喜んで一鳴きしたかのような、得意げな返答。期待に満ちた目が私を見つめていて、思わず吹き出してしまった。
「ふふ、そこまでお待たせはしませんよ」
「そ、そうか」
 またもや照れて可愛い反応を見せてくれるグレイグさんを中へと招き、私は急いで支度を整えた。
 寝室から戻ると、グレイグさんがソファにちまっと腰を下ろして待っていた。先日姫さまが座ったソファと同じものだが、グレイグさんが座るとなんだか遠近感が狂って見える。閉めっぱなしだった部屋のカーテンを開け、お湯を沸かしてお茶の用意をすると、ようやくゆっくりと顔を見て話ができるようになった。
 ほかほか湯気の立つミルクティーを飲みながらの、まずは近況報告。先日姫さまが仰っていたとおり、グレイグさんのお仕事が一段落し、本日付けで遠征部隊に任地からの帰還命令が出たとのことだった。指揮官であったグレイグさんは部隊の撤収を最後まで見届けてから帰還するつもりだったが、副官さんに本日日付が変わってすぐに帰還を促されたらしい。曰く、大将が虫に怯えて青くなっている情けない姿なんざ見たくねえ、と副官さんに尻をひっぱたかれたようだ。やっぱり、危惧どおり出立前に渡した虫よけポプリの効果が薄れてたみたい。かの任務地は昆虫の楽園だから、虫の苦手なグレイグさんにとって長期の滞在はさぞ堪えたことだろう。
 お疲れ様でしたとねぎらいの言葉をかけると、グレイグさんがおもむろに居住まいを正し、ここからが本題だ、とばかりに咳ばらいした。
「……それで、実はな。急なんだが、今日から数日暇を貰ったのだ」
 曰く、通常兵たちには七日に一日は休みを取るように義務付けられているのだが、滅私奉公の化身であるグレイグさんはここ一ヶ月ほとんど休むことなく働き続けていたらしい。それでとうとう叱られて、強制的に暇を与えられたようだった。きっと叱ったのは、姫さまか王さまだろう。
「へえ、いいじゃないですか。お休みは何日間ですか?」
「十日ほどだ」
「そんなに?」
 なんとも太っ腹な休暇の付与の仕方だ。一応、グレイグさんはデルカダール王国軍筆頭の将軍様なんだけど……。まあ今は平和になった世の中だし、ちょっとくらい将軍職をお休みしても大丈夫なのだろう。というか、第一にこの国には邪神を倒した武闘派の姫さまがいらっしゃるのだ。
 それに、十日のお休みの間に丁度記念日が来る。姫さま、ありがとう。
「じゃあ、ちょっとゆっくりできるんですね。今日は私もお休みですし、二人でのんびり過ごしませんか?」
「ああ。うむ、……それなんだが、ナマエさえよければ、一緒に旅に出ないか?」
 私の提案に少々まごついたグレイグさんがそわそわと落ち着かない様子を見せたあと、意を決したように告げた言葉に面を食らう。
「んん、これまた急な話ですね。ええと、いつからですか?」
「今日」
「今日!?」
 びっくりして、流石に素っ頓狂な声が出た。グレイグさんからのお誘いはいつだって嬉しい。嬉しかったが、私にも都合がある。すぐに頷けるものではなかった。
「でも私、明日からまたお仕事で……」
「大丈夫だ、ナマエの上司には先に話をつけてある。もし都合が悪くなければ、出来れば昼には発ちたいと思っているのだが……どうだろう、支度は間に合うだろうか?」
 新緑色の瞳が、じっと期待の眼差しで私を見つめている。グレイグさんにしては手際の良すぎる根回しにぽかんとしつつ、降って湧いたような夢の提案に、私は思わずぐっと両手で握りこぶしをつくって意気込んだ。
「ま、間に合わせてみせます!」



 ということで、急な提案にばたばたと支度に追われたものの、なんとか昼前には荷物をまとめることができた。各々の引継ぎをし、パンとチーズで簡単に昼食を済ませ、荷物を抱えて城門前へと向かう。
 旅程はこうだ。デルカダールを出て南下し、勇者さまの暮らすイシの村へ立ち寄る。そこで一泊。次の日はナプガーナ密林を抜け、例の橋を渡り、ソルティアナ海岸地方へと向かう。途中のキャンプ地で宿営し、次の日に最終目的地ソルティコへ到着。ここまでを、グレイグさんの愛馬リタリフォンとともに全て陸路で行く予定だ。もちろんキメラのつばさを使えばソルティコには一瞬で着く。けれどグレイグさんはのんびり道中を楽しみたいと主張し、私はもちろん特に反対することもなく頷いた。
 ちなみに日数を計算すると、丁度ソルティコに着く日が記念日になる。
 まさか知っていてこの旅程を組んだのだろうか? あのグレイグさんが? ……いやないない、きっと姫さまの入知恵だろう。


「よろしくね、リタ」
 城門を抜け、跳ね橋の手前にて対面した立派な黒馬に挨拶すると、ぶるる、と嘶きが返ってきた。その隣に立つ大男が、今日は機嫌がいいな、などと微笑を浮かべて馬の鼻先を撫でている。さすが、嘶きひとつで愛馬の機嫌が分かるらしい。私には全然分からない。
 グレイグさんの愛馬、リタリフォン。いつ見ても、他の軍馬を圧倒するほどの体格だ。黒々とした毛艶はよく手入れされている証拠。いつもの軍鎧を纏ってはいないが、その佇まいからしてまさに軍神に付き従う軍馬のようだ。
 気位の高いリタはグレイグさん以外の他人を乗せるのを嫌がる。だけど頭の良い馬なので、主人であるグレイグさんの近しい人間として、私がリタに同乗するのを許してくれた。
 グレイグさんに手伝ってもらいながら、もたもたと鞍に跨る。……一応弁明するけど、リタの体高が普通の馬より高いのがいけない。普通サイズの馬なら私一人で乗れたハズ。
 己の身体能力の低さに自信を無くしていると、私の後ろに難なく騎乗したグレイグさんがリタの手綱を引いた。リタの鞍の後ろには、なにやら大荷物が乗せられている。人間二人にこの荷物、流石に重くないのだろうかと心配すると、グレイグさんは笑って大丈夫だと告げた。
「それでは、出発するぞ」
 宣言とともに、リタが歩みだした。
「わ、」
 ぐらり、と股下から揺れが襲い、慌てて太ももに力を入れた。久しぶりの乗馬ですっかり勝手を忘れている。馬は結構揺れるのだ。すぐ後ろにはグレイグさんがいるので落馬の危険は少ないにせよ、全てを任せっきりにするわけにもいかず私はピンと背筋を伸ばした。
 跳ね橋を渡り、広がる平原をいつもより高い位置から見渡す。景色はすっかり秋色だ。デルカダールの豊穣の秋は長く、穏やかだ。広葉樹が所々柔らかな黄色に染まって、落ち葉が街道を色づかせている。
「葉っぱが紅葉してますね。キレイ……」
 かぽ、かぽ、とリタののんびりとした蹄の音が耳に心地いい。黄金色の道をゆっくりと南に向かって進みながら溜息交じりに呟くと、後ろのグレイグさんが同意した。
「ああ、そうだな。だが、ここも十分美しいが、北のユグノア地方の紅葉はもっと見事だぞ。鮮やかな赤、黄色、そして濃い緑に染まった山々は筆舌に尽くしがたいほど美しい」
「わあ、素敵ですね。秋のユグノア地方、一度見てみたいなあ。故郷の村は万年雪に覆われていたから、世界がこんなにも色鮮やかなことにいつも感動します。春も夏も秋も冬も……、四季があるって本当に素晴らしいです」
「そうか、それはなによりだ」
 ふ、と穏やかに笑ったグレイグさんの吐息を後頭部に感じる。「では、次の旅先はユグノアだな」 笑いを含んだ穏やかな低音がすぐ耳元で響いた。グレイグさんの声は大好きだ。落ち着いていて、耳に心地いい。グレイグさんの可愛いところに惹かれた私だけど、こういう大人な男の人の一面にもまた胸がときめいてしまう。
 秋風から守るように彼愛用のマントが私をすっぽり包み込み、そのマントの下でお腹に回された逞しい片腕から、ああ守られているんだなあとしみじみと感じる。
 街道を行きかう旅人や行商人の姿が少なくなり、背後のデルカダール城が少し小さくなったころ、グレイグさんがリタの腹を軽く蹴って合図を送った。並足から速歩へ。
 紅葉する木々の名称、その樹に成る甘い果実の見分け方、空を飛ぶ鳥の生態、あるいは丘の上に遺された城塞遺跡の歴史。流れる背景の中、目についたもののうんちくを嬉しそうに語るグレイグさんの声はまるで子守唄のようだった。グレイグさんは意外と博学で、読書が結構好きなのも知っている。まあたまにこっそりとムフフ本も嗜んでいるらしいけど、男性の性欲云々については未知の領域なのであまり口出ししないことに決めていた。
 心地よい語りに加え、鎧を着ていないせいか、密着する背中からダイレクトにグレイグさんの高い体温を感じ、私は次第にうとうとと微睡みの中に引きずられていった。いけない、寝たら流石に落ちてしまう……。どうやら昨日、真夜中まで新薬の調合を色々試していたのが今になって堪えているようだ。
「眠いのか?」
「……いえ、大丈夫です」
 このペースでいくと、イシの村までは恐らく三時間ほどだろうか。それまでは何としても寝落ちするわけにはいかない、と気合を入れて瞼をぱちぱちと瞬かせると、苦笑まじりの低音が誘惑するように耳元で囁いた。
「無理をしなくてもいいぞ。落ちないように支えていてやるから、ひと眠りするといい。イシの村についたら起こそう」
 うう、そんな風に優しくされたら、お言葉に甘えるしかないではないか。私は、ふあい、と返事だかあくびだか分からない返答をして、限界だった瞼を閉じた。